「隠蔽される男の下駄」の暴露

久しぶりに読みながら自分の身をえぐられるような、強い揺さぶりをかけられる読書体験だった。それは文章や書かれた内容が陰惨だ、とか攻撃性が強いとか、そういうことではない。学術書として精緻に論理的に議論を積み重ねる中で、男性である自分自身の権力性・支配的立ち位置を、そのものとして提示され、あなたはこのことに無自覚なままで良いのですか?と問われているように感じたからである。しかも同じ男性の著者から。

「「男性優位社会」の構造のもとで男性に突き付けられているのは、男性たちに支配の志向を「断念」することができるのか、いかにしてその志向にとらわれずに済むのか、という問いである。その意味で、男性が降りるのは男性性ではなく、より直截に「支配者としての地位」と言うべきであろう。」(平山亮『介護する息子たち』勁草書房、p249)

僕はタイトルだけでこの本を舐めていた。介護する息子たちが置かれた苦境や「生きづらさ」について、実態調査に基づき書かれた論考なんだと思い込んでいた。それはそう遠からぬ先に自分自身の問題になるかもしれないけれども、「いま・ここ」の僕自身にとっては直接関係のない話、だと思い込んでいた。だが、そのような思い込みこそが、「男は、自分が下駄を履かせてもらっていることを、どうしてここまで無視し続けられるのか」(p258)というジェンダー不平等の温存への加担につながるスタンスだと本書で気づかされ、それは僕にとっても「いま・ここ」の問題であると突きつけられた。読み終えた後に表紙を見返して、副題に「男性性の死角とケアのジェンダー分析」とあるのに気づき、改めてそういう本だと頷いた。

「「自立/自律」はしばしば男性性に結びつけられ、「自立し自律した存在」であることを強迫的に自らに求める男性も少なくないが、多賀のようにそれを「生きづらさ」と呼ぶ代わりに、本書ではむしろ、その事実がどのように構成されているか、「自立/自律」がそのように構成されることで、男性優位のジェンダー関係がいかに維持されているかを批判的に考察することを試みた。」(p249)

ここで批判の対象になっているのは、男性学の視点から「男らしさ」を批判的に考察してきた多賀太さんのことである。平山さんは、その多賀さんの論考を検討しながら、「自立し自律した存在」であることを強迫的に自らに求める=生産性至上主義に絡めとられる男性の課題を、「生きづらさ」の問題としてはならない、と鋭く批判する。生産性至上主義によって、結果的に家族内で支配的な稼得能力を持ち、その経済的な稼得能力によって女性や子どもを従わせているという点で、「支配者としての地位」を男性は保っているのである。それを「生きづらさ」の問題に矮小化して捉えず、「男性たちに支配の志向を「断念」することができるのか」を問うているのである。

フィクションとしての「自立/自律」

さらに平山さんは、「自立し自律した存在」はフィクションである、と喝破する。

「男性たちに必要とされているのは、「自立と自律のフィクション」を解体することである。「男らしさ」の名の下に、男性たちが自立的で自律的だと観念してきたこと。それさえ体現していれば一人前でまっとうな存在であるかのように信じて疑わなかったこと。そして逆に、そうではない存在を貶め、侮り、依存的存在は自立し自律したものの庇護(=支配)を受けるか、排除されてもしかるべきと考えてきたこと。それら全てが、自身が常に既にしている多くの依存を「なかったこと」にして成り立っていることを、直視することである。そして、依存を「なかったこと」にし、自立性と自律性を捏造するために、個人としての存在を認めてこなかった他者—私的領域において依存してきた他者—に対し、自分とは別の人格を持つ個人として向き合い、関わることである。」(p31)

男性達が「外で稼いでくる」ことによって、経済的な自立、および主体的人間としての自律を勝ち取っている、と思い込んで、「それさえ体現していれば一人前でまっとうな存在であるかのように信じて疑わなかったこと」。その表裏一体の関係として、「外で稼いでくる」ことの出来ない専業主婦やパート労働の妻という「存在を貶め、侮り、依存的存在は自立し自律したものの庇護(=支配)を受けるか、排除されてもしかるべきと考えてきた」こと。これは、男性達が女性への依存に基づいて初めて可能になった、ねつ造された「自立性と自律性」である。にも関わらず、その依存を「なかったこと」にするために、「私的領域において依存してきた他者—に対し、自分とは別の人格を持つ個人として向き合い、関わること」が出来なかったし、それがジェンダー不平等の温存の本質部分だ、と著者は喝破する。

お膳立てをするのは、誰か?

では、男性は女性にどのような部分を依存しているのか。それを著者は「お膳立て」という「マネジメント」機能であると整理する。

「メイソンが「感覚的活動」という概念を提案したのは、「世話すること」という物質的な労働が、他者の生活生存を支えるケアとなるために、そこで潜在的に行われているマネジメントないしは「お膳立て」を可視化するためだった。そのマネジメントに含まれるのは、他者の状態や状況、嗜好などを把握した上で、他者の世話となる個々の作業を組織・編成することだったり、そうした作業を通じて、他者を社会関係に組み込み、その関係がうまく回るように調整することなどである。」(p51)

このケアにおけるマネジメントとは、子育てをしている我が家でも思い当たる節がたくさんある。例えば食事作りも僕はなるべく分担しているが、子供の状況を見ながらどれだけ食べさせるべきかを判断するのは、大概の場合、妻である。洗濯ものを干したり畳んだりも夫婦で分担するが、子供の服を入れ替えたり、どの服を買うかを判断するのは妻の役割である。こども園への送り迎えも夫婦で出来る方が行うが、子供の服や持ち物に名前が書いてあるかを確認して、油性ペンでささっと名前を書き込むのは妻の役割である。つまり、子育てに関して、子供の状態や状況、子供の好みなどを把握した上で、個々の作業を組織・編成するのは明らかに妻の役割であり、それができているから、子供は社会関係に組み込まれ、その関係がうまくいっているのである。そしてそのマネジメントを妻にお任せすることによって、僕自身は子育てを分担することが可能になる。つまりケアのマネジメントに関しては、妻に大半のことを負担させているわけであり、そのお膳立てがあって僕自身も初めて子育てが可能になっている。と言うことに気づかされて、自らの土台が突き崩されるような衝撃を受けた。しかも本当のことであるから。

「作業としての「世話すること」に従事する男性が増えても、女性にとってのケアの負担が減っているように思われないのは、まず、マネジメントの多くをいまだに女性が担っていること、さらに、マネジメントを担い続けながら(担わされ続けながら)、作業だけは男性向けに分離するという困難を求められていること、そして何より、マネジメントが目に見えない活動だけに、その困難を男性に提示して理解させることが難しいことに由来しているのではないだろうか。」(p59)

少し前からはやっている「イクメン」という言葉を僕は使わないし、育児参加を称揚するプロパガンダ言説としての意味は認めるが、手放しで喜べないと思っていた。が、その理由を論理立てて説明することは、出来なかった。だが、この平山さんのケアにおけるマネジメントに関する論考を読んだ今、はっきり「イクメン」の課題が浮かび上がる。「イクメン」と称揚される男性は、「作業としての「世話すること」に従事」している。だが、育児分担する男性の多くは、僕も含めて、上記のような日常生活における「他者の状態や状況、嗜好などを把握した上で、他者の世話となる個々の作業を組織・編成することだったり、そうした作業を通じて、他者を社会関係に組み込み、その関係がうまく回るように調整する」マネジメント機能を妻に任せて、部分的に物理的に家事育児を分担している。そのような「お膳立て」やマネジメント、気配りや配慮というものは、改めて考えてみると、かなりの労力を使うものなのだが、「目に見えない活動」であるがゆえに、その存在が意識化されることはない。かつ、そのお膳立てやマネジメントには、付随する具体的なケア行為(油性ペンで名前を書いたり、もう少し食べさせた方が良いとさっと冷蔵庫からウィンナーを持ってきたり)を伴っているが、これはマネジメントに連続的に付随した作業・行為であるがゆえに、そのマネジメントを行っていない(把握していない)男性パートナーに説明するのもまだるっこしくて、「自分一人で全部やってしまった方が楽」(p59)と母親が感じ、父親は「妻がやってくれるから」とそのマネジメントにただ乗りして、その大変さや負担を理解できず・・・の悪循環が続くのである。

介護におけるマネジメントと「自立/自律」

長々と子育てのことを書いてきたが、平山さんが主に論じるのは息子による親のケアとしての介護の話である。しかしながら、男がケアをすることという論点で言うと、男性による子育てと親の介護には共通する問題があると強く感じる。

「親のケアをめぐる子供たちの関係から浮かび上がる、息子による「親の看方」と「親の見方」。そこから示されたのは、親へのケア体制の中で、息子がいかに依存的な存在であるかと言うこと、そして息子は、自分が依存しているまさにその相手によって、自身の依存性に直面せずに済んでいることである。息子が必要なケアの判断を親自身に依存する一方、それを「親の主体性の尊重」としてカモフラージュすることができる。またケアの遂行のための「お膳立て」を女きょうだいに頼っているにもかかわらず、彼女たちによる事実の書き換え(=「家族の虚像」)の恩恵を受け、女きょうだいのそうした貢献に気づかずにいられる。」(p98-99)

息子が親を介護する場合、親に何をして欲しいかを、介護される対象者である親自身に尋ねることが多い。その一方娘の場合は、親の判断に委ねるだけでなく、自分からこれが必要そうだとマネジメントして、「常に寄り添う」姿勢を取ろうとしている。平山さんはこの対照的なアプローチの違いを指して、親の好みやニーズ、状況を判断して必要な支援を「お膳立て」「マネジメント」することを女きょうだいに任せた息子の課題を指摘する。これは、妻(時には子ども)が言うことに従って部分的にケアを担う夫と、構造的に同一性がある、ということである。

そして、このように「お膳立て」や「マネジメント」を、女きょうだいや、時には介護する母親に任せたままで息子が介護をすること自体が、「自分が依存しているまさにその相手によって、自身の依存性に直面せずに済んでいること」を象徴している、と平山さんは指摘する。つまり「家族の虚像」の恩恵を受け、そのフィクションの上で介護者としての「自立/自律」を果たしているという思い込みを、鋭く射貫いている。

「親を対等な存在に留めおこうとする息子の姿は、男性が支配の誘惑にいかに弱いかを逆説的に示している。相手が弱者だということを認めないことによってしか、相手を従属させることを防げないのだとすれば、それは、相手は弱者とみなした途端、自分が相手を直ちに支配してしまう/支配したくなるということを、自覚しているのと一緒である。
息子=男性にとって必要なのは、相手の弱さを認めないことではなく、弱さを受け入れることである。もっと言えば、相手の弱さを認めた上で、その存在を侵さずに済む回路を探ることである。息子によるケアの問題がある男性たちに突きつけているのは、「どうすれば男たちは、弱き者を弱き者のまま尊重することができるのか」と言う課題なのである。」(p103)

「どうすれば男たちは、弱き者を弱き者のまま尊重することができるのか」という命題にドキリとする。それは子育てに置き換えると、妻のマネジメントの下で、妻に聞きながら家事育児をする、という、一見すると、妻を「対等な存在に留めおこうとする」僕の姿は、「相手は弱者とみなした途端、自分が相手を直ちに支配してしまう/支配したくなるということを、自覚しているのと一緒である」という言説とまさに地続きだからである。そして、僕自身は、稼得能力によって妻や子を支配していないか、が文字通り問われる。また、自分の弱さや相手の弱さをどちらも認めることにより、「自立/自律のフィクション」を越えて、お互いを「弱き者のまま尊重することができるのか」が問われている。「支配者になり得る」という自らの立ち位置を鋭く問われる。

Doing Gender

平山さんは上野千鶴子氏から多くの学びを受けたジェンダー研究者でもある、とあとがきに書いていた。そして、本書において彼はウエストとジンマーマンによる以下のジェンダーの定義を用いる。

「個人が属する(とみなされる)性別カテゴリーを参照して、その個人の行為や置かれた状況を説明可能にする実践をジェンダーとして定式化した」(p108)
「「男性とは、女性とはどのようなものか」「両者はなぜどのように異なっているのか」—性差に関する現実は、このような「説明可能にする実践」によって構成されているのである。」(p109)

平山さんはこの定義を用いながら、「男らしさ」という表現がジェンダーであるという定義を退ける。「彼らは『男らしく』あろうとして、そのように行動しているのだ」と「説明することがジェンダー(を行うこと)なのである。」(p109)という。

「自立し自律した存在」であることを強迫的に自らに求める男性に対して、男性の「生きづらさ」を主張する旧来の男性学は、そのように説明することによって、その「自律した存在」を追い求める規範そのものを問いなおそうとしない、という意味で、旧来のジェンダー不平等を説明してしまっている(Doing Gender)であると指摘する。だからこそ、平山さんは、これまでのジェンダー不平等を変えるには、これまでと違う形で、「その個人の行為や置かれた状況を説明可能にする実践」が必要とされる、と提起している。

「「支配のコスト」は「支配のコスト」でしかなく、それを「生きづらさ」と呼ぶ必要はない。むしろ、自身の生存のための稼得能力を求める女性の困難と、他者を扶養=支配するための稼得役割を求める男性の困難を、同じ「生きづらさ」という語でまとめてしまう事は、それらを「似て非なるもの」であることを隠蔽する効果があるだろう。」(p239)

「自身の生存のための稼得能力」と「他者を扶養=支配するための稼得役割」は「似て非なるもの」であることを、隠蔽せずに自覚すること。その上で、二つの違いに自覚的になり、後者における男性の「生きづらさ」をなんとかするよりも、前者における女性の「生きづらさ」の改善に男性が手を貸すことこそ、ジェンダー不平等を越えるための、もう一つの(オルタナティブな)ジェンダー実践(Doing Gender)であるのだ。

「重要なのは、夫婦の家族役割に固執することが女性への支配の志向に他ならないことを直視して、既存の構造のもとで女性が男性に従属的な地位に置かれうるあらゆる可能性を、男性の側が慎重に回避・排除していくことである。」(p243)

「既存の構造のもとで女性が男性に従属的な地位に置かれうるあらゆる可能性を、男性の側が慎重に回避・排除していくこと」について、大野祥子さんの研究を引きながら、次のようにも述べている。

「大野の提案が意味しているのは、要するに「女性を従属させ、支配することから『降りる』気があるのなら、まずあなたの目の前にいる女性との関係から、それを始めなさい」と言うことだろう。なぜなら、妻が就労し稼得能力を得られるよう支える事は、妻が個人として「生の基盤」を確立させるようサポートし、翻って、妻は夫の自分に経済的に従属し、自分に支配される可能性を、夫の側から回避しようとする試みだからである。」(p245)

まずあなたの目の前にいる女性との関係を変える試みから、始めなさい。

全くもって、その通りである。僕の妻は、子育てや僕の職場や住まいの移動などいろいろあって、現時点では、フルタイムでの労働はしてない。ただ、これからの彼女の「生の基盤」を確立する上で、「妻が就労し稼得能力を得られるよう支える事」は、僕自身が具体的に実践出来ることだし、「妻は夫の自分に経済的に従属し、自分に支配される可能性を、夫の側から回避しようとする試み」になりうる。それが、僕にとってのジェンダー不平等を越える、身近に実戦可能なDoing Genderの一つの可能性である。

「男性性を今のようなものとして理解し説明する、まさにそのことによって隠蔽される男の下駄、ジェンダー不平等があるのではないか、ということ、したがって、そのような男性性を前提にして何かを語る限り、それが例えば男性性(の抑圧)からの解放の主張であっても、男の下駄は影に隠れてしまうのではないか」(p259)

男性が女性より特権的地位にあるのは、「自立し自律した存在」というフィクションを、母や女きょうだいなどの女性(「家族の虚像」)によって担保され、お膳立てされ、そのことに無自覚なままでいるからである。これが、男性が「下駄を履かせてもらっている」実態である。このような「男性性」にまとわりつく「下駄」としての「ジェンダー不平等」をそのものとして認識しない限り、「男性性(の抑圧)からの解放」は進まない。男性が女性を稼得能力によって支配する。この冷酷な事実と向き合い、支配者としての男性が女性の「お膳立て」によって確保できている支配者としての特権の虚像=フィクション性に自覚的になる。それをあたかも男の実力だと誤解して、それで女性を支配しようとする暴力性にも目を向ける。その上で、別の形でDoing Genderするなら、「まずあなたの目の前にいる女性との関係から、それを始めなさい」という平山さんの指摘は、本当にその通りだと思う。

僕自身の「下駄」を自覚すること、そして僕自身が、支配者になり得ると言うことに自覚的になり、そこから「降りる」努力をするために、妻と話し合い、別の実践を試みる(Doing Gender)こと。また、「お膳立て」といったケア行為の本質的部分に用いられている労力に自覚的になり、それを一方的に妻に託していないかを意識し、僕自身もできる限り担うための工夫や努力をすること。

いま・ここ、から具体的に出来そうなことも、見えてきた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。