「収奪や暴力」の自覚化と超越

恐るべきスピードで本を出しまくっている佐藤優氏。その氏の著作の中でも、マイナーな出版社の本であるが故に、目にとまりにくく、一見すると関係性が低いと思われる事を結びつけた著作がある。それが『官僚階級論』(佐藤優著、にんげん出版)だ。官僚の内在的論理を読み解くために、『資本論』や公共圏だけでなく、聖書やナチスまで持ち出しながら、縦横無尽に説いていく一冊、新書とはいえ、風呂読書で1時間読了、という訳にはいかない、スケールの大きさと深い掘り下げに唸らされた一冊。それもそのはず、彼自身が官僚階級論の表も裏も味わい尽くし、獄中以後、本との格闘の中から彼を追い出したその論理をあぶり出した張本人だからである。
そんな彼だからこそ、官僚の本質をずばりと射貫いている。
「国家は税金なくして成り立ちません。そして国家を運営する官僚は、社会の外側にいて、社会から吸い上げる税金で生きている存在だと、私はみているわけです。それは暴力の独占を背景とした収奪機構の民主主義です。その暴力と収奪を組織的に行使する集団こそ、官僚階級です。」(p35)
一見すると、かなり物騒な表現である。僕は福祉領域で働く公務員の方々としばしば仕事を共にするが、彼ら彼女らが「暴力と収奪を組織的に行使する集団」とは思いにくいし、本人を前にしてそう言う気にもならない。だが、佐藤氏も指摘するように、脱税すると東京地検特捜部が捜査し、重罪とし刑務所に入れられる、という論理は、税金を「収奪」し、時にはそれを「暴力」を伴っても行使する集団、という説明そのものである。
「国家の実態は官僚です。軍人も官僚です。『国家の運営』とは、官僚が一般意志を体現しているというフィクションの上に立って、じっさいは官僚のやりたい放題にすることです。ボナパルトやヒトラーや小泉、安倍という対抗革命のなかにみなければならないのは、民主主義制度の裏側で、『われこそが一般意志を体現している』と思い込んで、恣意的な正義を行使しようとする官僚の存在です。ただしそれは、悪意をもって大衆をだましてやろうということではありません。」(p230)
僕自身、実はこのような「官僚のやりたい放題」を垣間見たことがある。何度も書いているが、2010年から2011年にかけて、障害者制度改革に関する国の審議会の委員になった。これはちょうど4年前にシノドスに書いたことだが、30代の若造が国の委員会の委員になれたのは、ひとえにその時が民主党への政権交代のシンボル的政策の一つであり、官僚主導ではなく、政治任用された内閣府の担当者から、厚労省がこれまで手がけなかった「精神病院や入所施設からの地域移行」を本気になって制度化する為に手伝ってほしい、と依頼されたからである。つまり、官僚の前例踏襲主義を打ち破るために、国の委員になった。(と気づいたのは、就任した後になってからだが)
ゆえに、「官僚のやりたい放題」に棹さす僕たちの存在は、「『われこそが一般意志を体現している』と思い込んで、恣意的な正義を行使しようとする官僚」にとっては、非常にうっとうしかったはずだ。彼らは何が何でも、自分達の「恣意的な正義を行使しようと」手練手管を使ってきた。噂や情報操作、政治家へのロビー活動などを周到にする中で、大臣から任命された委員会の決議に対して、慇懃無礼に「ゼロ回答」してみせた。このプロセスを垣間見ながら、この国は政治家ではなく官僚が支配している国である、と心底思い知らされた。しかも、彼らの考える「一般意志」が、その他の人々の考える「一般意志」と違っても、彼らは自らの「恣意的な正義」こそを絶対視する存在なのだ、と。
そういえば、彼は国の審議会についても、経験談に基づきその本質をクリアに表現している。
「ヨーロッパでも、インテリにとって国家の諮問委員会に入ることは、やはりルビコン(以後の運命を決め後戻りのできない重大な決断と行動)です。ところが、日本ではそのあたりがよくわかっていない。外務省にいた頃の私も、重要な事案は、できるだけ学者を国のヒモ付きにして、最初は『われわれは金はだしますけど口は一切出しません』とかいって、そのうち身動きが取れないように学者をからめとってしまう。それを『蜘蛛の巣オペレーション』と呼んでいました。蜘蛛が張った巣に蝶がかかると、蜘蛛は蝶の体液だけを吸い取ります。すると、外から見れば、蝶は生きているように見えますが、じつはすでに死んでいます。だから蜘蛛の巣には絶対に近寄らない方がよいということです。」(p126-127)
10年ほど前、まだ国の審議会にまさか自分が関わるなんて思ってもいなかった頃から、友人に誘われて、「国のヒモ付き」とおぼしき学者が書いたものを読み漁っていた時期がある。正直に申し上げると、「なんでこんなカスカスの中身の本を、しかも厚労省の主張の丸写しのような本を、バカバカ書いて、定評ある出版社はどんどん出すのだろうか?」というのが、率直な感想だった。また、その学者が大先生と呼ばれ、講演料が50万を超えるとか、ゴルフや高級ホテルがセットでないと講演しない、とか、そういう裏話を聞くと、失礼ながら、「一体何であんな人の話に・・・」と疑問符がついたものだ。
でも、この佐藤氏の説明を踏まえたら、納得できる。そう、あの大先生は、「身動きが取れないように」からめとられ、体液を吸い尽くされたから、文章の中身がないのだ。そして、そのように国家に忠誠を尽くした人だからこそ、その人身御供の対価として、高額な講演料や接待を要求できる階級になられたのだ。でも、もしかしたら学者としての魂は既に「死んで」いるのかもしれない。そんな妄想が浮かんでくる。
だが、これはあながち妄想ではないことが、僕もその後の「フィールドワーク」で分かってくる。僕はたまたま、55名という多すぎる人数の委員会だったので、またその中でも雑魚の委員だったので、以下に書くことは直接経験していない。だが、他の委員会の委員の話を聞くと、毎回毎回、会議の前に「ご説明」と称して、官僚が複数人でわざわざ研究室までやってきて、個人的な関係を結びながら、じんわりと官僚の内在的論理や、話してほしい中身の「ご説明」まで試みる、という。更に言えば、「ご説明」にうまく乗る人がいるならば、一緒に飲みに行き、カラオケで共に歌い、仲間意識を涵養する。すると、最初は舌鋒鋭かったはずなのに、いつの間にか「○○ちゃんと飲み友達で」と官僚の内在的論理も理解しすぎてしまい、気づけば「蜘蛛の巣オペレーション」に見事に引っかかる御仁も出てくる。そうやって、いつの間にか「ヒモ付き」になる学者、ジャーナリスト、支援者、当事者・・・を垣間見てきた。あのオペレーションたるや、恐ろしいものである。僕だって、それだけ接待責めにあったら、危なかったかもしれない。だからこそ、佐藤氏は国の諮問機関の委員になることを「ルビコン」超えだ、と言うのである。
では、このような官僚の暴走を押さえるには、どうしたらよいのだろうか。彼は二つの方法論を提案している。
「官僚は国家のために必要です。知的なエリート、能力的に高い人たちがなる職業です。官僚として、自分のはたしている機能がなんであり、どこから自分の給与が出ているのかを客観的にわからせることです。官僚は社会から吸い上げた税で食べている。これは、イデオロギーとは関係ありません。論理の世界であり、論理整合性の問題です。たとえ個々人の官僚がどんな考えをもっていようとも、『官僚とは階級である。官僚以外の社会から収奪することによって食っている階級である。自分の仕事の裏打ちをしているものは国家が独占している暴力である』-こういう議論を承認せざるを得ません。」(p171)
自らの立ち位置が「収奪と暴力」によって構築されていることを自覚させること。これがなぜ官僚の暴走を押さえるのに有効なのか。それは、国家のプロセスがきれい事ではなく、自らも「収奪と暴力」の一員である、という権力性を自覚させることにより、権力行使にも自覚的になり、結果として抑制的になれるからだ、と、僕自身は考える。その抑制やタガ、佐藤氏が「歩留まり」と表現しているものが外れたら、どうなるか。
「新自由主義的な時代になるとともに知的劣化がはじまり、『自分たち官僚が絶対的に正しい』『自分の努力でエリートの地位をつかんだ』とカン違いしている愚か者が多数となっています。」(p172)
そう、自分の正しさに疑いを持たない、無謬性こそ、人間の最大の盲点である。しかもそれが、「一般意志」なる抽象的で、どうとでも解釈できるものと結びついたら、最悪である。
「私は国民の考え=一般意志を理解している。だから、私が言うことは正しい。だから、黙って従えば良い」
この論理に収奪と暴力が結びついたとき、それはまさしく独裁そのものである。だからこそ、「収奪と暴力」に自覚的である必要がある、と佐藤氏は説くのである。これが、官僚個人への処方箋であるとするならば、国家はどのような方向に向かうと、官僚の暴走を防ぐ事が出来るのか。佐藤氏はこう整理している。
「国家にできるだけ社会福祉的な機能をもたせて、大きな国家にして、教育であるとか社会福祉を大切にして、どんどん大きくしていくわけです。そうすることによって、国家の中にある暴力性は希薄になります。その反対に、小さなな政府をつくると、おしまいには軍隊と警察と外務省だけになって、そこにかたちばかりの経済官庁があるという小さな国家は、もう暴力の固まりのようなものです。日本のみならず世界をみても、後期資本主義をとっていた国々が、資本の運動の行き詰まりによって新自由主義と帝国主義の間を行ったり来たりのシーソーゲームをはじめました。それをどのように脱構築するかを考えなければなりません。」(p290-291)
非常にプラグマティックで現実的な案だと思う。官僚の「収奪と暴力」性を、現実的に消し去ることは出来ない。であれば、その「収奪と暴力」を「希薄」にすることが、具体的で実現可能な選択肢に見えてくる。それが、社会福祉や教育など、「収奪や暴力」とは相反する、再配分的な内容を強化していく、という選択肢である。逆に「小さな国家」を志向することは、夜警国家への逆戻りであり、「収奪と暴力」の濃度が高まる。マスコミに踊らされ、あるいはSNS上で目立つから、と公務員バッシングで溜飲を下げている庶民は、そうすることで、小さな国家を志向する新自由主義的志向を持つ「対抗革命」者をおだて上げることになり、結果として自らの土台を崩される、文字通り「墓穴を掘る」自体になるのだ、と。
この本だけでなく、佐藤氏は著作の中に、様々なメッセージを陰に陽に込めている。僕が今回受け取ったのは、「霞ヶ関と闘いたいと思うのであれば、まずは官僚階級の内在的論理をしっかり把握せよ」ということであった。「収奪と暴力」という立脚点を理解し、それを官僚自身にも理解させた上で、「小さな国家」という形で「収奪と暴力」を強化させるのではなく、土建国家ではなく福祉や教育などの再分配による「大きな国家」を志向することで、国家の「収奪と暴力」を「希薄化」させる。そのことこそ、フリーターや非正規労働者、貧困世帯や障害者、高齢者など、声にならない「一般意志」の声を実現するために、必要不可欠な道である、と。この認識の共有を官僚にしてもらうためにこそ、官僚と近づくべきであり、決して「蜘蛛の巣オペレーション」の餌食になってはならないのである。
つくづく、自戒を込めて。

リカバリーとは「矛盾を手なずける」こと

ぶあつーい洋書を久しぶりに真面目に読む。

「矛盾を手なずける:重度の精神障害からのリカバリー(Managing the Contradiction -Recovery from Severe Mental Health)」
12年前にスウェーデン在住時に、誰かに勧められて買ってみたものの、積ん読だったこの本。ネットで調べたら全文がダウンロード出来るのですね。でも分厚い博士論文なので、本で読んだ甲斐があった。
実はこの著者のToporさんの講演を、12月にイタリアのトリエステで聴いた。トリエステ精神保健局長のロベルト・メッツィーナ氏の論文にもたびたび引用されていて、興味を持ったのだが、実際にその講演を聴いて、びっくり。「薬も認知行動療法も、精神療法も、効く人には効くし、効かない人には効かない。では、リカバリーって、一体何だろう?」 こんな刺激的な議論の上で、彼の最新の研究を紹介してくれた。それをツイッターで紹介したら、約9000回ものRTされた。それが、このツイート。
「2015年12月19日: 精神病の人に、50ユーロを9か月間「投与」してみたら、対象群に比べて不安やうつ症状が減り、人間関係も豊かになり、生活の質も向上した、という興味深いスウェーデンの論文→Money and Mental Illness
このツイートで紹介した彼の論文を読んで、これは本気で読まねばならない、と手に取ってみた。(ちなみに、上記論文の概要や12月のトリエステ調査のダイジェストは、3月に発売される雑誌『福祉労働』150号に掲載予定です)
Toporさんがタイトルに込めた「矛盾を手なずける」とはどういう意味か。彼は16人の精神障害者へのインタビュー調査から、こんな結論を引き出している。
「リカバリー実践の物語における重要な要素とは何か。それは、最も強調すべき事は、矛盾を解決することではない、ということだ。むしろ、矛盾とうまくやっていく道を模索することであり、自分自身と折り合いを付ける事が出来るようになり、そのプロセスにおいて痛みをあまり感じずに済むようになるということだ。それこそが、矛盾を手なずける、ということなのだ。リカバーするとは、他の誰かになる、という事を意味していない。むしろインタビューの中では、リカバリーの過程は、人が自分自身を発見する道として表現されていた。それは問題に何とか対処することができ、しかしながら以前とは違うやり方で対処するのである。」(p318-319)
リカバリーの文献をそう沢山読んだわけでもないが、今まで出会ってきたリカバリーに関する表現の中で、最もしっくり来るものの一つだ。そう、「完治」がリカバリーではない、ということ。業界用語では似た表現として「寛解」というのもある。でも、これは病気の猛威が収まること、という意味合いであり、本人よりもどちらかと言えば病気が主人公。Toporさんは、リカバリーを経験した当事者の語りから、「病気の猛威が収まること」よりも、「自分自身と折り合いを付けること」ことをリカバリーと定義する。それは、僕が見聞きした精神障害の経験者の物語とも、共通する要素だ。いや、それだけでない。実は精神病体験に圧倒されないためには、誰にとっても必要不可欠な要素なのかもしれない。
この本の中では、精神病体験を通じて、非合理とラベルを貼られ、通常の人間関係が破綻し、通常の地域生活から排除された人々の経験が語られる。極度の孤独や社会的排除の中で、病状という表現でしか自分を護れない極限状況に追い詰められる。自分自身の言動に振り回され、家族とも敵対的な関係になり、医療や福祉サービスも、時として侵襲的に作用する。薬の副作用がきついときもある。
そんな中でも、例えば幻聴には、社会的な孤立に対処するための、「かなり苦しい対処方法」いう側面もある(P266)。嬉しくはない幻聴だけれど、少なくとも誰も話しかけてくれない、という状態ではない、という意味で、孤独への対処にもなってしまっている。また、家族とのかかわり方が変われば、当人にとっての問題の原因とも、問題に対処する上での強力な味方にもなる(p329)。薬だって、医療者の指示に従わねばならないという意味で他律的要素としても、またどの薬をどれくらい飲むかへの決定過程に参加することを通じて自律を取り戻すこともできる手段ともなる(p333)。専門家が一方的な見方を押しつけたら対象者のニーズに目と耳を塞ぐが、互酬性の関係を構築すれば「同行二人」のパートナーにもなる(p326)。包括性や継続性は、患者のトータルな管理にも、リカバリーの重要な要素ともなる(p330)。
つまり、症状も家族も専門家も薬も、さらには精神障害者への接し方も、どれもが両義的で不確実(ambiguity and uncertainty)な要素が含まれているのだ(p338)。
だからこそ、完治する=異常から健康に「治る」という、白黒付けるという二者択一の姿勢よりも、「自分自身と折り合いを付けること」という意味で、両義的なまま、「矛盾を手なずける」方が、現実的である、とToporさんは結論づける。ここからは、精神病状態に陥る以前の暮らしから、「両義的で不確実」な状態を許容し、「矛盾を手なずける」ことが出来ていたら、しんどい状態にはまり込まなくて済むのかもしれない、とも予期される。
これを読みながら、強く思い出していたのが、日本では超有名なべてるの当事者研究だ。
このべてるの家の実践も、自分自身で自己病名を付けることにより、他者によるラベリング(他律)から、自律性を快復しようとしている。また病気の悪循環サイクルを自分一人で抱え込む状態から、仲間と共に研究することで、社会的孤立への対処をしようとしている。専門家が一方的に病気と判断し服薬を強要するのではなく、当事者の内在的論理を明らかにした上で、しんどい状態を克服するための自律的なコントロール方法を、専門家と共に考えようとする。それは精神病院のような権力装置の中での他律的管理・支配を超えて、街の中で、試行錯誤しながらも、自律的にリカバリーしていく可能性を提供する。
結局、リカバリーの物語は、洋の東西を超えて、圧倒的に苦しい・追い詰められる経験をした後に、当の本人が、周りの人々と共に、どのようにその経験を手なずけ、その経験と共に、以前よりはましな形で、矛盾と共に生きていくのか、というプロセスなのだ。この部分を理解した上で、医療や福祉サービスは何が出来るか、が問われているのだ。それが、イタリアのトリエステの人々にも興味を持たれるポイントであり、メッツィーナさんが日本の当事者研究にも大いに注目していた最大の理由なのだろうとわかった。
そこで問われているのは、日本の精神医療や、日本の障害者福祉は、本当に精神障害者のリカバリーを志向しているか、支援しているか、という問いである。精神障害者が圧倒的な苦しさやしんどさにいる状態から、矛盾を手なずける、非常に個人的なプロセスに寄り添い、じっくりその物語を伺い、ともに次の一手を模索するプロセスに関われているか、という問いである。生物学的アプローチや心理療法的アプローチを否定しているのではない。そうではなくて、両者が(bioもpsychoも)、矛盾と共に当事者が社会の中で生きていくのを応援する、という側面がなければ、リカバリーではなく、他者による管理と支配の手段に堕落する、という点に自覚的であるかどうか、が問われている。それこそが、ほんまもんの生物-心理-社会モデル(biopsycosoial model)のはずだ。それが、今、日本で実現出来ているのだろうか? 精神病を経験した人が、再び「矛盾を手なずける」状態にリカバリーするまで、「同行二人」で「ともに」考え合う支援を出てきているだろうか? もしや、「支援対象者を手なずける」仕事になってはいないだろうか?
様々な問いを投げかけてくれる、実に刺激的な一冊だった。
追伸:16人の経験者の物語は、著者の素材を引き出す旨さにも支えられ、理論的に面白かっただけでなく、単純に物語として面白かった。こういう掘り下げた研究こそ日本でも必要だし、この本は翻訳されるべき本だ、とも思った。誰か、やってくれないかなぁ・・・。