「代償」としての「男らしさ」や「学歴」

前回のブログで書ききれなかったことを書き留める。受刑者の境遇と、「魂の植民地化」は実はつながっているのではないか、という話である。

まずは、それを示唆してくれた、当該箇所を引用してみる。
「受刑者は、例外なく、不遇な環境の中で育っています。親からの虐待、両親の離婚、いじめの経験、貧困など、例を挙げればキリがありません。受刑者は、親(あるいは養育者)から『大切にされた経験』がほとんどありません。そういう意味では、彼ら確かに加害者ではありますが、『被害者』の側面も有しているのです。被害者だからと言って、人を殺したり覚醒剤に手を染めたりすることはけっして許されることではありません。しかし支援する立場になれば、加害者である受刑者の、心のなかにうっ積している『被害者性』に目を向けないといけません。このことが分かれば、最初から受刑者に被害者のことを考えさせる方法は、彼らの心のなかにある否定的感情に蓋をしてさらに抑圧を強めることになるのは明らかです。したがって、まずは『加害者の視点』から始めればいいのです。そうすることによって、『被害者の視点』にスムーズに移行できます。受刑者が『被害者の視点』を取り入れられる条件は、『加害者の視点』から始めることと言えます。」(岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』新潮新書、p119)
誤解のないように前提を言っておく。犯罪を容認する、というのではない。定めれたプロセスに基づいて刑が確定した受刑者は、罪を償うべきである。ただ、厳罰化や反省・謝罪の強要は、出所者の再犯を防ぐ方法論としては不適切ではないか、ということである。これは、アメリカの刑務所における「治療共同体」のアミティのことを取り上げたブログで、以前書いたこともある。ただ、今回付け加えるならば、反省や謝罪、あるいは厳罰化という「被害者の視点」を重視した政策が再犯抑止力として不十分な背後には、加害者が背負わされた「魂の植民地化」そのものと向き合う契機のなさがあるのではないか、という視点である。
こう書くと、「犯罪者を甘やかしているのか?」という問いが必ず起こりそうである。しかし、甘やかしている云々、という話は、処罰感情や道徳的判断など、極めて主観的・感情的色合いの濃い考え方である。本当に再犯率を減らしたい、凶悪な犯罪を減らしたい、と思うなら、感情的・道徳的な発想を超えて、犯罪の発生メカニズムそのものを眺め、それを抑止する戦略を立てる必要がある。そして、先に引用した岡本氏は、その発生メカニズムの根幹に、「加害者である受刑者の、心のなかにうっ積している『被害者性』」や「彼らの心のなかにある否定的感情」がある、と指摘する。この部分に向き合うことなく、単に厳罰や反省・謝罪を強要しても、加害者の行動変容には結びつかない、と指摘しているのだ。
「心のなかにある否定的感情に蓋をしてさらに抑圧を強めること」、これは、魂の植民地化そのものである。そのことを考えるために、拙著でも引用した深尾先生の定義を振り返っておこう。
「植民地は、ある一定の集団が、別の集団に対して、一方的に支配権、決定権を持っている状態を指し、それらが集団的にも個人的なレベルでも行使される。植民地的状況(ここでは、広義に、国家的植民地のみならず、個人間の支配―被支配関係も含む)のもとでは、被支配側は、しばしばいわれなき劣等感を押し付けられる。(略)このようにして、自分自身の属性が、否定的なまなざしで他者から眺められ、そのような処遇を受け続けることによって、魂は傷つけられ、その発露をゆがめられる。」(深尾葉子「魂の脱植民地化とは何か─呪縛・憑依・蓋」『東洋文化』八九号、二〇〇九、二一頁)
「自分自身の属性が、否定的なまなざしで他者から眺められ、そのような処遇を受け続けることによって、魂は傷つけられ、その発露をゆがめられる」。これは、児童虐待や家庭崩壊、貧困、いじめなどの「被害者」にしばしば生じる事態である。暖かい愛情で守られるはずの子供時代に、「いわれなき劣等感を押し付けられる」ことによって、魂の発露がゆがめられ、他者の支配的価値観に隷属させられる、という。その結果として、岡本さんは、大半の男性の受刑者に、愛情の「代償」がみられる、という。
「幼少期から寂しさやストレスといったものを抱えながら、それを受け止めてもらえない『心の傷』を心の奥底に秘めたまま生き続けています。幼少期から抱き続けてきた寂しさやストレスを克服するために、彼らは『男らしくあらねばならない』『負けてはいけない』といった価値観を持つことで、必要以上に自分を強く見せようとします。自分を強く見せることによって、他者に『認められること』で自分自身の愛情欲求の埋め合わせをするのです。他者から『男らしくて恰好いい』と思われることは、満たされていない彼らの愛情を求める欲求の代償となっているのです。しかし、それはあくまでも『代償』にすぎません。本当に望んでいる愛情が得られないため、彼らはますます『男らしさ』を追い求める生き方を自らに強いて他者から評価されようとします。彼らにとって、弱音を吐いたり誰かに負けたりすることは、自分が他者から認められなくなる(=愛されなくなる)ことを意味するので、絶対に弱音を吐かず、いかなる手段を用いても相手に勝とうとします。その結果として起きる最悪の行為が、犯罪なのです。」(岡本、前掲、p123)
この「男らしさ」という「代償」行為が悪循環回路にはまり、「弱音」を吐かずに勝ち続ける究極の形態が「犯罪」という形につながる。確かにその通りなのだが、ここで疑問に感じることがある。得られない愛情を埋め合わせる「代償」行為で、悪循環回路にはまりこみ、「弱音」を吐けずにその負の回路を強化しているのは、はたして犯罪者だけだろうか、という疑問である。「弱音」を吐かずに勝ち続ける「代償」に当てはまるのは、「男らしさ」だけだろうか。実は、先の岡本さんの文章のうち、「男らしさ」を「学歴」に変えても、まったくもって説得力あるストーリーとなる。
「本当に望んでいる愛情が得られないため、彼らはますます『学歴』を追い求める生き方を自らに強いて他者から評価されようとします。彼らにとって、弱音を吐いたり誰かに負けたりすることは、自分が他者から認められなくなる(
=愛されなくなる)ことを意味するので、絶対に弱音を吐かず、いかなる手段を用いても相手に勝とうとします。」
「学歴」を追求しないと、勉強のことで「弱音を吐いたり誰かに負けたりする」と、他者から認められなくなる。学歴エリートはこの恐怖を常に抱いていると、「魂の脱植民地化研究」のもう一人の主導者である安冨先生も、次のように語っている。
「戦時中に『お国のために死ぬ』という『役』を果たすのが当然だと思っていた子どもたちと同様、自分のことを自由意思を持った人間ではなく、『学歴』を軸に形成される『立場』の詰め物に過ぎないという考えに支配されます。完全に『立場の奴隷』になってしまうのです。こうなると、大学合格という『役』を果たさなければ自分自身の『立場』がありません。『役立たず』になってしまうからです。」(安冨歩『「学歴エリート」は暴走する』講談社+α新書、p130)
「立場」に固執する、というのは、「学歴」であれ「男らしさ」であれ、本来は愛情の「代償」にしかすぎない。だが、その「代償」にすがることでしか、自らのアイデンティティを形成できなくなると、その「立場」の放棄は、「役立たず」に繋がる。すると、どんな手段を使ってでも、その「代償」=「立場」を死守する、という意味で、「立場の奴隷」になるのである。これは、一見すると正反対に見える、犯罪者と学歴エリートに共通する課題である。どちらも、自らの魂が、「立場」や「代償」に、「植民地化」されている(=奴隷状態になっている)のだ。
そして、そこからの「脱植民地化」の為に必要なことを、安冨先生は一言で言い切っている。
「あなた自身を『あなたの立場』から取り戻すことこそが、変革なのです。」(安冨、同上、p176)
「心のなかにうっ積している『被害者性』」や「彼らの心のなかにある否定的感情」、これらに「蓋」をして、その代わりに「男らしさ」や「学歴」という「代償」を与えることで、悪循環回路が暴走していくのであった。であれば、「代償」を正統化せず、「代償」の背後に隠れた、愛情の欠落や「被害者性」「否定的感情」そのものと向き合う必要がある。これは、そう簡単なことではないし、自らの「立場」をグラグラと根幹から揺さぶる、危険なことでもある。でも、自らが何の「奴隷」になっているのか、魂がどう「植民地化」されているか、に気づき、そこから、その「植民地化」という「枠組み」を外さない限り、「代償」からは自由になれない。「あなた自身を『あなたの立場』から取り戻すこと」とは、「男らしさ」や「学歴エリート」という、一見すると居心地の良い「代償」と決別して、「健全な魂の発露」を導くために、自分自身が「変革」することである。
最後に、余計な一言を。私たち自身が「魂の植民地化」にあるならば、他者、ましてや受刑者の「魂の脱植民地化」に恐怖を覚える可能性はないか。犯罪を減らす、ということは、受刑者の真の変容を支援することなくして、あり得ない。だが、受刑者の真の変容、とは、単なる厳罰化ではなく、「代償」へのアディクションを脱する為の、「魂の脱植民地化」支援が必要不可欠である。そして、その「魂の脱植民地化」に支援が必要なのは、単に受刑者だけでなく、彼らを取り締まる・裁く側である「学歴エリート」にも共通してはいないか。そして、「学歴エリート」に「魂の脱植民地化」を導く支援がない中で、受刑者にのみそのような支援を行う事への嫉妬や羨望が、「甘えている」「厳罰化を」という主張の裏側に、隠されていないか。「被害者性」や「否定的感情」に向き合うべきは、受刑者だけなのか? そのような疑問と妄想が、頭の中を駆け巡っている。

説得ではなく納得

私たちは、「常識的」「道徳的」な眼差しで判断すると、大きく問題の本質を取り逃がすときがある。とくに、「問題行動」とラベリングされる事象を前にしたとき、どのようにそれを捉えるか、で大きく異なる。ふつう、誰かが何かの「問題行動」を起こし、他者に迷惑をかけた時、それに対する反省と謝罪が求められる。だが、単なる反省や謝罪は、本質的に解決には結びつかない、とはっきり主張する本と出会った。

「反省させるだけだと、なぜ自分が問題を起こしたのかを考えることになりません。言い換えれば、反省は、自分の内面と向き合う機会(チャンス)を奪っているのです。問題を起こすに至るには、必ずその人なりの『理由』があります。その理由にじっくり耳を傾けることによって、その人は次第に自分の内面の問題に気づくことになるのです。この場合の『内面の問題に気づく』ための方法は、『相手のことを考えること』ではありません。」(岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』新潮新書 p76)
一見すると「反-常識・道徳」的な文章である。だが、実際に刑務所での矯正教育に携わり、受刑者たちの更正に成果を上げている著者の言うことには、重みがある。それだけでない、実はこのフレーズを読んで、これこそ僕自身も感じてきたことだ、と我が意を得た気持ちになった。
ブログを見返してみたら、2年ほど前に、レポートでコピーアンドペースト(コピペ)をしているのを発見した学生を指導したエピソードに基づいて、こんな文章を書いていた。
『先のコピペ学生の場合、たまたま僕が叱責型の限界を感じていて、また時間もあったので、コピペする背景には何があるか、を相手と共に探ることが出来た。だから、短時間で表面的理由(クラブが忙しい)の背後にある真の理由(どう書いていいのかわからない)という所に結びつき、それを変える為の支援(クラブの内容と似ている所に引きつけて書いてご覧)と言えば、じゃあ週末に書けますという解決策を導くことが出来た。
これを、例えば「問題行動」「反社会的行動」をする人の支援、に当てはめてみると、僕などより遙かに大変長いプロセスがあるが、ある種の共通性はあるのではないか、と思う。本人がその行為が悪い、ということが理解できていないかもしれない。あるいは「ダメだ」という言語的コミュニケーションを「叱責的解決」と理解できず、パニックになったり、暴れ出すかもしれない。言語的コミュニケーション自体が苦手な場合もあるかもしれない。でも、支援する側としては、探偵になって、何がその背景にあるのか、どういう場面でそういうことが起こるか、繰り返されるとしたら何が鍵となっているか、を探しながら、少しずつ本質に迫っていき、本人が「ダメな行為」をする事で表現したかった事を理解し、それをしないでも済む為の方策を探りだそうとする。これは、力量ある支援者なら、当たり前のようにやっている支援の王道でもある。』
そう、反省や謝罪を促す「叱責型」の「限界」とは、結局表面的な謝罪や反省に終始し、相手の行動変容に結びつかない、という点である。一方的なお説教をただ有り難く伺う、という「反-対話」的なやり方であれば、説教者の自己満足は満たせても、よもや相手の行動変容には結びつかない。それは、「説得」の論理だからである。一方、本当に相手の中に「反省」や「謝罪」の気持ちを芽生えさせたい、つまりは相手を変えたい、と思うなら、相手がまず「納得」する必要がある。そこには、一方通行ではなく、双方向の「対話」がないとはじまらない。
先に引用した岡本氏は「問題を起こすに至るには、必ずその人なりの『理由』があります」と述べる。また彼は、問題行動は「必要行動」だとも述べる。反社会的な、あるいは逸脱行動に、「必要行動」なんて書くと、また非常識だ、道徳的なセンスに欠ける、と言われるかもしれない。だが、そういう社会の常識に「反する」「逸脱」する行動を取らざるを得なかった本人側に、それなりの「理由」や「必要性」があるのだ。だからこそ、そういう行動に出るのである。それを、単に叱責したり、あるいは体罰を加えて、恐怖や脅しで「するな」と言っても、それなりの「理由」「必要性」を打ち消すことにはつながらない。本人でも、時として整理できないまま行った「問題行動」に対して、その「理由」や「必要性」を訊ね、相手と共に考えることで、「(本人が時には気づいていない)『自分自身の内面の問題に気づく』」ことが出来る。そして、この「自分自身の内面の問題に気づく」ことが出来て、初めて納得が生まれる。だからこそ、行動変容が始まるのである
僕の関わる障害者福祉の領域に引きつけて、以前のブログでは「支援という探偵業」と整理した。「問題行動」を叱責・糾弾するのは、道徳的・常識的には良いのかもしれない。そうやって、「悪いこと」が広まらないように、プロパガンダすることも、秩序形成には役に立つのかもしれない。だが、「問題行動」を実際に起こしている人に対して、その「行動」をしないような「支援」をしようとするのなら、その種のプロパガンダは百害あって一利なし、ということになる。なぜなら、それは、本人を「説得」することはあっても、本人が「納得」に基づいて行動変容する支援とは言えないからだ。逆に言えば、問題行動という「問題の顕在化」した事態(=危機)をチャンスと捉え、その背後にどのような「内面の問題」があるのかを、支援者と本人が共に掘り下げ、そこからそのような「行動」に至らない方法論を共に模索する必要があるのだ。
そのことを、以前拙著ではこんな風に書いていた。
『他人を「説得」する理論を構築する前に、お互いが「納得」する理由を「探求するプロセス」に身を投じ、変わる方が、支援目標にたどりつく上で、効率的で効果的である。』(竹端寛『枠組み外しの旅-「個性化」が変える福祉社会』青灯社、 p95)
「説得」の論理とは、自分自身が変わることなく、相手に「変われ!」と命令・指示する論理である。その論理で事が済むなら、そもそも「問題行動」は生じない。逆に言えば、「問題行動」が生じるのは、その「説得」の論理の破綻した結果である、ともいえる。であれば、その「問題行動」を減らす・なくす事に関わる支援者・教育者に求められるのは、まず相手を変える前に、自らの「説得」論理というアプローチそのものを変えることである。(これも拙著で散々検討したことでもある。例えば次のブログなど参照)
お互いが「納得」する理由を「探求するプロセス」に身を投じること。これこそ、支援者に求められる、寄り添う姿勢であろう。同じ事を、岡本氏も次のように整理している。
「真の反省は、自分の心のなかにつまっていた寂しさ、悲しみ、苦しみと言った感情を吐き出させると、自然と心の中から芽生えてくるものです。(略) 非行少年であれ受刑者であれ、問題行動を起こした者に対して支援するのであれば、反省をさせるのではなく、なぜ犯罪を起こすにいたったのかを探求していく姿勢で臨むことが、結果として彼らに真の立ち直りを促すのです。」(岡本、同上、p130)
認知症のお年寄りの徘徊、あるいは強度行動障害を持つ人の暴力、精神疾患を持つ人の自傷行為・・・それらにも共通するのは、心の中につまっていた寂しさ、悲しみ、苦しみが沸点を超えてわき出した「問題行動」である、という理解である。その時、「やってはいけない」と「説得」モードを振りかざしても、本人の切迫感には何も響かない。本人の切迫感の元にある、「寂しさ、悲しみ、苦しみ」という「内面の問題」をじっくり伺って、言語表現が出来ない相手なら共感的に受け止め、その本質を探求するプロセスに身を投じることからしか、「問題」の「解決」に向けた糸口は見つからない。説得ではなく、支援する側・される側の相互の納得でしか、人は変わらない。改めてその原則を噛みしめた一冊であった。

ファシリテーターという「御用聞き」

イギリスのコミュニティ・ワークの定番教科書に、ある中国の名言として、こんなフレーズが出てきた。

‘When excellent leaders have been at work, the people say “We did it ourselves.” ‘
直訳すれば、「ある優れたリーダーが事をなし終えたとき、住民たちは『それは自分たちがやった』と言うだろう」
出典は書かれていないが、これは言わずと知れた老子のフレーズである。久しぶりに昔読んだ解釈書をめくって当該箇所に行き当たる。
「最上の指導者は誰れも知らない。
(略)
仕事が行われ、事業がなしとげられたとき、
それはひとりでにそうなったのだと人びとは言うだろう。」
(老子 第17章「最上の指導者」 張鍾元『老子の思想』講談社学術文庫、p112)
「ひとりでにそうなった」と「自分たちがやった」とは、東洋と西洋での大きな解釈の違いだ。だが、ここではそれを強調したいのではない。大切なのは、事が成し遂げられたとき、その成果がリーダーに帰するのではなく、ひとりでにそうなった・あるいは自分たちの手で成し遂げた、と住民たちが感じるということである。この際、リーダーは一体何を成し遂げたのだろうか。そのヒントは、リーダーの力を借りながらも、住民たちが、自分たちの力で事を成し遂げ、その成果も自明のもの・自分たち自身のものである、と感じていることにある。実際には、リーダーの支援があったから、事が成し遂げられた。にも関わらず、それを自明のもの・自分自身の成果、と感じている。老子を引用した著者は、そのような存在を、’local leader’はなく、’facilitator’, ‘enabler’と表現する。「地域のリーダー」ではなく、「ファシリテーター・可能にする人」である。これは一体どういうことか?
この本の主題は、コミュニティ・ワークである。地域を活性化させる、住民たちがより良い暮らしを実現する為に、自発的な住民活動を行うことを活性化・支援することを主題としている。また、貧困層や障害者、子どもなど社会的弱者のエンパワメントと、コミュニティの中での生活改善・自発的な活動の促進を促す仕事として、コミュニティ・ワークを規定している。その時、コミュニティ・ワークを行うソーシャルワーカー(CSW)は、「地域のリーダー」ではなく、「ファシリテーター・可能にする人」であるべきだ、と言っているのだ。
もう少し現実に即して考えてみよう。
高齢者の地域包括ケアシステムや障害者の地域自立支援協議会などの、「地域福祉の(再)活性化」が国でも称揚され、専門職種の国家試験でも「地域福祉」に焦点が当てられ、アカデミズムでも議論が盛んだ。少子高齢化が進み、社会保障費が膨らむ中で、いつまでも全てのサービスを行政によって提供するわけにはいかない。地域で出来ることは地域で、と、社会保障制度改革国民会議の最終報告書でも、要支援を介護保険サービスから外し、住民たちのボランティアを活用しようと方向転換を考えている。
「要支援者に対する介護予防給付について、市町村が地域の実情に応じ、住民主体の取組等を積極的に活用しながら柔軟かつ効率的にサービスを提供できるよう、受け皿を確保しながら新たな地域包括推進事業(仮称)段階的に移行させていくべきである。 」
これに関する解説記事は、次のように伝えている。
「市町村独自の事業では、市町村の判断でボランティアやNPOを活用するなどして、地域の実情に応じて柔軟な取り組みができるようにしています。ボランティアなどを活用することで費用を抑えるとともに、きめ細かい生活支援が提供できるとしています。」
これは、現在介護保険事業として行っている、要支援者へのサービスを、ボランティアやNPOの活動に切り替える事で、「費用を抑える」ことを目的にしている。下手をすれば、ボランティア動員論にも繋がる。地域福祉は、常にこのような「ボランティア動員論」の危険性を孕んでいる点を忘れてはいけない。(このことは以前にブログでも書いた)
で、僕が今回書きたいのは、この国が主導する、介護保険の費用抑制の為の「動員型ボランティア」のことではない。動員型であれば、あくまでも動員主体である行政が、「地域のリーダー」として、表面上は「お願い」という形を取っても、実質的には国の意向を上意下達するトップダウン的に住民を「動員」する構図である。だが、僕はこの「動員」型が21世紀の時代、上手くいくわけない、と思っている。ただでさえ、動員型半強制コミュニティである町内会・自治会、PTA活動などは、その曲がり角に来ている。それと同様の手法を、要支援の介護サービスに創設したって、うまくいくはずがない。
その理由は、動員型半強制コミュニティは、人びとの「納得」ではなく、一方的「説得」の論理で動いているからである。多くの人は、強圧的な「説得」では動かない。
もし、住民の「納得」に基づいて地域福祉を展開しようと考えるなら、そこで求められるのは、トップダウン的(=説得的)な「ローカル・リーダー」ではなく、対話的なファシリテーターなのである。
地域支援を行う存在として、保健師や社会福祉士、ケアマネージャーなどの存在がいる。地域包括支援センターや基幹相談支援センターなどが、地域作りの拠点として期待されている。また近年、社会福祉協議会がコミュニティー・ソーシャルワーカーを置いて、住民活動の組織化支援を行っているところもある。だが、それらの組織・人材が、地域福祉のリーダー的な動きを果たしている限り、行政や社協が描く「あるべき姿」に近づけるために住民を「活用する」という意味で、あくまでも「ボランティア動員論」に繋がりかねない。
一方、先のイギリスの本に戻れば、本来のコミュニティ・ワークとは、「ボランティア動員論」ではなく、「住民たちがより良い暮らしを実現する為に、自発的な住民活動を行うことを活性化・支援すること」である。一方的な「説得」ではなく、住民の「納得」に基づく「自発的な住民活動」の活性化支援に必要なことは何か。それは、国や自治体が「あるべき姿」を一方的に規定するのではなく、あくまでも「住民の声」に基づいて「あるべき姿」をかんがえる、ということである。言い換えれば、国や自治体の「あるべき姿」を住民に教育・指導するのではなく、あくまでも住民の声に「御用聞き」として耳を傾ける、ということである。
ようやっと表題の、ファシリテーターという「御用聞き」、という部分に繋がってきた。
ファシリテーターとは、触媒役である。住民たちが、自分たちが安心して地域の中で住み続けるために、様々な課題や問題を意識化する。その意識化支援を行いながら、自分たちなら何が出来るか、を考え、実践していく支援である。その前段階として、まず住民の様々な本音に耳を傾け、その中から地域課題を析出するお手伝いをする。行政側の「あるべき姿」を指導・教育する、という一方的、「説得的」視点ではなく、住民活動につながる「本音」を探り出し、その中から住民自らが活動化・組織化できることを一緒に探る、という「対話的」姿勢。それが、ファシリテーターという「御用聞き」に求められている課題なのである。
いま、日本のCSWは、どちらの姿勢を向いているのだろうか?
国や行政の「御用聞き」ばかりしていないだろうか? 住民の率直な本音にこそ、じっくり向き合っているだろうか?
国が「住民主体の取組等を積極的に活用しながら」というとき、そこには「ボランティア動員論」という問題に突き当たる可能性は、多分にある。ゆえに、実際に「住民主体の取組」を支援する専門家こそ、専門家主導で住民を「教育」「説得」する専門家なのか、当事者主体で住民の「御用聞き」をするプロセスを通じて住民の「納得」に基づく自発的活動を促す専門家なのか、という立ち位置が問われているのだ。
「ある優れたリーダーが事をなし終えたとき、住民たちは『それは自分たちがやった』と言うだろう」
この発言は、「説得」ではなく、「納得」からしか、生まれな

「読書と私」論

面白そうな書評や読書論などは、なるべく読むようにしている。僕自身の好みには、かなりの偏りがあるし、狭隘な世界観を少しでも拡げたい。そうは言っても読める本にも限界がある。ならば、他人がセレクトしてくれた書評に目を通すだけで、「当たり」読書に近づける可能性が高まる。

で、新聞やツイッター、ネット、本などの様々な書評・読書論に目を通すが、最近の一番のヒットは、楠木建さんの『戦略読書日記』(プレジデント社)だった。その理由は、単なる書評を超えた、「何のために、何を考えて読むのか」というメタ読書論、ないし「読書と私」論が展開されていて、その部分がすごく僕自身にとっても学びになった。
「論理を獲得するための深みとか奥行きは、『文脈』(の豊かさ)にかかっている。経営の論理は文脈の中でしか理解できない。情報の断片を前後左右に広がる文脈の中に置いて、初めて因果のロジックが見えてくる。紙に印刷されたものでも電子書籍でもよい。あるテーマについてのまとまった記述がしてあるものを『本』と読むならば、読書の強みは文脈の豊かさにある。空間的、時間的文脈を拡げて因果論理を考える材料として、読書は依然として最強の思考装置だ。」(p17)
地頭の良い人の特徴として、「因果のロジック」を見破るセンス良さがある、と楠木さんは指摘する。そして彼は、そのセンスを、「文脈に埋め込まれた、その人に固有の因果論理の総体」(p15)と整理する。その「因果論理の総体」という「引き出しの多さ」が多ければ多いほど、より沢山の文脈に対応可能となり、柔軟な経営も可能になる、と。
この「因果論理を考える」プロセスというのは、何も経営でのみ必要とされる技術ではない。福祉現場でも、もちろん必要不可欠なものである。
例えば、「ゴミ屋敷」問題を例に出してみよう。家の中だけでなく、庭や道路にまで、溢れるほど、一見すると「ゴミ」に見える何かを溜め込んでいるお宅のことを、「ゴミ屋敷」と言ったりする。そして、近所迷惑だから、と苦情が来ても、本人は「ゴミではない」「何を溜めようが本人の自由だ」と言われ、近隣との間でトラブルになったりする。あるいは、町内会総出でそのゴミを片付けたとしても、数ヶ月でまた元の木阿弥に戻ったりする。
この時、そのような「ゴミ屋敷」の住民に対して「専門家」ほど、「○○障害(人格障害、認知症・・・)じゃないの?」と安易なラベリングをして「わかったふり」をしやすい。でも、そういう「病名」や「障害名」のラベリングをしたところで、その問題は何も解決しない。むしろ、ラベルを貼られた側からすると、その種の「専門家」は、自分の生き方を否定する存在と感じられ、反発心が強くなるばかりだ。
一方で、「引き出しの多い」専門家なら、安易なラベルを貼らず、ゴミを溜める当人の「内在的論理」に着目する。その人の人生という「文脈に埋め込まれた、その人に固有の因果論理の総体」、つまりその人が「ゴミを溜める」「センス」という「因果論理の総体」をつかみだそうとする。すると、「ゴミを溜める人はだらしない(汚い、良くない・・・)」という規範論や道徳論で「わかったふり」をすることなく、その人がその道徳論を知った上で、敢えてゴミを溜めるという選択肢を選んだ、その「文脈」が見えて来る。
もし、本当に「困難事例」を解決したいと思うのなら、その「困難事例」とカテゴライズされる人・家庭の「文脈に埋め込まれた、その人に固有の因果論理の総体」を掴まないと、相手との波長は合わない。そして、波長を合わせることなしに、こちらから勝手に解決策を示しても、それは「説得」であって、相手の「納得」を導き出せない。さらに言えば、相手の内在的論理が変容するためには、相手との信頼関係を構築し(=波長を合わせ)た上で、相手の「納得」を導き出さないと、「文脈」そのものを動かすことは出来ない。そして、多様な困難を抱えた人の「文脈」を読み解き、波長を合わせ、その因果論理を想像するためには、読み解く側ができる限り様々な「因果論理の総体」という「引き出し」を知っておく必要がある。そして、それが可能になるのが、「読書」なのである。(僕自身も、この「ゴミ屋敷」の内在的論理については、一冊の良いルポタージュから多くを学んだ。)
このように、楠木さんの本の中では、ある本の魅力を取り上げながら、彼がそこからどのような「因果論理」をつかみ取り、それが彼の考える「戦略」や「経営」の文脈とどう繋がっているのか、を読み解いていく。まさに、「読書と私」論の王道を行く、非常に興味深いストーリーが各章を貫いている。また、紹介される本たちも、僕にはご縁がなかったジャンル・筆者・内容のものばかりで、気づいたら16冊、密林でポチっていた。それだけでも、随分「お買い得な本」である。そして、僕自身にとって、大いに励まされたのが、以下の記述であった。
「僕がやっているのは『経営学』じゃなくて、『経営論』です。 (略) 理論(セオリー)じゃなくて論理(ロジック)を考えるのが僕の仕事だと心得ている。論理というのは因果関係についての洞察。一方の理論とは再現可能で一般性が高い因果関係についての法則を意味している。理論と論理がどっちがエラいかという話ではない。僕は論理を考えるほうを仕事として選択しているということだ。この『戦略読書日記』もそうなのだが、ロジックというのは、『僕はこのように考えますが、いかが?』『こう考えたらどうでしょう』という話であり、科学的理論が重視する再現可能性についてはいたって腰が低い。セオリーと違って、ケース・バイ・ケースが前提だから、一般性には欠ける。」(p406)
この記述に触れて、にんまり笑ってしまった。なぜなら、僕がやっている仕事も「福祉社会学」「社会福祉学」じゃなくて、「福祉社会論」「社会福祉論」なのだ。(そういえば、初めての単著の副題も、無意識に学を付けず、「福祉社会」としていたっけ。)
僕自身も、福祉という領域で、「理論(セオリー)じゃなくて論理(ロジック)を考える」
ことを生業にしている。福祉現場でフィールドワークをしたり、アドバイザーとして関わっていても、常にその「文脈」を読み、その現場の「因果論理の総体」をつかみだそうとしている。でも、そうやって掴みだした何かが、どうも「理論」と一致せず、しっくりこないなぁ、と不全感を感じていた。だが、それは「セオリーと違って、ケース・バイ・ケースが前提だから、一般性には欠ける」と開き直ればいい。とはいえ、「因果関係についての洞察」の確度が深まれば、それはそれで現場に有用だし、価値ある研究にもなり得る。そのような「社会論」「福祉論」を生み出す事が出来て、現場の叡智に少しでも貢献出来れば、それはそれとして、一つの仕事になり得る。そのようなスタイルのことを、楠木さんは「芸風」と表現する。
「芸風はただ一つ。仕事でプロとして生きていくことは、そもそも自分の芸風と心中するということだ。」(p429)
そう、僕は福祉現場において、「理論(セオリー)じゃなくて論理(ロジック)を考える」のが好きな「芸風」なのだ。そして、それを「仕事でプロとして生きていく」ということを選んだし、幸いにもその「芸風」で暮らせている。ならば、「自分の芸風と心中する」くらい、自らの「芸風」に磨きをかけなければ、プロとして失格だ。そのためには、僕自身が今、そしてこれから関わる福祉現場において、「因果論理の総体」をつかみ取り、そのロジックに関する洞察力をさらに深めていく必要がある。ようは、「センスを磨け」の一言に尽きる。そして、センスを磨くためには、「戦略的な読書」に励むのが、一番の近道なのだ。
楠木さんの「読書と私」論は、計らずしも僕自身の「読書と私」論を深めてくれるきっかけを与えてくれた。