天畠大輔さんと言えば、以前『<弱さ>を<強み>に』(岩波新書)をブログで取り上げた。今回、彼の博論本(『しゃべれない生き方とは何か』生活書院)が書籍化され、それをご恵贈頂く。この新書の背景がわかる、重厚な博論である。
この博論本は、意思決定支援とか権利擁護に携わる人には、是非とも読んで欲しい一冊である。なぜなら、意思の表明や形成を支援するとはなにか、という根本的な問いについて、考察されているからである。
新書紹介のブログで触れたように、天畠さんは発語が出来ないし手を動かせないので、自分一人で主体的な言語表現が現時点では出来ない(そういう器具がまだ開発されていない)。そのかわりに、介助者に「あかさたな話法」で読み取ってもらう。ただ、それにはものすごく時間がかかるので、天畠さんと共有経験や共有知識の多い介助者を「通訳者」として雇用し、何が言いたいかを「先読み」してもらいながら、なるべくスムーズに意思決定し、言語表現したいと思っている。だが、ここで深刻かつ本質的なジレンマにひっかかる。
「筆者が大学院に進学し、博士論文を執筆したいと考えた動機には、『もっと誰かに賞賛されたい』という思いがあった。そして、その背景は、『私一人』に向けられたものであってほしかった。その意味で博士論文は、『オーサーシップが一人』であることが原則であることから、筆者の承認欲求を満たすのに『うってつけ』であった。
しかし、その意図とは裏腹に、本研究での実際は、筆者の思考を表出する段階でさまざまな『通訳者』が関わり、論文を書き上げるというものであった。このような論文執筆過程は、承認欲求を満たすための『諸刃の刃』である。『通訳者』の存在は、筆者の思考を整理し表出するうえで必要不可欠なものだが、一方では筆者の思考を“水増し”する存在であり、筆者一人の賞賛には至らない(オーサ—シップが認められない)という危険性もあった。
こうしたジレンマは、筆者が『この文章を書いたのは誰か』という点を再帰的に振りかえることによって生じている。」(p341-342)
この箇所を読んだ時、「なんてほんまもんの葛藤をさらけ出しているのだろう!」とびっくりしながら読んだ。
天畠さんだけでなく、僕だって博論を書き上げる欲求の中には「承認欲求」とか、「『もっと誰かに賞賛されたい』という思いがあった」のは間違いない。ただ、それは普通は口にはされない。でも、彼は敢えてそれを「博士論文そのもの」のなかで書いて考察した。なぜならば、「博士論文は、『オーサーシップが一人』であることが原則である」というこの原則と、彼の意思決定支援とは、ジレンマというか、深刻な矛盾をはらむ可能性があったからだ。
それは「あかさたな話法」そのものが持つ矛盾である。そのことは、社会福祉学に掲載された論文『「発話困難な重度身体障がい者」の文章作成における実態―戦略的に選び取られた「弱い主体」による,天畠大輔の自己決定を事例として―』にありありと書かれている。天畠さんとどれらけの共有知識・体験があるか、によって、通訳者の書くメールの内容が大きく異なることが、上記の論文の中で掲載されている。同じように、研究論文の考察の進め方においても、通訳者が大学院レベルの知識を持って問いかけてくれることによって、天畠さんの考察が、一人で考えていた時よりも結果的に膨らんでいく様が記載されている。
そのことを指して、「筆者の思考を“水増し”する存在であり、筆者一人の賞賛には至らない(オーサ—シップが認められない)という危険性」がある、とはっきりと述べているのである。だからこそ、天畠さんは「筆者が『この文章を書いたのは誰か』という点を再帰的に振りかえる」ことをし続けてきたのである。
自己決定や自己選択は、確かに素晴らしい。だが、支援を受けない中での自己決定や自己選択だと、天畠さんは、そもそも選べないし決められない状況におかれてしまうほどの、重度障害を抱えている。そして、支援を受けた自己決定や自己選択をしていく際に、通訳者と天畠さんの相互行為は、通訳者の属性や経験によって異なる。だからこそ、同じメールの返信をする中でも、全然違う内容が書かれてくる。それくらい、天畠さんの意思形成や意思表明には、天畠さん以外の通訳者の関わりが深く関与してしまっている。それゆえに、天畠さんは『この文章を書いたのは誰か』を問い続け、通訳者は「筆者の思考を“水増し”する存在」ではないか、と悩み続けるのである。
その点を深掘りするにあたり、彼はグレゴリー・ベイドソンの『精神の生態学』とも対話している。以下、天畠さんの書籍での引用の前後部分も含めて、原典から引用しておく。
「1 アルコール依存者の『醒めた』生活が、なんらかのかたちで彼を酒へ—酩酊のコースのスタート地点へ—追いやるのだとしたら、彼の陥っている<醒め>のスタイルが強化されるような“治療”を行っても、症状の軽減も統御も、望むことはできないはずだ。
2 彼の<醒め>のありかたが、飲酒へと彼を追いやるのだとしたら、その<醒め>には、なにかしらのエラー(病と呼んでもいい)が含まれるはずだ。そのエラーを、<酔い>が、少なくとも主観的な意味で『修正』しているはずである。つまり間違っているのは彼の<醒め>の方であり、<酔い>の方は、ある意味で“正しい”ということになる。
3 これに代わる仮説として、しらふの時のアルコール依存者は、まわりの人たち異常に正気であり、その正気に耐えられずにアルコールに手を伸ばすのだという説が考えられる。(略)しかし本論は、それを斥ける。(略)世間の狂った前提への反抗として飲酒に走るのではなく、世間によってつねに強化され続けている自分自身の狂った前提からの脱出を求めて飲酒に走る—この違いが重要だと思う。」(グレゴリー・ベイドソン『精神の生態学』新思索社、p422-423)
この後、天畠さんはこう続ける。
「この酔いを筆者の例に引き寄せれば、コミュニケーションのアウトプットに多大な時間を要する自分の障がいそのものが、『異常な』状態であって、その状態から脱するために、自らを酔わせてくれる『通訳者』に依存していくのだといえる。また『情報生産者』として社会で活動したいと考える欲求も、『異常な』状態である現時点での自分から脱していきたいという思いが源泉にあると言えるだろう。つまり『通訳者』アシストに依存している状態が、自分にとっての『正常な状態』であるからこそ、自分の『情報生産者』であろうとする欲求を満たしてくれる特定の『通訳者』への過度な依存から抜け出せないのである。」(p308−309)
じつは、天畠さんのこのフレーズに、ずっとモヤモヤしている。
ベイドソンは「世間によってつねに強化され続けている自分自身の狂った前提からの脱出を求めて飲酒に走る」のだと述べてる。天畠さんはそれを、「コミュニケーションのアウトプットに多大な時間を要する自分の障がいそのものが、「異常な」状態であって、その状態から脱するために、自らを酔わせてくれる『通訳者』に依存していくのだ」と解釈しているが、なんだかそれは違うような気がするのだ。
ポイントはベイドソンが述べている「世間によってつねに強化され続けている」という部分である。天畠さんは確かに「コミュニケーションのアウトプットに多大な時間を要する」障害を持っている。だが、別にその障害自身は「世間によってつねに強化され続けている」訳ではない、と僕は解釈する。そうではなくて、「博士論文は、『オーサーシップが一人』であることが原則である」『この文章を書いたのは誰か』というフレーズが象徴するように、自分一人で最初から最後まで完遂することこそ、私の作品・オーサーシップ・評価・責任、だとされる。その自己責任原則こそ、「世間によってつねに強化され続けている自分自身の狂った前提」ではないだろうか。そして、天畠さんはそこからの「脱出」を求めて、「通訳者への依存に走る」のだ、という仮説を引いてみたくなる。
これはベイドソンの「間違っているのは彼の<醒め>の方であり、<酔い>の方は、ある意味で“正しい”」という話にも繋がっている。
ぼく自身は、天畠さんの著作を読んできて、先読みも含めた通訳をしてくれる通訳者と二人三脚で「情報生産者」であり続ける天畠さんの姿は「正しい」<酔い>だと思っている。むしろ、「筆者が『この文章を書いたのは誰か』という点を再帰的に振りかえる」ように強迫的に天畠さんに強いる、その「彼の<醒め>」の方こそ、「異常な」状態ではないだろうか。「コミュニケーションのアウトプットに多大な時間を要する自分の障がいそのものが、「異常な」状態」だと天畠さんに考えさせる、その世間の強迫観念こそが「異常」だと、僕には思えるのである。
ベイドソンは「アルコール依存者の『醒めた』生活が、なんらかのかたちで彼を酒へ—酩酊のコースのスタート地点へ—追いやるのだ」と述べ、その「『醒めた』生活」そのものの中に、「世間によってつねに強化され続けている自分自身の狂った前提」がある、と見抜いている。天畠さんの文脈に沿いながら、僕なりに敷衍すると、情報生産者は一人の力で文章を書かなければならない、通訳者と二人三脚で書くことは佐村河内○○のように、オーサーシップが認められないし、それって実力の水増しである、という前提そのものに、「異常さ」や「狂い」が内包してはいないか、という問いである。
そして、実は天畠さん自身も、結論部分で「醒め」の「狂い」を問い直そうとしている。
「一般に、個人の論文執筆は指導教員や他の研究者のアドバイスなどを参考にしながら作成される。そのとき成果物である論文が誰のアイデアによって作成されたものであるかは普通、問われない。(略)しかし、筆者においては、論文執筆チームが暗黙のうちには成立せず、いわばガラス張りのなかで複数の個人による論文執筆が遂行される。そのため、“水増し”や過剰な“サービス精神”の問題が表面化することになる。しかし、この問題はむしろ逆の観点から捉えられるのではないだろうか。
つまり、何ゆえ、健常者は“水増し”の恩恵を受けながら筆者のようなジレンマを感じずに、しかも成果物を自分のものとしておけるのか。また、健常者の世界からの“水増し”や“サービス精神”がどのようにフェードアウトし不可視化されているのか、という問いである。本質的には健常者も“水増し”や“サービス精神”の利益を享受しているにもかかわらず、筆者のようにそれに対するジレンマを痛切に感じることはない。ここに、上げ底を意識しなければならない障害者と、それを意識する必要がない健常者という非対称的な関係から、この社会の能力主義的な規範が見えてくる。」(p303-304)
天畠さんの指摘は全くその通りである。ぼく自身を振りかえってみても、博論で「京都中の精神科ソーシャルワーカーにインタビューせよ、それが出来なかったら君の博論はない!」と根本的なアイデアを授けてくださったのは師匠大熊一夫であり、「ソーシャルワーカーに共通する法則性を導き出してごらん」と博論の根幹の整理を指導してくださったのは、指導教官の大熊由紀子さんである。ぼくの博論という成果物は、師匠や指導教官といった先達からのギフトによって、なされている。「何ゆえ、健常者は“水増し”の恩恵を受けながら筆者のようなジレンマを感じずに、しかも成果物を自分のものとしておけるのか」と問われたら、ぼくはあまりにその通りで、返す言葉もない。
つまり、僕が受けた恩恵は「フェードアウトし不可視化されている」一方で、天畠さんが受けた恩恵は「ガラス張り」であるがゆえに、「“水増し”や過剰な“サービス精神”の問題が表面化することになる」のである。
それは、あまりにアンフェアだ。
そして、天畠さんは情報生産者になるプロセスにおいて、「上げ底を意識しなければならない障害者と、それを意識する必要がない健常者という非対称的な関係」というこの社会の「能力主義」がおかしいと感じた。そして、それを内面化していたご自身という、「世間によってつねに強化され続けている自分自身の狂った前提」にも気づいた。だからこそ、そこ「からの脱出を求めて飲酒に走る」という形で、通訳者への依存をしながら、情報生産者として生き抜こうと決意したのではないだろうか。
すると、天畠さんがここで指摘しているのは、「本質的には健常者も“水増し”や“サービス精神”の利益を享受しているにもかかわらず、筆者のようにそれに対するジレンマを痛切に感じることはない」という<醒め>の自覚であり、その健常者がジレンマを痛切に感じないということ自体に、「なにかしらのエラー(病と呼んでもいい)」があるのではないか、という問いかけのようにも、ぼくには読めた。それは、意思表明や意思形成、意思決定をめぐる、根本的な問いが含まれているような気がする、のだが、それ以上のことはまだ僕には言えないので、天畠さんから頂いたギフト(水増しではなかったら、よいのだが)として、考え続けることにしよう。
いずれにせよ、魅力的で多くの問いかけが生まれる大作である。