最近、木村敏氏の著作を読み返している。自伝「精神医学から臨床哲学へ」というタイトルが示すように、現象学的人間学の観点から、精神医療を問い直し、哲学的な「木村人間学」を打ち立ててきた、精神医療と臨床哲学の架け橋をする第一人者である。彼の九十年代以後の著作は何冊か読んできたが、自伝を読んで以後、彼が三十代から四十代に書けて書いてきた、比較的初期の作品を読み直す中で、彼の視点の確かさ、に改めて驚かされた。それは、彼があくまでも、病者の症状を外形的に判断する、のではなく、病者の「内在的論理」に肉薄しようとする姿勢である。
「分裂病患者が世界をあるがままにあらしめることをえないのは、個を捨てて個に徹するということが困難になっているためと解せられる。自らの個別化が疑わしいものとなり、我を圧倒し否定しようとする非我の力が次第に増大していくにつれて、分裂病者は次第に世界から身を退いて自閉的な態度をとり、あるいは逆に自然な一貫性を欠いた意志的努力的仕方で、我を世界に向かって主張するのであるが、このような分裂病者の自閉性が形成されていくにあたっては、その最初から、分裂病特有の個別化の危機の様相が明らかに認められると思うのである。これをブロイラーやミンコフスキーのように『自閉性』の面で捉えるも、ビンスヴァンガーのごとく『奇驕性』の面で捉えるも、実は個別化原理の危機という単一の基礎的過程に対して患者がいかに対決するかの有様を、それぞれ異なった両面からみたものにすぎない。」(木村敏『新編 分裂病の現象学』ちくま学芸文庫 p199)
これは1965年、筆者が三十四歳の時に『哲学研究』に寄せた一文である。このときから木村氏は既に狭い意味での(つまり生物学的な)精神医学の範囲をとうに超え、あくまでも患者の世界観の内在的論理に肉薄しようとしているのがわかる。特に、統合失調症と名称が変更された精神分裂病を「個別化原理の危機」と捉え、幻覚や妄想、無為自閉などの「症状」を、「個別化原理の危機という単一の基礎的過程に対して患者がいかに対決するかの有様」である、と50年近くも前に喝破した点が圧倒される。
精神障害者の場合、ライセンスを持った精神保健指定医という医師が「この患者は自傷他害の恐れがある」と認めた場合、本人の同意がなくても、隔離や拘束など、強制入院をさせることが出来る。その背後には、急性症状を示す精神病の患者は、暴れたり、叫んだり、わけのわからないことをして、医師などの外部者と了解不可能であり、その沈静化の為には、「やむを得ず」強制治療を行うことも正当化される、という論理がある。これは、一言で言えば、「訳のわからない、本人もコントロールできない病状は、強制的にでも沈静化しなければならない」という、ある価値前提がある。だが、木村氏は、その単純な論理に異議を唱える。
「病者の治療は、病者の個別化を確立させて危機を克服せしめることによって達成しうると考えられる。これに対し分裂病の薬物療法は、病者の緊張状況を弛緩させることにより、この緊張から生じている諸種の症状を消失せしめ、病者がある程度の余裕をもって自らの危機的状況に冷静に対処しうるような状態を作ってやるものであるから、精神療法に対してはあくまでも従属的補助的なものと考えられるのである。」(同上、p221)
筆者は別の本(『異常の構造』)の中で、薬物療法を否定する反・精神医学とは違い、反・反・精神医学だ、と書いていた。だが、反・精神医学と共通するのは、薬物療法を第一義的におかず、「あくまでも従属的補助的なものと考え」ている点である。これは、昨年訪問したイタリアの地域精神医療にも共通する点である。筆者は薬物療法の効能について、「病者の緊張状況を弛緩させることにより、この緊張から生じている諸種の症状を消失せしめ、病者がある程度の余裕をもって自らの危機的状況に冷静に対処しうるような状態を作」ること、としている。つまり、あくまでも「個別化原理の危機」にある患者が、その「危機的状況に冷静に対処しうるような状態」になるためには、危機ゆえに極度に「緊張」して、そこから「生じている諸種の症状を消失せしめ」る必要がある、と指摘している。つまり、あくまでも目的は、「病者の個別化を確立させて危機を克服せしめることによって達成しうる」と考えているのである。
この論文から半世紀あまり、日本の精神医療の中で、「病者の個別化を確立させて危機を克服せしめることによって達成しうる」と考えている医者が主流を占めているだろうか? もし、主流を占めているなら、長期社会的入院がその「個別化原理の危機」に対応するベストプラクティスとなり得ているだろうか? そんな疑問が浮かぶ。
「精神病といいうるのはむしろ、対人関係の成立をまってはじめて出現するところの、いわば『人と人との間柄』の問題だということになる。」(同上、p243)
この視点に立ったとき、2つの視点がありうる。1つは、「人と人との間柄」の問題(=病気)なのだから、一般的な「人と人との間柄」から退却させる事によって対処しよう、という戦略である。隔離・拘束・社会的入院とは、一言で言ってしまえば、その退却の方法論である。だが、「人と人との間柄」だからこそ、その「間柄」の中で、支援チームが患者と向き合って、「病者の個別化を確立させて危機を克服せしめる」支援に当たることも出来る。イタリアでみた、三田や京都のACTなどで為されている「寄り添い型支援」とは、そのような方法論である。「我を圧倒し否定しようとする非我の力」を前に、「だから病院という世界に一生閉じこもりましょう」とするのか、「その力にどう対処するか、地域の中で一緒に考えましょう」というのか。これは、根本的な価値命題の違いだ。
「世界から身を退いて自閉的な態度をとり、あるいは逆に自然な一貫性を欠いた意志的努力的仕方で、我を世界に向かって主張する」精神障害者の、その「自閉的な態度」や「意志的努力的な仕方」での「主張」という表面を捉えて、それを薬で制圧する事が精神医療の本当の目的ではない。木村さんはそう訴えかけている。そうではなくて、その表面の背後にある「個別化原理の危機」にこそ目を向けてえ、その問題に寄り添い、それを「克服」する支援が出来るかどうか、が問われている、と主張している。僕は、この話と、以前ブログにも書いたバザーリアのあの発言が重なって見える。
「この仕事の基礎となっている接近法は決して病気が中心にあるという事実を避けようとするものではない。しかしながら、この新しい潮流の中ではこれまで患者に、あるいは少なくとも精神病院に内在するものとされていた葛藤がそれら葛藤が因って来たるところのより広い社会に投げ返される-というのは病気というものは本質的に社会的関連における自我の特異的な矛盾の歪んだ表現と見なされるものだからである。精神医療従事者にとってこのことは全く新しい役割を担うべきことを意味している。つまり患者と病院との関係の中にいて仲介者の役割を果たすのではなく、家族、仕事場、あるいは福祉事務所といった現実世界での葛藤に介入しなければならないのである。」(フランコ・バザーリア「管理の鎖を断つ」『批判的精神医学 : 反精神医学その後』.イングレビィ編、悠久書房、p321)
「個別化原理の危機」とは、「本質的に社会的関連における自我の特異的な矛盾の歪んだ表現」と同じである。であれば、単に病院の中で囲い続けることが治療ではない。「患者と病院との関係の中にいて仲介者の役割を果たすのではなく、家族、仕事場、あるいは福祉事務所といった現実世界での葛藤に介入しなければならないのである」という指摘は、この危機の克服に当たり、支援チームに求められている基本的視座を改めて示していると思う。