今年は実家に帰らない正月だが、相変わらずバタバタ続きである。今日になってようやく年賀状の印刷がはじまるのだから、相変わらず始末がわるい。
しかし、時間が出来たので、好きな本がルンルン読めることほど嬉しいことはない。年末にご紹介するのは、実に気持ちの良い読後感の一冊。
「独学で建築家になったという私の経歴を聞いて、華やかなサクセスストーリーを期待する人がいるが、それは全くの誤解である。閉鎖的、保守的な日本の社会の中で、何の後ろ盾もなく、独り建築家を目指したのだから、順風満帆に事が運ぶわけはない。とにかく最初から思うようにいかないことばかり、何か仕掛けても、大抵は失敗に終わった。
それでも残りのわずかな可能性にかけて、ひたすら影の中を歩き、一つ掴まえたら、またその次を目指して歩き出し-そうして、小さな希望の光をつないで、必死に生きてきた人生だった。いつも逆境の中にいて、それをいかに乗り越えていくか、というところに活路を見出してきた。」(『建築家安藤忠雄』新潮社、p381)
元プロボクサーで大学にも通わず独学で世界の頂点を極め、東大の名誉教授の称号も…。そんな「肩書き」「立場」では絶対にわからない安藤氏の激しさ、ひたむきさ、そして徹底的に考え抜く姿勢がこの本の中に詰まっていた。「大抵は失敗」というスタートでも、「残りのわずかな可能性にかけて、ひたすら影の中を歩き、一つ掴まえたら、またその次を目指して歩き出し」というプロセスを彼は地道に踏んでいたのだ。この部分に、特に「一つ掴まえたら、またその次を目指して歩き出し」、という部分に自分の歩みを重ねてしまった。そう、自分が現時点でやっているのは、「順風満帆」ではない環境の中にいて、「希望の光をつな」ぐ作業そのものであるからだ。
で、希望、といえば、年賀状にも使おうとしている良いフレーズに出会えた。
Hope=Mental Willpower+Waypower for Goals (Snyder, The Psychology of Hope, Free Press pp10)
これを我流に訳すと、こんな風になるだろうか。
希望=精神的な意志の力+目的に達するための方法を考える力(年賀状にはもう少し簡潔な訳にしたが、こっちの方がピッタリ来るかも知れない)
安藤忠雄氏の自伝を読んでいても、彼が強靱な「意志の力」を持つだけでなく、徹底的に建築を考え抜く、というこの「目的に達するための方法を考える力」を持ち続けていた、という点に非常に興味を引かれた。そう、この二つがないと、希望が現実にならない。逆に言えば、この二つを適切に支えられば、希望の火を多くの人に点すことが出来る。
障害者支援の現場でも、この「希望」のプロセスが今、大きく問われている。自己決定やサービス、といっても、目の前になかなか適切なサービスがなかったり、あるいは自分が決めにくい環境下に置かれている場合も少なくない。また、エンパワメントという言葉も多用されるようになってきたが、ついつい「精神的な力を付与する」という事に傾きがちなような気がする。
だが、「とにかく最初から思うようにいかないことばかり、何か仕掛けても、大抵は失敗に終わ」るような日々の中から、支援を構築し、現状を変えていくためには、「精神的な意志の力」だけではどうにもならない。たまたま一ケースが例えうまくいっても、それを一支援者が抱え込むと、燃え尽きに至る。その際、現状を変えていくためには、「小さな希望の光をつないで」いくためには、大切なのはWaypower、つまり「目的に達するための方法を考える力」なのだと思う。それも、安藤氏が実践してきたように「徹底的に考え抜く」という姿勢が、求められているのだと思う。
この一年、自分としては何とか、「小さな希望の光をつないで」これた。それを、来年はもう少し今より大きな光にするために、さてどうするべきか。それを「徹底的に考え抜く」中から、自分なりのWaypowerを見いだせるのではないか。年越しに、そんなことを考えていた。
みなさま、良いお年を!
2008年12月15日
呪能について
忙しい時ほど、仕事に関係のない本を読みたくなる。
「白川静という巨知を語ることは、まずもって『文字が放つ世界観』を覗きこむことであり、古代社会このかたの『人間の観念や行為』をあからさまにすることである」(松岡正剛『白川静 漢字の世界観』平凡社新書、p10)
「白川さんは文字がもつ本来の『力』というものを想定していました。そして、それを『呪能』とよびました。文字には呪能があり、その呪能によって文字がつくられたのだと想定したのです。」(同上、p38)
かの博識の松岡正剛氏が「先生」と呼ぶ、我が国の東洋学の巨匠。以前から気になっていたけれど、一度読むのを挫折していた白川氏の著作について、深くかつ安心してついていける水先案内人としては、松岡氏ほどの適任はいない。同書を読み終えた頃、すっかり漢字の持つ「呪能」に魅入られていたら、次に読んだ本にも、こんなフレーズが出てきた。
「詩の生まれてくる場所とは『聖地』であるということになる。詩のみならず、神託や祝詞や真言などの宗教言語、神聖言語の発生も『聖地』から発出するといえるであろう。」(鎌田東二『聖地感覚』角川学芸出版、p46)
そう、本当の意味での言葉には、「魂」が籠もる。だから、それを「言霊」という。そういえば、「哲学の巫女」と呼ばれていた、亡くなられた池田晶子さんも、繰り返し、次のような事を言い続けていた。
「言葉はそれ自体が価値である。人がそのために生きるまさにその価値である。価値とは思わないもののために人は生きることはしない。それなら、『真善美』という言葉は、我々の全生活をその根底において衝き動かしている価値そのものではなかろうか。価値ではないものを間違えて価値だと思うためにも、これらの価値による以外にないのだから、我々の人生とは言葉そのものなのである。」(池田晶子『人生は愉快だ』毎日新聞社、p233)
「言葉はそれ自体が価値」であり、一つ一つの言葉に、独特の「価値」なり願い・祈りなりが込められている。よってそれらの言葉を連ねて「神託や祝詞や真言」、あるいは「詩」という形で言葉を紡ぎ出す場所は、まさに「聖地」そのものなのだ。つまり、言葉を絞り出す、ということは、呪能が宿ることであり、それだけでも実は神聖であるのである。
言葉を安く垂れ流しているタケバタとしては、襟を正さなければならない論考である。
ちなみに、昨日仕事で訪れた新宿の本屋で、字通は在庫がなかったので、代わりに買い求めた「常用字解」で自分の名前を引いてみると、こんなことが書かれていた。
「寛:祖先を祭る廟の中で、眉を太く大きく書いた巫女がお祈りしている形。巫女は神がかりの状態となって、くつろいだ様子で神託(神のお告げ)を述べる。うっとりとして意識のない状態であるので、『ゆるやか』の意味となり、また神意を受けているので、『ゆたか、ひろい』の意味となる。すべて人の気質・態度についていう。用例:寛厳 寛大なことと厳格なこと (以下略)」(白川静『常用字解』平凡社、p81)
これを読んでいるあなた、まさか太眉のタケバタが巫女姿で「神がかり」状態で「うっとり」している、なんて恐ろしい情景を思い浮かべていないでしょうね。(自分で想像して、思わず吹き出してしまいました)
そう言えば、確か僕の名前は、京都に住む親が、晴明神社で見てもらって選んだ名前だとか。小さい頃は、「生命神社」と思い込んでいたのだが、さにあらず。晴明といえば、平安時代に呪能を最大限に活用したかの「陰陽師」、安倍晴明をまつる神社。なるほど、名は体を表しているか、は別にして、きちんと「呪力」ある名前をつけて頂いたのですね。と襟を正したところで、どうせなら、この用例にある「寛厳」の「厳しさ」もきちんと持ち合わせる人間になりたいな、などと思ったのであった。