「生きる苦悩」と出会う訪問診療

日本では、諸外国に比べて、精神病院からの脱施設化がなかなか進んでいない。これは、もちろん制度的問題が大きいのだが、それだけでなく、「受け皿がないから」とよく言われる。家族で抱えきれない、地域で支え続けることができない、そういう「重度障害者だから入院・入所もやむを得ない」という論理である。ただ、これはあくまでも日本的な表現である、とも言われている。障害者権利委員会のラスカス副委員長は、先日の日本滞在時に以下のように発言した。

「日本では、『重度障害者(person with severe disability)』という言葉をよく使います。しかし、それは医学モデルに基づく言葉、医学モデルの評価です。人権モデルでは『より多くのサポート(those who require more intensive support)』と表現します。
ラスカス教授によると、「重度障害」「重度障害者」という表現は「重度だからできない。重度だから考えられない」につながり、ほかの人との平等、尊重の考え方にそぐわないという。」(障害者教育、国連が日本に突きつけた厳しい課題

重度障害者だから入院・入所もやむ得ない。この言葉は僕もしばしば耳にしてきた。精神医療に関しては、「重度かつ慢性」なるカテゴリーもあって、そういう人は退院促進の対象外である、という認識もなされている。だが、重度障害者を『より多くのサポート(those who require more intensive support)』が必要な人、と捉えると、視点が全く異なる。地域の中で「より多くの・集中的な支援」がなされたら、精神病院に入院し続ける必要はないのだ。

では、地域の中で「より多くの・集中的な支援」を具体的にどうすればよいのか。その課題に真正面から向き合う良書と出会った。青木藍さんの『暮らしを診るこころの訪問診療』(日本評論社)である。

訪問診療やACTなど、精神科における在宅診療の前提知識がない人には、第一部の「訪問診療の基本」を読むと、その流れを大まかにつかむことができる。そして、僕自身がすごく興味深く読んだ、この本の売りは、第二部の「支援の現場から」における、具体的なエピソード事例である。各章のタイトルにあるように「障害が重たい人の生活を地域で支える」「日常生活が少しでもよくなるように支援する」「粘り強く関係を構築する」「支援の枠組みを作る」「関係構築の失敗」「主体的なかかわりを引き出す」「家族を支援する」と、実にバラエティに富んだエピソードが語られる。AさんからVさんまで、23人の「生きる苦悩」と出会うだけでも、ずいぶん心が揺さぶられる。

そして、様々な「生きる苦悩」に出会う青木さんや訪問チームの視点がすごくいいな、とも感じている。例えば訪問は受け入れるけど服薬をかたくなに拒否するFさんへのアプローチについて、こんな記載があった。

「変わらないように思える拒絶的な態度の裏に、Fさんなりに訪問診療を受け入れているのではと考えられるサインに気づいた。たとえば、いつも訪問の時間に合わせて玄関の鍵を開け、スリッパと座布団を準備してくれる。予定より早く訪問したときやFさんが予定を勘違いしていたときには鍵は閉まっているし、スリッパも出ていない。そして、スリッパと座布団がしょっちゅう新しくなっている。家の調度品は30年は経っていそうな古いものばかりで、新しいものといえばスリッパと座布団だけなのである。また、Fさんはよほど寒くならなければこたつのヒーターを使わないのだが、訪問するとわざわざヒーターをつけてくれることもある。」(p103)

この記述を書き写しながら改めて感じるのだが、観察するまなざしが、やわらかく、深い。スリッパや座布団、ヒーター、というのは、「ごく当たり前」の調度品である。だが、その調度品がどのように使われているか、という「モノの状態」は、実はモノと人の関係性、あるいはFさんと訪問チームの関係性を表す、それを象徴する「モノの状態」なのである。それを、訪問の繰り返しの中でキャッチし、受け止めていく。この視点が、すごくいいな、と感じる。

診察室で患者さんを迎えるとき、医師は自らのホームで患者さんを診る。僕も経験があるが、診察室ではどきどきして、言いたいことが半分もいえない。一方、患者さんの家に医師が訪問する時、相手のホームに医師は乗り込む。医師の方が当然ドキドキする。

そんなアウェーの場に出かけるとき、訪問診療の現場で、何をどのように見て、どの部分を観察するか、は、医療チームにおいても千差万別だろうと思う。法律上では、単に患者の身体と話すことのみを観察する点が求められているし、それができればOKとなっている。でも、それでは「診ることのできる範囲」が限定的である。訪問先の部屋の様子を観察すると、整頓ができているか、ゴミ屋敷なのか、などが色々見えてくる。だが、そのような「相手の状態を理解する」ことにとどまらず、青木さんの記述の中に出てくるのは、「モノが象徴する相手と自分の関係性」の観察、である。そこまで診ていくと、訪問することによって、診察室で見える風景と違う何かを理解できる。そして、「生きる苦悩」が最大化して、それが精神症状と結びついた患者さんを診察する際、「患者の身体と話すことのみを観察する」こと以外で得られる情報が決定的に大切になってくるのだ。これは、知的障害を伴う自閉症のTさんとの非言語的なコミュニケーションでも見えてくる。

「訪問診療を続けるうちに、Tさんの叫ぶ声にも、気持ちのいい声のときと、イライラして苦しい声のときがあることに気づいた。『今日は穏やかないいお声ですね』などと言うと、母親が『そうなんです。実は今週は朝機嫌が悪くて、もう通所できないかなと思っていたら、持ち直して午後から行けたということがあったんですよ』『あんまり通所できていないんですが、玄関に座って外を見ているんですよ。気持ちが外向きになってきたんだと思います』などTさんの細かい変化を話してくれるようになった。母親がこのように話すと、Tさんはこころなしか嬉しそうであった。」(p178)

クライアントの状況を、言語的で論理的な訴え、のみに限定して観察すると、スリッパや座布団は入ってこないだけでなく、「気持ちのいい声のときと、イライラして苦しい声」といった声の変化もなかなかキャッチしにくい。でも非言語的なコミュニケーションが主流であるTさんに関しては、その「叫び声」の質的違いを捕まえることができると、より深い理解が可能になる。こういう観察眼の豊かさは、本書の随所に出てくる。それに関して、以下のような記述もあった。

「<メモ>さりげなく観察する
生活環境の観察は重要である。しかし、ジロジロと評価するように見られるのは患者さんにとっては不愉快であろう。筆者は、室内に入り、患者さんが先導しているときや、書類にサインする間、書類を取りに行っている間、退去する際など、患者さんの注意が筆者に向いていないときにさりげなく観察するようにしている。何気ないものや出来事をこころに留めておくことが、支援に役立つように思う。」(p116)

これを読んでいて、あー、やっぱり一緒だ、と思った。何と一緒なのか。それは、「名探偵コナン」である。コナンは、警察の公式見解や人々の話すことを、鵜呑みにしない。いろいろな人と話をしながら、さりげなく観察しながら、声のトーンやモノの配置・状況、モノと人との関係性までを「さりげなく観察する」。そして、そういう情報を関連付けて統合した上で、真犯人を見つけていく。僕はアセスメントにおいて、そのような主観・客観の混ざった断片的情報を関連付けていくことが大切だと思うし、仲間と作った『困難事例を解きほぐす』(現代書館)の中でも、そのことは整理した。

そして、青木さんの本を読んでいても感じるのは、地域の中で「より多くの・集中的な支援」が必要な人と向き合う際に、青木さんがされていたようなアセスメントを豊かにすることで、支援が可能になっていく、ということだ。逆に言えば、診察室での3分診療では見えない何かを捉えることで、クライアントの最大化した「生きる苦悩」と向き合うきっかけになると改めて感じた。

この本は、訪問診療に携わる医療者だけでなく、相談支援や訪問介護・看護にも関わる多くの実践者が読んでほしいな、と思う、実に読みやすい一冊だった。