ノンと言うこと

 

ここしばらく、自らの視点の偏り、が気になる。
以前から同じ事を何度も書いているのだけれど、気になる感覚を活字という定着液で映像化しておくのが、このブログの位置づけだと自分では考えている。なので、今日は角度を変えての「変奏曲」をお届けする、予定です。

「私にとって、思考するということは必然的にみずからを否定することになります。思考する、それは否(ノン)と言うことです。この場合における否定には、二つの基本的な意味があります。
思考することはまず、その文化の中で蓄積されてきた同意によって成立している確信を拒絶するという意味を含んでいます。第二に、否を宣言することは、断固としてその価値を認めないという意味です。
『何も価値がない』という吟味を伴わない思考は健全なものとはいえません。したがって『懐疑論』は、あらゆる確信を解体するきっかけであり、ヘーゲルにすれば弁証法的思考の本質的なステップなのです。
懐疑論は文字通り、一つの見解や視線であり、事象の整合性をいったんばらばらにしてから確かめていきます。懐疑的な行為と思弁的な行為は密接につながっており、どちらもあらゆる現実を鏡のなかに映し出します。」 (カトリーヌ・マラブー『弁証法の可能性』 ハーバード・ビジネス・レビュー20074月号、p72)

「確信を拒絶」すること、しかも「断固としてその価値を認めない」という「吟味」。
タケバタに欠けているのは、おそらくこのあたりなのだろう。自身の議論の甘さには、この部分があるような気がしている。オプティミズム、といえば言葉は美しいが、その実態は手放しの信頼、と情報を鵜呑みにする場面がある。確信を解体するほどの「吟味」が出来ているか? いや、実際は事象の整合性の「枠組み」は、既存のものを流用して、その「枠組み」への問いが出来ていないのではないか? 自分自身には、そう見えてくる。

「弁証法は思弁的、すなわち反省的な思考です。語源であるラテン語では『鏡』を意味しますが、物を映す構造であるのと同じく、事象を同時に両側から見ることを可能にします。したがって、弁証法の鏡とは、事象とその矛盾を常に映し出すわけであり、それゆえ、すべての現実について二重の時間性、『現在から未来』『現在から過去』の視点が駆使できるようになります。」(同上、p71)

「現在」を「現在」として同語反復的に眺めている自分がいる。それは、「事象を同時に両側から見」た上で、私は私である、と確信する事とは全く違う。「反省的な思考」つまり、「二重の時間性」で検証した上で「私」に戻ってくることと、単に無批判に「私」をしていることは、全く意味合いが異なってくる。これは、タケバタ自身の課題でもあるが、正直に申し上げて、マスコミ報道にも広く蔓延しているような気がしている。

コムスン問題。授業でも取り上げ、色々見ているが、いったん悪い、と決めつけると、「断固としてその価値を認めない」が、その前に、「その文化の中で蓄積されてきた同意によって成立している確信を拒絶する」点がみられない。自由主義の中で、税や消費税方式でなく、社会保険方式を選択したこと。人材を一気に確保する為に「民間活力の活用」を行ったこと。サービス支給料はあくまで「家族の相互扶助」をアテにして決められた基準であった事。これらの、介護保険導入時に選択された(「同意によって成立」した)事象については、何ら批判の対象にならない。事後的に「そうなると思っていた」と責め立てるだけで、ではそうならないようにどうするべきだったか、という事前予防的発想にならない。これは、「事象を同時に両側から見る」視点が欠落しているから、と感じる。

欠落、といえば、一般企業で当たり前の事が福祉では違う、ということについての反省的な視点が報道に欠落していることも気になる。「介護はもうかるもんではない」という主張。なぜ、それが前提になるの? 事象として確かに現にもうかっていない。でも、「事象の整合性をいったんばらばらにしてから確かめ」てみると、たとえば儲からない背景にある、単価設定がなぜあのような安価なのか、という点が気になる。なぜ専業主婦層をアテにする、低賃金に据え置かれたのか。その背景に、介護への対価、に関してどういう思想が見え隠れしているのか。でも、「その文化の中で蓄積されてきた同意によって成立している確信」には触れず、トカゲの尻尾切りをしている限りにおいて、この問題は表面化されない。本来、「二重の時間性」で確かめてこそ初めて見えてくるコムスン問題の本質は、お忙しいマスコミでは、スルッと次の糾弾課題にすり替わる。その前からは年金で、今度はNovaか・・・。

二年前の5月、尼崎のJR脱線事故の後書いたブログも、基本的に同じ事が言いたかっただけだ。事後に犯人捜しするのに躍起になるのはいつものこと。でも、そうならないためにどうしたらいいのだろう、とか、私も「犯人」になりうる日本社会の問題性は何なのだろう、という「鏡」としての「反省」を、事象から導き出すことが苦手な私たち。「そうなると思っていた」と本当に思うなら、「そうならないための社会作り」への本気での自己投企が求められる。出来ないなら、安易にそんなことを口にすべきでない。

無批判な「そうなると思っていた」という言明の背景には、「世の中なんて結局変わらない」という「確信」が転がっているような気がする。そして、その「確信」にこそ、まず私は「否(ノン)」を突きつけなければならない、と深く思う。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。