ステップを合わせる

 

寝る前の、しかもこんな丑三つ時にパソコンの前に向かうのは、安眠のためによくない。こないだニュースでも、就寝直前のPCとの接触が、睡眠の妨げになるって言ってたっけ。でも、にもかかわらず、最終の「かいじ」で家に戻る車内で読み始めた本を、風呂につかりながら読み進めていて、どうしても、短い時間でいいから、今晩中に触れておきたいフレーズに出会った。

「ストーリーテリングはダンスである。このことは、1人の人が誰か他の人に、『あなたは変わるべきである。もしあなたがこうしたら、○○はより良くなるだろう』ということではない。もし、それがただ彼らに語られたものであるだけであるなら、そして彼らがその会話で何も経験しないなら、1ヶ月後、誰がそのことについて考えるだろうか? あなたが物語を語っているとき、そして、より重要なことだが、あなたが誰か他の人からの物語から刺激を受けて新たに物語を創り出しているとき、それが2人の会話であろうと、20人の会話であろうと、そのときそのすべての会話がダンスになる。それは行ったり来たりするし、さらに来たり行ったりする。そして、より重要なことだが、もしあなたが真に聞き、そしてあなたが真に知りたいなら、物語の交換から生じる率直さ、誠実さは、エネルギーを与える経験になる。人々がそうしたエネルギーをもらったその後に、彼らは自分たちが言ったことはちゃんと聞かれていると感じるし、さらには認められているとさえ感じる。彼らは、それが自身の本能や心の中でひびいていると感じることができるのである。このエネルギーによって、彼らはできるかぎり何か新しいものを見始めることができる。」(カタリナ・グロー「教育用ビデオ制作におけるストーリーテリング」『ストーリーテリングが経営を変える』同文館出版所収、p218-9

読んでいて思った。そうか、多くの場面で僕は「独り相撲」してたんだ、と。

先日も、同様の失敗をしてしまった。ある現場での講演会において、私ともう1人の方が講演をしていた。当日、開催時間が遅れたこともあってか、終了時刻を過ぎても、こちらが伝えたい話が伝えきれずにいた。後数分でまとめよう、と焦りながら話していたとき、フロアのある男性が、突如大声でこう仰った。

「そろそろ話を切り上げたらどうですか!」

まったく思わぬ方向から飛んできたタマに、大パニックになってしまった。ここからある程度話をまとめて、という展開が、ボキッと折られたのだ。一息ついて、深呼吸をして、謝るところから、スタートすべきだった。なのに、なのに。思い出すだけでも情けないのだが、あろう事か、逆ギレ、とまではいかないものの、怒りながら話をまとめている自分がいた。一度そうやって短気に火がついてしまうと、収集が全くつかない。今までの1時間半以上かけて暖めてきた(であろう)雰囲気もぶちこわし、さんざんな講演会だった。自分自身、すっかり嫌になってしまっていた。

で、なぜその時、そのオジサンがそんなことを仰ったのか。理由は色々あるかもしれないが、今にして思うと、僕のその時の語り口が、『あなたは変わるべきである。もしあなたがこうしたら、○○はより良くなるだろう』的なものだった部分に起因するような気がする。実は、数日前、その会に参加していた他の方にお逢いした際、同様のことをやんわり注意されていたのだ。だが、その時は、まだ気づけずにいた。しかし、風呂読書の中でこのフレーズに突き当たった時、氷解していった。そうか、またいつもの“I am right, you are wrong!”的フレームワークをやっちゃんたんだ、と。

馬鹿な話だが、最近まで、こちらが一生懸命語りかけることが大切だと思い、そのことにのみ専心している自分がいたことに気づいた。だが、「彼らがその会話で何も経験しないなら、1ヶ月後、誰がそのことについて考えるだろうか?」というフレーズが、まさに僕にも問われている。僕の、少なくともその日の講演では、その場の参加者が「何も経験しな」かったのだ。「物語の交換」をするどころか、延々と「タケバタの物語」を押しつけていたのだ。それを2時間もやられたら、そりゃ、僕だってたまらない。早く終わらないか、と気になって当たり前だ。つまり、「行ったり来たりするし、さらに来たり行ったりする」ようなダンスを踊れていなかったのだ。

自分以外の誰かに「できるかぎり何か新しいものを見始める」ようになってほしいと願うとき、お説教モードの独り相撲では絶対に動かない。ちゃんとまず僕自身から、相手のストーリーを伺い、相互交換する中から、少しずつ、共鳴する部分を探り出していくべきなのだ。そういう、チューニングを合わせる作業、つまりはダンスのステップを合わせる作業をしていく「行き来」の共同作業の中から、信頼と、心を溶かすきっかけが産まれるのである。脅すのでも、教化するのでも、こじ開けるのでもない。大切なのは、向こうから開くのを、一緒にステップを踊りながら、誠実に待つことである。

これは、会話でも講演でも同じ部分があると思う。その場の雰囲気にちゃんと共鳴し、その流れにうまくチューニングを合わせ、ステップを踊れるか? 逆ギレする、というのは、僕自身が踊る資格がないことを白日の下にさらしている、と証明しているようなものだ。情けない。1:1でも、50人を前にしても、きちんと相手をみて、相手とダンスできるように心がけられるか? 自分自身の勝手なストーリーを押しつけていないか? 1人であろうと、集団であろうと、その相手と共にダンスを踊ろうとしているか? 

明日からは、まずステップの練習からだね。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。