今日は長い表題だ。その場もズバリ『インターセクショナリティ』(コリンズ&ビルゲ著、人文書院)を読んだ。まさに王道を行く概説書であり、読み進めるのに時間はかかったが、決して難解ではなく、読みやすくて、この概念への見通しがよくなった。
インターセクションとは交差点のことである。なので、インターセクショナリティとは「交差性」と訳されている。何と何が交差するのか。それによって、これまで見えていなかったどのような点が可視化されるのか。著者は冒頭で、以下のように明快に定義している。
「インターセクショナリティとは、交差する権力関係が、様々な社会にまたがる社会的関係や個人の日常的経験にどのように影響を及ぼすのかについて検討する概念である。分析ツールとしてのインターセクショナリティは、とりわけ人種、階級、ジェンダー、セクシャリティ、ネイション、アビリティ、エスニシティ、そして年齢など数々のカテゴリーを、相互に関係し、形成し合っているものとして捉える。インターセクショナリティは、世界や人々、そして人間経験における複雑さを理解し、説明する方法である。」(p16)
この定義を、最近「はやり」のヤングケアラー問題に当てはめてみたら、どんなことが言えるだろうか。最近流行しているから、だけでなく、研究室に関わる方がヤングケアラー経験を持つ方だったり、ゼミ生の卒論調査でヤングケアラーに関わるスクールソーシャルワーカーへのインタビュー調査をするのに同席させてもらったり、あるいはブログで書いたが教育社会学系のエスノグラフィーを読み進めたりする中で、ヤングケアラーを単に「親を世話するかわいそうな子ども」と単純化して理解してはならない、と思い始めている。そこで、ヤングケアラーを巡る「世界や人々、そして人間経験における複雑さを理解し、説明する」ために、インターセクショナリティを使うと、どんな風に言えそうだろうか。
まず、ヤングケアラーの親の中には、精神疾患の当事者が結構な割合でいる。私も精神障害者支援を研究してきたので、これまで当事者が子育てをされている例も、見聞きしてきた。ただ、精神障害者福祉の視点だと、あくまでも当事者の子ども、という切り取り方であり、その子どもがどのような苦悩を抱えているのか、になかなか焦点が当たってこなかった。
次に、精神疾患を抱えた親を持つ子どもは、親の世話や障害の理解、だけでなく、自分や兄弟の世話なども必要で、充分に勉強が出来なかったりする。だが、これまでは「自分でする」「家族でする」ことが当たり前になっていると、それが出来ない子どもや家庭は「ルーズな家の子」とひとくくりにされていた。しかし、「出来ない」背景にある、親の困難や子どもの困難という複合性に目を向けると、その困難の内在的論理が浮かび上がる。これは、以前論文にも書いたが、ゴミ屋敷を巡る「困難さ」に関して、世間や常識といった「合理性のレンズ」で眺めるのではなく、あくまでも本人の「非合理の合理性」を捉えることが必要である部分である。
さらに、精神疾患を持つ親の抱える困難は、それだけではない場合がある。離婚してシングル家庭であるとか、経済的困窮を抱えているとか、近所や親戚との関係性がうまくいかないとか、依存症の離脱がしにくいとか・・・様々な不利や障壁とセットになっている場合もある。
すると、上記に挙げただけでも、障害とジェンダー、貧困や教育格差、福祉的支援の有無・・・といった様々な領域・要因が絡み合っている事が見えてくる。これが、複合的問題であり、多重な困難として家族全体に覆っているからこそ、ヤングケアラーの問題が大変なのである。
しかもだ、そんなヤングケアラーを「個人の悲劇」モデルで考えると、「交差する権力関係が、様々な社会にまたがる社会的関係や個人の日常的経験にどのように影響を及ぼすのかについて検討する」機会を喪失してしまう。親が精神障害(発達障害)を持っているから、シングル家庭であるから、貧困であるから・・・という理由で、子どもがヤングケアラーを引き受けなければならない、という直接的な因果関係はない。上記の理由が重なった上で、「そのような家庭や子どもに充分な支援が行き届いていない」がゆえに、ヤングケアラー問題が大きくなっているのだ。そこには、権力構造が、その問題を放置してきた、という構造的な瑕疵があるのである。それは、家族介護は日本の美風である、ケアは家族が責任を負うべき「家族責任」だ、という日本型福祉の発想が根底にあり、だからこそ、家族内のケアに国家が関わるのは残余的であり、家族が抱えきれなくなったら精神病院か入所施設に丸投げ、という「家族丸抱え」か「施設丸投げ」の論理があるのである。
この交差する権力関係や、その前提となる日本型福祉の権力構造を見抜いて、それを批判しないと、ヤングケアラーのような問題は、くり返し起こり続けるのである。そして、以下の「ウィメン・オブ・カラー(非白人女性)」の表記を「ヤングケアラー」に言い換えてみると、多くの事が学べる。
「(1)個人のアイデンティティと集団のアイデンティティ感のつながりを描き、(2)社会構造に焦点を当て、(3)ウィメン・オブ・カラーに対する暴力的な権力関係を理論化し、権力の構造的、政治的、象徴的な力学を強調し、そして(4)インターセクショナリティの研究目的は、社会正義イニシアティブへの貢献にあることを読者に思い起こさせる」(p142)
そう、ヤングケアラー問題が放置されていることは、社会的不平等の温存であるばかりでなく、ヤングケアラーが家族介護の枠組みに矮小化され、放置されることによって、社会構造への焦点化を妨げ、個人の悲劇に矮小化され、結果的に社会的正義が損なわれている状態なのである。
「『批判的(クリティカル)』という用語は、社会的不正義の状況下において起こる社会問題を批判し、拒否し、解消しようすることを意味する。」(p106)
ヤングケアラーは個人の悲劇だ、と矮小化して、ヤングケアラーを巡る社会的不正義の状況を放置するのであれば、インターセクショナリティ概念は必要ない。だが、障害やジェンダー、貧困などが複雑に絡み合うことによって明らかに社会的な不正義がヤングケアラーに襲っていて、その状況を批判し、拒否し、解消しようとするなら、ヤングケアラーにどのような交差する権力作用が働いているか、を批判的(クリティカル)に捉える必要がある。これは、ヤングケアラー問題にも共通する視点であると感じる。
そして、本書の最後の方では、教育の構造的問題にも触れている。サラ・アーメド(Sara Ahmed)による以下の言葉の引用は、非常に重い。
「<ダイバーシティ>という用語の登場は、<平等>を含む他の(そして、おそらくより重要な)用語から離れることを伴う。ダイバーシティの制度的な魅力に警戒しながら、制度に組み込まれやすいことが脱政治化の表れではないかと問いかけなければならない」(p285)
「ヤングケアラー」が流行語になる以前から、「SDGs」は流行語になっている。その中でも、ダイバーシティ=多様性、というのはキー概念の一つになっている。多様であって何が悪いのか? そんな突っ込みも受けそうだ。多様性が悪いのではない。ただ、多様性を尊重することが「制度に組み込まれる」ことによって、「脱政治化」されることを危惧している。それは、よくわかる。制度に組み込まれることによる「脱政治化」、とは、例えばLGBTや障害理解を大学教育の中に組み込むことによって、多様性を担保したことが「お墨付き」が得られた、と「勘違い」することである。もちろん、障害やジェンダーの理解教育は必要だ。でも、理解教育をしたらそれで免罪符を渡されるわけではないのは、ヤングケアラー理解や啓発教育でも同じだ。実際に、障害を持って、セクシャルマイノリティで、ヤングケアラーとして、社会的不平等の扱いを受けたり、社会的な不正義の状況に置かれている人がいた時に、それを解決する「政治化」された行動が必要になる。それを、個人の不幸や悲劇に矮小化して、理解はするけど行動しない、あるいは温情的な行動に終始するようでは、「制度に組み込まれることによる脱政治化」であり、「批判的(クリティカル)」とは言えないのである。
ヤングケアラー問題も、制度的な解決が求められている。だが、制度に組み込まれることによって「脱政治化」し、ヤングケアラーが置かれている社会的不正義や構造的な抑圧を、なかったことにしたり、そこに触れずに表面的な解決策を探るだけでは、本質的な問題への対処とは言えない。こういう複雑な問題こそ、どのような構造的課題が複雑に絡み合っているのか、を解きほぐし、その交差性を明らかにする中で、では他の類似の問題だったらどう対応できているのか、あるいは他と同様何が支援不足として明らかになっているのか、を炙り出す必要がある。ヤングケアラー問題でいえば、ファミリーソーシャルワークや家族全体の福祉的支援の欠落、障害や貧困、女性支援などの縦割りを超えた重層的相談支援の不全、などの問題も見えてくる。こういったことの交差性=インターセクショナリティを押さえることが出来るか、社会構造の改革へと踏み切ることが出来るか、それによって社会的不平等の温存や放置を変えていくことが出来るか、が問われているのだ。
今回はヤングケアラーに引きつけて論じたが、この本ではもっと沢山の有益な示唆があり、そのほんの一部しか今回は触れることが出来なかった。インターセクショナリティのことが気になる方は、是非ご自身で手に取って読んで頂きたい一冊である。