重荷を背負うバトン

公私ともに大変お世話になり、めちゃくちゃ学ばせて頂いている勅使川原真衣さん(てっしーさん)から、またもや新刊を頂いた。彼女の本は、次々に出るが、今回の本も僕にとって大きな滋養になる一冊である。今回もガツンとやられた。

「『成功』をいかに定義し、希求しようとも、それが個人主義的な人間観に基づき、またその能力や資質のある者、努力する体力と時間のある者の選抜を前提とする限りにおいて、『成功』はごく一部の限られた人だけが豊かに生きられる、ライフハック術になってしまう様を見てきた。
私が考えているのは、個人が『成功』なんてしなくったって、ないしは、『失敗』してしまっても、皆が心穏やかに生を全うできるシステムである。そう、社会システムの『成功』を希求している。そのために、耳には心地がいいが、実際は個人に対して選別的で排他的な概念には目を光らせている。」(勅使川原真衣『人生の「成功」について誰も語ってこなかったこと 仕事にすべてを奪われないために知っておきたい能力主義という社会の仕組み』KADOKAWA p215)

色々な意味において、この文章にガツンとやられている。

まず、僕自身は20年前に大学教員になった時から、ライフハック系の本を100冊以上読んできた。それは、博士論文を書き上げた段階で論文の数が少なく、その後2年間、就職浪人をして50の大学から不採用通知をもらい続けてきたので、30才で常勤職に就いた後に、生産性を上げなければ、と必死になったからだ。言葉を選ばずに言えば、成功する為に努力しなければならない、と必死だった。その意味では、「『成功』はごく一部の限られた人だけが豊かに生きられる、ライフハック術」であると、僕も長らく思い込んでいた。

ただ、スウェーデンに半年住んだり、北欧型の社会民主主義を学ぶ中で、「個人が『成功』なんてしなくったって、ないしは、『失敗』してしまっても、皆が心穏やかに生を全うできるシステム」が本当に大切だと、これも20年以上思い続けている。そこに、てっしーさんは、「社会システムの『成功』を希求している」と書いてくれた。確かに! 選別的で排他的な個人の成功であれば、1%の成功者になれない99%は、失敗者であり、不幸になってしまう。でも、個々人の成功や失敗に関係なく、皆が心穏やかに生を全うできるシステムこそが、「社会システムの『成功』」だとするならば、それを求めたほうが絶対によい。これは、子育てをし始めてのこの8年ほどの間に、痛感するようになってきた。でも、こうやって言語化してもらえると、心強い。

さらに、「耳には心地がいいが、実際は個人に対して選別的で排他的な概念には目を光らせている」というのは、てっしーさんは流石!である。僕は、これまでも沢山の耳心地のよい言葉にうっかり乗せられてきて、後で反省をすることが多かった。30代は読みまくっていたライフハック系の本の影響で、「無駄を嫌う」「効率至上主義」(p127)が内面化していた。それで「できる男」のフリをしていい気になってきた。でも、それが「個人に対して選別的で排他的な概念」に嵌入していたと気づかされ、この文章を読んでヒリヒリ・イテテ、となった。

他の箇所で、「耳には心地がいいが、個人に対して選別的で排他的な概念」を問い直す部分も引用してみよう。

ノーブルかどうかではなく、単に運にちがいがある私たちなのだから、幸運な者は不幸の者の重荷の一部を背負いましょうよと。
 強運な人と不運な人
 恵まれている人と残念な人
というのは、場面場面の話ではあるが、確かにある。しかしこれは、本人の努力とか才能の話だけではない。歴然とした差があっても、これはまったくもって偶然性によるものだ。
 まぐれを本人が総取りしていいわけがない。ラッキーパンチはあなたの所有物ではないのだから。
 だから思う。不運な人を強運な人が手伝う。金銭的だったり、時間を共にすることだったり、方法はいろいろある。決して『高貴なる者による施し』ではないのだ。」(p192-193)

これは「ノブレス・オブリージュ」に対する強烈な問い直しである。

ノーブルかどうかではなく、単に運にちがいがある私たちなのだから、幸運な者は不幸の者の重荷の一部を背負いましょうよ」というのは、なんとも爽快で、気持ちの良い提言だろう! そして、「王様は裸だ!」のような、ほんまの話を射貫いている。

「強運な人と不運な人」とか「恵まれている人と残念な人」な二分法って、「強運」&「恵まれている」カテゴリーにある人ほど、自分が努力した賜物だと思い込みやすい。頑張って努力したリターンなのであって、結果の平等を保障されたら、頑張って努力した人が報われないではないか!という主張をしばしば耳にする。だが、能力主義を教育社会学の視点から徹底的に問い直してきた&組織開発の現場で様々な人の運不運な人生を見続けてきたてっしーさんは、「歴然とした差があっても、これはまったくもって偶然性によるものだ」と喝破する。

だからこそ、「まぐれを本人が総取りしていいわけがない」と一刀両断するのである。1%の成功者は99%の失敗者の富も含めて総取りしてよい、というのは、アメリカ流の強欲資本主義の考え方だが、それは「まぐれによる総取り」にあたる、とまで言われると、胸がすく思いがする。

その上で、たまたま強運だったり恵まれている状態にある人は、「社会の成功」に導くために、積極的に働きかけようよ、と提案している。それが「不運な人を強運な人が手伝う。金銭的だったり、時間を共にすることだったり、方法はいろいろある」という部分だ。これも、僕自身にとって、イテテの内容である。

僕自身は、気がつけば大学教授の仕事をし、本も何冊か書かせてもらい、娘や妻と楽しく暮らしている。これは、まさに強運であり、恵まれている状況である。この現在の自分自身の状況を、「持てる者」として認識していたか、というと、中身は30代のガツガツした「もっと、もっと!」とか「成功しなければ」という強迫観念の残りカスのようなものが、まだくすぶっていたと最近気づく。それが、僕自身の葛藤の最大化につながっているのは、昨日のブログにも書いたとおりである。「幸運な者は不幸の者の重荷の一部を背負いましょうよ」というんは、文字通り僕自身が向き合う必要の課題を、ピンポイントで指摘して下さっているのである。なんとも、ありがたいことか!

その上で、本書の「成功」は、「成長」ではなく、「成熟」であるとも喝破している。

「自身の限界を知ること。時に失望すること。それら『失敗』も含めて『成熟』だと私は思う。本書が言わんとしていることは、『成功』とは何か、であるが、私の解釈は徹頭徹尾、世に言う『成長』ではなく、後退や退化、らせん状に旋回してしまうことなども含めた『成熟』である。
そしてその『成熟』に、他者比較及び競争は要らない。『成長』はなぜらせんを描かず単線的で直線的なのかと言えば、量的拡大と速さを競っているからである。」(p258)

勅使川原真衣さんの書く文章は、基本的にめちゃくちゃ読みやすいし、それはこの本もそうである。でも、ブログのために、彼女の文章を書き写しながらいつも感じるのは、一つ一つの文章が選び抜かれた言葉に基づいている、という点である。

本書の最大の批判は、「『成長』はなぜらせんを描かず単線的で直線的なのかと言えば、量的拡大と速さを競っているから」という部分である。「もっと、もっと!」という「成長」は量的拡大と速さを競うという意味において、単線的で直線的なものである。それは、偏差値とか長者番付に代表されるように、ある指標で人を序列化することが出来る。どこの大学に入った、とか、金をいくら持っているか、で、人々を格付けし、より多くをもらい、より「良い大学」に入るための競争を煽っていく。少子化の現在における中学受験の過熱化の背景にも、「量的拡大と速さを競っている」不安ビジネスが跋扈している。

こんな時代「だからこそ」、他者比較及び競争は要らない「成熟」こそが大切なのだ。

僕は20代の頃から、「らせん階段的な拡大」という表現に憑かれている。同じ所を何度も巡るようで、気づいたら以前とは位相が違う。それは、正比例的な成長ではなくて、同じようなプロセスを何度か巡りながら、内側に深く深く掘り抜いていく、という意味で、「成熟」に近いような気がしてきた。

50才を迎えた今年、「「自身の限界を知ること。時に失望すること。それら『失敗』」にも、沢山出会っている。何というか、自分自身のポンコツさ加減にあきれ果て、嫌になることもある。でも、それも含めて「成熟」への道なのだと気づかされると、てっしーさんに応援してもらった気分になる。だからこそ、「幸運な者は不幸の者の重荷の一部を背負いましょうよ」というのは、僕自身が「取れる責任」だと改めて感じる。それは、僕が不幸や不運、残念な状態であったとき、幸福で強運な人々に、沢山助けてもらってきたし、重荷を代わりに担いで引っ張り上げてもらった歴史と重なる。

今度は重荷を背負う側のバトンが回ってきた。その覚悟をもって、若い人たちと協働し、共に創り上げる共創を目指すこと。これが「社会の成功」の鍵だと、本書を読みながら改めて感じた。

「弱さに開かれる」ために

650ページ以上ある大著を、久しぶりにむさぼるように読み終えた。それが、アーノルド・ミンデルの最後の作品になった『Conflict(コンフリクト)――関係性の4つのフェーズを見極め、あらゆる対立の場に変容をもたらす』(英治出版)である。

ミンデルの本は10年くらい前に集中的に読んでいて、それをブログで取り上げたこともある。プロセス志向心理学の創設者であり、身体症状化している何かといかに対話出来るかを説いている本は、非常に興味深かった。今回はそのボディワークも含めて、葛藤の最大化状態にある他者化された何か(X)と私(u)の関係性を、ミクロからマクロまで包括的に取り扱っている大著である。

この本で今回整理された中心概念は、以下の四つのフェーズ理論である。

・フェーズ1:楽しむ。対立を扱いたくない。
・フェーズ2:緊張と対立。
・フェーズ3:ロールスイッチ。自分と相手の境界を越えられる。
・フェーズ4:デタッチメント。宇宙が自分を動かすのを感じる。

コンフリクト=葛藤とは「私たちではない、切り離された「X」のエネルギー」(p62)と、自己中心的な「自分が、自分が、自分が!」と主張する「u」との緊張と対立の最大化されたフェーズ2のことを指す。そして、このフェーズ2にとどまると対立関係が続くが、ここからフェーズ3やフェーズ4に移行できるか、が課題であり、どうやったらそれが出来るのか、を色々なパターンや実例を通じて何度も繰り返し述べている。

「あなたにとって最高の教師は、誰でしょうか? 私は教えることが好きですし、教師のように振る舞っていますが、本当の教師とは、あなた自身の身体です。他の人も助けになりますが、フェーズ4における自分自身の身体こそが、最も偉大で信頼できる教師なのです。私にできるのは、あなたにそのことを思い出してもらうことだけです。」(p551)

僕にとっての最高の教師は、足の冷えである。冬になると、足がキンキンに冷える。このことについて、10年前の段階で、こんな風に整理していた。

「自覚化出来ていないストレスが溜まったり、緊張したり、身体がへとへとになったり、という「身体自身の自己主張」に、僕が耳を傾けようとしないまま放置したとき、エッジとして、つまり「身体の声の代表選手」として、猛烈に「抗議」しておられるのである。それを、僕はこれまで「足にはるカイロ」や「登山用靴下」で、冬場は誤魔化してきた。でも、それ自体がそもそも、「何とかしろよ」という抗議の内容に耳を傾けることなく、抗議の声を押さえ込むために、「まあまあ、今日はこれでお引き取り下さい」となだめすかし、騙して、沈静化させていた。エッジを「意識的にキャッチ」しようとしないから、「心身相関的な問題」は最大化しつつあるのではないか、という仮説を抱くようになった。」

10年後、本書を読みながら、足の冷えという「私たちではない、切り離された「X」のエネルギー」は何を訴えかけようとしているのか、を、本書を読みながらずっと考えていた。そこで思い出したのは、子ども時代の「冷えの隠蔽」のエピソードだった。

僕は子どもの頃、しょっちゅう風邪を引いていた。お腹を下す下痢になることがしばしばあり、母親に「また風邪ひいたの?」と言われることがしばしばあった。そして僕は母親になじられたくないばっかりに、夜中に下痢をした際は、こっそり正露丸を飲むことがしばしばあった。今から思うと、母はなじっていたのではなく、単に事実として尋ねていただけなのだと思う。彼女は頑強で風邪を引くことがめったにないからこそ、なぜ息子が何度も風邪を引くのか、が理解出来なかっただけだと、今なら思う。でも、その当時の僕は、何度も風邪を引くのは自分の自己管理の甘さであり、弱さであり、ダメなことだと深く内面化していた。もっと強くならなければ、風邪を引かないように注意しなければ、しっかりしなければ、と追い込むようになっていった。

今回、僕の冷えを、自己中心的な「自分が、自分が、自分が!」と主張する「u」と葛藤し対立する「私たちではない、切り離された「X」のエネルギー」としてみる。足先をキンキンに冷やしながら、自己中心的な「u」に何をどのように異議申し立てしようとしているのか。それをずっと考えていた。

Xは自分の内側にあり、抑圧していた、認めようとしていなかった脆弱さや不安定さ、不確実性、弱音・・・のようなものの総体だと仮説を置いてみよう。そういえば、中学くらいから、僕は強くあろうと努力してきた。小学生の頃はめっちゃテレビ好きで、だらだらと夏休みにテレビ漬けになっていたのに、猛烈進学塾に入った中学以後、依存症状態だったテレビと必死に距離を取り、苦手な受験勉強に必死になって順応していった。弱音を吐かず、弱肉強食の競争の中で勝ち残ろうと、過剰に自分を追い込んでいった。確実に安定して点数が取れるように、不確実な弱さの要素を封印し、強くなっていった。

大学院生の頃まで、それでも不確実さや弱さ、脆弱性がポロポロ出てくることがあり、それも遠因となって、同じ講座の教員から「あなたのような弱い人間は、大学院を辞めてしまいなさい!」とパワハラを受けたこともある。その当時の僕は、もっと強くならなければ、このパワハラの圧にくじけるようではダメだ、と更に強くなろうと自分を追い込んでいった。

そして、大学教員になってから20年。気がつけば、脆弱で不確実性の高い僕のXの部分は、表面的なインターフェースから見事に消えていった。大学の中堅教員として、学会でも仕事をしたり、本も出したり、中間管理職をしたり、と手堅く仕事をしていった。それが板に付いてきたあたりから、足の冷えがどんどん先鋭化していった。つまり、ぼくの中での脆弱性や不確実性がuの表層から抜けていくほどに、足の冷えという形でXが反撃してきたのである。葛藤が最大化してきた。さて、どうするか?

そこで、ミンデルの提案するのが「フェーズ3:ロールスイッチ。自分と相手の境界を越えられる」である。自分と相手の境界を越えるための、役割の転換。つまり、足の冷えというXは、自我中心的な僕=uに何を訴えようとしているのか。その他者の合理性を、そのものとして主張するのを聞いてみる、というフェーズである。足の冷えというXは、僕に何を伝えようとしているのだろうか。

「弱さや不確実さ、脆弱性は、あなたの中にも、確実にある。強がるな。無理するな。弱さを認めよ、自分の至らなさとか愚かさも、そのものとして引き受けよ。なんでそんなに弱いのだ、ではなく、人はそもそも弱いのだ。おまえも小さい頃、冷えや下痢という形で脆弱さを引き受けてきたではないか。自分自身の弱さを否定するな。弱さを弱さとして認めよ。自分自身の弱さを認められないのに、他者の弱さも認められないのではないか。誰にでも、自分が認めたくない弱さがあることを、まず自分自身が認めよ。強がらず、弱さに開かれよ!」

上記は、何も考えていないのに、勝手に言葉が出てきて、打ち込んでみたまでである。「弱さに開かれる」。それは、己の中にある他者性と出会う、ということでもある。ぼく自身が認めていなかった、気付こうとしていなかった、ないものだと思っていた他者性。それが、冷えという形で、ありありと迫ってきた。そして、この冷えが必死で訴えていることは、己の排除してきた脆弱性をそのものとして受け止める、ということである。

「フェーズ3の観点から言うと、あなたが出会う人は、すべて自分自身であるということになります。自分の中にない問題に、外界でぶつかることはあり得ません。(略)例えば、あなたにとって不快な人と出会ったとしましょう。その人は、あなたの「X」です。その「X」に当たる人の動きが足を踏みつけるような動作で、あなたの普段の「u」の動きが柔らかく流れるようなものだとします。手放して、動かされると、あなたが自己同一視する動きがその中にあるのと同時に、相手の「X」の動きも自分の中のダンスに表れていることに気付きます。ある意味、その人特有のエネルギーが、あなたのダンス全体にとっては必要なのです。深いところからみれば、対立は存在し得ないのです。」(p552)

他者化されたXは、自分の身体症状に表れるだけでなく、実際に特定の他人にも表れている。自分が不快に感じたり、葛藤や対立が生じる相手とは、その相手の中にぼく自身にとってのXが存在している、とミンデルは言う。そのXを他者化し、他責化し、叱責するのではなく、自分の中の抑圧した、見たくない何かだ、と受け入れることによって、他者化されたXと、自らのuをロールチェンジしたうえで、一緒にダンスすることができる。「手放して、動かされると、あなたが自己同一視する動きがその中にあるのと同時に、相手の「X」の動きも自分の中のダンスに表れていることに気付」くのである。

そして、Xとuが対立を越え、両者の役割を自覚化した上で、ダンスをしているうちに、フェーズ3からフェーズ4に移行していく。

「フェーズ4
無限の何かに動かされるときに起こります。このように動かされているとき、その自然発生的な動きの中にある「u+X」のエネルギーに気付くことができ、あなたのそれぞれの部分が流れ始めるでしょう。フェーズ4では、「X」と「u」の体験が、個別のu+Xの部分に分解されない、流動的なプロセスの中で起こります。ワールドワークと同様に、ボディワークのフェーズ4は、u+Xの統合の可能性と共に、そこに含まれる多様性を明らかにすることで、u+Xの対立を解決するのに役立ちます。」(p147-148)

このフェーズ4は一即多であり多即一であるような、相即相入の思想にも通じている。自分自身や相手の中にある他者性をそのものとしてうけいれたうえで、己の唯一無二性とも統合していくプロセスである。具体的にボディワークで身体を動かしながら、自他=u+Xの動きを同期させていくことができるか。これが、本書でも様々なワークを通じて追求している。

おそらくぼく自身は、この10年の間に、他者の合理性や他者の他者性という言葉を手に入れたことにより、「フェーズ3:ロールスイッチ。自分と相手の境界を越えられる」については、理解することが出来るようになった。でも、それが自分の中の冷えの正体であるXなのだ、とは、理解できていなかった。

そして、このフェーズ4を、どう実践できるか、ということが問われていると改めて思う。この本は何度も読み直しながら、他者の他者性や己の唯一無二性を重視しながら、少しずつ、フェーズ4のu+Xのダンスを、自分なりに踊り始めてみたい。そう感じている。

存在の承認が、一番大事!

勅使川原真衣さんの本は、毎回本当に頷かされることや発見が多い。最新刊『「働く」を問い直す:誰も取り残さない組織開発』(日経BP)で、最も刺さったのは、以下のフレーズだった。

「一元的な能力主義におけるフィードバックでは、部下のダメなところを断定的に指摘するだけで終わってしまうことがありました。職場でなくても、私たちは幼いころから、『あなたって○○だよね』と有形無形の断的的な評価を下されてきています。人となりを決めつけられ、勝手に周りと比較され、さんざん傷ついてきたわけです。
ですから、職場でネガティブなフィードバックをするならば、『存在の承認』がまず必要になると私は考えています。存在の承認が前提にあれば、相手も受け止められるはずです。
例えば、1on1などで話をするときに、『いつもありがとう。この部署にいてくれて、本当に助かってばかりだよ』から始めてはどうでしょう。」(p88)

「存在の承認」

確かにめっちゃ大切だ。だが、相手の存在が当たり前だとおもっていると、空気のように感じていると、忘れがちになるポイントだと思う。「あなたがいてくれて、助かっている!」このことを、身近な相手ほど、言い忘れている。今回この本を読んでいて、それが最も胸に突き刺さった点である。

身近な相手って、「自分の身近にいることが当たり前」になっている。すると、その存在は前提になった上で、出来ないところとかダメなところ、など気になる部分だけを、ダメだししやすい。でも、そもそも身近な存在でいてくれることは、文字通りの「有り難い」状況なのだ。そのことに感謝して、『いつもありがとう。この部署にいてくれて、本当に助かってばかりだよ』といった「存在の承認」の土台がなく、プラスアルファのダメだしだけしていると、相手は「存在の否認」がされた、と思ってしまうのだ。

それは身近な家族に当てはめても、まさにそう思う。自分の身近な相手ほど、「他者の他者性」を忘れてしまい、「言えばわかるはず」という同一性に着目する。時間的に長く一緒にいても、他者は己の理解出来ない他者性があるのだ。だからこそ、家族であっても、その他者が僕に愛想を尽かすことなく一緒にいてくれること自体に、その存在を承認し、感謝をすることがめっちゃ大切なのだ。『家族は他人、じゃあどうする?』というエッセイを書きながら、その身内や近しい存在の他者性、という「存在の承認」が充分に出来ていない己の愚かさを、本書から気付かされた。

他に突き刺さった部分を引用してみる。

「みんなで仲良くするのではなく、傷つきが起こり得る状態であることを認め、そのうえで組織を運営したほうがいいはず。そこでは何が必要になるのでしょうか。
それは『ケア』です。傷が避けられない場合もあるならば、その傷をケアするために存在を承認する。『ケアはなければ、社員は頑張れないし、若手だって伸びないですよ』と私は経営者に伝えています。
ケアを組織の中に仕組みとして取り入れ、社員や中間管理職などをサポートするのです、ちなみに、能力主義はケアの対象を絞る論理です。『頑張りが足りないから』『能力が低いから』あなたのことは守りませんよ・・・そう言い切る。なぜ対象を絞るのかというと、能力主義では他者を承認すると、自分の取り分が減ると考えられてきたからです。
しかし、ケアは違います。ケアはすればするほどパイそのものが増えます。減るものではありません。」(p108-109)

『ケアしケアされ、生きていく』とか『能力主義をケアでほぐす』といった著作を書いている、にもかかわらず、図星の指摘にイテテとなる僕がいた。それは、「能力主義では他者を承認すると、自分の取り分が減ると考えられてきたからです」という部分である。

他者を承認すると、自分の取り分が減る。これをパラフレーズするならば、自分と同じくらい頑張っていないと感じるなら、自分が頑張って得た取り分を減らしたくない=過小評価したくないばっかりに、他者を承認できない、になってしまう。そして、それは、認めたくないけど、ぼくの中に残っている感覚である。

「能力主義はケアの対象を絞る論理です」というのは、己の嵌入している無意識の(=影となる)認知バイアスを正鵠に指摘されていて、これも実にひりりとさせられる。そう、あの人は許せないとか、これくらいできなくて、という論理は、「ケアの対象を絞る論理」であり、それは能力主義的価値前提に基づいているのである。そして、これも再掲するが、ケアの本を書きながら、己は「ケアの対象を絞る論理」から逃れられないのだ。言行不一致とはこのことで、本当に、恥ずかしい!

「傷が避けられない場合もあるならば、その傷をケアするために存在を承認する」とは、なんと本質的なフレーズか。存在の承認とは、傷が避けられない場面でこそ、その傷をケアするための大前提なのである。昭和的マッチョイズムでは、「甘やかしているのではないか」とか「自分はタフな環境でも生き残ってきたのに軟弱な」とか、言い訳をしたくなる。でも、それは、自分へのケアが足りないわけで、相手をケアする為には、相手をディスるのではなく、存在の承認が必要なのだ。そして、それは己の存在の承認にもつながる。

「自分で自分を認めることができると、他者に対して『相手も相手なりの合理性をもって、ベストを尽くそうとしているのだろう』と理解できるようになります。すると、『それなら、こちらがどう関わるとお互いに動きやすくなるだろう?』と考えられるようになり、双方にとってラクになる方法を模索することにつながるのです。」(p98)

ここで書かれていることは、他者の合理性の理解、である。そして、その他者の合理性の理解の前提として、己の合理性の承認=自分の存在の承認、が前提になる。今回、この本を読みながら最もイテテとなったのは、他者の合理性の理解の重要性を何度も書いているぼく自身が、ぼく自身の合理性や唯一無二性を、そのものとして、充分に承認できているか、という部分で、イテテとなったのだ。もっともっと、とか、まだまだ、というフレーズで、自分自身の合理性を、話半分にしか受け入れていないのではないか。それは、己への過小評価につながり、それが他者への過小評価にも直結しているのではないか。そのことを、めちゃくちゃ感じたのが、このフレーズだった。

何らかの関係性に根詰まりが生じている時、「双方にとってラクになる方法を模索すること」が最も重要な解決策になり得る。でも、「双方にとってラクになる方法」ではなく、能力主義に基づいて他者の非合理性をあげつらう方向に必死になってしまう事がある。そして、そういうやり方で関係性の根詰まりを解消しようとしても、大概失敗する。

ならば、関係性の根詰まりの解消で最も大切なのは、他者の承認であり、その前に己の承認である。『自分も自分なりの合理性をもって、ベストを尽くそうとしているのだろう』という前提を承認した上で、それを信じた上で、『相手も相手なりの合理性をもって、ベストを尽くそうとしているのだろう』と信じる。その上で、他者の存在をしょうんする。それが「双方にとってラクになる方法を模索する」上での大前提なはずだ。

これは職場関係のみならず、家族関係とか、学生と生徒の関係も含めた、すべての関係性の基本になっている。そして、関係性を生きるすべての人にとって、他者の存在の承認とは、文字通りバイブル的な前提になるのだ。

そういう意味で、ほんとうに重要な内容が書かれているし、僕はこの「存在の承認」をすべての他者との関わりの基本にしたいと改めて感じた。

察し、気を回し、手を回す活動

書評依頼をされている本を通常ブログに取り上げない。でも、この本はどうしても読んだ時点でのフレッシュな感想をブログに書いておきたくて、取り上げる。それが山根純佳さんと平山亮さんによる『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか :見えないケア責任を語る言葉を紡ぐために』(勁草書房)である。

書評は規定演技で本の魅力をしっかり伝える事なのに対して、ブログは自分がどう感じたか、そこからどんな妄想が浮かんだか、をジャンプしていくことだと思っているので、今回は思いっきりジャンプして書いてみる。

この本のキーワードが、イギリスの社会学者ジェニファー・メイソンによるsentient activityである。聞き慣れない単語だが、sentient beingとは「感情を持つ存在」とか「知的生命体」と訳されるので、sentientは知覚や感覚を指す。ということはsentient activityとは「感覚的活動」なのだが、それをケアに結びつけた時、「感覚を働かせた活動」だと言い換えてみたくなる。それは一体、どういうことか?

先週になってきてめちゃくちゃ寒くなってきたが、そうすると子どもが風邪を引かないように衣替えをしたり、暖かい服を着させる。胃腸も冷えないように、味噌汁を多めに作って朝晩食べさせるようにする。あるいは、グズっていたら調子が悪いのか、眠たいのか、お腹がすいたのか、退屈なのか、どういう背景があるのかを想像したり本人にたずねたり、文脈を把握しながら類推して、早く寝かせてみたり、ご飯を与えたり、楽しいおしゃべりに誘ったりしてみる。これらは、ケアする側がケア対象者がどんな風に感じているかを類推しながら、具体的な次の一手を打ってみる、という意味において、「感覚を働かせた活動」であり、sentient activityなのである。

そして、この本は、そういうケア能力は女性に生得的にあるものではなく、男性にだって、別の対象に対してそういう「感覚を働かせた活動」をしているよね!と喝破しているところが、実に面白い。

「いや、実際には私たちは、他者が求め、必要としていることを「察し、気を回し、手を回す」男性達の姿をいくらでも目の当たりにしているはずなのです。
たとえば、忖度という言葉を思い出しましょう。忖度という言葉は、まさに相手の求めていること、必要としているものを推察し、それを実現できるように気を回し、手を回す様子を指して使われてきたはずですが、そういう忖度は、社会化の過程でそうしたスキルを嫌が負うにも身につけさせられてきた、女性たちにしかできないことだったんでしょうか。
いえ、そんなことはないでしょう。なぜならこの忖度という言葉が人口に膾炙したのは、典型的な男社会である政治の世界で、そういうことをやっている男性たちの姿が報じられてのことだったはずです。その意味で私たちは、男性が「察し、気を回し、手を回す」ことなどいくらでもできることを「知っている」はずですし、そうする男性たちの様子を報道によって知っても、「ありそうなこと」と違和感なく受け入れられるくらいには、男性がそういうことをすること・できることを「普通のこと」と思っているのです。」(p70-71)

確かに政局報道などを見聞きしていると、政治家達は「義理と人情」の世界で、様々な「貸し借り」をしている。また政治家と付き合う官僚も、同じように「忖度」している。書類を偽造したり、あるはずの書類がないと言ってみたりして、「察し、気を回し、手を回す」ことを、男性の政治家や官僚はたくさんしている。つまり、「感覚を働かせた活動」としてのsentient activityを男性も実はたくさんしているし、出来るのである。

にもかかわらず、家事や育児はなぜ女性のものとされ、男性はそれが苦手だ、という言い訳が生得的な、あるいは性差のように語られるのか? 「察し、気を回し、手を回す」ことを、仕事現場であれほど男性も出来るなら、それをケアの領域でもすればいいだけではないか? それが本書の主張だと受け取ったし、僕もそうおもう。会社や仕事で忖度する=「察し、気を回し、手を回す」ことが出来るなら、そのリソースを家事や育児にも割いたら良いじゃん、と。

そして、この本の著者、平山さんは男性への追及の手を緩めない。

「ついでにいえば、時間がないことをケアに携われないエクスキューズにできるのは、男性にのみ許された特権的行為であることも、おさえておく必要があるでしょう。女性の場合、どんなに仕事の時間が長くなろうとも、ケアの責任を減免されることはないからです。その意味で、ケア責任のジェンダー不均衡とは、単に女性が担うケアの負担が重いことをだけをいうわけではありません。男性であれば認められるはずの、仕事とケアをトレードオフにできる権利、それが女性に認められないという不均衡も含めての、ケア責任のジェンダー不均衡なのです。」(p81)

この「男性にのみ許された特権的行為」についても、身に覚えがある。子どもが生まれたての時、子育ての先輩ママである大学院の後輩から、こんなことを言われた。

「イクメンとかいうけど、男性ってちょっと育児するだけで、加点方式なのですよね。だからこそ、休日はフットサルとかに平気で行ったりする。一方で育児をする女性は減点方式。休日に遊びに行った、とかすると、「子どもを放り出して」とか非難される!」

つまり、基本的にケアは女性がするもの、という前提があるがゆえに、「女もすなるケアというものを男もしてみん」とすると、それだけ加点されるし、要求水準が高い家事をしない女性は批判される。だからこそ、男性は「時間がないことをケアに携われないエクスキューズにできる」のに、女性は「どんなに仕事の時間が長くなろうとも、ケアの責任を減免されることはない」という「ケア責任のジェンダー不均衡」があるのだ。

それに先ほどの「忖度」議論を重ね合わせると、夫は仕事で上司に「忖度」するのだから、妻は家庭で夫に「忖度」せよ、という論理になる。でも、それは典型的な家父長的な抑圧委譲の考え方であり、夫が会社で抑圧されてきたから、夫は妻を家庭で抑圧してよいし、妻は長時間労働と単身赴任で家にいない夫への苛立ちを子ども(娘)に抑圧していく、という悪循環構造そのものである。

でもこれは昭和的な働き方、労働のあり方の残滓である。こういう抑圧委譲が良くないと思うなら、 パートナー同士で「察し、気を回し、手を回す」という行為を同じように行って、その負荷を下げた方がよい。そのために「複数の行為者で協働するという意味でのケアの社会化」を行えるかどうか、が大きく問われている(p132)。

それは、仕事の世界でも、同じである。組織内で上司にばかり「察し、気を回し、手を回す」社員がいる一方で、同僚や部下、出入の関係機関も含めて、関わる多くの人々に対して「察し、気を回し、手を回す」ことが出来る人もいる。ただ、旧態依然とした組織であればあるほど、出世をしやすい、優秀だと言われる社員は「上司にばかり「察し、気を回し、手を回す」社員」だったりする。その一方で、「同僚や部下、出入の関係機関も含めて、関わる多くの人々に対して「察し、気を回し、手を回す」こと」が出来る人は、上司だけを忖度してくれる訳ではないの、上司にとってはそれほど立派な社員に移らず、下手したら評価が低かったりする。この点が、めっちゃ問題だと感じる。

つまり、本当は仕事場においても、「複数の行為者で協働するという意味でのケアの社会化」が必要なのに、変に能力主義が導入されてしまったことによって、協働作業における「忖度」以外の「察し、気を回し、手を回す」への評価が後回しになっているのではないか、とすら思えるのだ。そして、これは能力主義について多くの事を学ばせてもらっている勅使川原真衣さんの論考に、沢山書かれている点でもある。

あと、「ママ友付き合いは、やめちゃえばいい? 男たちには見えていない、繋がることの意味」(p15)も本当にその通りだなと感じた。正直、この点については、妻に本当に感謝している。

子どもが1才の時、僕の仕事の都合で、我が家は山梨から兵庫に引っ越した。妻は仕事をやめて引っ越して来てくれて、最初は意図的にすぐに仕事に復帰せず、子育て支援センターに通い続けた。そこで、ママ友のネットワークを作っていく。元々そんなに人付き合いは得意ではない、というか、面倒くさがることもあるタイプだったが、誰も知り合いのいない新たな土地で、医者はどこがよい、とか、保育園情報とか、同級生の親と繋がっておくことが、何かと死活問題だった。これは、直接的な子どものケアではないが、同級生のお母さんと沢山繋がることによって、何かあったときに相談出来る、頼れるネットワークを形成することだ。だから、彼女はこども園でも役員を引き受け、おかげでこの7年間で沢山の知り合いができた。小学校の運動会の時とか、ずっと色々なママ友と声を掛け合い、情報交換している。そういうおしゃべり自体が、娘が小学校で楽しく過ごすための、「察し、気を回し、手を回す」という、「感覚を働かせた活動」であると、この本を読みながら、改めて感じた。

まだまだ語りたい事はいろいろあるが、それは6000字書評にとっておこうと思う。ケアが気になる人に必読の一冊である、とは、きっとその書評原稿でも書くことになるだろう。