運動とお吸い物

 

く、くやしい。

今日も午前三時のカリフォルニア。おかげさまで運動したら、よく眠れております。

何がくやしいって、せっかくこの三日間のことをきちんとブログにまとめて、最後の数行の段階になった折りに、なぜかファンクションキーをさわってしまったら・・・文章が丸ごと消えてしまった。

なんたる悲しさ。
ちょうどホテルの近所のスーパーで買った赤ワインが身体全体に回ってきたころなので、もうあきらめて、今日は寝ます。ちなみにこの赤ワイン。BYロバート・モンダビって書いてあるのに、たった9ドルだから、てっきりあの有名なナパバレーの、一杯50ドルくらい試飲でもぼったくる有名店のセカンドクラスかな、と思って買ったのに、裏のラベルを見ると、「Product of France」。よりにもよって、フランスのぶどうでできたワインをカリフォルニアで飲むのもなぁ、と思っていたのだが、意外といける。夜中までお勉強していて、少し空腹の身にとっては、心地よいライトに近いミディアムボディー。ええ気持ちになってきたので、自分の失敗も許せてしまう。

さて、今日は6時間半後に、以前からものすごくお世話になっていて、かつすごく博識の弁護士3人衆とのディスカッションだ。そろそろ寝て、鋭気を養わねば。

あ、そうそう、ジムにも行っております。すごいよ、朝5時から、行列ができているのだから。アメリカ人は、こってりしたものを食べるから、あれくらいストイックじゃないと、体型維持は厳しいんだろうね。

かく言う僕も、カリフォルニアで極端に野菜を食べる機会が減ってしまったので、フルーツとジムはmustのプログラムである。ホテルのジムの7回チケットも40ドルはたいて購入。一回10ドル、3回券で25ドル、なので、最低5回行かないと、と自分に課している。でも、こうやって運動とフルーツをちゃんと毎日の生活に組み込むと、海外旅行でありがちな口内炎と便秘からは逃れられているから、ありがたや。今日の朝は無理だけれど、夕方にちゃんとジムに行っておかないとね。でも、おそらく一番効果てきめんなのが、「松茸のおすいもの」。日本人は必須アミノ酸を出汁から取っている、という話を聞いて、今回は8袋持ってきて毎日飲んでいる。疲れが身体にたまらないのは、たぶんこれが最大ファクターのような気がしている。

なんて、二度目のブログ書きなのに、長々書いてしまった。早く寝ないと、明日の早口英語について行けない。では、おやすみなさいまし。

時差ぼけ

 

ね、ねむれない。

月曜日夕方に日本を発ち、カリフォルニアには「月曜日の正午」に到着。。日本とは17時間の時差があるので、今は2月20日火曜日、午前5時前である。カリフォルニア到着時にレンタカー屋で一悶着あって、ぐったりしてホテルにたどり着く。飛行機の中でもほとんど眠れなかったので、ホテルで2時間ほど爆睡。その後、ホテルのジムにはいていく靴を持ってくるのを忘れたので現地調達のお買い物などをして、夕食を食べて、明日の調査のお勉強をして(いちおう今回も仕事なので)、現地時間の午前2時過ぎにワインも飲んで、ではおやすみ、のはずだったのだが・・・。

午前4時頃、ばっちり目覚めてしまう。そりゃそうだよね。パソコンの時計を見たら、今は午後10時前。酔っぱらってちょっと飲んだときに、午後7時頃からうたたねしたら、9時過ぎには起きるよなぁ。完璧に身体が日本モードなのである。

でも、今日は調査初日だし、何よりフリーウェイを片道2時間のドライブもしなければならない。なので、睡眠は必須、とはいってもベッドサイドで1時間、全然眠れないし・・・。

というわけで、せっかくシューズも買ってしまったし、朝5時から開いている、ということなので、今からジムにいってこってり汗をかき、ついでに「朝飯」を食べて、それから寝ます。朝の二度寝って気持ちよいもんねぇ。さて、この暗示(というかストーリー)に身体が言うことをきいてくれますかどうか。

また、報告致します。

叩き出すことと待つこと

 

出張からようやく帰還。久しぶりに午前の東京行き新幹線に乗る。いつもは夜に帰る事が多かったのだが、昨日は講演先で宿まで確保して頂いたので、ご厚意に甘えたのだ。朝の御堂筋を久しぶりに歩いてよい気分だった。

今日は運動できなかったけど、昨日おとといと泊まっていた京橋のホテルでは、ちゃんとフィットネスクラブで、朝から一汗をかいていた。昨日朝はかったら、体重がなんと78.8キロ。79キロを瞬間風速的にでも切れた事は、大変よろしいことである。そういえば、久しぶりに電話でお声を聞いたKさんからも、「ダイエットがんばってる? 80キロ切った?」と励ましをいただく。こういう声があると、やはり励みになる。何より今回出張にはいてきたズボン、お気に入りだったのだが、去年とうとうはけなくなって「お蔵入り」していたズボンであった。それがすっと余裕を持ってはけるのだから、これほど嬉しいことはない。来週はまたアメリカ出張なのだが、滞在先のホテルにフィットネスクラブがあるようなので、身銭を切って脂肪を落とさねば、アメリカはこってり料理、だもんね。どうやらダイエットモード、という「枠組み」を何とか「身体化」し始めているようで何よりである。

そうそう、「枠組み」といえば、今回の旅のお供に持参した一冊から、思わずはっとさせられた一言を引いてみる。

「言葉が訥々としかこぼれ落ちてこないにしても、長い沈黙があいだに挟まるしても、それでもひとは聴かなければならない。なぜか。苦しむひとがみずからその鬱ぎについて語るというのは、その鬱ぎを整序し、それから距離をとるということだからだ。語ることで、その鬱ぎとの関係そのものが少しずつ変わってゆく。溺れたままでは語れないのである。とすれば、この溺れから脱すること、そのプロセスをたどりきることが苦しみについての語りの要だということになる。が、聴くひとは、とぎれとぎれの語りの、その遅さに耐えきれない。耐えきれずに、つい言葉を挟む。『あなたが言いたいのは、あるいは言いよどんでいるのはこういうことじゃないの?』というふうに。鬱ぎの中にあるひとは、ついこの『物語』に飛びついてしまう。とぎれとぎれにしか語りえないこと、整然とは語りづらいことを滑らかに語る言葉が、そこに並ぶからである。-『そう、わたしが言いたかったことはそのことなの。』
が、これはなんの解決でもない。語る、つまりは自分を鬱ぎから解き放つそのプロセスが、そのことで省略されるからだ。そのときはすかっとした気になるが、問題の解決は先送りされたにすぎない。語る者がみずからの鬱ぎから距離をとるそのチャンスが、聴く者によって横取りされたのである。
聴く者はつねに待機していなければならないのに、ついに待ちきれなかった。」
(「『待つ』ということ」鷲田清一著、角川選書 p71

障害のある人や支援者への聞き取り調査をする事が多い僕にとって、この鷲田氏の指摘は、身につまされる部分がある。何気なく、あるいは時には確信犯的に、あれこれ聴いていく質問者の僕の前で、訥々とお話される、あるいは長い沈黙の状態におかれる方も少なくない。障害ゆえにお話しにくかったり、まとめることが苦手な方が、こちらの問いかけに苦吟される現場に立ち会うことも少なくない。そういう場面で、僕という「聴く者はつねに待機していなければならないのに、ついに待ちきれな」くて話しかけてしまう、そんなことがしばしばあったのだ。

「とぎれとぎれの語りの、その遅さに耐えきれない。耐えきれずに、つい言葉を挟む。『あなたが言いたいのは、あるいは言いよどんでいるのは、こういうことじゃないの?』」

そういえば以前、ある後輩はこのことを指して、「叩き出しインタビューだね」と言っていたっけ。相手が話し終わるまでじっくり聴いて待つ、という事ではなく、自分の関心のあるポイントでどんどん叩いていって、その相手の反応から、さらに叩いていく、そういう鋳型作りのようなインタビュー形式だ、というのである。

この形式は、こちらがある程度、こういうものを把握したい、という枠組みがしっかりしている時には、有効である。だが、その枠組み自体が、話し手の枠組みではなく、聞き手である私の枠組みであることに注意が必要だ。その枠組みで話してもらうと、相手は「すかっとした気になるが、問題の解決は先送りされた」にすぎない。いや、相手ではなく「すかっとした気になる」のは、実は僕だけなのかもしれない。

今ここまで書いていて気づいたのだが、これって田原総一郎的なやり方である。話を強引に途中で遮り、こちらの聴きたい方向性の枠組みに強引に持って行く。テレビ的にはおもしろいかもしれないが、しかしそれでは討論のつもりであっても実質は聞き手のモノローグになってしまうのだ。こういう「無自覚な自身の枠組みへの埋没」がどれほど危険か、ということに、もう少し自覚的でないとまずい、と書きながら気づいた。

ダイアローグにするためには、常に自分を開いておくことが寛容。そのためにも、バイアスのかかった自身の勝手な枠組み(物語)に自家中毒にならないような、待ちの姿勢が求められているのである。

投稿者 bata : 23:25 | コメント (0)

20070212

年越しそばと有言実行

年越しそばは塩尻駅のなめこそば

と言っても年末のことではない。大阪出張に向かう、2月8日のことである。そう、翌日のニクの日は、32歳になる日なのだ。今年も年越しは、旅先であった。去年・今年と連続で呼んでくださったとある組織の会合で講演をさせて頂くために、教授会の後、神戸のポートピアホテルへと向かう。三宮で幹事役の方々と餃子をつまみながら歓談しているうちに、あっという間に31歳は過ぎてしまった。

で、32歳の朝は、1000円払ってポートピアホテルのプールで一泳ぎ。水着とゴーグル、キャップも付いているので、まともなホテルにしては、決して高くないお値段。常連っぽい先客がいたが、一レーン一人で泳げるので、いい気分。昨晩は餃子をパクパク食べてしまったので、朝からこってり汗をかいておかねば、と、32歳の今年はダイエットに燃えている事を、朝から自分に再確認。プールの後、ミストサウナも気持ちよく、たっぷり汗をかいて、美味しい朝食をバッチリ食べたら、会の始まりの時間に少し遅刻してしまう。本来の僕の講演開始時間はもう少し後だったのだが、さっさと司会進行が進んでしまい、昨晩ご一緒した方が先に話をしてくださる。すんません。頭がのんびりしていたが、バトンタッチされて、エンジンをフル回転。朝ご飯と運動が効いてか、結構頭がクルクル回っていた。

その後、午後はシンポジウムのコーディネーター。「医療観察法と退院促進事業」という大変なテーマで、かつ論客揃い。会自体は何とかまとめてみたが、今の自分の実力では、正直きちんと迫りきれなかった、と不全感が残る。対象の本質に迫りきれない、きちんと各シンポジストの本当の想いに聞き耳を立てきれていない、自分の狭い枠組みのの要因を取り込めていない、ある言葉の背景因子やイデオロギー、思惑をきちんと析出した分析が出来ていない・・・そういう意味では、実力のなさをも見せつけられる「年明け」の日であった。

その日は、無理してその日中に甲府に帰る。週末は妙高高原にスキーに出かけてみた。三連休で今期一番人が多い、とホテルの人が言うだけあって、とんでもない人だらけだったが、でも土曜の晩に大雪が降ったおかげで、日曜日は抜群のパウダースノー。というか、ちょっと降りすぎで前が見えず、それはそれで大変だったが、以前Tコーチに教わった「足の裏で滑る」という教えを実践しているうちに、おぼろげながらうまくターンが出来るようになってきた。いきなり上級こぶだらけコースに迷い込んでしまったが、何とか乗り切れたのも、Tコーチのおかげ。本当にあのときのレッスンは、価値ある時間だった、と感謝しまくっていた。

また、明日から大阪出張なので、今日は半分休み、半分仕事の準備な一日。どうも風邪を引く直前きわきわで推移していたので、午前中は大学で資料整理をした後、昼ご飯を家で食べて、ぐっすり眠る。体重を気にし始めて、最近、身体のサインに少しずつ気がつき始めた。そう、何だかのどの調子が優れない、という微妙な兆候は、身体から発されているのである。その微かな徴に気づいて、ちゃんとそれに従うか、あるいは「忙しいから」と無茶するか、で後の大きな分かれ目にさしかかる。32歳は、こういう兆候にも敏感でありたい、と想う。

そんな気持ちで、風呂読書には、以前の「てこ読書」に推薦されていた「フォーカル・ポイント」(ブライアン・トレーシー著、主婦の友社)。絶版で、アマゾンでは3万円!という高値で古本が売り出されていた(今日見たら、5000円というのもあった。でも1680円の定価なんだけどね)ので、図書館で取り寄せてもらう。

アマゾンの書評でも書かれているとおり、「具体的なノウハウが整然と書かれて」いる本。「7つの習慣」やら、ドラッカーやら、ナポレオン・ヒルなどのエッセンスを取り込みながら、筆者流のアレンジを交えつつ、上手な整理が出来ている。そういう意味では、ここしばらく色々この手の本を読みあさってきた僕にとっては「復習」的な本だったのだが、読みながら、ふと気づくことがある。そう、この手の本に書いてあることは、結局は実行しなければ意味がないのだ。

Practice makes Perfect!  やらん限り、どれだけ読んでも意味がない。ダイエットしかり、仕事の選択と集中しかり。口で色々言っても、それを行動に移す、という点で、多くの人が挫折し、このごくごく当たり前の格言が貴重な意味を持ってくるのである。能書きをあれこれ読むのは、もうそろそろやめにしよう。それより、理解した「つもり」になっていることを、きちんと実践しよう。明日からの出張も、今日のこの意気込みをちゃんと活かせるようにしたい。何よりまず、宿泊先のホテルでは「ジム付きプラン」を選んだから、こってり汗をかかなきゃね。32歳は、“carry out one’s word!(有言実行)な年になりますように。ダイエットと年始の言葉を思い起こすためにも、出張中の夕方はカロリーオフのそばでいきたいものである。そう、やはり入り口はまず、「動くこと」と「食べること」なのだ。

4つのP

 

以前から気になっていた本を「風呂読書」していて、面白い記述に出会った。

「以下は高品質ソフトウェアの品質管理への確かな道のりを始めるための、考えられる最小限の活動である。0次計測を達成するには、四つの基本ステップがある:
1.高品質製品をもたらすために、適切に定義された、計測可能なタスクからなるプロジェクトをどう構成するかの知識
2.所望の品質を目指すプロジェクト進捗について、オープンな視点を創りだし維持するシステム
3.品質が何を意味するかを文章化する要求仕様システム
4.品質を目指す進歩のあらゆる結果を計測する一貫したレビューシステム」
(「ワインバーグのシステム洞察法」ワインバーグ著、共立出版株式会社、p295)

ソフトウェアの品質管理に関する著者の分析は、社会科学の分野にも充分な洞察を与えてくれている。とくに、ある組織の質的な管理やプロジェクトマネジメントを考える際には、古くさい精神論や価値論を並べ立てるより、このようなクールでロジカルな論理構成の方が、眼鏡を曇らさずに眺めることが出来るような気がする。いや、むしろシャープに、とも言えようか。一次計測である観察を有意義に行うための前提条件として示された「0次計測」を達成するために、必要な4つの基本ステップ。だがこれは単に0次計測だけでなく、実に多くの場面で応用が可能だ。それを感じたのは、次の一節を読んだからであった。

「人のコミュニケーション・システムのこれらの基本ルールは、0次計測システムへの必須条件を指し示す。次の三つの必須条件がある:
1,組織はオープンでなければならない。
2、組織は誠実でなければならない。
3,組織は人々の相互学習を奨励しなければならない。」(同上、p312)

そして、この必須条件をクリアするために次の4つのPが大切だそうな。

1.計測可能なプロジェクト(project)計画を創る。
2.計画を目で見えることが出来るポスター(poster)に翻訳する。
3.ポスターは、オープンな組織にふさわしく、公表(pulic)する。
4.ポスターは進捗(progress)を見せるように毎週更新する。

あらためて見てみると、日本はこの4つのPが、特に公金を原資金に事業展開する福祉分野で弱いような気がする。自立支援法なんかは顕著なのだが、プロジェクトやそれを規定する予算がまずありきで、このプロジェクトが本人のwell beingに対してどういう点で良いのかというゴールを共有すること(計画の見える化:ポスター化)や、それに対するオープンな議論とその公表もなく、進捗状況は何ヶ月かに一度の「大本営発表」でしか更新されない。厚労省は福祉現場に対して第三者評価や多くの書類提出などを通じて4つのPを実践することを求めているのだが、肝心の厚労省という機構自体に、この4つのPの視点が足りないような気もする。

だが、問題は厚労省というマクロ組織だけでない。いわんや福祉現場をや、である。目の前の支援と事務仕事に忙殺されていると、ポスター化やその公表、更新、といったことには、どこもなかなか手が回らないのが現状だ。ケアプランや個人総合計画といった「計画」策定の際も、その計画がご本人の何をゴールとして立てられるものか、という「品質」の規定や、その「品質」を目指すための「オープンな視点」、実際にやったことに対する確かな評価・・・などが欠けていると、「ヶ年計画」のような計画倒れになってしまう。

ワインバーグ氏の言う、組織の「オープン」「誠実」「人々の相互学習を奨励」という3つの「0次計測システムへの必須条件」は、結局の所、組織の構成員が、互いに誠実に持ち味を生かし、うまく行かないところは忌憚なく議論しあい、その議論からお互いが学ぶ、という組織であれば、計画倒れには終わらない、と指摘してくれているのだ。

振り返って僕自身が、この「オープン」「誠実」「相互学習を奨励」という条件に合致しているか。割合オープンなのだが、誠実さには、ちと欠けているかもしれない。そして、自分と意見を異にする人からも学べているか・・・と言われると、アヤシイ。ま、ブログで自分の核となるprojectposter化して、progressをコツコツpublicにしている間は、まだマシなのかもしれないが。さて、皆さんや皆さんの組織の4つのPは、どうですか?

いい加減な言葉を使わないために

 

ひさしぶりにパジャマな一日であった。
どれくらいぶりだろう、全く家から出ずにのんびり過ごせたのは。

元々貧乏性なのか落ち着きがないのか、休みの日でもちょこまかちょこまか、ジムだの買い物だのと出かけているうちに、結局休みの日なのにあんまり休めない、という笑うに笑えない日々を過ごしがちだった。さすがに最近スケジュールがきつい(なんせ2週間前から毎週大阪出張が入り、大阪に行かない週はサンフランシスコに行く、というえげつない日程な)ので、この週末は家で休もう、と予定を空けておいたのだ。

本当はとある締め切りを過ぎた原稿と向き合うはずだったのだが・・・それは書きあぐねていたら共同執筆者の方が一端引き取ってくださったので、奇跡的に「何もない週末」が生まれる。良きことである。昨日はプールで泳いだり、お買い物に行ったり、という典型的な週末を過ごしたので、今日は買い置きも一応あり、家から出なくて良い。しかも昨晩はよく寝て、キムチやニンニクも食べたし、エネルギーも充分。ということで、したかったけど出来なかったあれこれ、をこなしていく。

午前中に4ヶ月も出来なかった懸案仕事をこなして、少し肩の荷が下りる。なので、午後からは、前回の「てこ読書」でご紹介した「てこメモ」作り。「てこ読書」の本を含め、最近読んだ三冊の本を「てこメモ」化する。どれも大事な本なので、メモし出すだけで半日が過ぎていった。とくにメモしていて、印象に残ったものを、いくつかご紹介してみよう。

「反対意見に接した場合、できるだけ、『なるほどそういう考え方もあるのか』『私は反対だが、あなたの意見はわかった』という態度をとりたいものである。反対意見をあしざまに批判するのは、自信のなさの裏返しである。情報を集めるには、選り好みをしないことである。嫌いな人の話であっても、もたらす情報の価値がないわけではない。『何かの手がかりを得られるかもしれない』と考え、先入観をもたずに耳を傾けることが有用である。『反対意見』と受け取らず、『情報収集の一環』として聞く態度が必要である。批判に耳を貸すとき、思索は一段と深まる。反対意見を聞くのは、他人のデータ・ベースにアクセスするようなものである。」(「プロ弁護士の思考術」 矢部正秋著、PHP新書 p130-131

反対意見を「他人のデータ・ベースにアクセスする」とは、なるほど、その通りである。でも、どうしても論理より感情を先行させて、「あしざまに批判」していたタケバタがいた。でもこれって、「自信のなさの裏返し」なんだよねぇ。確かに自分と同意見よりも、反対意見の中にこそ、「何かの手がかり」の要素が詰まっている場合が多いはずである。というか、反対意見をひっくり返したい、と思うのであれば、なおのこと、相手の意見表明を感情的敵対視するのではなく、「『情報収集の一環』として聞く態度が必要」なんだよなぁ。そう思っていたら、同じようなことを、別の「てこメモ」でもメモしている。

「対話というプロセスが生産的に進むための重要で当たり前の条件は、相手が言っていることの内容、真意を正確に理解することである。(略)『まず相手のことを理解する』というスタンスの人が少なく、『自分の言いたいことを相手にぶつける』ために対話をしてしまう人が多いのである。そのために、正確に相手の言うことを理解するのができにくくなってしまっている。」(「創造的論文の書き方」 伊丹敬之著、有斐閣 p245

何度も繰り返しているが、対話とは、結論を留保して、相手側の意見への回路をきちんと開いておくことである。“I am right, you are wrong!”と決めつけないのはもちろんのこと、相手と反対の意見を持っていても、最初からそう宣言する事はせず(自分の判断を一端留保して)、まず「相手が言っていることの内容、真意を正確に理解する」ことが第一義的に大切なのだ。でも、僕自身は、ある後輩に指摘されたこともあるのだが、「『自分の言いたいことを相手にぶつける』ために対話をしてしまう」部分がある。インタビューをしょっちゅうしているもんだから、どんどん「なぜ?なぜ?」と聞いていくやり方をよくするのだが、でもそれって自分の枠組みの中での「なぜ」から抜け出せていない場合もある。「正確に相手の言うことを理解する」ことをする前から、途中で遮って、「なぜ」モードに入ることは、相手の意見の正しい理解を遠ざけ、自分の枠組みを相手にぶつける、という可能性があるのだ。もう少し落ち着いて、じっくり聴かねば。来週からまたインタビュー調査も再会するしね。と、てこメモで反省しきりである。

で、この伊丹氏の「創造的論文の書き方」はすごく今の自分にとって大切だったので、二読したら、メモだらけだった。当然てこメモも膨大に増え、気が付けば7ページに。でも、このメモは、てこメモ提唱者のいうように、なるべくなら身体化したい内容だ。

「いつも持ち歩いて繰り返し何度も読むと、その内容が、だんだん自分になじんできます。使い込んだ道具が手のひらになじむように、ものの考え方や行動習慣が自分自身のものになっていきます。」(「レバレッジ・リーディング」 本田直之著、東洋経済新報社 p156

僕はいい加減な人間なので、論文のお作法に関しても、現時点でも相当いい加減な部分がある。言葉の使い方にしてもしかり。だから、先人の叡智を学び、「ものの考え方や行動習慣が自分自身のもの」にしたいから、メモをとってみた。で、そういう自分のこれまでのいい加減さに関しては、先に挙げた「創造的論文の書き方」の最後で、伊丹氏は次のようにびしっと総括してくれている。

「言葉を大切に使うということは、考えるプロセスをきちんと行うということと同じ事なのである。的確な言語表現を考え、言葉を厳密に使うことは、じつは概念的思考力を鍛えることと同じである。だから私は、言葉を大切に使うことをことさらに強調する。言葉をおろそかにする人は、言葉の逆襲を必ず受ける。(「創造的論文の書き方」 伊丹敬之著、有斐閣 p269

こないだ査読論文にrejectされたのも、結局「言葉をおろそかに」した故に、「言葉の逆襲」を受けたのである。そういえば、大学院時代の師匠は、超一流のジャーナリストでいらっしゃるのだが、口を酸っぱくしていつも、「いい加減な言葉を使ってはいけない」と教えてくださっていた。でも、正直、それが自分の心の底に届いていたか、というと、怪しい。わかって、努力していた「つもり」でいたが、実はちゃんと身体化出来ていなかったのだ。正しい言葉を使うために苦悶すること、それは面倒なことではなく、「概念的思考力を鍛えること」そのものだったのだ。

自分自身が「概念的思考力」に弱さを感じていて、ここしばらく方法論の本を読みあさっていた。だが、「灯台もと暗し」。実はこの点はずいぶん前から指導教官に何度も指摘されていたのに、僕自身の「『まず相手のことを理解する』というスタンス」の欠如ゆえに、そのことに今まで気づけなかったのだ。ああ、ほんとに人の話をちゃんと聞く余裕が今までなかったんだなぁ、と情けない限り。せめて、この「無知の知」を、同じ過ちを繰り返さないために活用せねば。