忙中暇なし、なのだろうか。やってもやっても、タスクが完了しない。
ここしばらく、最低限のto doをこなすだけで、結構精一杯である。〆切を落とさないように、とデッドラインをつけているのだが、毎日何かしらの〆切日が来ていて(一部過ぎていて)、雪かき仕事のようにせっせこせっせこ、かきつづける日々。ここ1,2週間で季節はぐっと変容し、今朝はストーブにトレーナー姿。朝がグンと冷えてきた。急に乾燥気候になり、洗剤負け体質の手は荒れてくるし、喉は毎朝イガイガしている。今、風邪を引いたらめちゃくちゃ大変なので、十分な睡眠と、うがい手洗いだけは必須だ。そう思って夕べ帰宅時にうがいをしながらシャツのボタンを外していたら、うがい液がシャツに付いた。ヨウ素は取れにくい、と妻に聞いて大ショックだったのだが、シミ取り液をつけてすぐに洗濯機を回してみると、何とか取れる。ふう。忙しいから、と手を抜くと、大変である。
さて、手を抜くと大変なのはジムも同じ。ついつい忙しいと行かなくなってしまい、体重増につながりかねない。ここ二週間は教員テニスクラブにも行けたが、来週から3回ほどは仕事でいけない。なので、週二回は運動を確保するために、昨日もザクッと仕事を切り上げて向かう。あと、同僚の先生に、「ここから体重を落としたかったら、やっぱり筋力をつけねば」と助言をうけ、前回あたりからジムでは30分の運動に、プラス10分の筋トレを入れてみた。本当は家ですればいいのだが、もともと無精な人間、かつ家に帰ると酩酊するタケバタには無理な話。よって、まずはジムで続けよう、と思う。で、そんなこんなでジムで汗をかきながらも、土曜日〆切の仕事用に読み返していた本が、あたりだった。
「チェンジ・エージェントには、判断を保留して、待てよと止まり、観察することができる人がふさわしい。これを仏教の用語では『止観』という。
こういうひとは『そうだったのか。それで一体何が起きているのかな?』『何が問題なんだろうか?』と人々に探求させる問いかけを発するだろう。この姿勢が、変革を形だけに走らせないで、人々に深く探求してもらい、気付きや覚悟を引き出す重要な鍵になるのである。『ちょっと待てよ、私たちは何の目的でそれをやっているのだろうか?』『それは思い込みであって事実は違うのではないか?』といった台詞を周囲に投げかける役をして欲しいのである。」(高間邦男「学習する組織」光文社新書p32)
高間氏は、このチェンジ・エージェントと対比する形で、相談された際に自分の経験や枠組みしか引き下ろすことが出来ない人の反応を「ダウンローディング」と名付けて、こうも書いている。
「このダウンローディングをする人ばかりが集まっている組織では、変革が難しい。この人々はすぐにジャッジ・判定をしてしまうので、今何が起きているのかを幅広く客観的に見ることができいないのだ。また、周囲の人は、否定されたり拒絶される恐れを感じるので、ますます本音を話さなくなってしまう。」(同上、p31-32)
いるいる。こういう「ダウンローディング」な人。だいたい僕がいつも衝突するのは、この「ダウンローディング」な人であったり組織である。何度もこのブログで書いているフレーズで言えば、最初から“You are wrong!”という枠組み(=私と同じであれば正しい、つまり私は正しいという枠組み)しか用意されていない人や組織とは、別の視点を持ってきたら、どうしたってぶつかるに決まっている。そして、ある組織で、ダウンローディングではなく、チェンジ・エージェントとして活躍したTさんの仕事ぶりを、こんな風にまとめている。
「大変なバイタリティで、様々な出来事に対して我がことのように関心を持って取り組んでいた。T氏は五年間、様々な人々に語り続け、ありとあらゆる会合に顔を出して、人々の方向性を合わせ、関心を掻き立て、称えることで元気づけてきた。現在、この会社は売上が倍以上になり、他の支社にも強い影響を与えている。売上だけでなく、会社の文化は生き生きしたものになり、社員自身が会社に高いプライドを持つようになった。もしT氏がいなかったら、変革はここまで成功しなかったかもしれない。」(同上、p36)
今自分がやっている特別アドバイザーの仕事に通底する部分があるような気がする。自分が今、県内で色んな場に出かけてやろうとしていることも、おこがましいかもしれないが、「様々な人々に語り続け、ありとあらゆる会合に顔を出して、人々の方向性を合わせ、関心を掻き立て、称えることで元気づけ」る営みである。それが、企業のように数値で反映されるものではないが、でも地域福祉の枠組みを「要求反対陳情型」から「連携提案型」に変えていくための仕掛け作りをしているなかで、私自身がダウンローディングになっていないか、が大きく問われている。自分の枠組みに固執せず、チェンジ・エージェントとして、現場の人々と一緒に『何が問題なんだろうか?』と問い続け、探し続けられる人間か、が問われているのだ。この模索の際、一番最初にすべき大切なポイントも、ちゃんと著者は教えてくれている。
「重要なのは、事実だけをを共有するのではなく、互いの認知の仕方を共有することである。(略)事実がどうあったかを問題にするのではなく、認知の仕方の違いに気づくようにする。また、オープンな話し合いをしようと思ったら、互いの経験や実際に起きていることを、批判をせずに聴く必要がある。相手をジャッジせずに、ただ聴くことができたら、相手を受容することができる。そうすると生成的な相互作用が生まれ、一人が一人でなくなり、チームとしての集合的な融合が起きて、より探求ができるようになる。」(同上、p41-42)
自分の最近の経験に照らし合わせても、実に大切な指摘だ。
「事実」の「共有」を目指して話し始めも、下手をすると「事実がどうあったか」を巡る対立的関係から“神学的論争“になりかねない。「○○が正しい」というのが、複数出てくる場合も、少なくない。その当否を審議するのではなく、そういう風に捉える「認知の仕方の違いに気づく」、これは当事者間でボタンの掛け違えの結果、膠着状態に陥っている現場に、まず必要なことだと思う。
「俺はこういう思いで一生懸命やっているのに」という感情的モードで入るとだいたい失敗するのは、その際、「一生懸命やっている」という感情が支配・先行して、相手をその感情的枠組みでジャッジしているからである。すると、自分の枠内に入ればいいけれど、だいたいそういう時は自分の枠組みの外で問題が起こっているから、「何もわかっちゃいない」「どうしようもない」という結論になる。当然こちらが最初からクローズドなモードだから、相手の話をきちんと聴けない。すると、「生成的な相互作用」なんて起こらないし、チームにならないのだ。
そういう現場に求められているのが、まさしくチェンジ・エージェントなのである。そして、チェンジ・エージェントがどういう風に場を構築していくか、を筆者はこうも書いていく。
「遠回りなようでも本物の自分を探求することから、他の人々の経験・気持ちの共有を行い、内外の環境に対する組織的感受性を高め、ありたいビジョンをポジティブに話し合うことから、新しい目的意識・ミッションといった集合的な意志を創造することが効果的である」
さて、私はどの程度の「集合的な意志」の「創造」にコミットできるのだろう?
久しぶりに読んでいてワクワクする本だった。っていうか、以前読んだ時には、全くその辺をスルーしていたことが、恐ろしい。二年前から、多少は成長している、のかもしれない。