夕方から涼しい風が吹いている。もう夏も終わりだ。
久しぶりに、土日が丸々休みである。午前中にジムに出かけ、お昼ご飯の後、読書半分・シエスタ半分してたら、もう夕方。あっという間に休みは過ぎていく。何も、やる気がおきない。
台湾での学会発表にエントリーしたら通ったので、その準備もしないといけない。フルペーパーの〆切が10月上旬だが、どう考えても来月中に作らないといけない。イギリスの学会で日本人にしか着目されなかった。次の発表は、多少はドメスティックではない(つまり日本のコンテキストを抜いた部分での普遍性を持つ)内容に高めないと、とこないだ決意したばかりである。決意倒れにならないために、色々準備をしているのだが、それをまとめる気力がまだ沸いてこない。「夏バテ」かなぁ、と思っていたら、友人から「単にバテているのでしょう」との返信。確かに昨日も東京日帰り出張で、8月は出張が多すぎた。そりゃ、バテるわねぇ。
ここしばらく、移動中には良い意味での大風呂敷の本を伴った。島根の道中では松岡正剛『誰も知らない世界と日本の間違い』(春秋社)。これは、以前読んだ本の続編である。近現代史をネタに、日本と世界、文化と政治と科学を網羅する、本人曰く「『モーラの神』のふるまい」としての「編集制作物」。編集学とまで高めた著者故に、時代を串刺しにする横糸の入れ方が、実に面白い。
で、松岡氏も確かに博覧強記なのだが、それを上回る達人、山口昌男氏の講義録『学問の春』(平凡社新書)は、福島に出かける途中の大宮駅の構内の書店で発見。鞄の中に他の本も入れていたのだが、結局それらの本はそっちのけで、行き帰りの車内でむさぼり読む。こちらのタペストリーは、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』というテキストを縦糸において、横糸にはテキストに書かれたインドネシアや古代中国の習俗に言及したかと思えば、インドネシアやアフリカの現地調査に赴いた筆者のエピソード、ホイジンガが属するライデン学派の系譜やレヴィ=ストロースに与えた影響、あるいは記号論の話など、氏の魅力と遍歴、それに人類学的思考の興奮のようなものを詰め込んだ、誠に山口色としか言えないタペストリー。こういう鮮やかさを出せる講義を、僕も出来るのだろうか、と少年のような憧れとため息を持ってしまった。
そして、三重からの帰りに読み直していたのが、毛色は変わるがロフランド夫妻(ジョンとリン)による名著、『社会状況の分析』(恒星社厚生閣)。社会調査やフィールドワークの方法論の本は結構眼にしてきた方だと思うが、この本ほど体系的でスッキリまとまっていて、かつ説得力がある本はない。福島に出かける前に東京であった研究会で、ちょうど「研究者の立ち位置」が論点になった。ちょうど博論を今書いている後輩から、調査対象地にどっぷり浸かる(つまり書きたい対象を自分で作った)研究者が、自身と、そしてそれを対象化して研究としてまとめることとの間にどのような関係性を構築すべきか、の問題が提起され、その日の議論になった。で、帰ってこの本をパラパラめくっていたら、その事に焦点化した章を発見。(オカシイ、読んだハズなのだが…)。こんな風に書かれていた。
「『調査の原点』は、個人的かつ感情的なものとそのあとに続く知的で厳格な手続きとの間に、ある意味のあるつながりを提供する。個人的な感情という土台なしでは、残りのものすべてが儀礼的で虚ろな言葉となる。」(p15)
そう、学会誌を眺めていて、「儀礼的で虚ろな言葉」が最近どれほど多いことか。ただ、己を見直すと、逆に「知的で厳格な手続き」が甘い。だから、もう一度初心に戻って、第7章「問いの立て方」、第8章「関心の喚起の仕方」を、帰りの車内でノートにメモを取りながら、読み直す。そう、恥ずかしながら己の研究はまだ「個人的かつ感情的なもの」が先行しすぎて、方法論的に弱いからこそ、文化特定的なコンテキストを越えた「関心の喚起」を伴わないのだ。
こう書いていると、ちびりちびりとやる気が復活していく。まさに、自己治癒的な、ないしは湯治的なぬるま湯ブログであった。