関西で市民活動・地域福祉活動を続けておられる老舗の一つ、寝屋川市民たすけあいの会の機関誌「つなぐ」で「連載 枠組み外しの旅」を続けさせて頂いている。そこで、子どもが産まれて以来、育児日記のような感じで書き続けている。備忘録的に貼り付けておきます。
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「想定外」の世界 (2017年2月)
2017年1月、子どもを授かった。先の見えない不妊治療に苦しんだ上での、やっと出逢えた宝物である。父親になった僕は、子どもの誕生以前から、様々な「想定外」に遭遇し続けている。
そもそも予定日を超えて1週間以上経っても妻は陣痛が始まらなかった。予定日あたりの仕事は入れずに待機していた僕も、さすがに授業も始まるし、慌て始める。ちょうど授業が終わる直前のタイミングで、育児休暇を取らずとも何とか乗り越えられる、と思っていたのだが、最初からアテが外れる。
それだけではない。子どもが産まれた後も、目まぐるしく変化し続ける事態に、ついていくのが必死な日々。これまでは、仕事も家庭も、ある程度の見通しを立て、早めに準備し、〆切を前倒しすることで、計画的に対応してきた。だが、従来の計画や予想では全く対応出来ない、見通しのきかない世界に放り込まれる。地図もコンパスもない大海原をカヌーで漕ぎ出すような、必死のパッチ、の日々。
このような想定外の日々に直面すると、「相談」や「支援」の有り難さや課題が、受ける側としてリアルに迫ってくる。例えば病院スタッフからの様々な説明。「する側」にとっては「日常的に理解でき、慣れている語句」だから、滑らかにパパッと説明される。だが、全く「想定外」のことでパニクっている僕には、一つ一つの言葉の意味がうまく飲み込めなかったり、説明量が多すぎて、すんなり理解できなかったりする。その時、「質問しても良いですか」と質問すること自体も、気後れしやすい。
ただ、運が良かったのは、我が家がお世話になった某大学病院の看護師の皆さんは、全般的に教育がしっかりされていて、僕のようなあれこれ質問する家族にも、実に丁寧に答えてくださったこと。「想定外」の混乱の中で、慌てて焦っている患者や家族にとって、じっくり丁寧に説明してくれることや、こちらの心配や不安にも時間を掛けて耳を傾けてもらえると、どれだけ安心できるだろう。そのことを、原則論ではなく実態として感じたのが、今回の「想定外」のプロセスの中から学びつつあることである。
あと、もう一つ「想定外」と言えば、「不惑」の年を越えたのに、惑いまくっている自分自身。家事を完璧にこなそうとして一杯一杯になったり、子どもと向き合うだけで疲れ果てたり。様々な「至らなさ」「愚かさ」「未熟さ」に改めて遭遇している日々でもある。
「助けてくださいと言えたときに、人は自立している」
これは『生きる技法』(青灯社)に書かれた名言で、ゼミ生にもこれ見よがしに伝えて来たが、今やっと、この言葉をちゃんと言える自分を発見しつつある。
おちびや妻と共に、父は新たな『枠組み外し』の旅に漕ぎ始めた。(続)
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「イクメン」の言葉の裏で (2017年4月号)
子どもが産まれた後、生活リズムが激変する。有り難いことに大学教員は裁量労働制で、しかも1月に子どもが産まれてから2ヶ月は、授業も無いので在宅勤務が可能である。ただ書斎に籠もるのでは、母子の「見守り支援」が出来ないので、食卓にノートPCを置いて、最低限度の資料だけ書斎から持ち込んでの在宅勤務生活。それも、家事や育児の合間を縫って、の文字通りの分刻みの生活である。この原稿だって、子どもをスリングに入れて、妻が風呂に入っている間に一気呵成に書き上げる。日々、そんな生活に突入した。
この経験をしてみて、ワーキングマザーが本当に偉大である、としみじみ感じた。家事や育児はできる限り僕も分担しているが、母乳を与えるという重労働は僕には変わることが出来ない。その重労働をしながら3ヶ月で職場復帰をするワーキングマザーは、とてつもないエネルギーを使っているのだ、と痛感する。
あと、僕も家事育児の分担をしていると、「イクメンですね」と褒められる場面が多いのだが、これは大きな落とし穴。知り合いのワーキングマザーが異口同音に語るのが、「父と違い、そもそも母は家事育児をして当たり前で、少しでも至らない部分があれば減点主義なのだから」ということ。
父親の家事育児割合が今でも低い日本社会では、その役割分担をするだけで男性は「加点評価」される。一方全てを担うのが「当たり前」とされてきた女性は、逆に「減点評価」の眼差しを、特に同じ女性から受け続ける、というのだ。そう思うと、「イクメン」という言葉自体、随分生ぬるい・男性を甘やかす言葉なのかもしれない。
そのことを象徴するのが、ある働くママの先輩から頂いたメールの一節。
「家事育児と地域活動の主責任者はママがしているうえ、例えばパパは週末趣味で一人で遊びにいくのも、『仕方ないなぁ』なんて許して怒らないフルタイムママに対して、私と親友は頻繁に怒りトークしています。」
そう「イクメン」をしているのだから、地域活動をしなくても、週末遊びに出かけても許されてしまう。これは、男性の加点主義ゆえであり、それが許されるのは、「そんなことで目くじら立てるなんて」と同じ女性に揶揄される女性の減点主義ゆえ、なのである。
つまり家事育児を分担するのは当たり前で、余暇や文化活動、地域活動もちゃんとイコールパートナーとしてできる限り均等な役割分担が出来て始めて、「イクメン」と名乗る資格があるのだ。いや、そもそもそんな愛称でちやほやされる時点で、まだまだ日本の男子は甘やかされ過ぎなのかもしれない。
スリングで子どもが寝ている合間に、そんなことをPCにせっせと打ち込む父ちゃんであった。(続)
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「効率」という呪縛(2017年8月号)
子どもが生まれて半年。この間、生活が変わることは「想定内」だったが、全く「想定外」の事態に遭遇している。それは、「枠組み外し」を生きる僕にとっては、新たな「枠」との闘いの始まりを意味する。その枠はどうやら「効率」「生産性」であるようだ。
子どもを抱っこしながら、新聞やスマホをみようとした。妻に注意され、一瞬イラっとしたのだが、その後にふと気づいた。「どうして子どもと共にいる時間に、わざわざ他の事をしようとするのだろう」と。あるいは子どもと一日過ごした後、「今日一日、何も出来ていない」とつぶやいて、同じ疑問を持った。「子どもとの時間を過ごす」ことが、どうして「何もしていない」になるのか、と。
そこから根本的な問いが浮かぶ。僕にとって「すること」とは、何らかの「生産」「活動」だった。授業や講演、論文書きは、全て「生産する」ことである。また昨年まで休みの日に打ち込んだ合気道や登山、ランニングも「活動する」である。こういった「する」ではなく、その場で時を共にする、という意味での「ある・いる」を、僕は楽しんで来ただろうか? 「生産性」や「効率」を暗黙の前提とするあまり、その枠の外を無視しているのでは、と。
その問いは、僕自身をぐらぐら揺らせた。15年前、博士論文公聴会の際に「業績が少ない」ことを問題視されて以来、それがトラウマになった。12年前、大学教員になった後、「生産性」や「仕事の効率」に関する本を読みまくった。必死に論文を書き、業績を増やす事を至上命題としていた。その結果、ある程度の生産性と効率の良さを身につける事が出来た。だが、それが「身についた」がゆえに、一見すると非効率で「すること」に結びつかない(非生産の)時間を大切に生きていない自分がいることに気づいた。子どもとの時間を大切にしようとするならば、時には生産性や効率と距離を置くことも大切だ。だが習慣的に新聞やスマホを持とうとする自分を発見し、改めて「生産性」や「効率」の呪いに気づいたのだ。さて、どうしたものか。
とりあえず、実践するしかない。手始めに労働時間の質と量に自覚的になり、労働時間以外はしっかり子どもと「いること」を楽しみたい。そこでまず直近の日々の労働時間を計算すると、週40時間労働は遙かに超えている。今年は仕事を減らし、休みを増やして家事育児の分担をしている「つもり」だったが、データでみると全然「効率」的ではない。労働時間の可視化は直近の大きな課題だ。
子育てでは、子どもと共に楽しもうと、少しずつモードを変えつつある。家ではスマホやPCの時間を減らし、子どもと遊ぶ時間を大切にし始めたところだ。子どもが産まれて半年、お父ちゃんの生き方に関する新たな枠組み外しは、やっと始まったばかりだ。(続)