「行き当たりばったり」ではなくて

 

昨日は東京で研究会。ネタは福祉国家。ここしばらく、気になって「にわか勉強」「ながら勉強」を続けているテーマである。ま、実質的にはいつもギリギリになって、の「付け焼き刃」的お勉強なのだけれど。

土曜日、オープンキャンパスが終わった後のジムで、「積ん読」状態だった社会学の大先生による福祉国家論を読みながら、エアロバイクをこぎ進める。政治学系統の学者が書く福祉国家論より、僕はこっちのほうが遙かに理解しやすい。以下、シンボリックに戦後日本の福祉国家の変遷をまとめた部分を引用してみる。

「戦後日本の福祉国家化は、敗戦の翌年に公布された日本国憲法第25条によっていわば道路だけ開通したものの、その道路に走らせる福祉国家という自動車を作る努力は、それから15年たった1961年までなされなかったので、道路は遊休設備にとどまっていた。やっと1961年からこの道路の上を福祉国家という自動車が走るようになり、さらに1973年にその自動車は高性能の新車と取り替えられた。ところがその直後に石油危機が到来したために、自動車のガソリンが給油切れとなり、この自動車を走らせるかどうかについて、国家的統一意志が解体してしまった。1990年代に、福祉国家推進派がゴールド・プランと介護保険という新車種を製造したけれども、福祉国家解体派が強くなりつつある現段階では、今後果たして国家予算という給油が続くかどうかが危ぶまれているのが現状である。」(富永健一『社会変動の中の福祉国家』中公新書 p196)

1961年というのは、国民皆保険と国民年金が整った年である。たった戦後16年で全国民をカバーする事が可能だった背景には、高度成長の恩恵が大きい。そして、田中内閣時代の「日本列島改造論」が叫ばれた1973年、老人医療費の無料化や生活保護の扶助基準引き上げ、年金の物価スライド制などが制定され、「福祉元年」とも呼ばれる。「ところがその直後に石油危機が到来したために、自動車のガソリンが給油切れとな」ったのが、最大の不幸。それまで二桁成長を続けてきた事を背景に、イケイケドンドン的に「福祉ばらまき論」を展開したのだが、経済が世界的に萎縮し、「福祉国家の危機」が叫ばれた70年代おわりには、早速その「危機」を輸入してしまう。そして、実質的な底上げが不十分なまま、「家族の相互扶助」「民間活力の活用」「ボランティアの振興」を端とした「日本型福祉社会論」へと方針転換。これは「小さな政府論」への序曲となっていった。

ただ、この「日本型福祉社会論」は「日本の伝統に基づいた」などとよく誤解されているが、そうではないことを、別の論者はわかりやすく整理している。

「『男性稼ぎ主』型の生活保障システムでは、壮年男性にたいして安定的な雇用と妻子を扶養できる『家族賃金』を保障するべく、労働市場が規制される。それを前提として、男性の稼得力喪失というリスクに対応して社会保険が備えられ、妻子は世帯主に付随して保障される。家庭責任は妻がフルタイムで担うものとされ、それを支援する保育、介護等のサービスは、低所得や『保育に欠ける』などのケースに限って、いわば例外として提供される。(中略)日本の『男性稼ぎ主』型については、それが『伝統的』なものではなく、高度成長期以降に導入され、1980年代に仕上げられたものであることに、注意しなければならない。」(大沢真理 2007 『現代日本の生活保障システム』 岩波書店:54-56

これは富永氏の整理と一致するところだ。1961年にようやく福祉国家として走りはじめ、1973年にバージョンアップするものの、長続きせずに1982年から「福祉見直し」へと突入する。そして、当時の崩壊する直前の「イエ制度」や「地域の相互扶助コミュニティ」に依存する形での「日本型福祉社会論」を張り、なんとか政府の介入を縮小する形で(「○○に欠ける」=残余的に)社会サービスが作り上げられる。その「男性稼ぎ主」型として、20世紀終わりまで引っ張ってきた、というのである。

富永氏は2001年の段階で、「今後果たして国家予算という給油が続くかどうかが危ぶまれている」と予言していたが、それは見事に的中してしまう。経済財政諮問会議が説く社会保障費の削減は、まさに「ガソリンが不足していますから福祉分野にターゲット化して、給油制限をします」という宣言である。介護保険も結局のところ、主婦パート並みに低賃金を用いて「民間活力の活用」をしている。また、要介護認定の支給限度額は、在宅であれば家族の支援を前提にした「家族の相互扶助」の思想は脈々と残り続けている。

「現在の『参加型』福祉社会モデルの制度設計としての『多元的』介護サービス供給システムは、その機能の過程で在宅介護労働に対する『女性役割』『非専門的労働』『低賃金不安定労働』といった社会的認知の相互循環関係を創出し、それらの『一連の社会的認知』が維持・再生産されることに大いに加担しているのである。」(森川美絵 1998 「『参加型』福祉社会における在宅介護労働の認知構造」『ライブラリ相関社会科学5 現代日本のパブリック・フィロソフィ』サイエンス社:414

森川氏が整理するように、90年代は「参加型福祉社会」と言われたが、日本型福祉社会の三要素をうまく溶け込ませた社会政策、と見てとることができる。そのプラットフォームの延長戦上に、「介護の社会化」といわれた介護保険があり、その制度に近づける形での障害者自立支援法が形成されていくのである。そんな90年代を大沢氏はこう振り返る。

90年代の日本の社会政策は、男女の就労支援と介護の社会化という一筋の両立支援(スカンジナビア)ルート、労働の規制緩和の面では市場志向(ネオリベラル)ルート、不況のもとで女性と青年を中心に非正規化が進み労働市場の二重化が強まるという意味の「男性稼ぎ主」(保守主義)ルートを混在」(大沢200789

この「混在」に対して、富永氏は厳しい整理をしている。

「日本型福祉国家は『ハイブリッド型』であるということになろう。しかしこのハイブリッド型というラベルは、日本にとってけっして名誉なものではない。なぜなら、それはこれまでの日本が、福祉国家化についての明確な長期的政策目標をもたず、その場その場で行き当たりばったりにやってきた結果を意味しているからである。」(富永2001210)

混在、あるいは交配(ハイブリッド)という考えは、「行き当たりばったり」の結果だ、という老師の言葉通り、2003年あたりから政府はしきりに「燃料切れ」のサインを出し、高齢者福祉政策の抑制に舵を切り始めている。そういう意味では、「男性稼ぎ主」の終身雇用も怪しくなり、ネオリベラルルートでは格差社会も助長され、かといって増税と裏表の両立支援ルートも選挙前には言いづらい、という八方ふさがり状態なのかもしれない。こういう実情では、次の言葉が僕自身には実にスッと入ってくるのだが・・・

「(福祉サービスの家計内生産を外部化する)選択に直面する時に、間違いなくアメリカ型を選択してしまうのが、典型的日本人の癖である。しかしながら、アメリカには低賃金労働者がいるために家計生産の外部化が市場において機能しうるのであるし、なによりも「いくつかの国(たとえば、アメリカ)を除いて、ほとんどの社会サービスの成長は公共セクターのなかで起きている」という先進諸国の経験則を、われわれは知っている。ここで社会サービスとは、「保健、教育、一連のケア提供活動(たとえば、保健や家事支援)」が含まれ、これはまさに、家計で生産される福祉サービスの外部化のことである。ところが日本は、未だに、先進国の経験則に反した報告に進もうとする典型的日本人好みの選択をしようとしているようにみえる。しかしながらそうしたアメリカ型の方向では、労働者保護立法を緩め取り去り-いわゆる労働市場の規制緩和を図ることによって-賃金格差を拡大させでもしないかぎり、日本では早晩行き詰まるであろう。」(権丈善一 2004 『年金改革と積極的社会保障政策』慶応義塾大学出版会:162-163

「賃金格差を拡大させ」ながら、行き詰まりを回避しようと「行き当たりばったりに」もがく現代の日本。コムスン問題もその延長線上に見える。介護労働がもともと「『女性役割』『非専門的労働』『低賃金不安定労働』といった社会的認知の維持・再生産」の上に成り立っているのに、規制改革や介護報酬の単価切り下げやらが、さらに追い討ちをかける。公共セクターにおける擬似市場を、その不正を監視しながらも、育てようとするのか、単に潰しにかかるのか? 「典型的日本人の癖」を、選挙のときにこそ、自己点検・自己評価することが本当は求められているのだが・・・

「今後の課題は、どのようなレジーム類型を選択するかについて、明確な意識をもった国民世論を形成していくことにある」(富永2001211)

1ヶ月後の参議院選挙がその序曲になるのか、いつもの「行き当たりばったり」なのか。あ、これはエスピン-アンデルセンの言う「福祉レジーム」であって、脱却すべきと言われるとあるレジームではありませんので、念のため。

ノンと言うこと

 

ここしばらく、自らの視点の偏り、が気になる。
以前から同じ事を何度も書いているのだけれど、気になる感覚を活字という定着液で映像化しておくのが、このブログの位置づけだと自分では考えている。なので、今日は角度を変えての「変奏曲」をお届けする、予定です。

「私にとって、思考するということは必然的にみずからを否定することになります。思考する、それは否(ノン)と言うことです。この場合における否定には、二つの基本的な意味があります。
思考することはまず、その文化の中で蓄積されてきた同意によって成立している確信を拒絶するという意味を含んでいます。第二に、否を宣言することは、断固としてその価値を認めないという意味です。
『何も価値がない』という吟味を伴わない思考は健全なものとはいえません。したがって『懐疑論』は、あらゆる確信を解体するきっかけであり、ヘーゲルにすれば弁証法的思考の本質的なステップなのです。
懐疑論は文字通り、一つの見解や視線であり、事象の整合性をいったんばらばらにしてから確かめていきます。懐疑的な行為と思弁的な行為は密接につながっており、どちらもあらゆる現実を鏡のなかに映し出します。」 (カトリーヌ・マラブー『弁証法の可能性』 ハーバード・ビジネス・レビュー20074月号、p72)

「確信を拒絶」すること、しかも「断固としてその価値を認めない」という「吟味」。
タケバタに欠けているのは、おそらくこのあたりなのだろう。自身の議論の甘さには、この部分があるような気がしている。オプティミズム、といえば言葉は美しいが、その実態は手放しの信頼、と情報を鵜呑みにする場面がある。確信を解体するほどの「吟味」が出来ているか? いや、実際は事象の整合性の「枠組み」は、既存のものを流用して、その「枠組み」への問いが出来ていないのではないか? 自分自身には、そう見えてくる。

「弁証法は思弁的、すなわち反省的な思考です。語源であるラテン語では『鏡』を意味しますが、物を映す構造であるのと同じく、事象を同時に両側から見ることを可能にします。したがって、弁証法の鏡とは、事象とその矛盾を常に映し出すわけであり、それゆえ、すべての現実について二重の時間性、『現在から未来』『現在から過去』の視点が駆使できるようになります。」(同上、p71)

「現在」を「現在」として同語反復的に眺めている自分がいる。それは、「事象を同時に両側から見」た上で、私は私である、と確信する事とは全く違う。「反省的な思考」つまり、「二重の時間性」で検証した上で「私」に戻ってくることと、単に無批判に「私」をしていることは、全く意味合いが異なってくる。これは、タケバタ自身の課題でもあるが、正直に申し上げて、マスコミ報道にも広く蔓延しているような気がしている。

コムスン問題。授業でも取り上げ、色々見ているが、いったん悪い、と決めつけると、「断固としてその価値を認めない」が、その前に、「その文化の中で蓄積されてきた同意によって成立している確信を拒絶する」点がみられない。自由主義の中で、税や消費税方式でなく、社会保険方式を選択したこと。人材を一気に確保する為に「民間活力の活用」を行ったこと。サービス支給料はあくまで「家族の相互扶助」をアテにして決められた基準であった事。これらの、介護保険導入時に選択された(「同意によって成立」した)事象については、何ら批判の対象にならない。事後的に「そうなると思っていた」と責め立てるだけで、ではそうならないようにどうするべきだったか、という事前予防的発想にならない。これは、「事象を同時に両側から見る」視点が欠落しているから、と感じる。

欠落、といえば、一般企業で当たり前の事が福祉では違う、ということについての反省的な視点が報道に欠落していることも気になる。「介護はもうかるもんではない」という主張。なぜ、それが前提になるの? 事象として確かに現にもうかっていない。でも、「事象の整合性をいったんばらばらにしてから確かめ」てみると、たとえば儲からない背景にある、単価設定がなぜあのような安価なのか、という点が気になる。なぜ専業主婦層をアテにする、低賃金に据え置かれたのか。その背景に、介護への対価、に関してどういう思想が見え隠れしているのか。でも、「その文化の中で蓄積されてきた同意によって成立している確信」には触れず、トカゲの尻尾切りをしている限りにおいて、この問題は表面化されない。本来、「二重の時間性」で確かめてこそ初めて見えてくるコムスン問題の本質は、お忙しいマスコミでは、スルッと次の糾弾課題にすり替わる。その前からは年金で、今度はNovaか・・・。

二年前の5月、尼崎のJR脱線事故の後書いたブログも、基本的に同じ事が言いたかっただけだ。事後に犯人捜しするのに躍起になるのはいつものこと。でも、そうならないためにどうしたらいいのだろう、とか、私も「犯人」になりうる日本社会の問題性は何なのだろう、という「鏡」としての「反省」を、事象から導き出すことが苦手な私たち。「そうなると思っていた」と本当に思うなら、「そうならないための社会作り」への本気での自己投企が求められる。出来ないなら、安易にそんなことを口にすべきでない。

無批判な「そうなると思っていた」という言明の背景には、「世の中なんて結局変わらない」という「確信」が転がっているような気がする。そして、その「確信」にこそ、まず私は「否(ノン)」を突きつけなければならない、と深く思う。

ゼミブログのお知らせ

 

このブログは、まとまった話を書きたい、と思うので、なかなか筆が進まない時が多い。特に、〆切前、あるいは用事が立て込んでいる時など、書きたいことがあっても、躊躇することが多い。最近、とにかく予定が立て込んでいて、なかなか新規書き込みが出来ずに、内心苦々しい想いをしていた。

そんな今日、大学で「コンテンツマネージャー会議」に出席する。あんまりパソコンのことも知らないが、一応学科のHPの内容を盛り上げるための黒子役の一人という仕事を与えられていたのだ。で、全学的なHPに関する取り組みをあれこれお聞きする。そういえば昨年からブログシステムも機能していたが、ここだけの話、僕は自分のHPも持っているし、正直あんまり関係ないかなぁ、と思っていたのだ。(担当者の先生方、すんません)

でもでも・・・今日、伺ってみると、幾つかのゼミの学生達が進んで発信している。(例えばこちらなど) これは、実に教育効果が高そうだ。目から鱗の出会いに、びっくり。これなら、僕が忙しくても、学生さん達に構築して貰える。オーナーのタケバタは、たまにコメントしておけばよい。

と、会議でしこんだ技術を早速応用して、竹端ゼミブログを立ち上げる。これは、リンク先にも書いたように、学生さん達のやっている活動を、順次アップして貰おう、という試みだ。

学生達も、誰かに見られている文書を書く、というのは実に刺激的であり、ちゃんと調べてくるし、彼ら彼女らのエンパワメントにつながる可能性が実に高い。というわけで、学生教育の一環として、明日のゼミで早速発表し、使い方も説明した上で、早速今週末には宿題を出す、という鬼教官タケバタである。

でも、あながち「鬼」でもない。教育問題に取り組もうとするY君がブログで報告してくれるはず、の「自信力が学生を変える」(河池和子、平凡社新書)のなかで、宿題や課題をたくさん課した方が、学生のやる気が出る、という調査結果が出ていた。(ただゼミでこの本をネタに議論した時は、その対象の設定や調査地を巡って議論はあったが)

なので、早速著者が言っていることの実践、ではないが、学生さん達に宿題を今年はバリバリ提供している。その一環で、ゼミブログも学生主体で、明日以後、本格的書き込みがスタートする予定だ。

僕自身のつぶやきはこれまで通り、このスルメで。で、そこに書くほどのものではないけど、教育者タケバタの小ネタはブログで、とちょっとやってみるつもり。なので、出来ましたら、両方ごひいきに。

最先端と最後尾

 

久しぶりにのんびりとした朝である。
文字通り、疾風怒濤の日々が続いていたが、この週末は珍しく「2連休」。っていうか、本来お休みは「休む」ためにある、と考えると、ワーカホリックを無自覚にマゾヒスティックに楽しんでいる自分がいた、ということだろうか。だから、変に空白があくと、何だか居心地が悪い、という昔の悪癖を思い出す。

土曜の用事を一個飛ばしてまで日程的に確保したのは、とある原稿の締め切り日が今日だったから。確保した時点では、書き直しの原稿のスタンスが定まらず、相当な危機感を感じていた。しかも、先月から今月にかけて、あれやこれやと〆切や発表で追われ、せっぱ詰まっていた事もある。だから、この二日を確保せねば、と時間を空けておいたのだ。

しかし、それが案外早く、昨日の朝には編者と出版社に送ってしまうことが出来た。先週の金曜日、大阪に向かう特急電車の中で、エイヤッと構成を変えてしまった。筋を複雑に考えていたのをやめ、一本の幹に統一し、その幹に肉付けをしながら論を進めていく、というごく基本中の基本に立ち返って話を整理して見ると、思わずサクサク出来てしまったのだ。もともと紀要に書いていた原稿を、あるテーマの論集の1章に取り上げてもらえる事になったのはよいのだが、「障害学」というその論集のテーマとどう引き寄せていいのかわからず、さんざん回り道し、あれこれにわか勉強もし、迷いに迷った。で、結局のところ、「『入院患者の声』による捉え直し-精神科病院と権利擁護」というタイトルに落ち着く。障害学のスタンスが、これまで専門家が「これはよい」「こうすべきだ」と思って教育・指導・治療してきた営みを、障害者自身によって「捉え直す」営みであるとするならば、僕が権利擁護というテーマで関わってきたのも、まさしく本人の声による「捉え直し」そのものである。そう思ったら、変な肩肘を張らず、スルッと話が出てきた。

精神科病院の権利擁護の話、というと、すごく偏狭な分野の研究なのですね、と水を向けられることもある。あるいは、それはごく一部の劣悪病院の話であって「もう古い」、という顔をする人もある。でも、私にはそうは思えない。

日本や東南アジアの中小企業のフィールド研究をしている関満博氏の『現場主義の知的生産法』(ちくま新書)の中で、言葉は正確ではないかも知れないが、「両端を追う」という表現があった。ある産業なりフィールドの、時代の最先端と最後尾の両端を追う中から、その分野の構造的問題が見えてくる、と。福祉分野(とりわけ障害者福祉)における「最先端」が、社会保障政策の激変であり、自立支援法の急展開であり、市町村への権限委譲、という部分であるとすると、それと同じように忘れてならないのが、入所施設や精神病院という、「旧態依然」と言われながらも、これまでの隔離収容型福祉の主翼を担ってきた施設福祉へのスタンスである。時代は変わってきた、と言いながら、21世紀の現時点で、そこに3障害合わせて政府統計でも50万人近い人が住んでいる。山梨県の人口の半分である。その方々の権利擁護がどうなっているのか、は決して古くない課題、なのだ。

この話は、私が市町村役場を訪問していても、現実の話として出てくる。東京や大阪のように障害者福祉の地域での拠点施設が山梨の、特に山間部にはない。すると、「家族で支えられないから」という理由で、入所施設に入っておられる町村民、というのも、リアリティとして話に出てくる。あるいは家の中で障害者を抱え込んでいて、福祉サービスに全くつながっていない、という話も出る。その際、最先端!の「地域移行」「相談支援」の話をしてみても、「実際にはねぇ」「この町では無理です」「ご家族もそう望んでおられます」「家族の問題には介入できません」という話で終わってしまいかねない。その際、気になるのが、「ではご本人はどういう想いを持っておられるのでしょうか?」という部分だ。

今、私はお隣の長野県の知的障害者入所施設である西駒郷から地域に移行した人々の聞き取りを進める「検証チーム」の一員にもなっている。そこで、いろいろなグループホームに訪れて、ご本人の話を伺う。すると、20年、30年と西駒郷に住んでおられた方々の、いろいろな想いに出会う。ご本人の希望ではなく、周りから行くように、と言われて、わけのわからないうちに施設で暮らしたこと。盆や正月に実家に帰れたのがすごく嬉しかったこと。でも、親が死んでしまったら、兄弟のいる実家は居心地が悪かったこと。施設を出てグループホームで暮らして、テレビや部屋を独り占め出来ることが嬉しいこと。地域でいろいろな出会いが始まっていること・・・。

これらの「声」と精神病院の「入院患者の声」とは、表と裏、光と陰、のように、見事にひっついてくる。そういう聞き取りをする中で、やはり障害者本人の「声」が尊重されてない、聞かれていない、という現実に突き当たる。そして、「特別アドバイザー派遣事業」として「相談支援体制の構築」という最先端の(わけのわからない)仕事で市町村を訪れた時に、結果として議論になるのが、最先端の話、よりも、ご本人が望んだわけでもないのに、入所施設や精神病院での社会的入院・入所、あるいは家族による抱え込み、という、この最後尾に取り残されてしまっておられる方々をどうするんだ、という当事者の権利擁護の話になっていくのだ。

現実でおこっていることや、これからキャッチアップしていかなければならないこと、という今や最先端の話を考えるにあたって、常に取り残されている最後尾の議論も踏まえないと、首尾一貫した政策は作れない。市町村の現場をフィールドワーク的に回っていると、深くそう感じる。このことに関連して、先週からマスコミをにぎわせているコムスン問題も関わってくるのだけれど・・・少し話がゴチャゴチャになるので、改めて稿を変えて論じることにする。