「西向く侍」のおわりに

 

あと数時間で「師走」。「西向く侍」さんの最終月もあっという間に過ぎていく。

デロンギ話を先週書いたら、早速3人のMさんからご連絡頂く。ありがとうございます。東京のMさんは、お母様がお使いのようで、「電気代高い&ぬくくなるのに時間がえらいかかる」というご助言を頂く。新潟のMさんからは、「本格的な暖房器具としては,お勧めできません」が、「寝室で,就寝間際及び早朝起き上がるまでの時間帯にタイマーをかけて使用する等の使用方法は,良い感じです」とのこと。ご助言ありがとうございます。実は、これを体感しております。というのも、たまにこのブログに登場するわが大学のM先生から早速「うちで一台余っているけど使ってみる?」とお貸し頂いたのである。ブログに書いてみるものである。M先生、ありがとうございます。実際にリビングではあまり役立たなさそうだけれど、寝室の窓の付近に置いてみると、一番弱いモードでも実に温かい。さて、電力代はどうなるか、が心配なのですが

さて、11月もおわりなので、月曜以後のメモ書きをグーグルカレンダーを見ながら振り返ってみる。火曜は講義を二つして、地域包括支援センターの取材。高齢者の主任ケアマネ研修が来月あるのだが、今年はそのデザインも描くお手伝いをしているので、「現場を勉強しなさい」と言われ、3カ所の包括を見学に出かけるスケジュールの二カ所目。その昔、PSW117人調査をやった博論を思い出す。あのころと違い、県でアポを取ってもらい、かつ県の人と一緒に出かけるので、遙かに楽ちん。かつ、県内屈指のケアマネの達人へのインタビューである。面白くない訳がない。

で、水曜日はテスト監督に講義が二つ、その後は3時間以上の会議でグッタリ。木曜は「ローカルガバナンス研究」というオムニバス講義で「ローカルガバナンスと自治体福祉政策」という新ネタの披露。大学では「教育者」としての顔を見せているのだが、この日の授業は初めて研究者として「自分が考えていること」を学生にぶつけてみた。ゼミ生には「難しかった」「早口だった」と不評だった一方、お聞き頂いたM先生とE先生から、存外のお言葉を頂く。ローカルガバナンスという概念を意識せずに考えていたが、案外支援者エンパワメントや官民パートナーシップは、この地域におけるガバナンス概念に親和性があるようだ。

で、金曜日は6年ぶりに母校へ。出身講座での公開講座にゲストで呼んで頂いたのだ。元厚生官僚のT先生と障害者運動のリーダーのお一人であるTさん、そして竹端という三人のTが集まったのだが、議論していたのは極めて真っ当な政策論議。部分保険としての介護保険と、トータルな支援としての障害福祉サービスの異同について、極めて刺激的な論考が展開される。惜しむらくは、この議論が自立支援法が出来る前にされなかったこと。今回のセッションでも改めて、2004年から5年にかけての議論がいかに「お金がない」という身も蓋もない熱にうなされた議論だったか、を再確認する。

その後金曜は寄り道して終電を逃し(何せ京都午後8時16分が終電なので)、京都の実家に投宿した後、翌朝7時45分の新幹線身延線で甲府に。昼からシンポジウムの司会者の仕事が待っていたのだ。で、今回も実家近所の本屋で買った本が、また当たりだった。

「たいていは、小さな見逃してしまうような事実、こまかい言葉の端々に、意外な真実が隠されていることが多い。小さな事実に興味を示さない弁護士もいるが、私は違う。『こういうことがあるならば、きっと付随的にこういうこともしているのではないか』と読む。それが『深読みの佐伯』と言われるゆえんだろう。相手の話を細心の注意出来て、こまかく慮って深読みしていくと、『この事件は、もしかすると、この点を突くと勝てるかもしれないな』ということがわかってくる。ウラを読むのは、想像力による疑似体験なのである。言葉で示された彼の個々の経験をトレースして、言葉に示されていないすき間を埋めていく。それによって彼のウラとオモテの経験を疑似体験し、隠されている真実に迫る。実証の一つの方法なのだ」(佐伯照道『なぜ弁護士はウラを即座に見抜けるのか』リュウ・ブックス・アステ新書、p42)

この本は、タイトルが与えるイメージよりも遙かに多くのことを伝えてくれた。多分「凄腕弁護士の超交渉術」といったタイトルの方がもっと売れるのではないか、とも感じる。自分と異なるスタンスの相手とどう交渉すべきか、について、筆者の経験に基づいた非常にプラクティカルな方法論が示されている。その中で、単なる方法論で終わらせてはもったいない、と思ったのが、少し長くなかった引用した上記の一節。

細かい端切れを「見逃してしまう」のではなく、『こういうことがあるならば、きっと付随的にこういうこともしているのではないか』と「深読み」する。この「ウラとオモテの経験を疑似体験し、隠されている真実に迫る」方法こそ、尊敬する伊丹先生が「論理重合体合成法」と言っていた方法論である。一言で言うと「少数のデータ、多少のケース、それらをつなぐ論理、それらの総体で意味のある全体像を描き出す」方法論である。深読みと想像力を駆使して、目の前に見えない「全体像を描き出す」方法論は、まさに「実証の一つの方法」なのである。また、お世話になっているK先生と海外出張を共にさせて頂いた時、彼が文献を読みながら常に自問していたのが『こういうことがあるならば、きっと付随的にこういうこともしているのではないか』という問いだった。真っ当な推論とはこういうものか、と初めて気づかされたのだが、こういう「小さな事実」に基づく推論の繰り返し、こそ、思わぬ地平に出るための最大の要素だと改めて感じさせられた。「こまかい言葉の端々」から、「意外な真実」を探り当てるか、捨て置くか、大きな分かれ道である。

で、この深読み想像力は、実はケアマネジメントの現場でも深く必要とされている。何か困って相談に来る人が、いきなり全ての本音を言ってくれるわけではない。また、本人がこれでいい、と自己決定したのだからその主張をそのまま鵜呑みにする、というのも、時として間違っている場合もある。例えば家族から見放され、身体能力も落ち、「もうどうなっても良い」と支援者にこぼした人に、「この人は自暴自棄です」とアセスメントするだけなら、専門家などいらない。セルフネグレクト(自分自身に対する虐待状態)に至る背景や、本当はどう思っておられるのか、まできちんと判断する事が求められる。その際、「小さな見逃してしまうような事実、こまかい言葉の端々」から色んな要素を斟酌し、どう「意外な真実」を探りあてるか。どう本人が本当に望んでいるものごとに近づけるのか。支援者側が「ウラとオモテの経験を疑似体験」する中で、誠実な「深読み」をしていく、このことはアセスメント現場でもまさに求められている課題なのだ、と感じさせられた。

お買い物の一日

 

今月初めての休日。というか、グーグルカレンダーを見てみたら、先月26日以来だから、1ヶ月ぶりの休日。よく風邪も引かずなんとか駆け抜けてきました。一応先週火曜日にインフルエンザの注射を打ったものの、冷え込みは激しいし、予定は目一杯を振り切れているし、パートナーにも「その日程は異常」と言われる始末。おかげでジムにはいけず、じわじわ太ってくる。毎日ストレッチを朝か晩のどちらかにやっていたが、これからは朝晩やらないと、まずそうだ。入試の出張だった静岡で来ていたスーツも少しきつめのピッタリ、だったしね。

さて、今朝は久しぶりに目覚ましもかけずに9時過ぎまで眠れた。静岡のホテルはラッキーにもダブルベッドの広い部屋だったのだが、借りた加湿器がかなりうるさく、じっくり眠れなかったのだ。しかも業務が業務だけに、身体もくたくた。おかげで良く寝て、今日はさっぱりである。

で、「休日なのにバタバタするの」と言われてしまいそうだが、結局目覚めたら、ちょこまか動き始める。午前中は今井さんに会いに出かける。今井さんは、山梨県で今私がやっている仕事のパートナーとしてご一緒させて頂いているだけでなく、公私ともに様々に学ばせて頂いている。そう言えばこのブログでは紹介していなかったけど、こないだは二人の仕事を記事にして頂いた。今は手術後のリハビリ中だが、順調に回復途上であるようだ。お見舞いに行ったはずなのに、仕事上のアドバイスを沢山頂いてしまう。

で、その後いつものJA直売所「よってけし」で野菜を買い込む。白菜や大根、ネギがたんまり出ている、ということは、秋の実りそのものだ。水菜に春菊、かき菜にクレソンと青物野菜をたんまり2500円ほど買い込む。その後夜の鍋用のお魚なども買い込んで帰るともうお昼。ニンニクと唐辛子のベースにホールトマト、ネギ、シーチキン、クレソンの茎を入れてパスタに絡める。そして食べる際にクレソンの葉っぱを乗っけてみると、まあ何と美味! 二人でぺろっと平らげてしまった。

昼からは、多少まどろみ、大学で授業の準備をした後、午後の「買い物大会」。電気ストーブではとうとう限界が来たので、灯油を入れに出かけ、ついでに電気あんかが急にショートしたので、替えのあんかも買いに行く。静岡は温かかったが、山梨のここ数日の冷え込みは本気モード。電気あんかがないと、ほんと寒いし、ストーブがないと、部屋の中は凍りそうだ。デロンギのオイルヒーターを買うかどうか迷っているのだが、結局灯油を入れにいってしまった。あのオイルヒーターは暖まるまでに時間がかかるらしいのだが、うまく活用出来るかどうか、少し自信がない。どなたか愛用者の方がいれば、教えてくださいませ。

で、その後いつものトマト屋に寄る。ここは正式にはブドウ農家なのだが、ブドウのない11月から6月までトマトを作っておられ、めちゃんこうまい、とこれまで何度かこのブログでも書いた覚えもある。で、この秋初めてのトマトを買いに伺うと、ワインの新酒が出来ている、と聞かされる。ここのブドウを使ったワインは一昨年から分けて頂いていて、さっぱりとして美味しいので、一升瓶なのだが、スルスル飲めてしまう。しかも鍋の時にピッタリ。そう、今晩は鍋の予定なので、まさにピッタリ。デラウェアなので少し甘め、ということで、とりあえず一本頂いて、早速冷やしてみる。

こうして久しぶりのドメスティックなお買い物なので、どこでもたんまり色々買い求めて、気がつけばもう食事時。楽しいつかの間の休日は、本当にあっという間に消え去っていく。明日はまた、授業県庁現場訪問ツアー第二弾である。今晩は新酒を楽しんだら、早く寝よっと。

「ゆがみ」に気づく分岐点

 

「人は、自分のわかるようにしか、わからないのである。わからないことについてのわかり方は、自分のわかるようにわかるしかないのである。それで自分のわかるようにしかわかったことになっていないということが、わかっていない。これが、たいていの人のもののわかり方である。だから、いきなり現れたその人が語る聞き馴れない言葉、わけのわからない言葉も、やっぱり自分のわかる仕方でしかわかることができない。」(池田晶子『人生は愉快だ』毎日新聞社、p39

仕事で訪れた静岡のホテル。昨晩のアルコールを流すべく朝風呂に浸かりながら、上記のくだりを読んで、ハッとさせられる。確かに、自分自身、「自分のわかる仕方でしかわかることができない」し、そのことが「わかっていない」。

他人から聞いて、取材して、本を読んで、現場を訪れて、自分の頭で考えて・・・「わかった」つもりになっている。だが、その「わかった」とは、大概において、「自分のわかるようにわかる」という限定された理解である。自分の殻を破って、事象そのものへ近づくような、量子力学的跳躍のような、一皮むけた「わかった」は滅多に訪れない。それより、自分の殻の中に、未知の事象を押し込める、枠組みの中での理解である。自分の殻や枠組みそのものへの疑いを持つことがなく、その殻や枠組みの内部に取り込める未知だけを既知として部分的に導入しているのである。創造のない加工貿易。近視眼的な自己の体系の正当化には役に立っても、中長期的な「自分のゆがみ」の補正には役立たない。むしろ、自分の殻の中に「わかる」を押し込めることは、もともと持つ「ゆがみ」を強化するだけなのかもしれない。

未知の何かに触れたとき、自身の「ゆがみ」そのものと向き合うことに、苦しみしか感じないか。あるいは、普段無意識下に押し込められた「ゆがみ」への気づきと喜べるか。ゆがみと「わかる」瞬間に、彼岸と此岸のどちらに向かうのか。その選択の積み重ねの結果、今の自分がいる。そのことの重みを感じる一節だった。

プレイングマネージャーとして

 

今宵は「かいじ」車内の人。三重の五回研修で一応無事に「留めを打つ」ことが出来、文字通り「肩の荷が下りた」状態で、のぞみ号から最終一本前の「かいじ」に辿り着いた。

それにしても市町職員研修(三重は合併で村がないのです)を、実際、市町が今年度課題として取り組んでいる「障害福祉計画の見直し」という大テーマにぶつけ、困難事例の「捉え直し」、給付率分析から自分たちで「見直し原案」を考える研修、というのは、受講者側だけでなく、企画者側にとっても「言うは易く行うは難し」の見本のような内容だった。私自身も、従来の一回こっきり研修なら「言いっぱなし」で逃げることが容易に可能だったのだが、今回はこの研修実践の成果を、市町さんもアテにしているだけでなく、県もご自身の障害福祉計画作りに大いに参考にされる、という。まさに、どこまで何が出来るのか、が本当に問われる研修だった。それゆえに、第4回から5回にかけての内容の作り込みが、実に大変だったのである。

だが、今回相当手間暇かけて、また県担当者だけでなく、受講生の立場から研修企画者側にご一緒してくださったM市のMさんのお力添えも多分に活用し、かつ見学者のつもりだったミヤモトさんも巻き込む中で見えてきたのは、本当の人材育成は、今回やったくらいの「手間と暇、そして知恵と情熱」を必要としている、ということだった。逆にいえば、これほどの「手間・暇・知恵・情熱」をかければ、その地域の特性にあった、やった甲斐のある研修、明日の施策の改善につながる実践型研修が可能なのだ、ということも、やってみてよくわかった。今、山梨でサービス管理責任者研修の組み立てもこれと同じ線でやっているので、この部分は本当に実感として感じる部分である。また、終了後の反省会でちらっと見た受講者の感想の中にも、「議論の時間が足りなかった」「来年度もこういう研修を受けたい」「光が見えた」という嬉しい声が載せられていたことも、嬉しい限りだ。

やっつけ仕事でなく、魂を込める仕事は、正直へとへとになる。だが、そういう中から何かが変わる契機になるのであれば、やりがいは一塩だ。いつもブログを見てくださるM先生が「タケバタさんはプレイングマネージャーだね」と仰ってくださったが、確かにその方向で仕事をしているのかもしれない。プレイヤーとして、システム作りに関わりながら、マネジャーとして人びとの意識付けや現任者教育にも関わる。乗りかかった舟なので、しばらくこの路線で突き進んでみようかしら。ちょっとくたびれるけれども。

研修の5つのステップ

 

先週30度の世界にいたとは思えないほど、日本は寒いし、タケバタは目まぐるしい。

帰国日の水曜日は甲府まで戻ってスーツケースを家に置いたら大学に戻って臨時ゼミ。木曜日がちょうど昭和町で「学生議会」。我が2年ゼミ生が二人議場で質問するので、その予行演習が必要だった。予行演習をして、心を込めた質問をする為の練習をみっちりしたので、カトウくんもカミジョウさんの二人とも、実に立派な発表をしてくれた。木曜の質問の後、何人かの関係者の方々にも褒めて頂き、ゼミ教員としては一段落。

その後木曜夜は大学で最低限の火曜の授業の準備。というのも、金曜日は一日山梨県でケアマネ研修に立ち会い、その後講師の北野先生と一緒に京都まで戻り、夜10時半から西大路駅までナカムラ君と久しぶりにウダウダ。土曜日は絶対に外せない大阪精神医療人権センターのシンポジウム。その後懇親会打ち上げと続いて、翌朝は三重へ。来週も三重なので、月刊ミエから、週間ミエ状態だ。来週の研修のための打合せをみっちり5時間ほど行い、ワイドビューふじかわ号の人となる。そして、今回もまた、ふじかわ号読書で、実に多くの刺激を受ける。

「安定状態から集団を活性化するために、『揺さぶりのマネジメント』が必要とされる。集団を揺さぶり、安定の眠りから覚醒させ、そして新しい方向へと導くためのマネジメントである。そのためにしばしば必要となるのは、次のような五つのステップだと思われる。
かき回す(あるいは、ゆらぎを与える)
切れ端を拾い上げる
道をつける
流れをつくる
留めを打つ(あるいは、仮り留めを打つ)」
(伊丹敬之『経営の力学』東洋経済新報社、p29)

三重で「チーム三重」の皆さんと共に作り上げようとしている市町職員エンパワメント研修が、まさにこの5つのステップであり、かつここしばらく苦労して、日曜の午後にようやくたどり着いたのが、の事だったので、「留めを打つ」という発言には思わず「その通り!」と叫びそうになった。そして僕が従来型の研修で物足りなかいと感じていたことも、この5つのステップの中に書かれているので、深みを感じてもいた。

講演で呼ばれて、僕はアヤシイ人間なので、どこでもだいたい「かき回す」。しかし、その一回こっきりでオシマイなので、単に「あいつはかき回しやがって」でおわりがちだ。思えばそれ故にしばらく干された領域もあったように最近伺っている。ま、干された本人は無頓着なのであまり気にしていなかったのだが。で、山梨でも三重でも、連続研修のコーディネート側に回り始めて、一番力を注ごうと気にしているのが、この以後のステップだ。そこで、以後はだいたいどの研修でも大切にされているが、ここで肝心なのはの「切れ端を拾い上げる」というステップだと思う。この点について、伊丹氏はこんな風に書いている。

「かき回された人々がやり始める様々なことの中から、きらりと光るもの、その組織のあるべき姿を示唆するようなことをマネージャーが取り上げることである。切れ端とは、現場の小さな提案であり、試みである。それをマネージャーがわざわざ拾い上げることによって、その切れ端が象徴するような方向こそが組織全体が進むべき方向であることを、マネージャーが示していることになる。そればかりでなく、その拾い上げられた切れ端をそもそも作りだしたメンバーの立場からすれば、『こういう切れ端を持って行けば取り上げてもらえるのだ』という刺激にもなっている。」(同情、p30)

そういえば、金曜の山梨の研修で、三田優子さんが堺市の自立支援協議会の成果を話して下さっていたが、まさに三田さんもこのを重視しておられた。現場のワーカーさんや当事者達が大切だと思うことを取り上げ、それを深めるための助言をしておられる。これは、後々の「道をつける」ための大切な「切れ端」であり、それを協議会座長として、メンバーと一緒になって拾い、深める営みをしておられるから、変革が起こり始めているのだろう。

三重の研修でも稚拙ながら模索してきたのは、こののステップだった。二回目の研修で参加者の声を聞きたい、と当日研修に参加している3人のベテランワーカーに「インタビューする」ということをやってみた。これが、多くの参加者にとって、大きな転機になりはじめる。自らのピアの立場の他の行政職員の中に、これだけのことをやれている人がいる、という気づきは、外部者から「揺さぶられる」だけでなく、「その切れ端が象徴するような方向こそが組織全体が進むべき方向であることを」自分自身で気づくきっかけにもなったのだ。

ゆえに、それ以後の研修で「道をつけ」、「流れをつくる」過程も自ずと決まってきたし、しつこいタケバタは、拾った「切れ端」をしゃぶり尽くすように使い、発言して頂いた方も企画側に急遽合流して頂き、一緒にデザインをしてきた。そして、研修以外に3回三重に足を運んで打合せで苦しみながら、昨日の夕方、ようやく「留めを打つ」目処がついたのだ。

さて、今日は山梨でケアマネ研修3日目。金曜日に三田さんと北野さんという強力なコンビで「揺さぶり」は十分にかかった。今日の「ケアマネジメントの展開」を通じて、どう「道をつける」ことが出来るか、が問われている。そういう展開になるように、意識して出かけなければ。そんなことも気づかされた、有り難い一冊であった。

+20度の街角より

 

日曜日の朝4時の甲府は、10度を下回る気温。Tシャツに長袖シャツ、そしてフリースではあまりに寒い。マフラーを首に巻いても、ブルブル震えていた。だが、成田空港から乗り込んだチャイナ・エアラインでは機長が「現地のただいまの気温は摂氏28度」なんて言っている。ご冗談でしょう、というか、英語のヒアリングに問題がある、と思っていたのだが、現地に到着して、唖然。確かに暑い、むしむししている。温度計は30度! +20度の世界に辿り着いてしまった。

台湾にやってきたのは、とある学会で発表するから。今、山梨や三重でお手伝いさせて頂いている、地域自立支援協議会という組織について、障害者福祉政策における地方分権と裁量権の行使、それにリーダーシップの観点から議論しようとしている。酷い英語原稿だったのだが、いつもお世話になっているミヤモトさんにかなり助けてもらって、ようやくまともな文章になった。明日発表なので、実は内心どきどきしている。ちゃんと話が出来るかなぁ、と。

今回、今まさに生起している問題を、しかも英語論文でまとめようとして、かなり苦しんだ。もちろん、自分の当該問題に対する視点や論点が固まっていないことも、かなり発表するにあたって困難な要因だ。だがそれ以上に、英語で論理を組み立てる事が、単に語学音痴である以上に、苦痛をもたらす。それは、自分の論理がかなりいい加減である、という問題点だ。

これについて、日本を出る前に、非常に示唆的な本を読んだ。藤田斉之氏 (『英作文・英語論文に克つ!!―英語的発想への実践』、創元社)によれば、日本語は話し手中心の言語の典型例であるのに対して、英語は聞き手中心の言語の典型である、というのだ。つまり、日本語では話者がしゃべりたいようにしゃべり、わからなければ、往々にして、それを聞く側のリテラシーの問題とされる。だが、英語では、聞き手がわかるように話す義務が話者に課せられており、伝わらないのは、話者のせいである、という思想なのだ。この論理を自分の英語と日本語に当てはめると、悲しいほど同意してしまう。

日本語で論文を書いたり学会発表している時、論旨はクリアでなくても、特に学会発表時などは、日本語でべらべらしゃべれてしまうので、まくし立てて無理矢理話を作ってしまうことがある。一旦アヤシイ論理でも自分の中で出来あがってしまうと、そのロジックに自家薬籠中(=自家中毒?)となってしまい、そのドツボの陥穽について気づくことなく、そのままわかった気になって文章を書いたり、発表を終えたりする、という無謀なことを、実に安易にしてしまっている。

だが、英語論文ではそれが許されない。自分の論理が相手に伝わっているか、が最大の論点になるのだ。文学的美しさ、というよりも、プラクティカルな意味で「話が通じる」ということが大切なのだ。自家中毒的なナルシスティックな文章などもってのほか。論理の陥穽にはまることなく、理解しやすい論理をどう組み立てるか、が最大の焦点になっているのである。文化や母語が違う相手にでも伝わりやすい文章・話を目指すこと、それは自分の論理がどれだけシンプルで、相手に伝わりやすい流れか、が露呈するリトマス試験紙でもある。そして、僕の場合往々にして、自分の論理がシンプルではなく、伝わりやすくない流れである、とわかってしまって、ぐったりするのだ。

そうはいっても、何とかパワポと当日プレゼン用の原稿も用意した。後は、明日午前中を乗り切ればいいだけだ。不安もあるけど、この間疲れていて、だいぶ眠いので、今日はこの辺で。