ケアへの解像度をぐっと上げる一冊

毎回本を送り合う村上靖彦さんから、またまた魅力的な一冊が送られてきた。『傷つきやすさと傷つけやすさ ケアと生きるスペースをめぐってある男性研究者が考えたこと』(KADOKAWA)である。この本は村上さんの新境地の開拓にも繋がっていると、読んでいて思った。それは冒頭で以下のように宣言されたところから、はじまる。

「ところで、本書では一人称単数形を『僕』と表記する。幼稚かもしれないが、日常生活での僕は、自分を『僕』ないし『オレ』と呼ぶ。今までの著書では日常では使わない『私』を用いていたのだが、そうしてしまうと、僕自身の経験から切り離されてしまうことに気がついた。『私』『私たち』と書いているときには、僕自身が生活のなかで感じたことや戸惑いを切り落としており、記述している事態に対して責任を負っていない。なので、今回は実験的に『僕』と書いてみる。そして多くの人に当てはまるだろう一般的な事態を表現するときに『自分』『私たち』というニュートラルな代名詞で対比する。」(p8)

自分をどう名乗るか。これは大きな問題だと思う。多くの科学論文では、僕や私は登場しない。筆者や発表者、としか語られない。それは客観性が重視される自然科学の伝統に従い、主観性を排除した論理的な構成を目指す時に、僕や私などの主語が邪魔になる、という価値前提である。また、教授会等で発言する場合、あるいは新書や雑誌、新聞など一般向けに書かれる媒体であっても、私と表記する場合が多い。公的に自分の意見を表明する場合、私の方が一般的である、という社会通念がある。

でも今回の村上さんは、それらを分かった上で、敢えて「僕」という表記を使う。これは勇気がいったことだと思う。竹端も個人のブログではずっと「僕」と書いてきた。でも、最初の単著を書く際、どう考えても「私」という主語で書くと、内容が書けないことが見えてきた。それは村上さんの言うように「僕自身の経験から切り離されてしまう」からである。だから、怖々、おずおずと、僕と書いて、当時こんな註もつけておいた。

「例えば論文における「筆者」という立ち位置は、客観性を担保する為の装いであるが、書き手の意図を後景化させる効果がある。また、僕自身は「私」という表現を、個人的にはあまり使い慣れていない。そこで今回は敢えて、客観的な「筆者」や、普段使い慣れない「私」ではなく、普段のブログで書き慣れた「僕」という主語を用いる事で、大学教員というエクリチュールから距離を取ろうとしている。」(竹端寛『枠組み外しの旅 「個性化」が変える福祉社会』青灯社、p214)

なので村上さんのこの態度表明は、「同志発見!」的な嬉しさがあった。

さて、中身に入ると赤線引きまくり、のオモロイ一冊なのだが、その中でも僕自身が特に刺さったフレーズをいくつか引用してみたい。

「家父長的な資本主義が成立したのにともなって、<広い意味のケア>は家のなかで主婦に押しつけられ、<強い意味のケア>は病院などの施設に隔離された。」(村上、前掲書、p56)

これもすごくわかりやすい整理だし、手前味噌ながら、僕が昔書いた論文のタイトル「「家族丸抱え」から「施設丸投げ」へ─日本型“残余”福祉形成史」ってそういう意味だったのだ、と深く納得した。障害者や高齢者のケアは、「家のなかで主婦に押しつけられ」る一方で、それが限界を超えたり、主婦がいない場合、「病院などの施設に隔離された」歴史がある。広義の意味でのケアを<広い意味のケア>としたとき、それは家庭の主婦に押しつけられ、より集中的な支援が必要という意味で<強い意味のケア>は病院や入所施設などに押しつけられる。これはまさに「家族丸抱え」か「施設丸投げ」という、ケアの二者択一的現状なのだ。そして、村上さんは、そのような二者択一を超えるためにはどうすればよいか、を本書で考察している。

介護殺人について触れた場面で、こんな風にも語っている。

「やむを得ない事情から介護の負担を一人で背負い込んでしまっているが、この『やむを得ない事情』の多くは、『家族で面倒を見ないといけない』『人に迷惑をかけてはいけない』という『自助』の意識である。つまり社会が押しつける自己責任論を、内面化したことで生まれた感情だ。本書では『人に迷惑をかけられない』という意識を、『ケアが不足していて困っている』というSOSへと読み替える。」(p63)

ケアの二者択的現状を超えるための第一歩は、ケアに関する認識を変えることである。村上さんはその第一歩として、「『人に迷惑をかけられない』という意識を、『ケアが不足していて困っている』というSOSへと読み替える」ことを提唱する。これは、サラリと書いているが、実は本質的な読み替えである。

拙著『ケアしケアされ、生きていく』のなかで、「迷惑をかけるな憲法」の話を書いた。憲法にも各種条文にも書かれていない「人に迷惑をかけてはならない」を、日本国憲法よりも上位概念として護っている学生が山ほどいることを目にして、そう命名した。介護殺人も、他人の世話になりたくない、とか、他者に迷惑をかけてはならない、というこの規範意識や「迷惑をかけるな憲法」から、「家族丸抱え」に限界が来て、家族内殺人に至るのである。

この現象は確かに、「『ケアが不足していて困っている』というSOS」そのものなのだが、そう読み替えよう、というこの社会のコードはない。ただ、村上さんが長年フィールドワークをして、『子どもたちがつくる町 大阪・西成の子育て支援』(世界思想社)という著作にもまとめられた大阪の西成などでは、多くの支援者達がこの読み替えを自然にしていたのだと思う。そうしないと、虐待やセルフ・ネグレクトなど、かなりしんどい状況にある子どもやその親の苦境に対応することが出来ないからだ。そして、長年その現場に通い続け、支援者の言葉を聞き続けた村上さんだからこそ、「『人に迷惑をかけられない』という意識を、『ケアが不足していて困っている』というSOSへと読み替える」ことが出来たのだ。この命名のし直しは、ケアへの解像度をぐっと上げる効果があるし、「困難事例」を読み解く際の鍵にもなると思う。

「社会的困窮地域の子ども支援での調査を通して学んだのは、西野さんや松浦さんに限らず<かすかなSOSへのアンテナ>が地域の支援で共有されていることだ。かすかなSOSは自発性と能動性のミニマムな姿でもある。ケアの中の暴力の姿の一つは、困窮に気づかれないがゆえにケアを受け取ることができずにいることだ。SOSのかすかなシグナルを発する能動性と、シグナルを受け取る人の受動性を確保することは、ケア的な主体を確保するための最後の砦となる。」(p174)

最も困難を抱えている人ほど、それを言語的に表現出来ない。だから、援助されずに困難の悪循環に陥っている。その時に、支援する側が<かすかなSOSへのアンテナ>を持ち、それが地域の中で共有されているかいなか、によって、その困難を抱える人が放置されるか、受け止められるか、の違いが出てくる。「『ケアが不足していて困っている』というSOS」は、理路整然とした言語では語られない。冬なのに薄着であるとか、着替えがあまりなされていなそうだ、親子とも疲弊しきった顔をしている、怒鳴り散らして困惑している・・・そういう「違和感」を「かすかなSOS」と読み替えることができるか、でケア対象として受けとめるが出来る可能性がぐーんと上がってくるのである。

その上で、本書がこれまでの村上作品から一歩出て、新たな境地になっていると思う箇所について、もう少し述べておきたい。

「どこからか押しつけられた生産性でもなく隔離や排除でもなく、(個人の欲望をゆがめる)競争や管理にも頼らずに、自らのイニシアチブで自分が属するコミュニティを組み立てるほうが、おそらく僕たちは幸せになる。」(p114)

これは言われてみたらその通り、だけれど、「僕」を主語にしなかったら村上さんにも書けなかった記述だとおもう。なぜなら幸せか不幸か、は主観的な世界だからだ。そして、この村上さんの主観にごっつい共感を抱く自分がいる。

「生産性でもなく隔離や排除でもなく、(個人の欲望をゆがめる)競争や管理にも頼らずに」いるためには、その排除や競争、管理の論理そのものと真逆の者目指す必要がある。他者比較や能力主義的な何かと距離を置く必要がある。その時に村上さんは、その可能性がどこにあるかを考えて、「自らのイニシアチブで自分が属するコミュニティを組み立てる」という提案をする。その例として、友人の青木真兵・海青子夫妻がしている私設図書館ルチャ・リブロの話を例に挙げている。僕も何度か訪れ、二人と対話を重ねるなかで、たしかにあの二人が目指しているのも、その有り様だな、としっくりくる。

その上で、ケアをどんな風に変えて行けばよいのか、について出発点として次の二つをあげる。

「1,ケアを家族に、そして家族の誰か一人に閉じ込めない。ましてや主婦やヤングケアラーに押しつけない。家族に担えなくなった人を施設に閉じ込めない。ケアを可能な限り開き、分担する。
2,ケアに浸透してしまった管理と効率の追求を除去する。」(p115)

この二つも、めちゃくちゃ大切なことである。僕が20年以上、精神病院や入所施設を批判する仕事をし続けてきた。そこでの人権侵害や虐待状況の問題性を論じてきた。でも、その問題点を、こんなに端的に示すことは出来ていなかった。さすが、現象学的質的研究の第一人者は、ものごとの本質を射貫き、適切な形で概念や言語として提示するプロフェッショナルだ、と感じる。

1つめのほうは、「<広い意味のケア>は家のなかで主婦に押しつけられ、<強い意味のケア>は病院などの施設に隔離された」というこの家父長制的現実を変える提言である。ケアを中心に据えた社会に移行していくためには、「ケアを可能な限り開き、分担する」ことが大前提として必要になる。

だが、そのケアが抑圧的であれば、それは全体主義化された社会になる。だからこそ、2点目に指摘しているが、「ケアに浸透してしまった管理と効率の追求を除去する」必要がある。パターナリスティックで一方的な管理統制ではなく、この本では「応援」というフレーズを用いている(p131)。「生活を応援する」というのは、あくまでも本人に主体性が残り、その主体性が生きるように支援者も「一緒に○○する」というスタンスである。それは、こうすべきだと指示命令するabout-nessとは真逆の、共に○○するというwith-nessのスタンスである。ケアがこう読み替えられたら、相互エンパワーメント的な関係性が生まれてくる。

まだ一杯引用したいのだが、そろそろ今日の執筆のタイムリミットなので、最後にもう一点、村上さんの実存的な変化について、引用しておきたい。

「僕が一瞬感じた優遇されている側としてのいらだちは、パートナーが世界に対して日々負っているより大きな傷と怒りと鏡合わせになっている。」(p203)

実は村上さんが今回、主語を私ではなく僕にしたのは、この記述に象徴されているのだと思う。彼は、この数年間の間で新たなパートナーと生活を共にするようになり、そのパートナーから様々なことを学び続けている。その学びは、抽象化された情報処理能力の高さで処理できる内容ではない。文字通り、生身の人間とぶつかり合うなかで、身をよじるようにして相手に突きつけられる、実存的な学びである。その学びが、本書の迫力というか、彼の実存の揺さぶりに繋がり、それが村上さんのケア論を新たな地平にもたらす原動力になっている。その部分が、前作『ケアとは何か』(中公新書)との最大の違いであり、読んでいる僕にとっては最も面白い部分であった。

それは一体どういうことか? これ以上書くとネタバレになるし、本書のなかで、村上さんがパートナーから学んだこともしっかり書かれている。またその部分が本書のタイトル『傷つきやすさと傷つけやすさ』の種明かしにもなっている。なので、興味があったら、是非本書を手に取って読んで頂きたい。

精神医療の枠外から捉える「権力・支配・植民地化」

信田さよ子さんの『暴力とアディクション』(青土社)を読む。彼女の文章は大変読みやすいし、内容もめちゃくちゃ面白いのだが、読み通すのに時間がかかる。それは書かれている内容が、あまりに本質的で、かつ私たちの常識をえぐるような内容だからだ。

「家族に対する責任を放棄しながら、家長の権力だけをふりかざしてケアを要求する父親、経済的支柱である父親が倒れないようにケアを備給し支え続ける母親、両親の関心外に置かれ幼少時より親に代わって責任を負う子どもたち。父は仕事に、母は結婚生活にそれぞれ挫折し、子どもは目の前で日常的に繰り広げられる暴力的な両親の関係にさらされ続けることで、自らの存在が親の不幸の源泉ではないかという罪責観を刻印される。アルコール家族のこのような姿は、性別役割分業とプライバシー重視に貫かれた近代家族のひとつの典型のように思われる。誰もがどこかに思い当たる三者の姿ゆえに、それぞれの独立した三つの名前が必要だったのではないだろうか。」(p101)

アルコール依存症の父親と、共依存の母親、そしてアダルト・チルドレンの子ども。それぞれを別々の問題として表現するのではなく、その家族の相互作用の悪循環が極まった結果として三つの「現象」が生じている。しかも、その三つの「現象」を一つずつ因数分解して個別に理解しても、総和としての家族システムの病理にはたどり着かない。その三者がどのような関係性の悪循環に陥っているのか、どのようなパワーバランスの固着や仮の安定をしているのか。そういう力動を読み解かないと、総和としての家族の不幸をそのものとして捉えることができない。

信田さんの本はどれも、これらのダイナミクスをそのものとして捉えようとしている本だからこそ、迫力がある。しかも、それを普段の日常から切り離された「病理家族」として有徴化するのではない。そうではなく、彼女の切り口は常に、「性別役割分業とプライバシー重視に貫かれた近代家族のひとつの典型」として、「誰もがどこかに思い当たる三者の姿」として描こうとする。だからこそ、自分がアルコール依存や共依存、アダルト・チルドレンの当事者「でなくても」、その記述を読んでいたら、思い当たる家族関係の悪循環にたどり着き、グサグサときて、読みやすくて面白い文章なのに、時々に読むのが止まるのである。

「じつは日本では21世紀になるまで、家族の間に『暴力』は存在しなかった。正確に言えば、妻に『手を上げる』夫はいても、妻に暴力をふるう夫は存在しなかったのである。『法は家庭に入らず』という法の理念によって、『暴力』という判断は家庭の入り口で立ち止まらざるを得なかった。そもそも暴力という言葉には、すでに『正義(ジャスティス)は被害者にある』という価値判断が埋め込まれている。その判断の及ばない世界こそが家族だという考えは、今でも一部の人達に共有されている。家族の美風がそれによって壊されてしまうと真顔で主張する中高年男性は多い。法が適用されない=無法地帯が家庭だったのだ。」(p140)

「家庭」が「無法地帯」と言われると、何だかざわざわする。でも、この記述の通り、虐待防止法は21世紀になってようやく効力を発揮しはじめた。それまで日本に虐待や家庭暴力がなかったのではない。そうではなくて、暴力を暴力として認定しなかったのだ。妻に『手を上げる』夫に対して「暴力」だと判定しなかった。それは、信田さんによれば「『正義(ジャスティス)は被害者にある』という価値判断」と通底する。もしこの正義を被害者である妻に当てはめると、夫は「加害者」として認定される。そして、その夫による家父長的な=パターナリスティックな暴力の認定は、国家による暴力の認定と同じように否定したいことだ。それこそが「家族の美風がそれによって壊されてしまうと真顔で主張する中高年男性」の無意識・無自覚な価値前提ではないか。そういう風に彼女は踏み込んでいく。

「なぜ不介入なのか。この点に関して女性学では公的暴力と私的暴力の共謀性、密約を指摘している。国家の暴力を温存し不可視にするために、家族における暴力(家長である男性の)を温存しているという指摘である。筆者は90年代末までは目の前のDV事例とかかわりながらもがいていたが、この視点を得てまるで霧が晴れたような思いに襲われたことを思い出す。そうか、そうだったのか、と。
性暴力に関する法律も、つい最近改正されるまで明治憲法のままの内容だった。そのことにも国家の意思を痛感させられる。性にまつわる暴力や生殖に関する制度の改変において、国家の意思がもっとも露わになるのではないか。DVの問題も、加害者逮捕や公的な加害者プログラム実施には、防止法制定後20年以上経っても、相変わらず日本は及び腰なままなのである。」(p198-199)

信田さんは、独立カウンセラーとして、公的な=健康保険で支払われる精神医療の「枠外」に居続けていた。そこで「食べていく」ために、精神医療や臨床心理学だけでなく、社会学や女性学、哲学の議論もフル活用して、議論を鍛えていく。その中で、DVの被害者や加害者への自由診療のカウンセリングで見聞きする事例が、国家の暴力と相似形である事に思い至る。彼女が出会い続けてきた「夫が妻に手を上げる」というのは「私的暴力」であると認識し直すことで、「公的暴力と私的暴力の共謀性、密約」が、ありありと彼女に繋がってきた。それと共に、国家の暴力性が最も無意識・無自覚に放置されている現象として、家庭内暴力に対しての法制度の未設置や、性に関する暴力の放置を見いだした。

ぼく自身も、夫婦間のDVや子どもへの虐待の議論が90年代から増えてきたとき、社会のアメリカ化であり、アメリカと日本は違う、と思い込んでいた。でも、「ちゃぶ台をひっくり返す父」としてマンガでも映像でも絵が描かれる父親は、明らかに家庭内で暴力行使をしている。それを『法は家庭に入らず』という形で放置=無法地帯としていた、ということは、その暴力の承認や肯定である。それは、国家による暴力の承認や肯定とのパラレルであり、戦後の日本社会で第二次世界大戦を承認・肯定しようとするモーメントと相似形である、と言われると、なるほど、と頷かざるを得ない。これが信田さんの迫力である。

彼女は自由診療という保健医療の枠の外から眺め続け、現行の制度内精神医療の構造的問題をも知悉しているからこそ、自分たちはそれとは対極の有り様を目指す。

「ヒエラルキーや権威構造とは無縁のイコールパートナーとして、礼を尽くして相互リファーに徹すること。そして医療モデルとは異なる援助論に立脚し、診断的態度や用語とは別の言葉で援助する。その先に見えてくるのは、加害・被害、紛争処理・修復的司法といった問題群であり、権力・支配・植民地化といったキーワードである。」(p182)

日本の従来の制度内精神医療は、あくまでも医療モデルが基盤であり、医師が意思決定権をがっちり握り、看護師やソーシャルワーカー、臨床心理士はパラメディカル、コメディカルという名称で、脇役として据え置かれている。でも、彼女はその枠外を主戦場として、医師に頼らず意思決定の主体者であろうとした。その時に、自分の決定権を独り占めせず、「ヒエラルキーや権威構造とは無縁のイコールパートナーとして、礼を尽くして相互リファーに徹すること」を大切にしてきた。だからこそ、彼女の本を読めば、「医療モデルとは異なる援助論」が見事に言語化されている。そして、その医療モデルではない援助論には、「加害・被害、紛争処理・修復的司法といった問題群であり、権力・支配・植民地化といったキーワード」が基盤になる。

そして、僕が信田さんの本に惹かれ続けるのは、この問題群やキーワードである。精神病を個人の問題として医学モデル的に固着させれば、見えてこない問題群やキーワードである。でも、アルコール依存、共依存、アダルト・チルドレンという個別現象の関連性や連関性を、総体としての家族ダイナミクスとして眺めると、家族にそのような力動性を与える社会の歪みを捉えざるを得ない。それには、「権力・支配・植民地化」といったこの社会の抑圧体系との接点を見いださざるを得ないし、その歪みを減らし、弱毒化していくためには、治療ではなく「「加害・被害、紛争処理・修復的司法」という問題群との接点を見いだしていく必要があるのである。

というわけで、彼女の本は一冊読むと、また別の本を読みたくなる、という強烈な効果があって、これからまた何冊も注文して読み進めようと思う。重い議論で、読むのはしんどいけど、この社会の生きづらさ、生き心地の悪さの根底を理解するためには、信田さんの論考は決して外すことは出来ないことだけは、確信を持っている。