「他者の他者性」との人類学的対話

久保明教さんの『内在的多様性批判』(作品社)をとにもかくにも、読み終えた。久保さんは阪大人科という同じ大学・大学院を出ているが、僕など比べものにならないほど賢いことだけはよくわかる。後書きで、社会学の院試に落ちたと書いていたけど、それはほんまかいな!?と思うほどの俊英である。ちなみに僕は社会学の大学院に受かるはずもない&大熊一夫師匠の弟子入りしか興味がなかったので、新設講座に院試で一度落ちた後辛くも滑り込んだのは内緒話

彼は、記号論的な構造主義的整理と、人類学的な存在論的展開の議論を、みっちりとロジックで積み上げていく。人類学的知の素養がない門外漢には途中で挫折しそうになったけど、岡部さんとの研究会の課題図書だったので、何とか、読み終える。

とにもかくにも、というのは、ここ数十年の人類学の学説史的読解の再構成と概念化(p312)が中心になっているので、彼が取り上げた論者のうち、アクターネットワークセオリーのラトゥールだけを何冊か読んだだけの素人の僕には、歯ごたえがありすぎる、というか、峻険すぎる山だった。「馴染みのないものを馴染みのあるものとして、馴染みのあるものを馴染みのないものとして(making the strange familiar and the familiar strange)」(p310-311)に即していうのなら、ストラザーンやデスコラ、ジェルやワグナーといった、全く読んだことない人類学者の論説は、久保さんの解説を経ても、僕には「馴染みのあるもの」にはならなかった。でも、ギアツやレヴィ・ストロース、ラトゥールについては、本書を読んで、ちょっぴり馴染み度が増した。

このブログで引用するのは、自分がわかった断片部分のみである。

「ラトゥールが、ネットワークの網の目の合間にある『まだ計測されておらず、まだ社会化されておらず、まだ計測基準の連鎖に組み込まれておらず、まだカバー、調査、動員されておらず、あるいは、主体化されていないもの』を『プラズマ』と呼んでいることを踏まえれば、野生の思考は、ハイブリッドの増殖を抑制する営為というよりも、潜在的な関係性をある程度限定された範囲において呼び込むような諸関係の構築、プラズマを吸引しながら自らを組み替えていくアクターネットワークの運動として把握することができる。」(p299)

この部分は、めっちゃよくわかり、目から鱗だった。ブリコラージュとは、よくわからないものを拾い集めて、あり合わせの道具で必要とされている何かを創り出す、「ありもの仕事」である。棒きれなり木片は、拾い集めた段階では、何の意味もなさず、主体化も社会化もされていない「プラズマ」である。だが、「これってあれに使える!」と思いついた段階で、「ある程度限定された範囲において呼び込むような諸関係の構築」がなされ、様々なモノの連鎖に組み込まれることによって、「自らを組み替えていくアクターネットワークの運動」の一部になっていく。これは本当にその通り!である。そして、ブリコラージュは「構造よりも変容を基礎におく」(p294)というのも、確かにその通りだ。

構造が定まっている、ということは、その構造を決める設計者としての超越者がいる、ということである。そして「『超越論的なもの』の単一性を前提にする限り、空隙や切断は統合を阻害するノイズやバグでしかない」(p204)。そういう意味では『超越論的なもの』の単一性を前提にした構造や統合にとって、ブリコラージュはノイズやバグでしかない。ただ久保さんはそこからこうも議論を展開する。

「空白や残余や切断こそ他者とのコミュニケーションを可能にする契機であると考えれば、『集合的なもの』の多様性を認めたうえで、それを俯瞰しうる外在的な基準を措定することなしに、異なる集合体との部分的な連接を通じた内在的な他者理解を論理的に肯定することが可能になる。この世界は一つではない。だが複数の独立した世界があるわけでもない。異なる『集合的なもの』は互いに通約不可能だが、それらには無数の空隙が穿たれており、方法論的な主客の反転はその空隙を押し広げることで異なる『集合的なもの』を連接する契機となりうる。」(p204-205)

超越論的なもの=「それを俯瞰しうる外在的な基準」があると、正しさは一義的に決まってしまう。だが、その正しさが一義的に決まらない中でも(外在的な基準を措定することなしに)、「異なる集合体との部分的な連接を通じた内在的な他者理解を論理的に肯定することが可能になる」。それが、拾い集めた様々な断片から、別の意味ある何かを作りあげる「ありもの仕事」としての「ブリコラージュ」なのである。「統合を阻害するノイズやバグ」である「空隙や切断」は、「プラズマを吸引しながら自らを組み替えていくアクターネットワークの運動」にとっての「糊代」であり、「余白」として機能するのである。一義的に使用価値が決まらないからこそ、遊びがある。その遊びや余白が、構造を組み替えるきっかけを与えてくれるのである。

そして、「『集合的なもの』の多様性」に関する以下の部分にも、びびっときた。

「『人はどのように世界を見るのか』という認識論的な問題は、突き詰めれば『見ることのできるどのようなものがあるのか』という存在論的な問題になる。例えば呪術的実践が『一見して非合理な信念』の産物とされてきたのも、呪術の力それ自体は存在しないことが前提にあり、この前提は科学的客観性に依拠する『私たちの存在論』からの帰結である。このように、人類学者がかけている『色メガネ』は、最終的には社会的・文化的・政治的なものではなく、それらがいかに存在しうるかについての基本的なコミットメントや想定であるという意味において存在論的なものである。こうした存在論的な想定を保留することで、民族誌をそれ自身の在り方において現せしめること、それによって自らの想像とは異なるものがそこに存在する可能性を認めることが可能になる。したがって、存在論的転回における『存在論的』という形容詞は、いかなるものがいかに存在しうるかに人類学的関心を向けることを意味しており、『転回』という名詞は(略)『現地の人々の視点を把握すること』から『現地の人々の視点によってよりよく把握されるために自分が既に把握していることを乗り越える方法を探ること』への転換を意味している。」(p260)

呪術的実践は、近代合理性の思考枠組みの範疇を越える。それは『見ることのできるどのようなものがあるのか』の範囲を超えるという意味において、「『一見して非合理な信念』の産物」とされるのである。その一方、人類学における存在論的転回とは、『現地の人々の視点によってよりよく把握されるために自分が既に把握していることを乗り越える方法を探ること』を意味する。近代合理性をいったん脇に置き、それ以外の視点の合理性を理解した上で、自文化中心主義を批判し、それを乗り越える方法を模索する営みでもある。

そして、僕はこの存在論的転回のフレーズを、自分の福祉分野に置き換えたい欲望が強く表れている。例えば非合理とされているゴミ屋敷問題について、僕は以前「「合理性のレンズ」からの自由 : 「ゴミ屋敷」を巡る「悪循環」からの脱出に向けて 」という論文を書いた。10年前は人類学の本を未読で知らなかったのだが、この論考で考えた事は、「『見ることのできるどのようなものがあるのか』という存在論的な問題」そのものである。「病気」という近代合理性科学の枠組みの中で見えることの外側に、「生きる苦悩」というパラダイムがある。そして、「病気」から「生きる苦悩」へと精神疾患のパラダイムシフトをすることで、「病気」カテゴリーの外にある、「自らの想像とは異なるものがそこに存在する可能性を認めることが可能になる」のである、ということも、「「病気」から「生きる苦悩」へのパラダイムシフト : イタリア精神医療「革命の構造」」に書いた事がある。

思えば、『枠組み外しの旅』以来、僕がずっと続けてきたのは、「当事者」とされる人々の視点から、『見ることのできるどのようなものがあるのか』という存在論的な問題に向き合っていたのかも、しれない。自分の価値前提を脇に置き、自分が既に把握していることを乗り越える方法を探ることへの転換を希求した、認識枠組みへの問いだったのかも、しれない。それは、存在論的転回と通底しているのかも、というのが、今回の久保さんの本を読んでの、最大の収穫というか、後押しだった。

ゴミ屋敷、だけでなく幻覚や妄想、強度行動障害、依存症など、「『一見して非合理な信念』の産物」と今でも見なされている。でも、「自らの想像とは異なるものがそこに存在する可能性を認めること」によって、近代合理性の認知枠組みからあふれ出た何かを、そのものとして理解や解釈することが可能になる。強度行動障害の人を羽交い締めしなくても、ゴミ屋敷の家で強制代執行をしてゴミを無理矢理捨てさせなくても、幻覚や妄想を「縛る・閉じ込める・薬漬けにする」で押さえ込まなくても、他者の他者性=対象者の合理性をそのものとして理解することによって、「近代合理性の思考枠組み」を超えるきっかけがうまれる。それから「自らの想像とは異なるものがそこに存在する可能性を認めることが可能になる」。そういう余白というかのり代が生まれてくるのだ。

ゴミ屋敷や自傷他害にも、それを行うアクターにとっての切実な意味や価値がある。その前提に立ち、近代合理性という支配的な枠組みによる査定や評価をいったん脇に置く、その上で、自らの「存在論的色眼鏡」をにも自覚的になること。それが枠組み外しの根本的な重要要素なのだとも思う。

付け加えておくなら、「外在的な基準を措定することなしに、異なる集合体との部分的な連接を通じた内在的な他者理解を論理的に肯定することが可能になる」ことで、それまで「話が通じない」「話にならない」と思われていた相手との、対話可能性が生まれてくる。ゴミ屋敷、だけでなく幻覚や妄想、強度行動障害、依存症など、「問題行動」や「困難事例」とラベルが貼られている状態の人との対話において、大切なのは、相手と自分の間にある「余白」や「遊び」という「部分的な連接」=ネットワーキングである。そこから、相手の内在的論理を掴むことである。これが「他者の他者性」との対話可能性にもつながるのだと、思う。

そういう意味で、僕自身が追いかけてきた認識論的な枠組み外しに人類学的な根拠を与えてくれるような、濃厚な1冊であった。

本気の確信犯!

新年最初の投稿は、いつも魅力的な本をどんどん出されてご恵贈くださる勅使川原真衣さんの新刊の書評から。観察の達人として例に出されたのが、あのコナンである。

「コナンくんは過去のパターンやセオリーではなく、目の前のことをよく観察して、そこから仮説を立てます。その始まりはいつも、『あれれー?』と、気づいたことを半分とぼけながら伝える振る舞いなのです。」(勅使川原真衣『組織の違和感:結局、リーダーは何を変えればいいのか?』ダイヤモンド社、p33)

そう、やっぱりコナンなのだ。実は僕もコナンの観察に基づく関連付けとか、アブダクションの達人であると書いていたので、我が意を得たり、である。かれは、違和感を誤魔化さず、それを相手の本質の理解の前提にする。名探偵テッシーも同じである。

「あれ、さっきまで『イライラ』という言葉を使っていたのに、今、急に表現がかわりましたね?」
「あれ、さっきから何度も足を組み直してますね?」
「あれ、もうペットボトルの水が空っぽですか!」

名探偵テッシーは、犯人を捜すのではなく、組織コンサルタントである。その組織の中でのチームワークの不全感の正体を探り、関係性を変えていく支援や介入を行う事で、組織のパフォーマンスと働く人々の満足感を高めるお手伝いをしている。そのとき、「問題とされる人(Identified Patient: IP)」と向き合う際にも、噂や先入観、他者の評価を鵜呑みにせず、じっくり観察する。その中で、相手の内在的論理を探ろうとするのである。

その上で、職場の中で「出来ない奴」「話のわからない奴」とラベルが貼られる人に対して、以下のように喝破する。

「これまで約2万人の働く人たちと接してきましたが、その経験から私は『ちゃんとやっていない人』が職場にいることが問題なのではなく、その職場の『当たり前』『ちゃんと』『普通』が一体どういう言動なのかを言語化できていないことこそが問題だと確信しています。いけしゃあしゃあとそんなあいまいな言葉で他人に評価目線を注ぐのであれば、こららの言葉をどれほど解きほぐし、いろんなメガネをかけたメンバーにわかるように伝えたのか? これこそを振り返るべきです。」(p62)

実は名探偵テッシーの本領は、人物観察に基づく上記の本質を射貫く発言である。「問題とされる人(Identified Patient: IP)」が問題なのではない。その人を問題・悪魔化することで誤魔化している背後にある、「その職場の『当たり前』『ちゃんと』『普通』が一体どういう言動なのかを言語化できていないことこそが問題だ」という構造を見抜いているのである。僕がテッシーと価値観が似ていると勝手に親近感を抱いているのは、彼女は問題を個人化せず、その背景にある社会構造の問題を射貫く。

その上で、この本についてテッシーは確かラジマガコラムか何かで、「商売あがったり」になるほど自分の仕事の秘訣を公開している、と述べておられたが、確かにこの本の中では、彼女がどんな風に「問題とされる人(Identified Patient: IP)」を観察した上で、その本質を見抜こうとしているのか、のいくつかのネタを公開してくれている。

例えば僕は腕を組んだら右腕が下、手の指を組んだとき左親指が下、の左右脳で、ソーシャルスタイルは人への関心が弱くて、あけっぴろげであるドライバータイプである。このようなタイプ分析を紹介しつつ、それは自分だけではなく、他者を観察していても、発言内容や表情などから読み取ることが可能であると指摘する。本書では簡単な・しかし強力な自己・他者分析ツールをご紹介くださりながら、まずは以下の順でやった方が良い、と指摘する。

①自分の解釈のパターンを知る
②相手の解釈のパターンを知る
③それらを踏まえて、組み合わせる

ここで大切なのは、まずはさっきの解釈枠組みを自分に当てはめて、自分自身のパターンを知ることである。その上で、観察に基づいた相手のパターンを知り、相手と自分の関係性や組み合わせを考える、という重要性である。

そして、関係性をうまく組み合わせるために、以下の視点が大切だという。

・自分の感情に流されず、相手の解釈のクセを淡々と「観察」できているか?
・決めつけず(良い悪い、けしからんなど抜きに)相手の考えをいったん受け止められているか?
・とはいえ、相手の言動が業務の目的にそぐわない場合は、「相手に伝わる言葉で」どうにか働きかけて調整する必要があるが、有効な質問・フィードバック・共感・傾聴など使い分けができているか?(p197-199)

これは相手のことを知った上で、相手との関係性を考える上で、決定的に重要なポイントだと感じる。なぜなら、僕が人間関係で失敗したとき、大体この三要素が出来ていないからである。まず、むかついたり腹がたつ、という感情に流されると、冷静な観察が出来なくなる。その上で、相手の考えを早々に決めつけやジャッジしてしまうから、話が拗れる。そのうえで、「相手に伝わる言葉」ではなく、「自分が言いたい言葉」で相手にフィードバックするから、ますます悪循環が高速度回転してしまう。

ゆえに上記の三点は、自分を知り、相手を知った上で、関係性を好循環に導く上で、決定的に重要なポイントなのだ。

「結局、リーダーは何を変えればいいのか?
それは、相手ではなく、決めつけてしまう自分こそ変える、ということです。
そして、やるのは環境の調整だけ。そのためには、『違和感を持ったら立ち止まる』ということに尽きます。」(p272)

相手ではなく、決めつけてしまう自分こそ変える、これは昨秋以来、ぼく自身が自分の内的自己と向き合う中で、ずっと考え続けていることである。他者との葛藤が最大化した際、他者を悪魔化・問題化しても、何も変わらない。そうであれば、「決めつけてしまう自分」こそ、客観的に観察し、そこにどのような課題や問題があるか、を冷静に観察(自己分析)したほうがよい。それに基づき、自分の変容課題を理解出来れば、他者との関係性が変わる。そして、そういう風に、自分をアップデートすることが、他者との関係性のアップデートの要にあるのだ、と勅使川原さんは、関係性変革の極意を、惜しみなく伝えてくれているのだ。なんて、ありがたい!

その上で、本書を「ダイヤモンド社」で出す意義について、以下のように書いているのが、非常に味わい深い。

「能力主義の代案はなかなか受け入れられません。むしろ、経済的格差の進行を背景に、ますます強固になっている節もあります。
どうしても、勝者の側から意識を変えてもらわないといけない。
だからこそ、今ここで社会的に優位な立場にいる人に向けて、自分の商売道具を公開してでも、ビジネス書、中でもその『総本山』ともいえるダイヤモンド社から発信してみようと思ったのです。」(p276)

本気の確信犯!である。

ダイヤモンド社の本は、確かに「○○力」を伸ばすにはどうすればよいか、に関する本を沢山出しておられて、個体能力主義を重視していると世間で認識されている出版社である。だが、その個体能力主義の本を沢山出来ている出版社で、ご自身の商売道具を惜しげ無く公開しながら、伝えたい関係論的能力主義の本を出すことが出来るのが、テッシーの懐の深さ、というか、本気度合いが伝わってくる。

社会が本当に変わるには、「どうしても、勝者の側から意識を変えてもらわないといけない」のだ。だからこそ、勝者のリーダーに向けて、いかに他者を変えるのではなく、自己認識を変えることが大切か、を説く、ほんまもんのリーダーシップ論を唱えている。しかも、それはテッシーの商売道具を惜しげも無く公開しながら、これを使えばあなたと他者の関係性を変えられる、という秘伝のタレを出しながら、だから私の言うことに、ちょっと耳を傾けてほしいと懇請する。これこそ、本気のリーダーシップ論であり、社会変革論そのものなのだ。

そういう意味で、本気の確信犯の本書は、実に読み応えのある1冊である。