客観的時間の呪縛を超えるために

以前から気になっていたことがずばりと言語化されている記述に出会うと、圧倒される事がある。
「現代の人間たちは、時間を合理的に管理することを基礎において、人生を設計し、残された時間を有効に使おうとする。そうしてそうすればするほど、現代の私たちは、時計の刻む客観的な時間=量的な時間に自分の時間世界をゆだねながら、その固有の時間の一部を切り売りすることによって自分の固有の時間を維持するしかなくなる。すなわち他者に自分の時間を投げ出すことによって、時間の合理的管理を維持するのである。」(内山節『時間についての十二章』岩波書店、p251)
なぜこの表現にギクリとしたのか。それは、僕自身がこの「時間の合理的な管理」という病にかかっているからである。
一昨日から昨日かけて、大阪と三重で出張だった。このブログの原型も、電車の中で書いていた。移動が多いと、しかも移動先で予定が複数入っている場合、時間をこちらが主体的に管理しないと、うまく電車に乗り継げなかったり、あるいは目的地にたどり着けなかったりする。その場合には、当然、時間の合理的な管理管理は必要不可欠になる。それは、仕方ない。
だが、単に移動中だけでなく、たとえば休日を過ごすときでも、あるいは家や職場で原稿書きなどの仕事をしていても、常にこの「時間の合理的管理」を意識してしまっていることに、以前から気づいていた。「今日は一日有意義に過ごせた」かどうか、を自らへの評価基準として問いかける事が、僕にはしばしばある。そして、あまり有意義に過ごせなかった、と自己評価する際、それはイコール時間を合理的に管理できていない、とか、時間を効果的に使えなかった、という主観的評価と結びついている場合がしばしばある。
この問題性とは、「時間の刻む客観の時間」に自分の「固有の時間の一部を切り売りする」事によってのみ達成される、ということだ。評価基準として、一般的に「合理的」とか「効率的」「効果的」と言われる時間を使っているかどうか、という、究極の意味での客観的な時間や他者評価に自らの時間を売り渡していることの問題性である。
これがなぜ、どのように問題なのか。もう少し、内山さんの議論をたどってみよう。
内山さんは、客観的な時間に対置して、関係的な時間、という概念を提起している。農業や漁業、林業ならば自然と、職人なら対象物と、教員や支援者なら学生や支援対象者と、お商売なら顧客と、関わり合う中で、時間を共にする中で、「働く」という営みを成立させている。しかし、関わりを意識しながら働く、という当然の前提が、いつの間にか後景化していくなかで、客観の時間にあわせる、ということが、どのような仕事でも主眼となりはじめる。そして、客観的な時間が関係的な時間を、ある時点から凌駕し始める。
「技術革新はこの二つの時間世界の均衡に変化をもたらした。ここでモデルになったのは、テーラーやフォードがつくりだしたあの生産過程である。労働の単純化と、システム的な管理が進行していく。労働とは時計の時間とともにすすめられる作業である、とでもいうような構造ができあがっていく。直線的で等速の縦軸の時間が次第に労働を支配するようになり、私たちはこの時間世界に投げ込まれるかたちで、自分たちの労働存在をつくりださなければならなくなった。」(同上、p181)
このフォードのベルトコンベア式労働に代表されるのは、時間の標準化と規格化、平準化と均質化である。誰がやっても、同じような労働が成立するはずだ、という強い規範的意識を背後に持ちながら、標準化と規格化の圧力は強くなる。それが、大量生産や大量消費に結びつき、資本主義体制の強化の論理になったとき、この客観的時計世界の圧力を、個人が変えられない所与の前提として受け入れざるを得なくなる。それと共に、それ以外の時間の豊かさを「後ろめたい」と感じたり、なかったことにする。すべての時間の使い方を、この客観の時間で査定して、「有意義な時間」を管理できているかどうか、という評価基準に落とし込む心性へとつながっていく。その中で、関係的世界からますます遠ざかっていく。そして、客観の時間が唯一の査定基準となると、自らがますます追い込まれる事態となる。
「自分の労働に何らかの価値や意味があることをどこかで期待している私たちは、自分の労働の価値への自己確認をくりかえしつづける。そしてそうなればなるほど、労働は個人の個的な、自己完結的な労働になって、労働がもっていた関係の世界、労働存在の時間世界を喪失しながら、労働の時間基準は時計の世界へと純化していくことになるだろう。すなわち労働の価値を自己確認する時代とは、労働とともにあった関係的世界や、労働とともにあった、その労働に固有な時間世界の喪失した時代を表現しているのである。」(同上、p229)
本来、関わり合うことが主軸になる場面では、「労働の価値の自己確認」が主題化されることはあまりない。畑を耕すにしても、学生と向き合うにしても、関わり合う中で、自らも相手も変容していきながら、一つの関係を取り結び、その中から「他者」との協働の中で何かを作り上げる。この関係性が豊かに取り結ばれていれば、「この仕事に価値があるのか」「こんな事をやっていて意味があるのか」といった問いかけは、本来生まれてこない。
だが、「労働の単純化と、システム的な管理」の進行、とは、関わり合うあなたと私の関係性を主軸にした関係性から、「自己完結的な労働」へと転化してきた。「お天道様との関係性の中での農業」から、「単位面積当たりの生産性をどうあげるかを追求する農経営管理」に、「学生と教員の全人的かかわり合い」から「就職率(進学率・国家試験合格率・・・)の追求という教育管理」に、主眼が変わってきた。このような「成果至上主義」では、成果率という客観的な数値やデータが大切になり、その成果を生み出すためにどのような関係性が切り結ばれたか、というプロセスはなおざりにされる。そして、働きかける側も、働きかけられる側との関係性の豊かさで自己評価するよりも、「成果率」という「自己完結」的なデータにがんじがらめになり、ひいては「その労働に固有な時間世界」を「喪失」することになる。これは、視聴率とか市場独占率、四半期単位の営業成績、などと置き換えたら、多くの労働に共通する「疎外」である。内山さんは、単に労働者個人の労働における疎外ではなく、関わり合うという関係性からの疎外である、とも指摘している。
生きづらさやむなしさを感じる、あるいは労働以外でも客観的時間で自己管理・自己経営に気づいたらのめりこんでいる。これらの現象は、「労働存在の時間世界」の「喪失」の帰結であるのかもしれない。そして、生きづらい、むなしさが前掲化される社会、とは、労働における「かかわり合いの豊かさ」という関係性からの疎外の結果もたらされるものであるのかもしれない。
では、どうしたら関係性の時間を取り戻すことが出来るのだろうか。
「おそらく私たちは、関係によってつくられていく時間存在を、自己の存在として確立していく方法を確立したとき、はじめて近代的な疎外を克服する方途を発見するのである。」(同上、p192)
ごく当たり前のことであるが、自分自身の労働、という自己中心的な、「個人の個的な、自己完結的な労働」概念を放棄することが必要不可欠である。これは言うは易く行うは難し、だ。世間は成果主義で評価しようとしていても、自らの労働の価値判断を、成果ではなく関わりあいの観点でとらえ直すことが出来るか。顧客を、自らの成果率向上の一手段に貶めるのか、その顧客との全人的なかかわり合いの中で、ある商品なりサービスを通じて、お互いが変容する物語の共有ができる、と考えるか。大げさに考えれば、時間論の転換は、自らが関わる労働に対する価値観を大きく問い直す。何のために働くのか、どう生きたいのか? このような根源的な問いを、成果率の問題に矮小化させる事なく、抱き続け、関わり続けることができるか、が問われている。
関係性とは、一朝一夕では構築できない。どれだけ直接に対面していても、成果率などのデータでなく、その商品やサービス、支援などに関わる人の「お顔が見える関係」を築こうとしなければ、客観的な時間支配から脱出することは出来ない。だが、たとえインターネットでの間接的関係であっても、想像力を働かせ、相手との関係性を構築しながら何らかのプロジェクトを進めることも、不可能ではない。大切なのは、いま・ここでの出会いを、客観的時間の呪縛から離れて、関係的時間の観点で問い直し続ける、そういう丹念な時間の織り込みなのかもしれない。
「有意義な時間を使えているのか?」という問いかけを、「いま、ここで豊かな対象世界とのかかわり合いが出来ているか?」と変えてみよう。細切れ仕事であれ、家事であれ、合気道であれ、余暇であれ・・・。客観的時間の効率的管理、という脅迫的で息苦しい他者評価の物差しから解放され、自らの魂の喜びや豊かさとアクセスできるための鍵が、この関わりの時間の豊かさの「再発見」に隠されているのかもしれない。

自転車に乗って

自転車を手放してもう何年になるだろう。

関西に住んでいるとき、自転車は文字通り、日常生活になくてはならないものの一つだった。それが、甲府に引っ越してきて、坂道の途中にあるマンションに暮らしたことと、車で職場に通うようになったことが重なって、いつの間にか自転車から遠ざかっていた。家人がしばらく使っていたが、そのうち使わなくなり、甲府に来て数年で自転車を処分してしまった。

昨日、八年ぶりに自転車を手に入れ、乗ってみた。実に爽快なこと。この感覚を忘れていた。
ちょうど坂道の途中から街場の住宅地のマンションに引っ越したので、そろそろ自転車に乗ってもいいな、と思っていた頃だった。この前、職場まで何度か歩いて出かけたら、四十五分程度で歩けてしまった。これなら、自転車があれば、二十分程度で通勤できそうだ、という実感がつかめた。また、引っ越した後、身延線の善光寺の駅から二十分程度歩いて職場まで通っているので、それなら自転車で出かけた方が自由度も上がりそうだ、と考えていた。

そんな折りに、ホームセンターで手ごろな価格のシティサイクル車なるものと出会う。五段変速で、かごもついていて、パンクしにくいタイヤで、実にリーズナブルな価格。これなら、と思い、買ってみた。そして、昨日からルンルン乗り回している。すると、甲府盆地がこれまでとは違う風景で見えてくるから、不思議なものだ。

甲府に引っ越して八年、気がつけばいつの間にか、自動車移動の目線になっていた。八年も甲府市内に住んでいれば、だいたいナビなしでも土地勘はわかる。だが、昨日、今日と自転車でフラフラしていて気づくのは、いつもの風景が新しく見える、という不思議な体験だ。
例えば甲府市内は神社がすごーく多い。街中を走っていると、至る所で神社やその分所、御旅所などのような場所がある。これは、車では素通りしていて、気づかなかったところだ。あと、いつもいく目的地に行くのでも、自転車なら狭い路地をずんずん進める。これも、関西にいた頃はよくぶらぶらしていたのに、甲府に来て忘れていた感覚だ。そして、甲府市内はあまり高い建物がなく、富士山と日差しの方向を確認すれば、だいたい適当に走っても、大まかな方向感覚がずれない、というのもありがたい。
さらに、古い街に特徴的な事だが、狭い路地が非常に多い。これは、車なら恐ろしくて入り込めず、歩いていたら引き返すのが面倒なので後ずさりするが、自転車ならどんどん冒険できる。すると、車の通るメインストリートは実は後付け的にできた道で、路地のようなクネクネ曲がった道が、街中の、あるいは畦道の、本来の道であることがわかってくる。たぶんこの辺は、武田信玄時代や徳川時代の地図と重ね合わせて考察すれば、あるいはアースダイバー的に眺めれば、もっと色々掘り下げられるのだろう。
しかし最も驚いたこと、それは走っている僕が、昔のわくわく感を取り戻していることである。

そう、十代までの僕にとって、自転車はいつも相棒だった。

小学生時代、退屈な日は、桂川の河川敷や近所の街中を、いつも変速機付きの自転車で走り回っていた。何か面白いことはないかな、何にもないな、と思いながら、桂川の鉄橋から新幹線や在来線の走るのを眺めたり、たまには五条大橋や伏見あたりまで、時には嵐山・木津川までも、ぶらぶら自転車をこぎ続けていた。また、高校時代には、ボーイスカウトでヤマモリ君と台風警報が出ている中、琵琶湖一周をしたこともある。あるいは、亀岡から篠山、三田まで山道を走ったことも。雪の降る真冬、小説の続きを読みたくて、マウンテンバイクをこいで近所の本屋をハシゴした日々・・・。
そういえば、なにげに五段変速がついている新たなチャリをこぎながら、以前の自転車が相棒だった日々を、思い出していた。そして、二十代後半は、大学院の修業時代とバイトに明け暮れ、ずいぶん楽しみから遠ざかり、自転車も車も、生活の手段に成り下がっていたことに、改めて気づく。さらに言えば、今、三十代の後半にして、やっとチャリ生活を再び楽しめる状態になってきた、とも。
自動車や特急電車、新幹線、飛行機と、移動手段の選択肢が格段に増えた。そして、甲府に暮らし始めてからの八年間は、ひたすらあちこちに出張し、移動し続ける日々だった。そういう日々だったからこそ、自転車というスロースピードの世界観が、実に新鮮な表情で、再び僕の前に迫ってきた。待ち時間や接続時間、あるいは道の狭さなどに拘束されることなく、街中をすいすいと走る世界。身体にダイレクトに負荷がかかり、風がきついとしんどいけれど、それも含めて楽しく感じれるようになったことが、実にありがたい。最近都会でおしゃれで高級な自転車が流行っている理由もよくわかる。同僚や知り合いが自転車道にはまりこんでいくのも、何となくわかる気がする。まあ、今の僕には、ホームセンターの五段変速がちょうどいいけれど。

すばやく・ぱっぱと・らくちんに、という効率や効用性の観点からいけば、自転車は劣るのかもしれない。でも、その効率や何か、は、規格化・標準化され、工業化・製品化されたそれだ。一方、自転車は、確かに商品なのだけれど、人の直接のエネルギーが介在し、その自由度が増えるだけ、標準化・規格化されたものから離れ、開放性も自動車より大きいのかもしれない。
そういう気づきをもたらしてくれた、自転車との再会。それは、常に猪突猛進になりがちな僕自身の社会への見方を、ちょっぴりと豊かで、そしてゆったりとしたものにしてくれるのかもしれない。
合気道とは違う筋肉を使っているようで、ふくらはぎに疲労感を感じながら、そんなことを考えていた。

語り合うという力

初めて出会う人による語り合いの場は、最初はおずおずと、ピリピリと始まる。ここは安心して話せる場なのか、どういうメンバーが参加しているのか、私の考えは的外れではないか。

だが、いったん落ち着いてはなせる場だとわかると、言ってみたかった言葉が口をついてでる。あるいはその話を聴いている人も、「そうそう、私も」と思わず合いの手を入れて、語るはずのなかった何かを語り始める。その雰囲気に引き込まれ、他の人が「そう言えば私の経験では」と話が広がる。深まる。その中で、気づいたら本質的な内容が議論されている。

先日、僕が出会ったのは、そんな「語り合うという力」が大きな何かを産みだそうとする瞬間だった。

ところは三重県。障害種別を越え、支援者や行政職員に自分たちの思いを伝える「研修リーダー」を養成するための、当事者だけの研修の場面での出来事だ。三重の自立生活運動の拠点、ピアサポートみえの松田愼二さんが総合司会を行い、西宮で長年自立生活運動に取り組み、近年はNHK教育テレビのバリバラ!でおなじみの玉木幸則さんと僕が助言者、そして松田さんと一緒に活動するお二人の障害当事者がファシリテーター、という陣容で取り組んだ。

こういう場は、障害当事者主催なら、以前から行われていた。だが、特筆的なのは、それを三重県が主催の研修で実現できた、ということだ。でも、今回の研修において、県職員はあくまでも書記役に徹し、当事者たちが安心して話せる場を作る、という松田さんの設定は活かされていた。そういう意味では、障害者運動が培ってきたノウハウが、都道府県レベルの研修で本格的に活用された初めてのケース、ともいえるだろう。

なぜ、そのような場が必要なのか。

その理由は、大きくわけて3つ、考えられる。

1つ目が、当事者同士で障害種別を越えて、自分たちの障害や病気のしんどさ、生活のしづらさ、生きづらさを共有できる場がないからだ。障害や病気を抱えて暮らす、ということには、特有のしんどさがある。手や足の自由が利かない、目が見えない、耳が聞こえない、幻聴が聞こえる、理解するのが難しい・・・。このような病気や障害があることでの特有のしんどさが、それぞれの障害にある。だけでなく、その障害ゆえに、日々の日常生活で、社会関係を営む上で、様々なハードルや障壁にであう。前者を機能障害とするならば、後者は社会的不利や生活障害、ともいえるだろうか。もちろん、障害が異なれば、病気や障害のしんどさは異なる。だが、そのようなハンディを抱えて日々暮らすことに、どのような生活のしづらさや生きづらさがあるのか、という部分では、障害の種別を越えた共通点がある。これは、語り合う中で、他の障害の人の話を聞きながら、「そう言えば私も同じような悔しい思いをした」「そういう気持ちは分かる」という分かちあいが生じる。そして、そういう障害種別を越えた当事者間での「思いや願い」の共有の場が、地方都市ではなかなかないのが実状だ。

2つ目は、そういう障害当事者の内在的論理を、支援する側や関係する行政職員が知らない、という問題点である。支援者は障害の特性や支援のやり方、については「知ったかぶり」が出来る。あるいは行政職員なら、現行法や制度、その運用実体や基準等について「知ったかぶり」が出来る。両者にあえて「知ったかぶり」と書いたのは、本当に知っている訳ではないのに、当事者の前でえらそうにその「振り」を必死にしている職員も少なからずいるからだ。まあ、その問題はおいておこう。だが、支援を受ける障害当事者が、その支援を受けての生活にどんなことを思っているのが、どういうしんどさや生活のしづらさを抱えているのか。そういうリアリティについては、実はちゃんと知らない支援者や行政職員も少なくない。そういうことは「知ってるつもり」になったり、あえて聴かなかったり、聴く必然性を感じていなかったり。そんな場合も少なくない。障害当事者に対しての行為が、相手の立場からどう評価されているのか。このような業務評価は、自らの行為の本質に関わる部分である、がゆえに、これを意識的・無意識的に避けようとする支援者も、少なくないような気がする。

3つ目は、上記の理由から、これまで障害当事者と支援者、行政職員が、お互いの役割や立場を越えて、「障害を持って地域で暮らすしんどさや大変さ、生きづらさ」について、平場で話し合う、という場面があまりに少なかった、という理由である。行政交渉などの公的な場面においては、「要求・反対・陳情」などの敵対的なモードが支配的であった。また、障害者地域自立支協議会という、市町村レベルでの関係者の議論の場が法的に整備されたが、その場で何を話していいのか、誰に話し合ってもらえばいいのか、について、自治体レベルでの当惑は未だにあり、十分にこの協議会が機能していない自治体も少なくない。ましてや、障害者の代表だけが形式的に参画するけれど、支援する側・される側の本音がつっこんで語られる場、になっている地域自立支援協議会がどれほどあるだろう。

このような状
況下にあって、都道府県が主催する研修会の場で、この3つの問題を乗り越えるために、障害当事者と支援者、行政職員が出会い、平場で「障害や病気のしんどさ、生活のしづらさや生きづらさ」について語り合い、学びあう機会を作ることは、非常に価値があることなのである。そういう意味では、こういう画期的な研修を主催する三重県もなかなか先駆的である。

ただ、いきなり「出会いの場」といっても、心の準備も必要なので、今日はまず1つ目の課題をクリアする為に、障害当事者だけの語り合いの場を作ってみたのだ。すると、出てくること、出てくること。

・ヘルパーが「風邪を引いてはいけないので外出を控えましょう」と保護的になる
・自己主張をわがままだ、と受け止められる
・職場で頭ごなしに叱られ排除されることが多く、何をどうしたらよいのか教えてもらえない
・恋愛の場面で、自分の思いをきちんと相手に伝えられない。受け止めてもらえない。
・困っている内容を抱えた一人の人間、ではなく、障害者として見られる
・私のしんどさ、を理解しようと話を聴くことなく、「あなたは○○だから」と決めつける

これらの内容に共通するのは、人と人という形できちんと出会えていない、という実体である。障害者と健常者、支援する側とされる側、という役割や立場の関係での出会いの中で、人間対人間の「本音」の部分のやりとりがされていない。「お顔の見えるおつきあい」がなされていない、というリアリティである。そして、そこで語られる中身を聴いているうちに、これは単に障害者だけの問題なのか、と考えさせされた。

このような「生きづらさ」の課題は、たとえば学生支援をしていても、しばしば耳にする話だ。あるいは、派遣労働の問題、正規社員でも「追い出し部屋」や「ブラック企業」などでは、同じように「人として扱われない」現状に対する怒りやつらさが、様々なメディアを通じて漏れ聞こえてくる。昨今しばしばバッシングにあう生活保護を受給されている方も、同じような蔑みや劣等感を感じておられる方も少なくない。すると、ここで語られている課題が、決して一部の障害者のわがまま、ではなく、あなたや私にも共通する、日本社会の構造的なゆがみや抑圧、同調圧力の表出形態である、と見えてくる。すると、これらの語りが、決して「他人事」ではすまされないのだ。

そして、障害理解、あるいは障害者支援の根本に、福祉政策の根本に、この「他人事ではない」という感覚の共有があるかないか、が、実は大きな分かれ道にあるのではないか、と僕は感じる。しょせん可哀想な方々の哀れな悲劇、と「他人事」で感じている限り、それはいつも周縁の問題、と「後回し」になる。だが、これらを「後回し」にし続けることで、結局自分自身の「生きづらさ」もどこかで後回しにしていないか。自分自身の、日本社会の閉塞感や生きづらさの問題を「自分事」として捉えるならば、障害のある人の「生きづらさ」の問題を「自分事」として伺う、語り合うことが、自分自身の「生きづらさ」「生活のしづらさ」の問題を見つめるための「遠回りなようでいて、実は近道」となるのではないのか。

だからこそ、問題の本質を直視するためにも、「語り合うこと」が想像以上の「力」を持っているのだ。

そういえば、参加したある人が、ぽつりとこんな感想をもらしていた。

「こういう場以外で、生きづらさ、とか、生きるとは何か?なんて語ることはありませんよね」

その通り。
いや、むしろ、こういう場がないと、「生きづらさ」や「生きるとは?」が語られる事のない社会の閉塞感こそ、問題の核心部分にあるかもしれない。だからこそ、「語り合うこと」が力を持つのだ。