「わからない」という「蓋」を外せるか?

今日の朝日新聞で、「15歳と語る沖縄」という座談会が掲載されていた。その中で、沖縄在住のライター、知念ウシさんが気になることを語っていた。

「気になるのは、みなさんから『難しい』『わからない』という言葉が出ることです。全部知って、初めて意見が言えるとか行動できるということではないと思う。『これっておかしい』だけでいい。おかしい、ショックだ、悲しい、逃げたくなった。まずそういう自分自身に気づく。そこから考える。伝える。全部わからないといけないなんて思っていたら、何もできません。」
僕はこの語りを、深く頷きながら読んでいた。
勤務先の大学の横には、系列の短大があり、その保育科で「地域福祉」の講義を担当して、4年目になる。法学部政治行政学科でも同様の講義をしているのだが、短大の保育科の学生と比較すると、大きく違う事がある。それは、短大の保育科の学生の方が、遙かに「正しいこと」を希求している、ということである。裏を返せば、「間違ってはいけない」という規範概念が強く、それゆえ、正しいかどうかわからないことについては、「難しい」「わからない」という言葉が比較的、多く出るということだ。
僕の講義では、できる限り双方向型にするために、毎回、あるトピックに関するビデオや新聞記事の素材に触れた後、そのトピックについて、どう考えるか、という設問をワークシートに書き込んでもらい、その書いた内容について、ランダムにマイクを向け、発表してもらうスタイルを取っている。これは大学でも短大でも同じなのだが、その際、マイクを向けると、大学よりも短大の方が、拒否反応が多い。最近でこそ、その理由がわかったので、オリエンテーションで「正しい意見ではなく、あなたの感じたことを話してほしい」「語ってくれたことについて、僕が『正しい』とか『間違っている』と査定するようなことはしない」と、繰り返し伝えるようになって、拒否反応がだいぶ消えた。それでも、授業の最初の方では、「当てられるとパニックになる」「『何で?』と突っ込まれるのが恐怖」「意見を言うのは怖い」などのコメントが、講義後のリアクションとして寄せられる。
僕は、その背後には、「正解幻想」という考えがあるような気がしている。これは以前ブログに書いたこともあるし、拙著『枠組み外しの旅』でも考えたことだが、「ちゃんとした正解があるはずだし、それに従わなければならない」という「思い込み」である。もちろん、センター試験に代表される高校までの勉強は、マルかバツか、の二項対立的な「正解」を求める思考様式に支配されている。高校生までは、比較的その考え方に親和的だ。だが、恋人や配偶者、仕事、居住地・・・を選ぶこと、あるいはどのような食事を取れば長生きするか、など、世の中の行動の大半には唯一で正しい「正解」はない。にもかかわらず、特に同調圧力の強い日本においては、空気を読み、世間にしがたいながら、「これをすれば正解だろう」という「正解幻想」に浸り、そこから抜け出せない雰囲気が蔓延している。そして、拙著ではこんな風に分析した。
「他人を治療・教育する、という医者や教員のエクリチュールそのものに、社会的に「望ましい」とされる「正しさ」や「正常」といった規範や社会通念がこびりついている。しかも、その「望ましさ」が、医師や教師はこうあるべし、という役割期待(=というエクリチュール)を作り上げている。」(竹端寛『枠組み外しの旅―「個性化」が変える福祉社会』青灯社、p38)
これは、僕自身が「正解幻想」に陥っていたことを分析したくだり、であるが、保育科の学生も、「ちゃんとした保育者にならなければ」という善意思が強ければ強いほど、僕が陥っていたのと同種の「正解幻想」に浸りやすいと思う。そして、社会的な役割期待に迎合しようと必死になって、その「望ましさ」や「社会的に評価される正しさ(Political correctness)」の範囲から逸脱するような内容については、「わからない」「難しい」と口にしやすいし、それ以上について伺うと、「頭が真っ白になる」というのである。
このことを以前から問題視していたのだが、今日の知念さんの意見を読んで、その前提というか、メカニズムがクリアになった。彼女は「わからない」「難しい」と口にする背後に、「全部知って、初めて意見が言えるとか行動できる」という規範意識を指摘している。つまり、「意見とは、一通りのことを全部知ってから、言うべきこと」「社会的な行動とは、一通りのことを全部知ってから、行うべきこと」という規範意識である。僕が接した学生たちが「意見を言うのが怖い」というとき、「一通りのことを全部知っていないのに、意見を言ってはいけない」という暗黙の前提があるような気がする。
それに対して、知念さんは「『これっておかしい』だけでいい」と言い切る。「おかしい、ショックだ、悲しい、逃げたくなった。まずそういう自分自身に気づく。そこから考える。伝える。全部わからないといけないなんて思っていたら、何もできません。」とも言う。これはどういうことか。
論理的な意見を構築する為には、その問題に関する多角的な情報を収集し、その正否を比較検討した上で、自分なりの筋道をつける事が求められる。これが「意見とは、一通りのことを全部知ってから、言うべきこと」という規範意識の前提にある。だが、知念さんが語ったのは、その論理的な意見構築以前に、『これっておかしい』という感情や感覚がわいたら、その感覚を大切にせよ、というメッセージである。「おかしい、ショックだ、悲しい、逃げたくなった。まずそういう自分自身に気づく」ことの重要性を指摘している。自分の魂がダイレクトに感じたことに蓋をせず、そう感じた「自分自身に気づくこと」が大切だ、という。その「気づき」をもとに、考えはじめたらいい、という。つまり、情報収集して正否の比較検討をした後に「意見」を持つのではなく、まず直感的に「意見」の元になる意思判断の感覚を持って、その感覚に基づいて情報収集して、自分なりに「意見」を育んだらいい、そう伝えてくれているように感じた。
こう書くと、もうひとりの、一応は科学的・学問的ルールを身につけたタケバタヒロシから、それって「科学的ではない」「最初から主観的なバイアスに左右された、一方的な議論や意見に偏る情報収集になるのではないか」という疑いの声が聞こえる。だが、僕は、先述の拙著の冒頭で、「蓋」概念を用いて、こんな風にも考えてみた。
「「どうせ」「しかたない」というフレーズは、自らの潜在能力の最大化にとって最大の「蓋」であり、「呪縛」の言葉である。「どうせ」「しかたない」と述べることで、自分の、社会の、世界の変容可能性を拒絶し、旧来の世界に閉じこもることを容認している。しかも、変えられない現実に対して文句や不満を持ちながら、「でも、しゃあないやん」と、呪詛のように、「諦め」の言葉を発して、自分に言い聞かせようとしている。あたかも自己洗脳のように。そうして、それ以外の世界に蓋をすることで、自分の中に澱のように「諦め」を沈殿させ、その「諦めの沈殿物」によって、自らの魂は毀損され、内側から腐り続けていく。気がつけば若い日に持っていた溌剌とした気持ちはすっかり萎え、日常生活はパターン化されたものになり、余計なことに手を出さず、ため息をつきながら与えられた仕事に我慢して堪え、様々な事も「見て見ぬ振り」をして、感覚や感情にも蓋をして、「つつがない日々」を送ろうとする・・・。」
「難しい」「わからない」というフレーズも、「どうせ」「しかたない」というフレーズも、「自らの潜在能力の最大化にとって最大の「蓋」であり、「呪縛」の言葉」であると感じる。つまり、それらの言葉を吐くことで、これ以上その問題にはコミットしたくない、という意思宣言になる。そして、僕が学生たちにマイクを向けたとき、ややこしい社会的問題について「あなたはどう思う」と伺った時ほど、この「難しい」「わからない」というフレーズを耳にする。つまり、どれを言えば「正しいか」という正解が見えにくい問題の場合、とにかく「難しい」「わからない」と言ってその場をスルーすることが出来ないか、という防御機制が働く。これは、「どうせ」「しかたない」という発言をするときの防御機制と全く同種の構造であると感じる。そして、これらのフレーズを言う時、「自分の、社会の、世界の変容可能性を拒絶し、旧来の世界に閉じこもることを容認している」ようにも受け取れる。
確かに、余計なことには関わらないことの方がスマートかも知れない。自分自身をコントロールしやすいかもしれない。だからこそ、沖縄の米軍基地の問題や、原発の是非、あるいは憲法改正の問題など、事が大きくなればなるほど、「難しい」「わからない」「どうせ」「しかたない」というフレーズになりやすい。そういう大きな問題について、「一通りのことを全部知って」いないのに、なんかの意見を言う立場にない、という考えだ。面倒なことには関わりたくない、という感覚もあるのかもしれない。
だが、「難しい」「わからない」「どうせ」「しかたない」という呪詛の言葉を多用する事で、「それ以外の世界に蓋をすることで、自分の中に澱のように「諦め」を沈殿させ、その「諦めの沈殿物」によって、自らの魂は毀損され、内側から腐り続けていく。」 これは、本を書きながら強く感じたことだし、そうやって「魂が既存された」た人の言葉のことを、安冨先生は「東大話法」と名付けていた。そのような魂の劣化を避けるために大切なのが、冒頭で引用した知念さんが言う、『これっておかしい』という感情や感覚なのである。論理の後に感情、ではない。直感的に感じたことを、本当にそうかどうか確かめるために、学び、考えていくのである。筋道が逆である。
教育や福祉など、「~すべし」という規範が強いところほど、直感や感覚的なものを抑圧する傾向もある。だが、大切なのは、まず自らの魂が蓋されることなく、しっかりと大地を踏みしめていることである。それがなしに、いくら知識を身につけたところで、それらは上滑りの知識であり、その知識を用いる者も、内側からの「溌剌さ」が抜けてしまう。
ある問題に接したとき、直感的に、「これっておかしい」という言霊がわき上がってきた。ならば、その感覚は「おかしくない」のである。その感覚を大切に育むことは、規範意識という名の蓋を突き破り、「自分の、社会の、世界の変容可能性」を信じ続け、実行に移すための、必要不可欠な要素である。
保育の現場に出る学生さんたちに、この真っ当な感覚を持ち付けてもらいたい、そう思いながら、教育現場でも「枠組み外し」にコミットしている。

個別化原理の危機、という岐路

最近、木村敏氏の著作を読み返している。自伝「精神医学から臨床哲学へ」というタイトルが示すように、現象学的人間学の観点から、精神医療を問い直し、哲学的な「木村人間学」を打ち立ててきた、精神医療と臨床哲学の架け橋をする第一人者である。彼の九十年代以後の著作は何冊か読んできたが、自伝を読んで以後、彼が三十代から四十代に書けて書いてきた、比較的初期の作品を読み直す中で、彼の視点の確かさ、に改めて驚かされた。それは、彼があくまでも、病者の症状を外形的に判断する、のではなく、病者の「内在的論理」に肉薄しようとする姿勢である。

「分裂病患者が世界をあるがままにあらしめることをえないのは、個を捨てて個に徹するということが困難になっているためと解せられる。自らの個別化が疑わしいものとなり、我を圧倒し否定しようとする非我の力が次第に増大していくにつれて、分裂病者は次第に世界から身を退いて自閉的な態度をとり、あるいは逆に自然な一貫性を欠いた意志的努力的仕方で、我を世界に向かって主張するのであるが、このような分裂病者の自閉性が形成されていくにあたっては、その最初から、分裂病特有の個別化の危機の様相が明らかに認められると思うのである。これをブロイラーやミンコフスキーのように『自閉性』の面で捉えるも、ビンスヴァンガーのごとく『奇驕性』の面で捉えるも、実は個別化原理の危機という単一の基礎的過程に対して患者がいかに対決するかの有様を、それぞれ異なった両面からみたものにすぎない。」(木村敏『新編 分裂病の現象学』ちくま学芸文庫 p199)
これは1965年、筆者が三十四歳の時に『哲学研究』に寄せた一文である。このときから木村氏は既に狭い意味での(つまり生物学的な)精神医学の範囲をとうに超え、あくまでも患者の世界観の内在的論理に肉薄しようとしているのがわかる。特に、統合失調症と名称が変更された精神分裂病を「個別化原理の危機」と捉え、幻覚や妄想、無為自閉などの「症状」を、「個別化原理の危機という単一の基礎的過程に対して患者がいかに対決するかの有様」である、と50年近くも前に喝破した点が圧倒される。
精神障害者の場合、ライセンスを持った精神保健指定医という医師が「この患者は自傷他害の恐れがある」と認めた場合、本人の同意がなくても、隔離や拘束など、強制入院をさせることが出来る。その背後には、急性症状を示す精神病の患者は、暴れたり、叫んだり、わけのわからないことをして、医師などの外部者と了解不可能であり、その沈静化の為には、「やむを得ず」強制治療を行うことも正当化される、という論理がある。これは、一言で言えば、「訳のわからない、本人もコントロールできない病状は、強制的にでも沈静化しなければならない」という、ある価値前提がある。だが、木村氏は、その単純な論理に異議を唱える。
「病者の治療は、病者の個別化を確立させて危機を克服せしめることによって達成しうると考えられる。これに対し分裂病の薬物療法は、病者の緊張状況を弛緩させることにより、この緊張から生じている諸種の症状を消失せしめ、病者がある程度の余裕をもって自らの危機的状況に冷静に対処しうるような状態を作ってやるものであるから、精神療法に対してはあくまでも従属的補助的なものと考えられるのである。」(同上、p221)
筆者は別の本(『異常の構造』)の中で、薬物療法を否定する反・精神医学とは違い、反・反・精神医学だ、と書いていた。だが、反・精神医学と共通するのは、薬物療法を第一義的におかず、「あくまでも従属的補助的なものと考え」ている点である。これは、昨年訪問したイタリアの地域精神医療にも共通する点である。筆者は薬物療法の効能について、「病者の緊張状況を弛緩させることにより、この緊張から生じている諸種の症状を消失せしめ、病者がある程度の余裕をもって自らの危機的状況に冷静に対処しうるような状態を作」ること、としている。つまり、あくまでも「個別化原理の危機」にある患者が、その「危機的状況に冷静に対処しうるような状態」になるためには、危機ゆえに極度に「緊張」して、そこから「生じている諸種の症状を消失せしめ」る必要がある、と指摘している。つまり、あくまでも目的は、「病者の個別化を確立させて危機を克服せしめることによって達成しうる」と考えているのである。
この論文から半世紀あまり、日本の精神医療の中で、「病者の個別化を確立させて危機を克服せしめることによって達成しうる」と考えている医者が主流を占めているだろうか? もし、主流を占めているなら、長期社会的入院がその「個別化原理の危機」に対応するベストプラクティスとなり得ているだろうか? そんな疑問が浮かぶ。
「精神病といいうるのはむしろ、対人関係の成立をまってはじめて出現するところの、いわば『人と人との間柄』の問題だということになる。」(同上、p243)
この視点に立ったとき、2つの視点がありうる。1つは、「人と人との間柄」の問題(=病気)なのだから、一般的な「人と人との間柄」から退却させる事によって対処しよう、という戦略である。隔離・拘束・社会的入院とは、一言で言ってしまえば、その退却の方法論である。だが、「人と人との間柄」だからこそ、その「間柄」の中で、支援チームが患者と向き合って、「病者の個別化を確立させて危機を克服せしめる」支援に当たることも出来る。イタリアでみた、三田や京都のACTなどで為されている「寄り添い型支援」とは、そのような方法論である。「我を圧倒し否定しようとする非我の力」を前に、「だから病院という世界に一生閉じこもりましょう」とするのか、「その力にどう対処するか、地域の中で一緒に考えましょう」というのか。これは、根本的な価値命題の違いだ。
「世界から身を退いて自閉的な態度をとり、あるいは逆に自然な一貫性を欠いた意志的努力的仕方で、我を世界に向かって主張する」精神障害者の、その「自閉的な態度」や「意志的努力的な仕方」での「主張」という表面を捉えて、それを薬で制圧する事が精神医療の本当の目的ではない。木村さんはそう訴えかけている。そうではなくて、その表面の背後にある「個別化原理の危機」にこそ目を向けてえ、その問題に寄り添い、それを「克服」する支援が出来るかどうか、が問われている、と主張している。僕は、この話と、以前ブログにも書いたバザーリアのあの発言が重なって見える。
「この仕事の基礎となっている接近法は決して病気が中心にあるという事実を避けようとするものではない。しかしながら、この新しい潮流の中ではこれまで患者に、あるいは少なくとも精神病院に内在するものとされていた葛藤がそれら葛藤が因って来たるところのより広い社会に投げ返される-というのは病気というものは本質的に社会的関連における自我の特異的な矛盾の歪んだ表現と見なされるものだからである。精神医療従事者にとってこのことは全く新しい役割を担うべきことを意味している。つまり患者と病院との関係の中にいて仲介者の役割を果たすのではなく、家族、仕事場、あるいは福祉事務所といった現実世界での葛藤に介入しなければならないのである。」(フランコ・バザーリア「管理の鎖を断つ」『批判的精神医学 : 反精神医学その後』.イングレビィ編、悠久書房、p321)
「個別化原理の危機」とは、「本質的に社会的関連における自我の特異的な矛盾の歪んだ表現」と同じである。であれば、単に病院の中で囲い続けることが治療ではない。「患者と病院との関係の中にいて仲介者の役割を果たすのではなく、家族、仕事場、あるいは福祉事務所といった現実世界での葛藤に介入しなければならないのである」という指摘は、この危機の克服に当たり、支援チームに求められている基本的視座を改めて示していると思う。

「人生の正午」にさしかかり

春は憂鬱。年度末のバタバタと、その後のどっと疲れも重なり、すっかりブログもご無沙汰していた。

こんなに桜が咲き、野菜も美味しくなり、暖かくなるのに、なぜ憂鬱なのか。精神病の友人・知人もみな、春はしんどい、とおっしゃる。寒暖の差がめまぐるしくかわり、自律神経のコントロールも効きにくい。気持ちは前向きでも、身体は冬眠モードからなかなか目覚めない。心と身体の一体感のなさ。そして、目まぐるしい気候の変動。そんなことがあって、調子を崩す人が多いと聞く。僕もそう聞いて、以前からの春先のしんどさを、やっと納得できた。爾来、春先はいつも気怠い、と納得している。
だが、タケバタヒロシ38歳の春は、その例年の気怠さ以外の、より大きな心身バランスの不全感を感じている。
分析心理学の祖、ユングは中年を「人生の正午」と名付けた。そして、「午前」にあたる30代までが、外向的・社交的な関係性や成熟を育む時期だとすると、「午後」の時期は、内向的・精神的な関係性や成熟を育む時期だと整理している。で、その「正午」にあたる中年が、外向から内向へ、社交から精神的関係性へ、と転換期にさしかかる時期である、と指摘している。これは理論的な話だけではない。彼自身の自伝を読んでいると、30代後半、フロイトと決別をした後から、彼は外向的な肩書き・成功を追い求めるのではなく、自らの内面世界との対決に迫られ、人生の危機にさしかかる。彼はその危機を乗り越える冒険の始まりにおいて、何故か住まいの近所にある湖畔の石を拾って、城や棟を作る建築遊びに夢中になっていった。
「私は自分自身の神話を見出す途上にあるという内的な確かさがあるのみであった。というのは、この建築遊びは、ひとつの始まりにすぎなかった。それは一連の空想をさそい出し、後になって私はそれを注意深く書きとめておいた。このようなことは私に適合していた。そして、この後も、何らかの空虚さに立ち向かうときは、私は絵を描いたり、石に彫刻したりした。そのような体験はすべて、成熟されかかっている考えや仕事のための入門の儀式となった。」(『ユング自伝1ー思い出・夢・空想ー』みすず書房、p250)
ユングにとって、建築遊びや絵描き、彫刻などの創作は、自らの内的な「成熟されかかっている考えや仕事のための入門の儀式」であった。つまり、内面の旅に漕ぎ出すための、入り口の役割を果たしているのである。その中で、彼自身の中で少しずつ「内なる声」がはっきりとしたイメージを持ち始める。この際、ユングは次のようなアプローチを用いて、対決していく。
「大切なことは、これらの無意識的な内容を、それらを人格化することによって自分自身と区別することであり、同時に、それらを意識と関係づけることである。これが無意識的な内容の力をとり去る方法である。それらは常にある程度の自律性をもち、それら自身の区別された同一性をもっているので、人格化するのはあまり困難なことではない。この自律性は、これらを自分自身と調和させるのに最も不都合なことであるが、無意識がそれ自身をこのような方法で示すという事実は、われわれがそれを取り扱う最上の手段を与えてくれることになっている。」(同上、p267)
ユングの言う「自分自身の神話」は、簡単に形作られる訳ではない。無意識のイメージは、茫漠で、しばしば不安感や空虚さ、焦燥感など、ネガティブな、しんどい気分で襲ってくる。ユングはそれらの空想を書き留め、やがてアニマという人格を与えることで、統合していく。彼は自らの中で蠢く、「ある程度の自律性をもち、それら自信の区別された同一性をもっている」存在を、アニマ(心の中での異性としてイメージされる何か)として「人格化」して、その「自律性」を促すことによって、自らの意識と区別し、「自分自身と調和させる」ことに成功し、やがて「集合的無意識」の発見からユング心理学の体系化へと、考えを進化・深化させていった。(アニマ・アニムスについて詳しくは復刊されたエンマ・ユングの『内なる異性』を参照)
そして、注意深く観察していると、このような「人生の正午」に、創作を通じて、自らの中での無意識のイメージを分化(differentiation)させていった存在は、彼以外にもいる。
例えば作家の森博嗣氏。彼は名古屋大学工学部の准教授だった39歳の時、『すべてがFになる』でデビューし、一躍人気作家になり、ご本人曰く「一生分稼いだ」とのことで、今は大学も作家業もやめて、もっぱら工作とガーデニングの日々を送っている。彼は最近のエッセーの中で、自らの物語形成に通じる何かを、次のように語っている。
「抽象的思考というものは、結局は、そういういう風に考えられる頭、面白い発想、新しい思いつきが生まれる『場』を作ることが第一であり、そういう『場』というのは、一朝一夕にできるものではなく、毎日毎日、自分の思考空間を観察して回り、具体的な雑草を見つけたら抜き、こんなのがあれば良いなというものの種を蒔く、そういう手入れを少しずつ続けてこそ、ゆっくりと、しだいに現れてくるものなのではないか。」(森博嗣『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』新潮新書、p179)
彼自身は、模型製作にまとまったお金が必要だから小説を書いたらあっという間に売れた、とよく書いている。事実、そうなのだろう。だが、彼の模型製作も、あるいは小説執筆も、本業以外での『場』を作ることであった、とも感じられる。そこで、「毎日毎日、自分の思考空間を観察して回り、具体的な雑草を見つけたら抜き、こんなのがあれば良いなというものの種を蒔く、そういう手入れを少しずつ続け」るなかで、小説や、あるいは自らの「人生の午後」の歩み方を成熟させていった。そんな風に感じてならないのだ。
あるいは、また作家になるが、村上春樹氏だって、そういう部分があるように思う。
僕はたまに無性に彼の小説やエッセイを読み返したくなる。この春は、どうしても『遠い太鼓』が読み返したくて、単行本を持っているのに、また文庫本を買って読み直していた。これは、彼が30代後半から40にさしかかるあたり、ギリシャやイタリア、イギリスなどのヨーロッパ生活を続けていた時期に書いたエッセイある。僕もちょうど彼がこの作品を書いた時期と同じ年齢にさしかかり、その内容の断片断片が、すごく心に刺さってくる。例えば、『ノルウェイの森』を書き終えた、38歳の時の、こんな一節など。
「朝が訪れる前のこの小さな時刻に、僕はそのような死のたかまりを感じる。死のたかまりが遠い海鳴りのように、僕の身体を震わせるのだ。長い小説を書いていると、よくそういうことが起こる。僕は小説を書くことによって、少しずつ生の深みへと降りていく。小さな梯子をつたって、僕は一歩、また一歩と下降していく。でもそのようにして生の中心に近づけば近づくほど、僕ははっきりと感じることになる。そのほんのわずか先の暗闇の中で、死もまた同時に激しいたかまりを見せていることを。」(村上春樹『遠い太鼓』講談社文庫、p250)
彼自身が小説を書く中で、「少しずつ生の深みへと降りていく」。そして、近づいていく「生の中心」とは、「死もまた同時に激しいたかまりを見せている」、生と死の交錯点でもある、という。そんなぎりぎりのところに、小説を書く中で降りていく。降りて行かざるをえない。その先にしか、彼自身が求める何かはないから。そこは「死の高まりが遠い海鳴りのように」震わせる危険をはらんでいるが、彼は降りて行かざるをえないのだ。
「人生の正午」。それは、そのような危険極まりない、無意識的なイメージや抽象的な思考の「場」に降りていき、そこでの世界と対決するかどうか、を、あなたにも、そして僕自身にも問いかけている、時間の踊り場。おそらくその際に、外向的・社交的な具体の世界にとどまる事も、不可能ではないだろう。だが、そのような「アンチ・エイジング」は、外見的にいくら取り繕えても、内面を蝕むばかり、僕はそう感じる。「人生の午前」と「人生の午後」は、物語のフェーズが違うのだ。そのとき、具体から抽象へ、外面世界から内面世界へ、意識のみの論理的・合理的世界から無意識の世界も含めた不合理な<生命>や<自然>の世界に、つまりは「生の中心」に、「降りていく」ことが出来るか? それが、問われている。
猪突猛進で、前ばかり向いて、突っ走ってきた。そんな僕も、そろそろと、「自分自身の神話を見出す途上にあるという内的な確かさ」と向き合い始めている。「人生の正午」が、春とともに始まった。そんな、2013年の春です。