「読書と私」論

面白そうな書評や読書論などは、なるべく読むようにしている。僕自身の好みには、かなりの偏りがあるし、狭隘な世界観を少しでも拡げたい。そうは言っても読める本にも限界がある。ならば、他人がセレクトしてくれた書評に目を通すだけで、「当たり」読書に近づける可能性が高まる。

で、新聞やツイッター、ネット、本などの様々な書評・読書論に目を通すが、最近の一番のヒットは、楠木建さんの『戦略読書日記』(プレジデント社)だった。その理由は、単なる書評を超えた、「何のために、何を考えて読むのか」というメタ読書論、ないし「読書と私」論が展開されていて、その部分がすごく僕自身にとっても学びになった。
「論理を獲得するための深みとか奥行きは、『文脈』(の豊かさ)にかかっている。経営の論理は文脈の中でしか理解できない。情報の断片を前後左右に広がる文脈の中に置いて、初めて因果のロジックが見えてくる。紙に印刷されたものでも電子書籍でもよい。あるテーマについてのまとまった記述がしてあるものを『本』と読むならば、読書の強みは文脈の豊かさにある。空間的、時間的文脈を拡げて因果論理を考える材料として、読書は依然として最強の思考装置だ。」(p17)
地頭の良い人の特徴として、「因果のロジック」を見破るセンス良さがある、と楠木さんは指摘する。そして彼は、そのセンスを、「文脈に埋め込まれた、その人に固有の因果論理の総体」(p15)と整理する。その「因果論理の総体」という「引き出しの多さ」が多ければ多いほど、より沢山の文脈に対応可能となり、柔軟な経営も可能になる、と。
この「因果論理を考える」プロセスというのは、何も経営でのみ必要とされる技術ではない。福祉現場でも、もちろん必要不可欠なものである。
例えば、「ゴミ屋敷」問題を例に出してみよう。家の中だけでなく、庭や道路にまで、溢れるほど、一見すると「ゴミ」に見える何かを溜め込んでいるお宅のことを、「ゴミ屋敷」と言ったりする。そして、近所迷惑だから、と苦情が来ても、本人は「ゴミではない」「何を溜めようが本人の自由だ」と言われ、近隣との間でトラブルになったりする。あるいは、町内会総出でそのゴミを片付けたとしても、数ヶ月でまた元の木阿弥に戻ったりする。
この時、そのような「ゴミ屋敷」の住民に対して「専門家」ほど、「○○障害(人格障害、認知症・・・)じゃないの?」と安易なラベリングをして「わかったふり」をしやすい。でも、そういう「病名」や「障害名」のラベリングをしたところで、その問題は何も解決しない。むしろ、ラベルを貼られた側からすると、その種の「専門家」は、自分の生き方を否定する存在と感じられ、反発心が強くなるばかりだ。
一方で、「引き出しの多い」専門家なら、安易なラベルを貼らず、ゴミを溜める当人の「内在的論理」に着目する。その人の人生という「文脈に埋め込まれた、その人に固有の因果論理の総体」、つまりその人が「ゴミを溜める」「センス」という「因果論理の総体」をつかみだそうとする。すると、「ゴミを溜める人はだらしない(汚い、良くない・・・)」という規範論や道徳論で「わかったふり」をすることなく、その人がその道徳論を知った上で、敢えてゴミを溜めるという選択肢を選んだ、その「文脈」が見えて来る。
もし、本当に「困難事例」を解決したいと思うのなら、その「困難事例」とカテゴライズされる人・家庭の「文脈に埋め込まれた、その人に固有の因果論理の総体」を掴まないと、相手との波長は合わない。そして、波長を合わせることなしに、こちらから勝手に解決策を示しても、それは「説得」であって、相手の「納得」を導き出せない。さらに言えば、相手の内在的論理が変容するためには、相手との信頼関係を構築し(=波長を合わせ)た上で、相手の「納得」を導き出さないと、「文脈」そのものを動かすことは出来ない。そして、多様な困難を抱えた人の「文脈」を読み解き、波長を合わせ、その因果論理を想像するためには、読み解く側ができる限り様々な「因果論理の総体」という「引き出し」を知っておく必要がある。そして、それが可能になるのが、「読書」なのである。(僕自身も、この「ゴミ屋敷」の内在的論理については、一冊の良いルポタージュから多くを学んだ。)
このように、楠木さんの本の中では、ある本の魅力を取り上げながら、彼がそこからどのような「因果論理」をつかみ取り、それが彼の考える「戦略」や「経営」の文脈とどう繋がっているのか、を読み解いていく。まさに、「読書と私」論の王道を行く、非常に興味深いストーリーが各章を貫いている。また、紹介される本たちも、僕にはご縁がなかったジャンル・筆者・内容のものばかりで、気づいたら16冊、密林でポチっていた。それだけでも、随分「お買い得な本」である。そして、僕自身にとって、大いに励まされたのが、以下の記述であった。
「僕がやっているのは『経営学』じゃなくて、『経営論』です。 (略) 理論(セオリー)じゃなくて論理(ロジック)を考えるのが僕の仕事だと心得ている。論理というのは因果関係についての洞察。一方の理論とは再現可能で一般性が高い因果関係についての法則を意味している。理論と論理がどっちがエラいかという話ではない。僕は論理を考えるほうを仕事として選択しているということだ。この『戦略読書日記』もそうなのだが、ロジックというのは、『僕はこのように考えますが、いかが?』『こう考えたらどうでしょう』という話であり、科学的理論が重視する再現可能性についてはいたって腰が低い。セオリーと違って、ケース・バイ・ケースが前提だから、一般性には欠ける。」(p406)
この記述に触れて、にんまり笑ってしまった。なぜなら、僕がやっている仕事も「福祉社会学」「社会福祉学」じゃなくて、「福祉社会論」「社会福祉論」なのだ。(そういえば、初めての単著の副題も、無意識に学を付けず、「福祉社会」としていたっけ。)
僕自身も、福祉という領域で、「理論(セオリー)じゃなくて論理(ロジック)を考える」
ことを生業にしている。福祉現場でフィールドワークをしたり、アドバイザーとして関わっていても、常にその「文脈」を読み、その現場の「因果論理の総体」をつかみだそうとしている。でも、そうやって掴みだした何かが、どうも「理論」と一致せず、しっくりこないなぁ、と不全感を感じていた。だが、それは「セオリーと違って、ケース・バイ・ケースが前提だから、一般性には欠ける」と開き直ればいい。とはいえ、「因果関係についての洞察」の確度が深まれば、それはそれで現場に有用だし、価値ある研究にもなり得る。そのような「社会論」「福祉論」を生み出す事が出来て、現場の叡智に少しでも貢献出来れば、それはそれとして、一つの仕事になり得る。そのようなスタイルのことを、楠木さんは「芸風」と表現する。
「芸風はただ一つ。仕事でプロとして生きていくことは、そもそも自分の芸風と心中するということだ。」(p429)
そう、僕は福祉現場において、「理論(セオリー)じゃなくて論理(ロジック)を考える」のが好きな「芸風」なのだ。そして、それを「仕事でプロとして生きていく」ということを選んだし、幸いにもその「芸風」で暮らせている。ならば、「自分の芸風と心中する」くらい、自らの「芸風」に磨きをかけなければ、プロとして失格だ。そのためには、僕自身が今、そしてこれから関わる福祉現場において、「因果論理の総体」をつかみ取り、そのロジックに関する洞察力をさらに深めていく必要がある。ようは、「センスを磨け」の一言に尽きる。そして、センスを磨くためには、「戦略的な読書」に励むのが、一番の近道なのだ。
楠木さんの「読書と私」論は、計らずしも僕自身の「読書と私」論を深めてくれるきっかけを与えてくれた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。