自転車に乗って

自転車を手放してもう何年になるだろう。

関西に住んでいるとき、自転車は文字通り、日常生活になくてはならないものの一つだった。それが、甲府に引っ越してきて、坂道の途中にあるマンションに暮らしたことと、車で職場に通うようになったことが重なって、いつの間にか自転車から遠ざかっていた。家人がしばらく使っていたが、そのうち使わなくなり、甲府に来て数年で自転車を処分してしまった。

昨日、八年ぶりに自転車を手に入れ、乗ってみた。実に爽快なこと。この感覚を忘れていた。
ちょうど坂道の途中から街場の住宅地のマンションに引っ越したので、そろそろ自転車に乗ってもいいな、と思っていた頃だった。この前、職場まで何度か歩いて出かけたら、四十五分程度で歩けてしまった。これなら、自転車があれば、二十分程度で通勤できそうだ、という実感がつかめた。また、引っ越した後、身延線の善光寺の駅から二十分程度歩いて職場まで通っているので、それなら自転車で出かけた方が自由度も上がりそうだ、と考えていた。

そんな折りに、ホームセンターで手ごろな価格のシティサイクル車なるものと出会う。五段変速で、かごもついていて、パンクしにくいタイヤで、実にリーズナブルな価格。これなら、と思い、買ってみた。そして、昨日からルンルン乗り回している。すると、甲府盆地がこれまでとは違う風景で見えてくるから、不思議なものだ。

甲府に引っ越して八年、気がつけばいつの間にか、自動車移動の目線になっていた。八年も甲府市内に住んでいれば、だいたいナビなしでも土地勘はわかる。だが、昨日、今日と自転車でフラフラしていて気づくのは、いつもの風景が新しく見える、という不思議な体験だ。
例えば甲府市内は神社がすごーく多い。街中を走っていると、至る所で神社やその分所、御旅所などのような場所がある。これは、車では素通りしていて、気づかなかったところだ。あと、いつもいく目的地に行くのでも、自転車なら狭い路地をずんずん進める。これも、関西にいた頃はよくぶらぶらしていたのに、甲府に来て忘れていた感覚だ。そして、甲府市内はあまり高い建物がなく、富士山と日差しの方向を確認すれば、だいたい適当に走っても、大まかな方向感覚がずれない、というのもありがたい。
さらに、古い街に特徴的な事だが、狭い路地が非常に多い。これは、車なら恐ろしくて入り込めず、歩いていたら引き返すのが面倒なので後ずさりするが、自転車ならどんどん冒険できる。すると、車の通るメインストリートは実は後付け的にできた道で、路地のようなクネクネ曲がった道が、街中の、あるいは畦道の、本来の道であることがわかってくる。たぶんこの辺は、武田信玄時代や徳川時代の地図と重ね合わせて考察すれば、あるいはアースダイバー的に眺めれば、もっと色々掘り下げられるのだろう。
しかし最も驚いたこと、それは走っている僕が、昔のわくわく感を取り戻していることである。

そう、十代までの僕にとって、自転車はいつも相棒だった。

小学生時代、退屈な日は、桂川の河川敷や近所の街中を、いつも変速機付きの自転車で走り回っていた。何か面白いことはないかな、何にもないな、と思いながら、桂川の鉄橋から新幹線や在来線の走るのを眺めたり、たまには五条大橋や伏見あたりまで、時には嵐山・木津川までも、ぶらぶら自転車をこぎ続けていた。また、高校時代には、ボーイスカウトでヤマモリ君と台風警報が出ている中、琵琶湖一周をしたこともある。あるいは、亀岡から篠山、三田まで山道を走ったことも。雪の降る真冬、小説の続きを読みたくて、マウンテンバイクをこいで近所の本屋をハシゴした日々・・・。
そういえば、なにげに五段変速がついている新たなチャリをこぎながら、以前の自転車が相棒だった日々を、思い出していた。そして、二十代後半は、大学院の修業時代とバイトに明け暮れ、ずいぶん楽しみから遠ざかり、自転車も車も、生活の手段に成り下がっていたことに、改めて気づく。さらに言えば、今、三十代の後半にして、やっとチャリ生活を再び楽しめる状態になってきた、とも。
自動車や特急電車、新幹線、飛行機と、移動手段の選択肢が格段に増えた。そして、甲府に暮らし始めてからの八年間は、ひたすらあちこちに出張し、移動し続ける日々だった。そういう日々だったからこそ、自転車というスロースピードの世界観が、実に新鮮な表情で、再び僕の前に迫ってきた。待ち時間や接続時間、あるいは道の狭さなどに拘束されることなく、街中をすいすいと走る世界。身体にダイレクトに負荷がかかり、風がきついとしんどいけれど、それも含めて楽しく感じれるようになったことが、実にありがたい。最近都会でおしゃれで高級な自転車が流行っている理由もよくわかる。同僚や知り合いが自転車道にはまりこんでいくのも、何となくわかる気がする。まあ、今の僕には、ホームセンターの五段変速がちょうどいいけれど。

すばやく・ぱっぱと・らくちんに、という効率や効用性の観点からいけば、自転車は劣るのかもしれない。でも、その効率や何か、は、規格化・標準化され、工業化・製品化されたそれだ。一方、自転車は、確かに商品なのだけれど、人の直接のエネルギーが介在し、その自由度が増えるだけ、標準化・規格化されたものから離れ、開放性も自動車より大きいのかもしれない。
そういう気づきをもたらしてくれた、自転車との再会。それは、常に猪突猛進になりがちな僕自身の社会への見方を、ちょっぴりと豊かで、そしてゆったりとしたものにしてくれるのかもしれない。
合気道とは違う筋肉を使っているようで、ふくらはぎに疲労感を感じながら、そんなことを考えていた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。