説得の視点

 

この一週間は旅の日々だった。そして、旅先に持って行ったり、途中で買い求めた本から、改めて大切なことを教わった一週間でもあった。

「『記述』(description)という作業は、観察や記録をもとにして事象の実態を正確または精密に述べることを目的としている。これに対して、『説明』(explanation)という作業は、結果として生じている事象がいかなる原因またはそれに準じた理由を用意して、その関係について納得を得ることを目指している。(略)記述することは、基礎的な作業であって、どのような高度な数理分析も正確で精密な記述データなしには成り立たない。けれども、多くのすぐれた社会学者の作品が私たちを魅了する理由の重要な1つは、単なる概念や事実記述だけでなく、そこから一歩踏み込んで事象の説明による説得の努力をしているからであろう。」(新睦人『社会学の方法』有斐閣、p188-189)

旅先で読み始めたこの方法論のテキストの中で、一番ハッとさせられたのが、上記の部分だ。僕自身の最近の仕事は、「一歩踏み込んで事象の説明による説得の努力をしている」だろうか? 単なる概念や事実記述でお茶を濁していないだろうか? 多忙を理由に、「説得の努力」を放棄していないだろうか? そう振り返ってみて、沖縄行きの機内で読んでいたあるフレーズを思い出す。

「事件や現象はそんな一面的なものじゃない。もっと多面的なはずだ。でもメディアは、その多面性からどうしても目をそらす。そしてその帰結として、事象や現象はかぎりなく単純化される。こうして世界はメディアによって矮小化される。そしてこの矮小化された単純簡略な情報に馴れてしまった人たちは、複雑な論理を嫌うようになる。つまり胃袋が小さくなる。後はもう悪循環。わかりやすさを好む視聴者や読者によって、メディアは事件や現象の単純化を当たり前のようにこなし始め、そのスパイラルが加速する。」(森達也『視点をずらす思考術』講談社現代新書、p138)

15日は大学の卒業式。二回目の卒業生を送り出した後、沖縄行きの最終便に乗り込む前に羽田空港の売店で買い求めたのが、上記の新書。いつものように森達也氏の視点が面白くて、結局那覇のホテルで床につく前には一気に読み終わる。この森氏のメディアへの警句は、書き手としての僕自身への警句としてもグサリときたのだ。

伝え手が、「説得の努力」をしていないだけでなく、その基盤となる「記述」に際しても、「単純化」「一面化」していたとしたら、目も当てられない。複雑な論理を解きほぐしながら説明する、ということから全く遠ざかり、「単純簡略な情報」として記述しているようでは、それは「記述」以前となってしまう。

1月から3月にかけて、やっつけ仕事のようにバタバタとスケジュールをこなしながら、心身共に不全感が蓄積されていった。で、ご先祖のお墓参りのついでに休養をとろうと南の島まで逃避行するフライトの中で、早速自身の精神的不全感の原因について気づかされる。「説明」する仕事が出来ていないばかりか、「記述」する姿勢もなっていなかったのだ。

「僕のメディア・リテラシーの定義は、『メディアは前提としてフィクションであるということ』と『メディアは多面的な世界や現象への一つの視点に過ぎない』という二つを知ること。自分の視点をずらすだけで新しい位相や局面が、断面や属性が、まるで万華鏡のようにあらわれる」(同上、p42

そう、独自の「説明」するためには必要不可欠な、「自分の視点をずらす」ということが、できてなかったんだよね。自分自身の頭を通して、自分の眼鏡でしか見えないものをみて、そこから稚拙でも自分なりに説明する。このサイクルが出来ていなかったのだ。情けないけれど。だからこそ、月並みな論理、月並みな記述、月並みな説明しか浮かんでこない。月並みな説明なら、ネットをちょっと引っかければ五万と出てくる。何も僕がしゃしゃり出る必要は全くない。そういう「ゴミ文章」を自分は書き散らしていたのか、と思うと、ドッと倦怠感が襲う。でも原因がわかってくると、多少力もわいてくる。

南の島で木曜日まで心身ともに充電し、金曜日の朝に6日ぶりにメールを開いてみるが、恐れていたほど処理に時間もかからない。なあんだ、メール&パソコン依存症状態だったんだね、とわかる。どうも最近パソコンの前にいる時間が長すぎて、じっくりと考え、視点をずらし、論理を構築する時間的余裕をつくっていなかったようだ。きちんと休みを取ること、自分の頭で考えること、この二つは、真っ当な仕事をするために、必要不可欠。研究の上でも、実践の上でも、今、もう一皮むける必要性を感じている。この一皮むけるためには、情報に溺れて「知ったかぶり」することなく、落ち着いて自分なりに論理構築をする時間的余裕を作るのが前提なんだよね。

と、何だかゲームのやりすぎをたしなめる親や教師の「お小言」に近い文言を書いてしまった。さて、パソコンはこれくらいにして、ちゃんと考える時間をとらないと。

ステップを合わせる

 

寝る前の、しかもこんな丑三つ時にパソコンの前に向かうのは、安眠のためによくない。こないだニュースでも、就寝直前のPCとの接触が、睡眠の妨げになるって言ってたっけ。でも、にもかかわらず、最終の「かいじ」で家に戻る車内で読み始めた本を、風呂につかりながら読み進めていて、どうしても、短い時間でいいから、今晩中に触れておきたいフレーズに出会った。

「ストーリーテリングはダンスである。このことは、1人の人が誰か他の人に、『あなたは変わるべきである。もしあなたがこうしたら、○○はより良くなるだろう』ということではない。もし、それがただ彼らに語られたものであるだけであるなら、そして彼らがその会話で何も経験しないなら、1ヶ月後、誰がそのことについて考えるだろうか? あなたが物語を語っているとき、そして、より重要なことだが、あなたが誰か他の人からの物語から刺激を受けて新たに物語を創り出しているとき、それが2人の会話であろうと、20人の会話であろうと、そのときそのすべての会話がダンスになる。それは行ったり来たりするし、さらに来たり行ったりする。そして、より重要なことだが、もしあなたが真に聞き、そしてあなたが真に知りたいなら、物語の交換から生じる率直さ、誠実さは、エネルギーを与える経験になる。人々がそうしたエネルギーをもらったその後に、彼らは自分たちが言ったことはちゃんと聞かれていると感じるし、さらには認められているとさえ感じる。彼らは、それが自身の本能や心の中でひびいていると感じることができるのである。このエネルギーによって、彼らはできるかぎり何か新しいものを見始めることができる。」(カタリナ・グロー「教育用ビデオ制作におけるストーリーテリング」『ストーリーテリングが経営を変える』同文館出版所収、p218-9

読んでいて思った。そうか、多くの場面で僕は「独り相撲」してたんだ、と。

先日も、同様の失敗をしてしまった。ある現場での講演会において、私ともう1人の方が講演をしていた。当日、開催時間が遅れたこともあってか、終了時刻を過ぎても、こちらが伝えたい話が伝えきれずにいた。後数分でまとめよう、と焦りながら話していたとき、フロアのある男性が、突如大声でこう仰った。

「そろそろ話を切り上げたらどうですか!」

まったく思わぬ方向から飛んできたタマに、大パニックになってしまった。ここからある程度話をまとめて、という展開が、ボキッと折られたのだ。一息ついて、深呼吸をして、謝るところから、スタートすべきだった。なのに、なのに。思い出すだけでも情けないのだが、あろう事か、逆ギレ、とまではいかないものの、怒りながら話をまとめている自分がいた。一度そうやって短気に火がついてしまうと、収集が全くつかない。今までの1時間半以上かけて暖めてきた(であろう)雰囲気もぶちこわし、さんざんな講演会だった。自分自身、すっかり嫌になってしまっていた。

で、なぜその時、そのオジサンがそんなことを仰ったのか。理由は色々あるかもしれないが、今にして思うと、僕のその時の語り口が、『あなたは変わるべきである。もしあなたがこうしたら、○○はより良くなるだろう』的なものだった部分に起因するような気がする。実は、数日前、その会に参加していた他の方にお逢いした際、同様のことをやんわり注意されていたのだ。だが、その時は、まだ気づけずにいた。しかし、風呂読書の中でこのフレーズに突き当たった時、氷解していった。そうか、またいつもの“I am right, you are wrong!”的フレームワークをやっちゃんたんだ、と。

馬鹿な話だが、最近まで、こちらが一生懸命語りかけることが大切だと思い、そのことにのみ専心している自分がいたことに気づいた。だが、「彼らがその会話で何も経験しないなら、1ヶ月後、誰がそのことについて考えるだろうか?」というフレーズが、まさに僕にも問われている。僕の、少なくともその日の講演では、その場の参加者が「何も経験しな」かったのだ。「物語の交換」をするどころか、延々と「タケバタの物語」を押しつけていたのだ。それを2時間もやられたら、そりゃ、僕だってたまらない。早く終わらないか、と気になって当たり前だ。つまり、「行ったり来たりするし、さらに来たり行ったりする」ようなダンスを踊れていなかったのだ。

自分以外の誰かに「できるかぎり何か新しいものを見始める」ようになってほしいと願うとき、お説教モードの独り相撲では絶対に動かない。ちゃんとまず僕自身から、相手のストーリーを伺い、相互交換する中から、少しずつ、共鳴する部分を探り出していくべきなのだ。そういう、チューニングを合わせる作業、つまりはダンスのステップを合わせる作業をしていく「行き来」の共同作業の中から、信頼と、心を溶かすきっかけが産まれるのである。脅すのでも、教化するのでも、こじ開けるのでもない。大切なのは、向こうから開くのを、一緒にステップを踊りながら、誠実に待つことである。

これは、会話でも講演でも同じ部分があると思う。その場の雰囲気にちゃんと共鳴し、その流れにうまくチューニングを合わせ、ステップを踊れるか? 逆ギレする、というのは、僕自身が踊る資格がないことを白日の下にさらしている、と証明しているようなものだ。情けない。1:1でも、50人を前にしても、きちんと相手をみて、相手とダンスできるように心がけられるか? 自分自身の勝手なストーリーを押しつけていないか? 1人であろうと、集団であろうと、その相手と共にダンスを踊ろうとしているか? 

明日からは、まずステップの練習からだね。

自戒モード

 

久しぶりにゆっくり机の前で仕事が出来る。
必要に迫られて、4年前に読んだ本を読み返していたら、グサリとくる箇所に突き当たった。

「相互浸透の度合いが低い(あるいはそれが欠落している)場合は、データと分析が乖離している状態にあると考えていいだろう。こうした乖離は、たとえば、調査者が最初と最後の部分で精緻な概念図式を展開しているようなレポートにみいだされる。その中間の部分では、最初と最後の部分で提示される概念図式に関連づけられていない、抽象度の低い常識的な記述が展開される。つまり、分析がデータから発展させられる、あるいはデータの分析のために使用されるというより、レポートのそれぞれの末尾でデータに付加されているように見えるのだ。レポートを通してデータと分析が緊密に結合されていないので、両者の関係は不明確なものとなる。このようにレポートにおいてデータと分析の相互浸透を達成しそこなうということは、事実上、調査者が現実に何の分析もしていなかったことを意味する。」(J・ロフランド&L・ロフランド『社会状況の分析』恒星社厚生閣 p225)

この数年間の間に、「データと分析が緊密に結合されていないので、両者の関係は不明確なものとな」った、つまりはデータと分析の「相互浸透を達成しそこな」ったレポートを書いてこなかったか? 思い当たる節がないと言えば嘘になる。「時間がない」のを言い訳に、「抽象度の低い常識的な記述」で済ませたものがある。そもそも「最初と最後の部分で精緻な概念図式」すら描けなかったものもある。こういうタケバタは、筆者らによれば次のタイプに当てはまるようだ。

「記述過剰の過誤は、分析に対して過剰な記述が提供される場合である。著者は状況の具体的で詳細な事実を提示することに熱中するあまり、そうした事実を整序・説明・要約する分析概念と着想との関連を見失うのだ。このようなレポートは、単純な歴史記述ないしジャーナリスティックな記述と類似している」(同上、p224)

ただ、ここで注意しておかなければならないことがある。優れたジャーナリストなら、「記述過剰」に陥らないことは、私の師匠などを見ているとよくわかる。記述する方法が学術的かジャーナリスティックか、は別として、師匠の作品などは事実の記述だけでなく、そこから「事実を整序・説明・要約する分析概念」を立ち上げて、現実へ切り込んでおられる。それに対して、己の仕事はどうか? 「状況の具体的で詳細な事実を提示することに熱中」してはいなかったか? そういえば、昔師匠が仰った「下手な研究者は無駄に情報ばかりを求める」というのも、「記述過剰」への警句だったんですね。

何で今頃こんな事に気づくのか。いや、私には有り難い仲間がいて、ちゃんと教えてもらったのであります。先週スキーに出かけていてさぼってしまったある研究班の会合の議事録が送られてきたので、読んでみると、私の担当部分にこんな事が書いてあった。

「注意点:文献研究ではない、論理的枠組みの持ち込みは禁止!!」

同じチームのH氏は的確に、私の怠慢・さぼり癖・問題点を見抜いている。「記述過剰」および、自身の論理展開ではない、他から借りてきた「概念図式を展開している」私の仕事ぶりに対して、厳しく「そりゃ、あかんよ!」とおしかりを受けたのである。これって、ロフランド夫妻の仰る「事実上、調査者が現実に何の分析もしていなかったことを意味する」という宣告のパラフレーズそのものだ。グサッとくるけど、言われてごもっとも。さてどないしよう、と本棚を探していて、偶然久しぶりに目にとまった本を開けてみたら、引用した件の記載が目に飛び込んできた。あまりにバッチリな記述に、思わず「すんません」と思ってしまう。さて、今からとある別の研究の中間まとめ。データと分析をじっくり付き合わせるような、「相互浸透の度合い」を高める仕事をせねばという自戒モードであった。

月またぎの旅行

 

昨日今日と、久しぶりに遊んできた。

ところは車山高原。そう、今季初滑りに出かけたのだ。一昨日は東京で一日会議があったのだが、夕方には「風邪気味ですので先に帰らせてください」と早々に切り上げ、明日の神戸での会議は「前から約束していましたので」と断ってまで、何とか空けた丸二日。事実、沖縄出張から帰ってきて、本当に風邪を引いてしまい、半分仕事を休んでダウンしていたのだが、何とか葛根湯のおかげで「病み上がり」。年に1度、東京からやってくる大学時代の友人Nとそのパートナーを甲府駅で拾って、4人で今年も白樺湖方面へとアクセラ号を疾走させていく。

大門峠で徐々に雪景色が深まり、白樺湖は結氷していうる上に、昨年より少し雪深い模様。更に車を進めて辿り着いたスキー場は快晴で風があるのでサラサラな雪質。しかも金曜なので人も少ない。3拍子そろったコンディション。だが、今回は病み上がりで、仕事も忙しく、前回教えてもらったTコーチの教えを復習する間もなかった。しまった、と思いながら、スキージャンパーのポケットをまさぐっていると、まさにその教えをメモしたこのスルメの過去ログのプリントアウトしたものが出てきた。このときほど、ポケットに何でも詰めておく自分の癖に感謝したことはない。駐車場からスキー場に出かける坂道で、ありがたく拝読する。そう、足の裏で滑るんでしたよね・・・。

なのに、最初の滑りでは、無意識のうちに怖くて足をグーにして、無理矢理肩や腰で曲がろうとしていた。下まで滑ってみて、なんでエッジが効かないのだろう、と意識して、はっと気づく。しまった、一番してはいけないことをしていた。しかも、変に力を入れたもんだから、足の裏が緊張して痛くって仕方ない。以後、足の裏を意識しながら滑っていくのだが、なかなかその痛みは取れにくかった。よって、1時間滑ってお昼ご飯、その後1時間あまり滑って今度はお茶、と大変「文化会系」(=非体育会系)スキーである。

とはいえ、Tコーチに受けた実質的プライベートレッスン!は一年後もしっかり身に付いていた。一旦感覚を取り戻すと、何とか足をそろえて滑り始める。中級コースの、角度が急な斜面も、Tコーチに教えてもらった通りに、怖ければボーゲンで、少し慣れたら右に左に多少エッジをかけながら降りていくと、見た目はどうであれ、難なく降りていける。そうすると、俄然面白くなっていき、結局リフトが止まる直前の4時半くらいまで滑り続ける。

で、泊まったペンションでは、温泉にもつかり、超美味しいビールに心を躍らせ、最初のアペリティフがすごく美味しくてというあたりまでは、よかった。だが、そう、病み上がりなのである。そこの食事がヨーロッパテイストの、ハーブをバリバリに効かせ、濃厚なテイストで、脂っこい食べ物だったせいもあるのだろう。急に途中から脂汗が出てきて、みんなが美味しいと喜ぶデザートもパス。食いしん坊のタケバタにしては、相当の緊急事態である。部屋に戻って胃薬を飲もうとしたら、我慢できずにトイレに直行。そういえば、本来のタケバタは胃弱である事を忘れていた。久しぶりに風邪菌と共に外にはき出してしまい、ベッドに横たわって2時間程、コンコンと寝る。その後、すっきりして別室での宴会会場に合流したのだが、おつまみもお酒にも全く手が出ず、ひたすらお茶ばかり。改めて、最近の無茶な日々を反省していた。

という悔恨の念が天に届いたのか!?、翌朝は多少調子を盛り返す。翌朝、雪がちらつく露天風呂で汗をたっぷりかき、またもヘビーな朝食は少し学習したので量を減らして、ゲレンデへ。9時半には着いたのに、車、車、車。しまった、今日は土曜日だった。そう、めちゃくちゃ多い人、人、人である。ただ、幸か不幸か多少吹雪いていたので、人は多くても雪質は悪くない。リフトもそんなに並ばずとも乗れた。滑っているうちに多少日差しも出てきて、午前中何本か滑っていく。だが、今度は、ウェアーに問題が! 4年前にスウェーデンに住んでいた折、北極圏のイエリバーレに遊びに出かけたのだが、その際に買ったモコモコのダウンジャンパー。零下10度以下の散策には良いかもしれないが、スキーをするには分厚すぎるし、超汗っかきのタケバタにはジッパーを閉めると、あまりに暑い。で、滑りながら少しジッパーを下げると、とたんに冷風が吹き込んで来て、その後リフトに乗ってる間、その冷気が全身を冷やしていく。一難去ってまた一難。また風邪を呼び込んでは仕方ないので、足もガクガクだし、お昼前には早くも終了。
早速着替えて、帰宅の途に着く。

まあ、その甲斐あって、何とか風邪も引かず、帰りに美味しいそばも食べ、諏訪の魚屋にも寄り、3時過ぎには友人夫婦を甲府駅でお見送り。久しぶりに仕事を一切忘れて楽しんでいたので、ちょっと喉はイガイガ気味だが、大変リフレッシュできた。さて、来週もまたまた山ほど課題があるが、頑張れそう。2月最後の夜はとんでもない終わり方だったが、3月のはじめは良いスタートを切れた、ことにしておこう!