子どもの貧困について、以前から気になっていた。映画「みんなの学校」の原型となったドキュメンタリーを見て以来、木村泰子先生の本も読んできたし、子ども夜回りを取り上げたDVDを授業で学生たちと議論したこともあった。だが、教育学の視点から、子どもの貧困や学校でのケアについて議論している本を読んだのは、今回初めてであった。
「同質性の前提にもとづく一斉体制・一斉主義の学校・学級規範は、異なる処遇への不寛容と、階層格差や生活困難をないものとして不可視化する教師の姿勢を生み出す。これらによって、貧困状態にある子どもへの支援が実行されないばかりか、子どもの生活の現実を捉えようとする教師の視線が鈍らされていた。その結果、貧困状態にある子どもは、皆と同じように振る舞えずに、共同体にうまく参加できない異質性を有する存在として顕在化していた。差異を目立たせないようにと構想された教育は、皮肉にも困難を抱える子どもの存在を差異ある劣位者として逆に目立たせてしまったのである。そこで可視化された際は、一人ひとりの尊重されるべき違いではなかった。できる者—できない者、承認される者—承認されない者という能力差として収斂される違いであり、尊重されるべきものとはみなされないものであった。望ましくない差異を有する劣位者として烙印を押された子どもは、学校の中で疎外感を感じ、周縁化されてしまうといえる。」(柏木智子『子どもの貧困と「ケアする学校」づくり』明石書店、p41-42)
本来、日本の学校は「みんな同じく」処遇をすることによって、貧富や社会階層の差により、受ける教育が違う、という結果をもたらさないことを目標としていた。それは「面の平等」とされ、一斉体制や一斉主義のもとで、どのような子どもでも同じ教育が受けられる、という平等保障を目指していた。ただ、「みんな同じく」という姿勢で臨むと、宿題はしてくるもの、忘れ物はしないもの、親は家で子どもの世話や勉強をみるもの、という前提までが一斉体制の前提となってしまう。そして、その前提のもとで授業を展開していこうとすると、「貧困状態にある子どもは、皆と同じように振る舞えずに、共同体にうまく参加できない異質性を有する存在として顕在化」してしまう。持ち物を忘れない、宿題をさせる、など、学校の先生からすれば「当然」に思えるような、家庭での配慮やケアも、その余裕がある家庭だからこそ可能な訳で、シングル家庭や仕事が大変な両立家庭などでは、その前提が共有されない。だが、「階層格差や生活困難をないものとして不可視化する教師の姿勢」の下では、結果的に忘れ物をする、宿題をしてこないというのは「差異ある劣位者として逆に目立たせてしまった」。しかも、皆が同じ前提を共有している「はずだ」という幻想の下で教育しているのだから、その「はずだ」が共有できているかどうかは、「できる者—できない者、承認される者—承認されない者とという能力差として収斂される違いであり、尊重されるべきものとはみなされないものであった。」これが、貧困家庭の子ども達が「学校の中で疎外感を感じ、周縁化されてしまう」理由であると、柏木さんは整理する。その上で、この教育観の最大の問題点を、次のように指摘する。
「多様な教育のあり方を考えると、「みんな同じく」を原則とする教育が必ずしも問題なわけではないことが改めて示唆される。同質性の前提にもとづき、誰に対しても同じ内容と程度で「みんな同じく」教師が処遇するところに問題が発生したのであって、差異を前提に、それぞれの特性を尊重して「みんな同じく」子どもが選択できるよう教師が処遇するところに問題はない。何を前提にどう「みんな同じく」として考えるのか、その点に関する議論が必要であろう。」(p73)
「みんな同じく」は、何を前提にして、どこを目指したものであるか、を柏木さんは問うている。教師は生徒には差異がない、同じ土俵で学んでいるという「みんな同じく」の前提に立って授業をしようとし、異なる処遇は不平等だ、と考えると、先に述べたように、貧困家庭の子ども達は、結果的に落ちこぼれてしまう。その一方、各家庭でのケア能力に差異があることを前提にした上で、子ども達一人ひとりの特性も理解した上で、持ち物を忘れてきても、宿題ができる環境になくても、「みんな同じく」子どもが選択できるよう教師が処遇することができれば、実質的な平等は担保できる。そして、「同質性の前提にもとづく一斉体制・一斉主義の学校・学級規範」では、教師の想定する家庭環境が満たされていない子ども達が結果的に排除されたり、落ちこぼれてしまうだけではないか、と柏木さんは指摘する。
この議論を呼んでいて、例の平等(Equality)と公正(Equity)を巡る差異の図を思い出していた。このブログにおいて、平等と公正の違いは、以下のように説明されている。
「平等は公正さを推進させるために全員に対して同じものを与える。しかしそれが正常に機能するのは全員のスタート地点が同じ場合に限られる。この場合では全員の身長が同じ時だ」
「公正さは人々を同じ機会へのアクセシビリティを確保すること。個人それぞれの差異や来歴は、何らかの機会への参加に対し障壁となることがある。なので最初にまず公正さが担保されて初めて平等を得ることができる」
「みんな同じく」という時に、「全員のスタート地点が同じ」だと考えるのが、一斉体制・一斉主義の原則である。それをもって「面の平等」である、という。だが、そもそも宿題をしてくるとか、持ち物を忘れずに持たせる、という「スタート地点」が家庭環境のしんどさ故に共有できない子どもがいる。そうすると、「全員のスタート地点が同じ場合」=「全員の身長が同じ」という幻想は、あり得ないことがわかる。そうであれば、スタート地点=何らかの機会への参加を同じにするためには、それ以前の段階で、個人それぞれの差異や来歴に基づいた、「同じ機会へのアクセシビリティを確保すること」が求められる。それが公正さであり、柏木さんの言う「差異を前提に、それぞれの特性を尊重して「みんな同じく」子どもが選択できるよう教師が処遇するところ」である。
そして、この本の魅力は、公正さを求めて、貧困家庭の子ども達にも学習における「同じ機会へのアクセシビリティ」を保障する試みをしている、桜小学校と海小学校(共に仮称)へのフィールドワークに基づき、公正な教育はどのように行われているか、を現場のリアリティに基づいて考察しているところである。さらに、その分析概念の根幹に、「ケア」を用いている。両学校は、ホームレスや日雇い労働者が近隣地区に多く、貧困な家庭も多い二つの小学校で、ホームレスや日雇い労働者の生活実態を学ぶ学習を、年間を通じて展開していた。そのまとめの中で、子ども達の学びが次のように整理されている。
「ケアの受け入れを促すためには、現実社会における身近な社会問題を取り上げ、ケアの存在とケアから派生する異なる処遇の歴史あり方を、支援者と弱者の双方から実践的に学ぶ学習活動が有効であったといえる。この学習活動では、あってはならない差異を埋めるための異なる処遇が、他者の尊厳やウェルビーイングの保持を目指し、他者に関心と共感を持つところから始まると言う点で、自己責任論に基づく社会の分断を防ぐための緊要なものとして扱われていた。また、異なる処遇が、人権保障に関する法的根拠を伴うものとして子供に提示されていた。さらに、そうした異なる処遇が、庇護する相手に一方的に施されるのではなく、困難を抱える人々の苦悩や願いや頑張りに寄り添うケアリングとしてなされるべき点も示されていた。ケアリングは、互いの差異を認めながら互いの意思を尊重する対等な相互ケアであって、あっても良い差異を認めるための異なる処遇を含むものである。」(p146)
ホームレスや日雇い労働者は怠けている、くさい。そういう感想を持っていた子ども達が、支援者や元ホームレスの人の実体験などを伺い、自分の住んでいる地区の実情を学習する中で、自分たちが勝手に持っていたイメージと現実の違いを気づかされる。それだけでなく、ホームレス状態がどのように社会構造の歪みの中で生み出されたか、を気づくことによって、この問題は自己責任論で片付けることはできず、社会が関与すべき構造的課題だと子ども達は学習する。そして、そのような特別なサポートをすることによって、「あってはならない差異を埋めるための異なる処遇が、他者の尊厳やウェルビーイングの保持を目指し、他者に関心と共感を持つところから始まる」ということを肌身で感じる。それが、「みんな同じく」「全員のスタート地点が同じ」だと考える、一斉体制・一斉主義の原則が支配しがちな公立小学校で展開されているのが、何よりの驚きである。
しかも大切なのは、「ケアリングは、互いの差異を認めながら互いの意思を尊重する対等な相互ケアであって、あっても良い差異を認めるための異なる処遇を含む」ということを子ども達が学ぶことによって、結果的に、クラスのなかにいる、貧困などで家庭がしんどい状況にある友達への想像力も働く、という点である。柏木さんの調査の中でも、「生活圏における問題を、複雑に絡み合う歴史的・社会的な構造と結びつけて読み解く」「社会学的想像力」を子ども達が身につけつつあることがうかがえた、と整理している(p232)。同質性が高まる中で、くさい、汚い、という差異は看過されず、そこからいじめに発展する現代日本社会において、このような社会学的想像力を教育を通じて子ども達が獲得し、そのプロセスの中で、「互いの差異を認めながら互いの意思を尊重する対等な相互ケア」がなされていくのは、実に重要なプロセスである。この点についても、柏木さんはフィールドワークから、重要な指摘を行っている。
「清潔な体を保つ必要性について少し述べておきたい。体を洗うことが必要な理由は、体から異臭がするといじめられたり、グループワークに参加できなくなったりするからである。異臭は「避けられるいじめにあっていない」「学習活動に気兼ねなく参加することができる」といった子供の望む機能を損なうものである。桜小学校では、異臭を全く気にせずに 付き合う仲間関係が見出されたものの、子供にとって体を洗うことが重要であることに変わりは無い。相手に悪気がなくとも、グループワークの際に「お前ちょっと風呂入ってきたら?」と言われた子供が、そのグループから少し離れて座るように心がけていた光景を他校で見たことがある。異臭を放つ子供がグループワークに十分に参加することができなかったのは言うまでもない。日本では、入浴が当然とみなされている社会である。そして、近年は、学習活動にグループワークが多く取り入れられるようになっている。「清潔な体を保てる」事は、今の日本を生きる子供にとって、学びを保障するための重要な機能の一つなのである。」(p149)
教育において「みんな同じく」というスタートラインに立つためには、「清潔な体を保つ必要性」がある。だが、そのスタートラインにたてず、それゆえにグループワークに加われない子ども達を、柏木さんは他校でのフィールドワークで見てきた。一方、この本で彼女が取り上げた桜小学校では、そういう排除を受けて不登校になる子はいなかった。それは、以下のような学校での工夫がなされていたからだ、と指摘する。
「桜小学校では、服や靴を洗う、自分の体を洗う、宿題をする、朝起きて学校に来るといった日本では当たり前とされているそうした文化を身につけていない子どもの潜在的ニーズに気づき、異なる処遇を通じて応答する価値規範や仕組みができているといえる。ケアのあり方は、まずは教師が全面的に支援をしつつ、次第に子どもが自分でできるようになる自立の過程を歩ませようとするものであるといえる。」(p128-129)
この部分を読みながら、桜小学校でなされている支援は、一斉体制・一斉主義に基づく教育とは全くことなり、個々人の事情や差異に合わせて、必要なニーズに応答していく、という部分では、ケアであり、極めて福祉的色彩の濃いものであると感じた。さらに言えば、そのようなケアを学校が提供するからこそ、初めて他の子どもと同じスタートラインに立てる、という意味では、教育機会の実質的保障を裏打ちするケアである、といえる。これがこの本のタイトル「ケアする学校づくり」に込められた意味であると、受け取ることができた。
「差異を前提に異なる処遇が重視されるこのような空間の中では、同質性を前提に「みんな同じく」処遇することを原則とする教育における、一定の基準に従った序列化は意味をなさず、仲間を出し抜く競争は不必要なものであると学べる。子どもたちが異なる処遇への不寛容と恐れを克服し、ケアする学校文化を変容する担い手となったのは、教師との関わりや地域学習での学びを通じて、一斉体制・一斉主義の学校・学級規範を維持・強化させる水面下での序列化や競争を無価値化し、同調圧力を跳ね返すための価値規範を身に付けつつあったからであろう。また、自らの声がそのまま承認される空間を体験し、そうした空間の居心地の良さを肌で感じたからこそ、子どもたちは、子ども間のあるいは社会における同調圧力を相対化し、ケアするクラスや社会を創出するための意欲を高めてきたのではないかと推察される。」(p230)
大学という現場において、同調圧力に従い、自らの声を引っ込めて、教員や親が望む声に合わせてきて、生きづらさやしんどさを感じている学生たちとたくさん出会っている。その中で、日本の学校教育の、一斉体制・一斉主義や、異なる処遇への不寛容さをヒシヒシと感じる。だが、この本を読んでいると、そんな日本において、さらにはしんどい家庭状況の子ども達が集う地域の学校の中で、日本のドミナントな教育の歪みを越える実践がなされている、というのを学んで、本当にびっくりしたし、希望を見いだす本でもあった。それが何より、「ケアする学校」という、福祉と教育の融合点にある、というのは、僕にも思いつかない視点だった。だが、迫力のあるフィールドワークや子ども、先生たちの声から、これなら日本の他の教育現場でも十分に実践可能な内容である、とも感じた。
そして、「同質性を前提に「みんな同じく」処遇することを原則とする教育における、一定の基準に従った序列化は意味をなさず、仲間を出し抜く競争は不必要なものであると学べる」ことは、貧困地域ならず、変化の激しいこれからの社会で、子ども達が共に協力し合いながら生き抜いていく上で、すごく意味や価値の大きいことだと思う。そして、その前提として、「自らの声がそのまま承認される空間を体験し、そうした空間の居心地の良さを肌で感じた」という部分にも深く頷く。安心して本音でしゃべれる、その声が否定されず承認される、そこで居心地の良さを感じることが、生きていく上での土台となるのだ。
そう思うと、ケアする学校、とは、教育と福祉を単に接合すること、ではない。どんな家庭に育った子どもであれ、自分は生きていてもいいんだ、友達と違っていてもいいんだ、ありのままで自分自身は承認されるんだ、困ったことがあっても助け合える環境が学校にはあるんだ、ということを、肌身で子ども達に実感させる学校である。それは、一斉体制・一斉主義や同質性を前提とした序列化、とは真逆の様相である。そして、僕の子どもにも、そうう「ケアする学校」で学び合ってほしい、と強く感じる。そんな気づきや希望を与えてくれる一冊だった。
気がつけば6000字を越えた書評だが、最後に個人的なことを書いておく。著者の柏木さんは、学部も大学院も同級生で、大学院では「ボランティア人間科学講座」という大講座で一緒だった。ご自身も「おわりに」で書いておられるが、子育てと研究の両立で大変だった、という。
「子育ては、もちろんやりがいも大きいものですが、責任の重い本当に大変な仕事です。さまざまな事情で、子育てに十分な時間と労力を避けない保護者の悲鳴とそこでなんとか生き抜いている子どもの声を聞きつつ、すべての子どもと保護者の過ごしやすい学校のあり方を模索するべきではないかというのが今の強い思いです。一方で、一人の人間として子育てや介護やその他の事情を多く抱える教師にとっても、働きやすい環境が求められています。そのため、みんなが過ごしやすい学校の模索はとても大切な課題だと考えています。子どもも教師も保護者も、みんなが幸せを感じられる学校空間とそのための仕組みがあれば、きっとみんなが元気を貯められるし、安心して子どもを生める社会づくりにつながるのではないかと思っています。」(p260)
自分の実感と学問とフィールドを結びつけ、自分の言葉で問いかけているのが、柏木さんらしい、説得力ある表現だと思う。かつ、院生の頃から僕より遙かに勉強家で、教育や福祉領域に関する膨大な先行研究を読みあさりながら、フィールドワークも沢山積み重ねながら、子育てもしながら、ご自身の納得のいく論考を骨太に書き上げておられる。僕は大学院卒業後、甲府で暮らしていた期間が長く、年賀状のやりとり以外、疎遠になっていた。だが、ふとしたきっかけで最近つながり直し、ネットでググってみたら、この2月に彼女の初の単著が出たと知り、タイトルも興味深くて読んでみたら、めちゃくちゃ学ばせてもらうことが多い、迫力ある一冊だった。
15年以上の時を経て、柏木さん(の研究)と出会い直した、という意味でも、実り深い読書体験であった。