トサフィスト的再編集

 

こないだの木曜日、ジムでバイクを漕ぎながら読む本として、近所の本屋で何気なく手に取った一冊。週末もお風呂のお供にボンヤリ読み進めていたのだが、最後の二章での論考の鋭さに、思わず唸る。

中世ユダヤ教徒の中で、教典の写本の欄外に注釈や解釈、意見や見解を書き込む人のことを「トサフィスト」という。写本そのものには一切手をつけず、その欄外の注釈も、前時代のものを残しながら、その後に書き足していく。そういうルールが「トーラー」という、モーゼの律法を伝承していく際にどう伝わっていったのか。その点に触れて、こういうまとめが出てきた。

「それらの作業はすべて『過去を棄却して新しい発想をする』ことではなく、『過去への長い検討の集積を編集しなおす』という作業であった。(略)この作業は、実は、『生体である文化の改革と進歩』の基本なのである。『トーラー』は彼らの精神構造の基本であるから、これを停止して『改革』するわけにはいかない、といって、そのまま、ただ過去を守っていれば形骸化して消えてしまう。そしてこの矛盾を解消する方法とは、実は、トサフィスト的な作業しかないわけである。(略)ある時期の改革とか革命とかいわれるものは、実はその再編集にすぎないのであって、何か不意に『新たにはじまる』わけではないし、同時に、それが終わればトサフィスト的作業が終わるわけでもない。そしておそらく、われわれに最も欠けているのが、この基本的発想なのだと言える。」(山本七平「日本人と組織」角川書店、p186-187

福祉施設の組織改革についてボンヤリ考えているのだが、その施設に限らず、日本の組織は確かに『過去を棄却して新しい発想をする」ことを好む。山本氏もその動きに関して、「情動的に外部的条件に対応していく」ことに関して「『天才的』とさえいえる」と指摘している。新しいブームが来れば、それにパクッと飛びつくのは、組織だけでなく、日本人気質、なのかもしれない。だが、私たち日本人も、結局そういう表層的変化があっても、深層の部分では、変わっていないのだ。組織改革のために、色々な手を打ってみても、なかなか本質的に変わらない。その原因を考えていたのだが、それは、『過去への長い検討の集積を編集しなおす』という視点が欠けているからである、ということに、山本氏の著作から気づかされた。つまり、その組織の持つ「トーラー」と、そこに記された欄外注を、消し去ることなく、むしろ全てを分析する中で、どこで「躓いた」か、が見えてくるのである。

1977年に書かれたこの作品の中で、山本氏はそこから、最近ちまたで話題の失敗学について触れていく。

「過去の製品とは、現代を基準に見れば、すべて失敗した製品だと言うことである。だが、それをそのまま残すことが、進歩なのである。以下は聞いた話だから、あるいは単なる伝説かもしれないが、フォードには、第一号以来の部品が全部そろえてあり、いつでも受注に応じられるという。大変に無駄なことのようだが、実は、部品の変転史を実物で検証しうることは、決して無駄なことではなく、これがあるから、将来を模索できるのだという。」(同上、p204)

失敗を記録・保存し、必要に応じてその記録を引っ張り出して「実物で検証」する。そのことを通じて、「将来を模索」する。この「過去への長い検討の集積を編集しなおす」という「再編集」の作業があるからこそ、その組織は根本的に変容することが可能なのだ。ブームだから、時代が要請するから、法律が変わったから、と、その組織の「トーラー」を見つめ直すことなく、屋根部分のみを取っ替えひっかえしたところで、中身は全く変わらず、むしろ継ぎ接ぎが増えるだけで、余計に内容が混乱してくる。まるで政府の継ぎ接ぎだらけの年金システムのように。

逆に言うならば、継ぎ接ぎだらけのシステムに関して、何らかのメンテナンスなり補修工事を依頼された場合、下手に新しい支柱を立てるよりも、意識的にトサフィストになることが求められているのだと思う。その組織の(見えざる)屋台骨である「トーラー」の部分と、継ぎ足し、すげ替えられ、時には棄却された「欄外注」を峻別した上で、そのどちらも分析すること。『過去を棄却して新しい発想をする』よりは遙かに時間もかかるし面倒だが、そういう、見た目ではドラスティックなことをするよりも、地道に『過去への長い検討の集積を編集しなおす』ことの方が、実は本質的な組織の問題にアクセスでき、そこから実現可能な舵を切れる可能性があるのだ。

そうやって見ていくと、私自身、去年あたりまで外野から「改革改革」を迫ることが多かった。だが、色々な現場で、最近そういう外野からのヤジ、ではなく、中に入り込んで、コーチのような、プレーヤーのような立場で動き始めている。すると、必要なのは、派手な言説よりも、むしろトサフィスト的な「再編集」だ、と深く感じる。その組織の「トーラー」をどこまで理解するか。その上で、雲散霧消した欄外注までも、どこまで掘り返し、何を再編集出来るか。こういう姿勢がないと、本当の意味での、『生体である文化の改革と進歩』にコミットできない。そんなことを教えてもらったような気がする。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。