+20度の街角より

 

日曜日の朝4時の甲府は、10度を下回る気温。Tシャツに長袖シャツ、そしてフリースではあまりに寒い。マフラーを首に巻いても、ブルブル震えていた。だが、成田空港から乗り込んだチャイナ・エアラインでは機長が「現地のただいまの気温は摂氏28度」なんて言っている。ご冗談でしょう、というか、英語のヒアリングに問題がある、と思っていたのだが、現地に到着して、唖然。確かに暑い、むしむししている。温度計は30度! +20度の世界に辿り着いてしまった。

台湾にやってきたのは、とある学会で発表するから。今、山梨や三重でお手伝いさせて頂いている、地域自立支援協議会という組織について、障害者福祉政策における地方分権と裁量権の行使、それにリーダーシップの観点から議論しようとしている。酷い英語原稿だったのだが、いつもお世話になっているミヤモトさんにかなり助けてもらって、ようやくまともな文章になった。明日発表なので、実は内心どきどきしている。ちゃんと話が出来るかなぁ、と。

今回、今まさに生起している問題を、しかも英語論文でまとめようとして、かなり苦しんだ。もちろん、自分の当該問題に対する視点や論点が固まっていないことも、かなり発表するにあたって困難な要因だ。だがそれ以上に、英語で論理を組み立てる事が、単に語学音痴である以上に、苦痛をもたらす。それは、自分の論理がかなりいい加減である、という問題点だ。

これについて、日本を出る前に、非常に示唆的な本を読んだ。藤田斉之氏 (『英作文・英語論文に克つ!!―英語的発想への実践』、創元社)によれば、日本語は話し手中心の言語の典型例であるのに対して、英語は聞き手中心の言語の典型である、というのだ。つまり、日本語では話者がしゃべりたいようにしゃべり、わからなければ、往々にして、それを聞く側のリテラシーの問題とされる。だが、英語では、聞き手がわかるように話す義務が話者に課せられており、伝わらないのは、話者のせいである、という思想なのだ。この論理を自分の英語と日本語に当てはめると、悲しいほど同意してしまう。

日本語で論文を書いたり学会発表している時、論旨はクリアでなくても、特に学会発表時などは、日本語でべらべらしゃべれてしまうので、まくし立てて無理矢理話を作ってしまうことがある。一旦アヤシイ論理でも自分の中で出来あがってしまうと、そのロジックに自家薬籠中(=自家中毒?)となってしまい、そのドツボの陥穽について気づくことなく、そのままわかった気になって文章を書いたり、発表を終えたりする、という無謀なことを、実に安易にしてしまっている。

だが、英語論文ではそれが許されない。自分の論理が相手に伝わっているか、が最大の論点になるのだ。文学的美しさ、というよりも、プラクティカルな意味で「話が通じる」ということが大切なのだ。自家中毒的なナルシスティックな文章などもってのほか。論理の陥穽にはまることなく、理解しやすい論理をどう組み立てるか、が最大の焦点になっているのである。文化や母語が違う相手にでも伝わりやすい文章・話を目指すこと、それは自分の論理がどれだけシンプルで、相手に伝わりやすい流れか、が露呈するリトマス試験紙でもある。そして、僕の場合往々にして、自分の論理がシンプルではなく、伝わりやすくない流れである、とわかってしまって、ぐったりするのだ。

そうはいっても、何とかパワポと当日プレゼン用の原稿も用意した。後は、明日午前中を乗り切ればいいだけだ。不安もあるけど、この間疲れていて、だいぶ眠いので、今日はこの辺で。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。