バザーリアとの「対話」

とうとう読みたかった本が邦訳された。それは、イタリアで公立精神病院閉鎖に導いた医師、フランコ・バザーリアの講演録『自由こそ治療だ!』である。日本では、大熊一夫師匠による解説本や、バザーリアの伝記、あるいはバザーリアの映画DVDが付いた愛弟子の語り、などは翻訳されていた。だが、肝心のバザーリアの書いた・語った内容が、そのままのものとして翻訳される機会がなかった。

この本は、40年前の本とは思えないほど、今の日本に住む僕に重く突き刺さる。そのうちの数カ所だけでも、一読後の今の時点で書き留めておきたい。

「統合失調症は青年期に発症する病気で、独りの世界に閉じこもってしまう『自閉』と呼ばれる特徴を示します。これは明らかに何かに対する反応であって、生活のなかから受ける衝撃を避ける為の若者の防衛反応です。20世紀になってから、産業かを推進するすべての国々、つまりすべての先進諸国で頻繁にみられた症状が、まさしく統合失調症でした」(p213)

そういえば知り合いの精神科医がツイッターで「統合失調症の新規患者が減っている」と書いていたが、一方で不登校やひきこもりの数は40年前より増えている。この現象を、精神疾患の病気の世界の中で眺めていては、理由はみえにくい。一方で、「何かに対する反応であって、生活のなかから受ける衝撃を避ける為の若者の防衛反応」という補助線を引くと、違った風景がみえてくる。高度経済成長期のような「産業化を推進」した時代には、「統合失調症」の形で「防御」していた若者が、今は病気ではなくて「ひきこもり」「不登校」という形で「防御」しているのだとしたら。

バザーリアはその直後に、こんな風にも語っている。

「精神病とは、この病が発症している様々な社会的背景に根ざした狂気の表現方法であるということです」(p213)

そう、「自閉」や「ひきこもり」「不登校」や「暴力行為」も、表面上は「社会からの逸脱」にみえる。だが、「この病が発症している様々な社会的背景に根ざした狂気の表現方法」とするならば、事態が全く別にみえてくる。「狂気の表現」だけが問題なのではない。そのような「表現方法」に頼らざるを得ないような、「この病が発症している様々な社会的背景」こそ、治療や変化の対象にもみえてくるのだ。

「狂気とはある状況の表出であり、狂気となる条件の表出です。そこで私たちが教えられたのは、病状に意味を与えるためには病を知る必要があるということです。つまり、ある一つの要素を全体像のなかに位置づけなければならないということです。医師と市民の関係性、そして医師と患者の関係性を変えるために、私たちはこれと同じような教育的な姿勢をもたなければならないのです。」(p107)

このブログでも何度か触れてきたが、バザーリアは「精神病は存在しない」という「反精神医学」とは違う立ち位置である。精神病や狂気の存在を認めている。だが、狂気=病気=隔離収容、というイコールには、大きな疑いを持っている。「狂気とはある状況の表出であり、狂気となる条件の表出です」と彼が言うとき、僕の頭に浮かぶのは、「ゴミ屋敷」のことである。

「ゴミ屋敷」の主を、頭のオカシイ人、精神病の人、とカテゴライズするのは容易い。だがバザーリアの論理を応用すると、この安直なカテゴライズそのものに、大きな問題が内包されている。「ゴミ屋敷」とは「狂気となる条件の表出」なのである。なぜこの人はここまでゴミを溜めてしまうのか? その背景には、「ある一つの要素を全体像のなかに位置づけなければならない」のだ。ゴミ屋敷の主と、その家族、ご近所などの「関係性」の中で、その主は、「何かに対する反応であって、生活のなかから受ける衝撃を避ける為の」「防衛反応」として、ゴミを溜めているのである。

その際に、ゴミを溜めて近所とトラブっている=オカシイ人、とイコールでラベリングするのは、思考停止である。「この病が発症している様々な社会的背景に根ざした狂気の表現方法」としての「ゴミ屋敷」を考えるなら、その人がゴミを溜めざるを得なくなった「社会的背景」や、どのような「状況の表出」なのか、を探索する必要がある。その人の異常性をのみ、探索するのではない。その人と社会との相互作用や関係性の中に、その人が「ゴミを溜める」形で表出せざるを得なかったものは何か、を探る必要があるのだ。

もう一点だけ、引用したい箇所がある。不眠を訴える患者にどう対処しますか、と聴かれて、バザーリアはこう答えている。

「眠れないと訴える患者に対する私なりの対応は、その理由を当人と一緒に探すことです。そして、症状としてではなく、本人を取り巻く全体的な状況や実存の表れとして、不眠症を理解する方法を見出す事です。」(p189)

睡眠導入剤や安定剤を処方して終わり、とは真逆の対応である。「眠れない」という形で「状況の表出」がなされている。不眠でも、ゴミ溜めでも、暴力行為でも、そのような「状況の表出」を「縛る・閉じ込める・薬漬けにする」という形で「暴力的鎮静」をしようとは、バザーリアは考えない。そうではなくて、そのような形で「状況の表出」をせざるを得ないのはなぜなのか、について「その理由を当人と一緒に探す」のである。これは、今僕が勉強しているオープンダイアローグの考え方そのものである。つまり、フィンランドでODやADがスタートする前から、バザーリアはずっと、患者とともに、病状に限定されず、「本人を取り巻く全体的な状況や実存の表れとして、不眠症を理解する方法を見出す」ことをし続けてきたのだ。

その意味では、以前にオープンダイアローグとバザーリア派の同一性をブログで整理したが、改めてそれを再確認したし、その上で、「症状としてではなく、本人を取り巻く全体的な状況や実存の表れとして」「理解」することの大切さを痛感した。それは、「狂気」を「個人の病」に閉じ込めずに、どのような「関係性」の中で、どのような「社会的背景に根ざし」、いかなる「状況の表出」の結果として、そのような「防御反応」をせざるを得なかったのか、という観点から探る必要があるのだ。

まだまだ書きたい事は山ほどある。一読目もあちこち書き込みながら、折り目を入れながら読んでいったけど、二度三度読み返しながら、色々考えたい。この本を通じて、バザーリアと何度も何度も対話したい。そういう思いで一杯になっている。この本は、僕自身のこれからの思考や実践を深める上での、ぶれない軸、というか、キーブックになりそうだ。

階級格差の自覚化

他にも読みたい・読まねばならぬ本は色々あるのだが、それを中断してでも読んだ二冊の本のご紹介。『ヒルビリー・エレジー』『CHAVS』は、合わせ鏡のような二冊である。前者はアメリカの、後者はイギリスの、主に工場や炭鉱で生計を立てていた労働者階級の白人が、新自由主義的な政策や経済のグローバル化で職を奪われた後、どのような現実を送っているか、を骨太に描く作品。と同時に、オバマの民主党やブレアの労働党が、いかに労働者階級の人の意見を代表する党ではなくなっていくのか、をも鮮やかに描いた二冊。

『ヒルビリー・エレジー』は、自らも「ラストベルト(さびついた工業地帯)」で育った著者が、高校卒業後、海兵隊→州立大学→イエール大学ロースクールを卒業して、自らの経歴を振り返る自伝的作品。京都の下町で育ち、市内でも何番目かに「ガラの悪い」公立中学校出身なので、何となく「見覚えのある風景」が描かれていた。

「不安定な家庭環境で育つ子どもの多くは、まずは逃走を試みる。しかし、正しい出口から逃げ出せるケースは非常に少ない。私のおばは16才のとき、暴力癖のある男と結婚した。私の母は、高校の次席卒業生だったにもかかわらず、卒業後すぐに、出産と離婚を経験し、十代の終わりになっても、大学の単位をひとつも取っていなかった。
鍋のなかから火のなかへ。混乱はさらなる混乱を生み、一度崩したバランスは、元には戻らない。こうして、典型的なヒルビリーの家庭が誕生する。」(p354)

通っていた中学では、タバコやシンナーを吸ったり、盗んだ原付を乗り回すような「不良」がクラスに1,2名はいた。ただ、僕は勉強を教えられるという特技があったので、そんな「不良」とも良い関係であった。「バイクのリミッターを切るとどうなるか」を教わったのも、その頃だ(僕は試してはいないが)。そんなクラス仲間たちの家庭環境について根掘り葉掘り聞いた事はないが、この本を読んでいて、30年前の彼や彼女の顔が浮かぶ。この本で描かれた「早すぎる結婚、薬物依存症、投獄といった、最悪の状態」(p305)につながる「間違った出口」からの「逃走」を、すでにその頃していた人もいるかもしれない。もしかしたら、そのうちの何人かは「典型的なヒルビリーの家庭」を築いているのかもしれない。

ふつう、非行から「最悪の状態」に陥った人は、自助努力が足りなかった、自己責任だ、と言われがちだ。だが、この本を読んでいて改めて頷いたのは、「不安定な家庭環境で育つ子どもの多くは、まずは逃走を試みる。しかし、正しい出口から逃げ出せるケースは非常に少ない」という部分だ。そう、前提として「不安定な家庭環境」があり、そこから「逃走」したいが、「正しい出口」とは違うものをしばしば選んでしまい、それが結果的に「最悪の状態」に繋がるのである。こんな環境は嫌だ、と「鍋」を飛び出したはずなのに、自分が知っている逃げ場が「火」で、さらに「混乱」の渦の中に落ち込んでいくのだ。

ではなぜ、僕は「ヒルビリー」とは違う道を歩けたのか。ありがたいことに、「不安定な家庭環境」ではなかったのが最大の要因だと思う。でも、それだけではない。

「社会関係資本とは、友人が知り合いを紹介してくれることや、誰かが昔の上司に履歴書を手渡してくれることだけをさすのではない。むしろ、周囲の友人や、同僚や、メンター(指導者)などから、どれほど多くのことが学べる環境にいるのかを測る指標だといえる。」(p342)

僕の場合、たまたま小学校5,6年の時、クラスが激しいいじめ状態にあり、学級崩壊で授業を満足に受けられなかった。中学の勉強についていけるかが不安で、中1の時に入った塾がたまたま猛烈な進学塾だった。そこで勉強の面白さや切磋琢磨する友人、まともに議論に付き合ってくれる塾長などのメンターと出逢えた事が、決定的に大きかった。偶然に転がりこんだ社会関係資本のお陰で、高校は進学校に通い、バランスを崩すことなく、大学にも転がりこめた。

そして、社会階層に大きな断絶がある、ということに気付いたのは、国立大学に入った後。友人達の親の学歴や職業を聞いてみたら、大手企業の社員や会社社長、大学教授など、僕が中学時代まで出会った事のない「家庭環境」の人びとだった。斜陽産業だった西陣織の営業マンの息子で、二人の親とも高卒、休みの日は月に一度くらい、「餃子の王将」に食べに行けるのが何よりの楽しみ、という僕の家は、たぶん友人達の中で一番親の学歴も収入も低かったのだと思う。今、大学教員という職業に就いているが、きっと職場で聞いてみたら、同じ傾向が出てくるだろう。

僕は実に幸運なことに、塾や高校、予備校、そして大学で有形無形の「社会関係資本」に出会うことによって、10代20代のシンドイ時期を何とか乗り越えてこられた。だが、そんな「社会関係資本」に出会えない社会階層に閉じ込められているのが『CHAVS』で描かれた白人労働者階級である。

『ヒルビリー・エレジー』が「うち捨てられた白人労働者階級」の内在的論理を描いた作品であるとするならば、『CHAVS』は僕のような下町で育ち、オックスフォード大学を卒業した著者による、自分のかつての近所の同世代が、なぜ「白人労働者階級」に閉じ込められているのか、そして「正しい出口」が政策によってどう封じ込められているのか、を分析した作品である。

僕はこの本を読んで、サッチャーの有名な台詞の真の意味が初めて理解できた。

「社会などというものは存在しません。個人としての男と女がいて、家族があるだけです」

これは、炭鉱労働者に代表されるような「団結する労働者階級」を徹底的に破壊するための名文句だったのだ。『CHAVS』の著者はこのフレーズの後に、以下のような分析をしている。

「保守党は、イギリスの階級区分に根ざした政党であるにもかかわらず、その事実を思い出させるあらゆるものから国民の目をそらしてきたが、サッチャー式の右派イデオロギーでも、階級について話すことを徹底的に避けた。社会のなかである集団が富と権力を持ち、ほかは持っていないということを認めてはならない。もし認めれば、修正しなければならないという結論まであと一歩になってしまう。ある集団がほかの集団のために働いて生活しているとなると、搾取ではないかという疑問が生じ、他者の経済的利益に対する自己の利益は何かと考えたくなる。それに何より、政治経済的な権力を握る目に見えない組織があることを思い出させ、富と特権への宣戦布告をうながすかもしれない。だからこそ、労働者階級という『概念』の存在は,サッチャーの自助努力の資本主義モデルの天敵になったのだ。
サッチャーは、決して社会階級をなくそうとしたわけではない。ただし、どの階級に属しているかを国民に認識させたくなかっただけだ。」(p64)

大変長い引用になったが、この部分にサッチャー、だけでなく新自由主義の本質的な分析が詰まっている。そう、資本家・為政者・富裕階級と労働者階級が対立する構造は、昔からずっと変わっていない。だが、労働者運動やマルクス主義のお陰で、20世紀後半のある時期まで、労働者階級や労働運動が社会の中で力を持ち、「社会のなかである集団が富と権力を持ち、ほかは持っていない」という問題と向き合っていた。これでは、その搾取や富と権力の集中が「修正」される危機でもある。ゆえに、「社会」の中で、そのような「修正」を求めうる「階級」の団結は、特権者階級にとっての恐るべき恐怖なのである。

この前提があるからこそ、「社会などというものは存在しません」の真の意味がみえてくる。搾取される側が「社会」を認識することで、「他者の経済的利益に対する自己の利益は何かと考えたくなる」。それは、「富と特権への宣戦布告」なので、できる限りそこは避けたい。すると、「個人としての男と女がいて、家族があるだけです」と定義し直すことで、本来なら社会構造の問題のはずが、個人や家族単位の自助努力や自己責任、やる気の問題に縮減することが可能になるのである。それは、「ヒルビリーの家庭」や「CHAVS」とからかわれる労働者階級の不良な若者達を、その状態に留め置くための「呪文」にもなったのだ。

「不良」は個人の自助努力のなさや自己責任、だけではない。「不安定な家庭環境で育つ子ども」の「逃走」、しかも「正しい出口」を求めていない「逃走」の場合がしばしばなのだ。本人は「鍋のなかから」逃げたくてもがいているのに、それが結果的に「火のなかへ」入り込むことによって、「混乱はさらなる混乱を生み、一度崩したバランスは、元には戻らない」。その状況が,不良や逸脱状況、あるいは不登校などの現象に共通することにも思えてくる。これは、管理や監視がきつくなっている学校制度や、あるいは労働環境が悪化し、非正規や賃金の安い労働にしかつけない親世代などの「矛盾」が、「不安定な家庭環境」と重なることで、一番脆弱な子どもの「身体表現」として現れたにすぎない。それは本来「社会の矛盾」の問題であり、階級格差の問題であるはずなのに、「社会などというものは存在しません。個人としての男と女がいて、家族があるだけです」と言われてしまうと、もう個人ではどうしようもなくなり、諦めるか、自暴自棄に陥るしかなくなるのである。

そして、この二つの本は、労働者階級が民主党や労働党から乖離しているか、をも指摘している。

「私が大人になるまでに尊敬してきた人たちと、オバマのあいだには、共通点がまったくない。ニュートラルでなまりのない美しいアクセントは聞き慣れないもので、完璧すぎる学歴は、恐怖すら感じさせる。大都会のシカゴに住み、現代のアメリカにおける能力主義は、自分のためにあるという自信をもとに、立身出世をはたしてきた。(略)オバマの妻は、子どもたちに与えてはいけない食べものについて、注意を呼びかける。彼女の主張はまちがっていない。正しいと知っているからなおのこと、私たちは彼女を嫌うのだ。」(『ヒルビリー・エレジー』p300-301)

「ニュー・レイバーは、財産相続や私立校を廃止する気などまったくない。あくまで中流階級に都合良く操作された社会での『メリトクラシー』を議論しているのだ。こうして、それは既存の不平等を正しいものとして商標変更する常套句になる。(略)結局、メリトクラシーは、『頂点に立っている者はそれだけの価値があるから』とか、『底辺にいる者はたんに才能が足りず、その地位がふさわしいから』といった正当化に使われる。教育の現場でも、数学や物理などの学科科目を優先し、職業訓練科目を軽んじるための理由に使われている。何をもって『能力』と見なすかという基準の精査もせずに、そういうことが決められているのだ。しかし、たとえば億万長者の広告コンサルタントは、病院の清掃員より序列の高い位置にいる価値があるのか?」(『CHAVS』p122)

億万長者の広告コンサルタントと病院の清掃員は、仕事の中身と収入が違う。だからといって、どちらの仕事の方が「より価値がある」とか「序列が高い」などとは、本来決められない。だが、「どれけ稼ぐか」という収入の基準のみを「メリトクラシー」という「能力主義」で評価基準に置くと、「『頂点に立っている者はそれだけの価値があるから』とか、『底辺にいる者はたんに才能が足りず、その地位がふさわしいから』といった正当化」がおこる。本来、その評価基準が「中流階級に都合良く操作された」というバイアスがかかっているのに、「底辺にいる者」は、その環境要因について判断されることなく、「たんに才能が足りず」と切り捨てられる。

そのような経験をしてきた労働者階級にとって、「ニュートラルでなまりのない美しいアクセント」や「完璧すぎる学歴」は、「メリトクラシー」=「能力主義」を「自分のためにあるという自信をもとに、立身出世をはたしてきた」オバマやブレアは、社会の勝ち組にみえる。自分自身と比較すると、「共通点がまったくないので、「恐怖すら感じさせる」。彼らのいう正しさは「既存の不平等を正しいものとして商標変更」したものであるが、「正しい」と自分でも思うからこそ、文句は言えない。よって、「オバマの妻は、子どもたちに与えてはいけない食べものについて、注意を呼びかける。彼女の主張はまちがっていない。正しいと知っているからなおのこと、私たちは彼女を嫌うのだ」という思考回路に陥るのである。

この二つの本は、アメリカやイギリスが、輝ける20世紀の最後の四半世紀あたりから、つまりはレーガンやサッチャーが新自由主義に舵を切ったあたりから、国内の第二次産業の空洞化や工場労働の国外移転に伴い、そこで働いていた労働者階級が団結して自らの階級を引き上げる力を失い、労働者階級による「社会」的連帯が薄れ、「個人」や「家族」としてバラバラにされ、既存の不平等をデフォルトにした「メリトクラシー」=「能力主義」の一元的尺度で序列化され、その結果に関しては「自助努力」「自己責任」と切り捨てられていったプロセスを、実にわかりやすく描いている。トランプ政権誕生やBrexitにみられるのは、そのような労働者階級の有権者が、どこに不満をぶつけていいのか、誰に夢を託していいのかわからない状態での、憤りの声である。そして、20世紀後半に比べると、この10年くらいの間に、明らかに「階級格差」が目に見えてきたことに、政治が対応出来ていない、という証拠でもある。

そして、上記の記述は、もちろん日本にも当てはまる。日本から急激に「社会」的連帯の概念が消え、「個人」と「家族」の「自己責任」が強化されつつある。そして、不平等を前提とした「能力主義」に基づく序列化も、強くなりつつある。

僕の父は、会社に入った時は毎年新入社員が100人だったが、退社する時は社員の総勢が10人にも満たなかった。だが、何とか定年1年前まで勤め上げ、退職金も受け取れたので、僕の大学の授業料まで、出してもらうことが出来た。だが、もし父の会社がもっと早く斜陽化していたら、僕は塾に通えず、大学院どころか、大学だって行けたかどうかは、わからない。僕が勉強して大学に受かって、という「能力主義」を発揮するためには、そもそも親が失業せず、あるいは不安定な家庭状況ではなく、という土台が必要なのだが、その土台も「自助努力」や「自己責任」とされたら、どのような階級の下で生まれるか、で人生が決まりかねないのだ。

それは、嫌だ!

そんな嫌な社会にならないために、これから僕には何ができるのか。

この本を読んで、真剣に考え始めている。