観察からの気づき

今日は娘の通うこども園の父親懇談会。園からのお手紙には、子ども達の楽しんでいる遊びを父親にもしてもらいます、と書いてある。妻に聞くと、がっつり走り回る系だという。実はそれもあって、僕は数日前から、ちょっぴり憂鬱で、かなり緊張していた。

僕のことをちょこっと知る人は「信じられない」と言い、よく知っている人は「でも、そうだよね」と納得してくれるのだけれど、僕は緊張しいで人見知りでびびり、である。ただ、職業柄、見ず知らずの人に向けて講演や研修をする機会も多く、初めての人とも社交的にしゃべるので、それを知る人には「信じられない」と言われる。でも、僕をよく知る人なら、初めての場所に行くときに苦手意識を持っていたり、知らない人ばかりだと極度に緊張して早口になったり、声が大きくなったりするのに、気づいている。出かけてしまうと、その場に馴染んで楽しんだりするのだが、そこに行くまでの心理的障壁が高い。昔から集団行動は苦手なので、サッカーとか野球には誘われても出来ることなら加わらなかったし、仕事じゃなければ新しい場やチャレンジも、実は消極的だったりする。なじみのない場だったら、そわそわして早く帰りたくなる。運動音痴で、走るのも、ボールの扱いも下手くそなので、そういう「遊び」の場では、どんくさい自分が足手まといになって、惨めな思いをするのでは、と想像して、暗くなる。。。

今朝も朝からグズグズしていて、不安はマックスになり、妻に「大丈夫かな」とかウダウダ言いながら、自転車をこいで園まで出かける。普段から送り迎えを分担しているので、顔なじみの先生はいるけど、4月に入園したばかりで、父親の知り合いは、ほとんどいない。そういう場だからこそ、緊張感がマックスになる。

でも、実際にその場でアクティビティに参加すると、それなりに楽しんで走り回っている僕がいた。40年前とは違い、週に2度ほどジョギングを続け、合気道と登山で体力もつけていたので、なんとか息も切れずに走り回ることもできる。そして、1時間ほど炎天下で汗をかき、その後理事長先生の講話を聞きながら、ふと気づいたのだ。娘も、同じプロセスにいるのかもしれない、と。

ここ最近、娘は毎日のように「明日は園に行かない」という。朝から結構ぐずる。チャリや車に乗せて連れて行く途中でも、めそめそする。園について、先生に手を引かれても、こちらに追いすがるように見ている。でも迎えに行くと、ニコニコと笑いながら園から出てくる。毎朝のぐずぐずが一体どうしたんだと言う位、朗らかに楽しそうである。この落差は一体なんだと思っていたが、答えは簡単。父と一緒で、緊張しいで、新しい場所が苦手で不安なのである。

父親の緊張しいで新しい場所になじめない性質は、娘に着実に引き継がれている。娘が毎朝園に行くのをぐずるのは、園が嫌いだからではなく、新しい場所に適応できるかどうかの不安なのだ。3歳だけの集団ではなく、4歳や5歳の子と一緒に遊ぶ中で、自分がその集団の中で交わっていくことができるのか、そこでうまく適応できるのか、自分の仲間ができるのか、安心できる場としてその場を信じれるのか、自分の居場所だと思えているのか、が、まだ不安定なのだ。そしてその不安や心配事は、実に人間的であり、実にとうちゃんと同じような不安なのだ。

いい汗をかいて、ほどほどにくたくたになって、楽しい気分で帰り道に自転車をこぎながら、父である僕は、数日前からの緊張が何だったのだろうと振り返る。子ども時代との違いは、その緊張について、自分なりに振り返り、観察することができること。そういえば理事長先生は講話の中で、観察こそ全ての物事のスタートだ、とおっしゃっていた。子供は観察をする中で、全体像をイメージし、そこから自分のやる世界を掴み取ると言う。毎日の遊びの中で、ざっと全体像をつかみとり、瞬時に判断し、的確に行動していく力を身に付けていく。子供は遊びが仕事だ、とはよく言われるが、まさに娘は遊びながら観察をし、遊びながら世界をつかもうとしているのである。

この観察という概念は、娘が世界をつかみ取る補助線であるばかりか、父が娘の内在的論理を理解する上での手がかりにもなる。PDCAサイクルのような計画制御ではなく、子供と共に生きること、はまさに想定外の世界の連続。その中で、娘が観察を通じて全体像をつかめるように、父や母がアシストできるかどうか。娘を観察しながら、娘の観察力が育つように応援できるかどうか。そのメタな観察力が、大人のとうちゃんには求められているのだと改めて気づかされる。

すると父親が苦手なこと、しにくいこと、不十分なことを分析することで、娘自身の苦手なこと、できにくいこと、イライラすることにも想像が及ぶ。僕自身を観察しながら、その観察から得られた知見を、娘の内在的論理を理解するための補助線として用いることもできるのだ。要はどれだけ深く自分を、そして娘を観察することができるのか、が問われているのだと思う。今日は父の日、僕は父になってまだ3年あまり。門前の小僧である。娘を観察しながら、娘から観察されながら、自らの観察力を鍛えていきたいと思った、気持ちの良い日曜日であった。

 

合気道における機能美

合気道の岡本洋子師範の著書『武道は世界を駆け巡る』(あいり出版)を読む。この時期合気道が出来ないままなので、たまたまYoutubeを見ていたら、岡本師範の動画を見つけて、釘付けになり、買い求めた。彼女はフランスやアメリカで生活をしていたこともあり、世界各国で合気道を教えている。たまたま見つけたブラジル合気会の稽古動画の冒頭で、非常に興味深いことを言っていた。

「みなさんには、動きの形ではなく、動きの機能を見てもらいたい」(I would like you to see the function of  the movement, rather the form of the movement.)

とにかく師範の動きは、惚れ惚れするほど美しく、機能的である。彼女より遙かに大男の有段者を前にしても、力まず、全身の機能をそのものとして使いながら、相手を導いていく。力を使わなくても、流れるように、相手は師範に誘われて、勝手に倒れていく。僕はまだまだ力んでいるのが課題なのだが、小柄な師範は投げている時でも軸が恐ろしいほどスッとしているので、力まずとも、相手は師範に吸い込まれるように、師範のなすがままに、流されている。本当に機能的で美しい所作。その理由が師範の本にも書かれていた。

「私は合気道の美しさは、中心と軸のぶれない無駄のない動き、いわば旋律の中に、呼吸という生命のリズムを吹き込んでいくことによって生まれると思っている。ここにいたるには、取りは技を磨き、受けは一本一本先入観のない攻撃で体幹(腹)から相手にぶつかっていくことによって初めて可能になる。受け、取り、ともに関節も足も固まってはいけないし、軸が崩れすぎてもいけない。」(p22-23)

とにかく岡本師範の動きをみていたら、「中心と軸のぶれない無駄のない動き」が音楽の旋律のように流れている。僕のがバタバタしてとにかくめちゃくちゃに音を吹きまくる、ガヤガヤ騒音だとしたら、岡本師範の動きは本当に美しい旋律だ。どこも固まっていないし、軸は崩れてはいない。単に形を再現するのではなく、軸に息吹を吹き込んで、流れを作り出している。

「体現されていく形に相違があっても、私たちが学び伝承していかなければならないのは師の表現方法ではなく、技の本質と原理であり、そうでなければ合気道という武道はやがて消滅してしまう。だから、先生の表現法だけを真似しても何にもならない。」(p97)

この指摘に、グサッとくる。僕はまず形を覚えるのが人一倍時間がかかり、すぐに忘れてしまうので、有段者になっても、必死になって形を再現している部分がある。きれいに形を再現出来ているかな、と。でも、それではだめだ、と岡本師範は指摘する。形に込められている「技の本質と原理」をこそつかまなければならない。それが師範が稽古で「動きの形ではなく、動きの機能を見てもらいたい」と伝えている真意でもある。形という表現法が表層だとしたら、深層部分にある「技の本質と原理」を探求し自分のものにするための模索を始めないと、単なる真似っこで終わり、それ以上は成長しない、と。

「形を何度も反復して練習した結果、その形しかできなくなってしまったのでは本末転倒です。反対に形をおろそかにして、気に入った動きだけ練習していても、我流になってしまう恐れもあるばかりか、技も体軸も身体の芯も身につきません。両方とも大切にして稽古をしないと必ず限界がくると思います。」(p126)

僕は合気道を始めてちょうど10年になる。山梨で初めて、途中から週2,3回はコンスタントに通い、山梨を離れる時には二段まで頂けた。そして、姫路に引っ越してきて、こちらの合気会道場にお世話になっているが、子育ても大変だったので、なかなか稽古に取り組めなかった。で、今年から本腰を入れようと思った矢先に、コロナ危機で3ヶ月以上稽古が遠ざかっている。その間に岡本師範の本を読んだ時に、僕自身が「限界」を感じてモヤモヤしていたと気づかされる。「形を何度も反復して練習した結果、その形しかできなくなってしまった」のは、まさに僕自身だったし、その結果として「技も体軸も身体の芯も身につ」いていなかった。だから、自分自身でも、合気道への情熱が消えかけていた。

しかし、岡本師範は「動きの形ではなく、動きの機能を見てもらいたい」と伝え、「私たちが学び伝承していかなければならないのは師の表現方法ではなく、技の本質と原理であ」るという。動きの機能=技の本質と原理を観察し、それを自分で出来るように練習していく。形が一応最低限身についたからこそ、動きの機能を洞察していく。それが、コロナ危機直前になって、稽古がちょっとずつ面白くなってきた、そのことをズバリと表現している部分だった。

そして、これは合気道に限ったことではない。

僕の本業につなげてみても、論文の形を再現出来るようになったところで、伝えたい内容の本質と原理を洞察して、それを言語化しない限り、つまらない業績作りのためだけの論文になってしまう。もちろん、最低限の文章の形を覚えることは、研究者の入り口としては大切だ。でも、大切なのは研究対象やテーマと自分が向き合う際、自分自身の中心と軸をぶらさず、対象・テーマとの間で旋律を奏でながら、流れを生み出し、流れを導いていく必要がある。それが出来た文章は、論文であれ、書籍であれ、対象と自分の呼吸が合うことで、無理のない形で論理が動き、実感が読者にも伝わる。僕が力みすぎては、伝わらない。あくまでも、対象やテーマとうまく呼吸を合わせ、流れを大切にする。その流れを阻害しない形で、僕は本質や原理、機能を、そのテーマの中で落とし込んでいく。それが決まると、多くの読者に届く文章が生まれてくる。

稽古が再開されたなら、僕も一から動きの機能や技の本質と原理を洞察し、それを稽古の中で一つ一つ仮説検証し、身につけていきたいと心から思う。そして、普段の日常生活の中でも、仕事や子育てでも、それぞれの動きの機能を観察し続ける感度を持っていたいと思う。そう思うと、稽古のない中でもできる稽古テーマを与えて頂いたのかも、しれない。

言葉による問いかけ

昨晩、以前斜め読みしていた国谷祐子さんの『キャスターという仕事』(岩波新書)を読み返していた。そこで、キャスターの役割として、「視聴者と取材者の橋渡し役」 (p68)と書かれていた。それを読みながら、僕が今、授業でしていることも、「学生と理論や実践との橋渡し役」としては、似ていることをしているな、と感じた。その上で、希望は別の形で叶うのだな、とも思って、にんまりしていた。

僕には賞というものとこれまで殆どご縁がなくて、生まれて初めて書いた査読論文で学会賞を頂いたのと、小学校6年生の時に京都市小学校放送コンクールで優勝したことしかない。で、今日のお話は後者の方である。実は僕にとってキャスターは憧れの存在だった。

小学校の頃からニュースステーションを見ていたし、久米宏の洒脱なスタイルと、それでいて政治や社会に切り込んでいく番組スタイルに格好いいなぁ、と思っていた。僕はテレビっ子だけどしぶいガキでもあって、報道特集とかNHK特集とかも色々見ていたので、キャスターへの憧れを強くしていた。で、件の放送コンクールでは、他の学校の放送部の子たちが滑舌よくしゃべっているのをモニタ越しに眺めて、普通にやったら勝ち目がない、と思っていた。そのコンクールでは、確か植村直己の南極物語か何かの写真集を紹介するのがテーマで、写真集もそこにあるのに、誰も使っていない。ならば、僕は変化球で行くしかない、とばかりに、僕の番が回ってきたら、写真集をめくりながらアドリブを勝手に加えて、その本を紹介してみた。久米宏ならこんな風にしていそう、と。その後、他の学校の子たちも僕のスタイルを真似たが、こういうのは一番最初にやったもん勝ち。というわけでは、正攻法ではない形で、受賞が決まった。

その後、キャスターは顔がシュッとしていないので無理だと諦め、新聞記者に憧れたが、高校生の時に別冊宝島のザ・新聞記者、とかいうタイトルの暴露本を読んで、新聞記者にもなれないかなぁ、と諦めかけていたのだが、大学院に大熊一夫氏が着任することを知り、ジャーナリストの弟子になることに決め、以来四半世紀近く、気づけば福祉領域におけるジャーナリストと研究者の間のようなスタンスで仕事をしている。

で、国谷さんの本に戻ると、テレビ報道の危うさを次の三点としてまとめている。

①「事実の豊かさを、そぎ落としてしまう」という危うさ
②「視聴者に感情の共有化、一体化を促してしまう」という危うさ
③「視聴者の情緒や人々の風向きに、テレビの側が寄り添ってしまう」という危うさ(p12)

実はこれは大学の授業の危うさとも重なることがあると思いながら読んでいた。オンライン講義を始めて、改めて授業が90分番組であると深く意識しながら、毎回毎回の授業を仕込み直している。その中で、何かをテーマにするということは、「事実の豊かさを、そぎ落としてしまう」という危うさがあると感じている。また、わかりやすい授業内容にすると、「感情の共有化、一体化」の危険性があるし、さらに言えば教員のディレクションによっては「人々の風向き」を作り出してしまう危険性もある。その危険性を熟知して、②について体験型授業の形で危険性を伝えておられるのが、こないだブログで紹介した田野さんのファシズムの体験授業だとも感じた。

③に関して、井上ひさしが「風向きの法則」と呼んでいたものを国谷さんは紹介する。

「風向きがメディアによって広められているうちに、その風が大きくなり、誰も逆らえないほど強くなると、『みんながそう言っている』ということになってしまう。『風向きの原則』が起きるのだ。」 (p19)

これに関して言えば僕の授業は、「みんながそう言っている」という「風向きを問い直す」ことを、ずっとしているのかもしれない。「縛る・閉じ込める・薬漬けにする」は「しかたがないのか?」、とか「ゲーム依存は条例を作って規制するしかないのか?」とか、「他人に頼らず独り立ちすることが自立なのか?」とか。こう書きながら気づいたのは、僕はずーっと様々な常識を問い直すことだけを、しつこく授業の素材として取り上げ、学生たちに問い直す仕事をしている。国谷さんも「キャスターは、最初に抱いた疑問を最後まで持ち続けることが大切だ」「しつこく聞く」(p140)と書いているが、僕も学生たちに「しつこく聞く」。

「キャスターとしての仕事の核は、問いを出し続けることにあったように思う。それはインタビュー相手にだけではなく、視聴者への問いかけであり、そして絶えず自らへの問いかけでもあった。言葉による伝達ではなく、『言葉による問いかけ』。これが23年前に抱いた、キャスターとは何をする仕事かという疑問に対する、私なりの答えかもしれない。」(p175)

このフレーズを改めて読み直した時、僕が15年かけて授業でし続けてきたことも、「言葉による伝達」ではなく、「言葉による問いかけ」だったのだな、と改めて気づかされる。「伝達」だけなら、言葉より文字の方が正確だ。なので、最近は知識に関しては、教科書や資料を事前に読んできてもらったり、オンデマンド課題として出すことにしている。その上で、授業では「伝達された言葉」に付着する「風向き」に関して「言葉による問いかけ」をし続けている。これはオフライン講義時代からずっとしてきたことだし、オンライン講義に変わっても、それをし続けている。そして、毎回学生たちへ問いかけながら、もちろん僕自身にも問いかけるし、素材として扱ったテーマに関しても問い直す。そういう「言葉による問いかけ」をずっとしてきたし、もちろん今日も1限の講義でそれをする。

そう思えば、キャスターにはなれなかったけど、別の形でキャスター的に仕事をしているのだな、と気づくことができて、なんだか嬉しいような気分になり、また自らの仕事のあり方を見つめ直す機会にもなった。

読書の殻を破る

僕は最近じぶんの頭が固いなぁ、と痛感する。このコロナ危機において、様々なことを変更したり、新たに立ち上げるときに、柔軟性がないなぁ、とほほ、と思いながら、一つ一つ積み上げていく。そのなかで、最近読書の殻を破る出来事があったので、それをメモ書きしておきたい。

「書物において大事なものは書物の外側にある。なぜならその大事なものとは書物について語る瞬間であって、書物はそのための口実ないし方便だからである。ある書物について語るということは、その書物の空間よりもその書物についての言説の時間にかかわっている。ここでは真の関係は、二人の登場人物のあいだの関係ではなく、二人の『読者』のあいだの関係である。そして後者の二人は、書物があいまいな対象のままであり、二人の邪魔をしない分、いっそううまくコミュニケートできる。」(『読んでない本について堂々と語る方法』ピエール・バイヤール著、ちくま学芸文庫、p243)

この本も実のところ、20〜30分程度の斜め読みだった。で、これまで僕自身は「斜め読みはすべきでない」「ちゃんと読んだ方がよい」という思い込みに支配されていた。でも同書はその思い込みは本の神聖化であり、「通読義務」に支配されている、と喝破する(p11)。実は松岡正剛とか佐藤優など読書家の方法論ではこの種のことへの警鐘はなされていたと記憶しているが、僕自身は知識で知ってはいても、実践出来ていなかった。では、この本で神聖化と通読義務をやめてみよう、と、ざーっと気になることだけ流し読みした際、上記のフレーズが一番引っかかった。そう、「大事なものとは書物について語る瞬間であって、書物はそのための口実ないし方便」なのだ。そして、裏を返せば、書物について語らなければ、書物はただの紙くずになってしまうのだ。

そこで紙くずエピソードを。

先週末、てっちゃんが主催するオンライン読書会に誘われ、NVCの本を読むことになっていた。でも、自宅の書棚を探しても見つからない。そもそも、その自宅の書棚は収納能力を遙かに超えて、ぐっちゃぐちゃ。一部の書棚は、姫路に引っ越してきた2年前から触っていなかったり、エントロピーが増大しまくりで、何が突っ込んでいるのか自分でもわからない状態。これは、と一念発起して、4時間かけて本棚をひっくり返して、しばらく使わない本や処分すべき本を間引きして、「いま・ここ」の関心に基づいて本棚を再構築した(本棚の並べ直しの効用は松岡正剛の読書論に確か書かれていたような)。で、本棚を再構築してみると、斜め読みでもしたい本がざくざく出てくる。そして、僕はこれらの本のうち1割しか読んでおらず、2割は目次を見た程度で、7割以上は死蔵している。これは、膨大な紙くずの所蔵だと、ほこりまみれになりながら痛感した。そして、どうせなら本との向き合い方を変えたいし、ざっくりとで良いから目を通す率を上げたいな、とも痛感した。

そんなことを思いながら、4時間かけて整理した家の書棚に当該本はなく、大学で二度ほど探したけど見当たらず、読書会の直前に仕方なしにKindleで注文しようとしたら、2018年に購入済み、と書かれている。なんと、リアルな本を持っている「つもり」になっていたのに、Kindleで買って、中身をチェックしたら線を引いて読んでいる!しかも、そのこと自体を、今になってやっと思い出す。紙くず、だけでなく、電子データも使わなければただのデータ、ですね。

長い前置きになったが、紙くずやただのデータ、を越えるための一つの有効な方法論が、「書物について語る」読書会なのだ。てっちゃんの読書会の特徴は、未読の本でもとりあえず30分で読み切ってみる、という姿勢にある。

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2:読書タイム(1人)
→30分間、全力で本を読む。最初からでなくてもok。飛ばし飛ばしとか、目次から読むとか、まとめから読むとか。
3:ペアでシェア
→10分間ペアで、本の概要や、気になったところ、わからないところを共有
※『ペア読書』の記事でも書かれていますが、ここでペアでやることにより、かなり集中する。
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実は今回で彼がホストの読書会に参加するのは二回目なのだが、2回とも30分で全体を飛ばし飛ばし眺めることは出来た。しかも、Kindleだと、重要な部分をマーカーで引くだけでなく、ワードにコピペまでして読書メモを作りながら、30分で大まかな全体像をつかむことが出来た。それだけでも、「通読主義」とか本を神聖化していた僕にとっては驚きである。その上、「ペア読書」がすごくよかった。

「二人は、書物があいまいな対象のままであり、二人の邪魔をしない分、いっそううまくコミュニケートできる」

バイヤールが指摘しているように、初めて30分読んだ二人は、「書物があいまいな対象のまま」である。だからこそ、ブレイクアウトルームで初めて出会った二人であっても、「あいまいな対象」を共に探索する関係性に瞬時に変わり、「いっそううまくコミュニケートできる」という特性を持っている。これは、大きな発見である。しかも、その後の休憩時にZoomのチャットにお互いが中間振り返りや気づきを書き込み、再度5〜8分程度で再読した上で、3人で話し合うと、本についての語りが膨らんでいく。「あいまいな対象」の書物を通じて、読書会に集った人が、「いま・ここ」の対話を重ね、それがポリフォニックに響き合っていく。これは、一人で読むことでは出来ない体験である。

そういう経験をしているうちに、2時間半はあっという間に過ぎ去った。最後のチェックアウトタイムの前に、もう一度チャットにお互い感想を書きあった上で、チェックアウトをすると、その書き込みも見ながら、お互いの異なる声を響かせあうことができる。2時間半前には出会っていなかった書物とも、そして読書会のメンバーとも、豊かな対話が出来る。これは、面白い。

なので、そのうち僕もZoom読書会を主催してみようと思った。

あと、一人で読む時も、30分で読みきるのは、死蔵しないためにも、すごく大切。新書レベルなら、充分に出来そうだとおもって、昨晩整理して出てきた一冊の新書を読み切ってみる。十分に可能だ。しかもそれを10分程度でメモ書きすると、頭にさらに残る。これは、一人で読んだ後に、「一人語りする」という効能もあると思う。

もちろん、その一方でじっくり一人で読んで考える読書も続けている。通読主義を捨てる、というより、それ以外の読書経験も広げてみるチャレンジ、という感じかな。というわけで、紙くずやデータの塊で死蔵しないためにも、これまでの読書に加えて、30分読書もこれを機に、始めてみようと思った。

読書の殻が40も半ばにしてやっと破れるのではないか、と、ちょっとわくわくしている。

以下に30分読書メモをつけておく。

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部屋を整理していたら出てきたこの本を斜め読み。
『コミュニティー・キャピタル論~近江商人、温州企業、トヨタ 、長期繁栄の秘密~ (光文社新書)』
実はイタリアでのCOVID-19の大流行に温州人の動きがある、という話を聞いていたので、読んでみた。この本は、国を超えて商圏を広げる集団の凝集性に関するネットワーク論で、その実例として近江商人とトヨタの系列企業と共に、温州企業を挙げている。で、メンバー累計として、「現状利用型」「動き回り型」「ジャンプ型」「自立型」の四つをあげ、温州人は他の中国人と違い、直近の人間関係だけでなく、全く新たなに独力で遠方に及ぶダツコミュニティ的人間関係を構築する「ジャンプ型」が多い、と整理する(p101)。実際、イタリアだけでなく欧州各地で活躍する中国人のトップに温州人がいるのは、このジャンプ型ゆえだ、と。
そして、このジャンプ型は、知恵とお金だけでなく、時にはウィルスも一緒に運ぶと考えたら、物事がすっと通りやすい。でも、これは中国人だけの問題ではない。日本におけるジャンプ型である首都圏の人々が全国に出張なりに出かけて、ウィルスが広がったとすれば、同じことは全世界中の「ジャンプ型」で起きている。しかも、「ジャンプ型」は、市場主義経済におけるネットワークの結節点にあるのだ。
「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」が近江商人の基本だった。だが、まさにこのコミュニティ・キャピタルの全世界的横断が、今回のCOVID-19の全世界的流行に繋がったとすると、そのネットワーキングの強さと迅速さを、ネガティブな形で証明した、ともいえるような気がする。
この本に書かれていた「刷り込み→同一尺度の信頼→準紐帯」という枠組み自体はグローバル化で不可逆的に進行しつつあるようにも思う。それが経済のポジティブな紐帯であれ、ネガティブなウィルスの紐帯であれ。