お知らせ

 

業務連絡的なお知らせです。
来月、うちの大学で、山梨と三重で行ってきたタケバタの仕事を、少し整理してお話しするチャンスをいただきました。今井先生のご発表も興味津々です。資料代が1000円かかりますが、よろしければお越し下さいませ。

ローカル・ガバナンス学会第5回研究会のご案内
日 時 : 平成21年5月23日(土)14時00分~17時00分
場 所 : 山梨学院クリスタルタワー6階講義室
当日の研究会内容
テーマ :「地域医療を考える公立病院問題を中心に
報告者 : 今井 久(山梨学院大学現代ビジネス学部長、同学部教授)
コメンテーター : 若尾直子(山梨まんまくらぶ代表)
コーディネーター :外川伸一(山梨学院大学法学部教授)
テーマ :「自治体福祉政策の現状と課題」
報告者 : 竹端 寛(山梨学院大学法学部准教授)
コメンテーター : 内藤豊春(山梨県福祉保健部障害福祉課課長補佐)
コーディネーター :丸山正次(山梨学院大学法学部教授)

http://www.ygu.ac.jp/logos/guide.html

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竹端報告:障害福祉政策を題材に、自治体福祉政策の展開における課題と政府間関係の問題について考えたいと思います。報告者は、平成18年度から山梨県の障害者相談支援体制整備特別事業「特別アドバイザー」として、28市町村を訪問すると共に、市町村や圏域毎のローカル・ガバナンスの仕組みである「地域自立支援協議会」作りを行ってきました。また、県自立支援協議会座長として、県と市町村のより良い関係作りのお手伝いもしてきました。この実践報告の後、特別アドバイザーの関わりは県や市町村にどのような影響を与えたのか、見えてきた課題は何か、等を山梨県障害福祉課の内藤豊春氏からコメントを頂き、その後、フロアとの質疑応答・討論を行います。
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二つのロゴス

 

土曜日、久しぶりにお会いしたMさんから、「タケバタ君、やせた?」と嬉しいお声かけ。いえ、体重は変動はありません。でも、ここ数ヶ月、毎朝の腹筋を続けているせいで、ポッこりお腹が引き締まったのであります。いやはや、継続は力なり。

で、そのMさんとお会いしたのが、大学院時代に博論へと導いてくださった指導教官「ゆきこさん」が主催された「えにしの会」。別の研究会で泣く泣く1回欠席した以外は、毎回参加し、様々なことを学ばせて頂いている。今回、この会の前後で二冊の「えにし」を頂いた。

一つが、当日のシンポジウムにも登壇された権丈善一氏。以前から氏の社会保障に関するスタンスや研究から沢山学ばせて頂いていて、生ケンジョウ先生を見れるのを楽しみにしていた。話の枕に、「忙しい研究者、というのは本来論理矛盾だ」と仰っておられたが、しかし社会保障審議会の委員もしていて、著作も多く、挙げ句の果てに当日の講演は事前に原稿を作ってそれをネットでアップまでしている。議論は精密なのに、仕事が速い。こういうキレの良さは100年経っても学習出来なくても、本当に爪のあかを煎じて飲ませて頂きたいくらいだ。

で、内容はリンクを張った講演原稿を参考にして頂くことにして、権丈氏の論理の鮮やかさは、例えばこの日の副題である「足りないのはアイデアではなく財源である」といったワンフレーズの名言にも如実に表れている。この名言に関しては、行きの予習に読んだ彼の最新刊でも、審議会での発言として、次のような決め台詞が載せられていた。

「日本は小さすぎる福祉国家、低負担・低福祉国家と呼んでもよいと思います。だから、医療・介護も崩壊しているのだし、少子高齢化は手つかずのまま何十年も放置されてきたのです。この低負担・低福祉国家を中負担・中福祉国家にするということは、負担が増えるのみならず、しっかりとした社会保障の確立も国民に約束できる話になります。」(権丈善一『社会保障の政策転換』慶應義塾大学出版会、p71)

今、日本の政治家で、ここまで論理性と説得力を持って言い切れる人間がどれだけいるだろう。いや、研究者だってそうだ。エビデンスと論理的確かさにしっかり裏打ちされた上で、あるべき姿を明快に論じる。しかも彼の中では財源問題は、「しっかりとした社会保障の確立も国民に約束できる」という目標のための、あくまでも方法論上の課題として提示されている。こういう社会保障学者の議論には、素直にうなずける。

方法論としての財源問題、と言えば、自立支援法成立以前からずっと、介護保険との統合、1割負担という定率負担の是非を巡る議論が続いてきた。この際、障害福祉の分野に1割負担を導入する論者が必ず言っていたのは「介護保険に統合すれば財源が安定するし持続可能になる」「応能負担では低所得の障害者は殆どタダでサービスを使うことになり、サービスの乱用に繋がる。権利としてのサービスは、お金を払えば確立出来る」というロジックであった。

しかし、これって「今の目の前ですぐに使える道具を使って財源不足を解決するには、この案しかないよね」という目先の議論にしかすぎない。真の問題は、介護保険に統合すれば障害者福祉は薔薇色だ、という「アイデア」にあるのではなく、足りないのは介護・福祉に投入される「財源である」、というシンプルな俯瞰図に、ミクロな目の前しか見えていないと、ついつい気づかない。気がつけば意図的に作り上げられた(=偏りのある)ロジックに踊らされる。権丈先生の本を読み、実際の話を伺っていて、当たり前の話だが、物事を鵜呑みにせず、自分の頭できっちり確かめる大切さを、改めて感じた。

そして、この自立支援法の応益負担に関しては、次の名言をふと思い出す。

「応益負担は「{無実の罪で収監された}刑務所からの保釈金」の徴収に等しい」

自立支援法が審議された社会保障審議会の席で、この歴史的名言を述べた盲ろう者で初めての東大教授、福島智氏。土曜日は、氏を4年以上取材し、膨大なインタビューや周辺取材を基に出来上がったルポタージュ『ゆびさきの宇宙-福島智・盲ろうを生きて』(生井久美子著、岩波書店)が、ちょうどこの会の開催に合わせて出版され、販売されていた。著者の生井さんから直接サインをしてもらい、ルンルンと帰りの列車で読み始めたら、面白くて深くて、一気に読んでしまう。ご本人は謙遜されて

「著者は生井久美子になっていますが、私『も』、本づくりの一員に加えてもらったというのが、ありのままの気持ちです。」(同上、p256)

と書かれているが、まさに福島氏と二人三脚で、「この世にいま、『福島智』という人が生きていること」の凄さと不思議さ、面白さやその他色々なものを一冊の中に込めている。福祉分野のルポとしては、アメリカ障害者運動の歴史を追った大作『哀れみはいらない』(シャピロ著、現代書館)とはテイストが違うけど、面白さと深さで言えばあの名著と並ぶ、ここ最近で読んだ本の中でも最も良かった一冊だ。そして、生井さんの丹念な取材を通じて見えてきた「福島智」という身体から出てくる言葉を読み進めるうちに、僕が知っている別の世界へと気がつけばつながっていた。

「人間が存在する『意味がある』とするなら、その意味は、まさにその存在自体にすでに内包されているのではないか。もしそうなら、障害の有無や、人種、男女など個人のさまざまな属性の違いなどほとんど無意味なほど、私たちの存在はそれ自体で完結した価値を持っている。
でも、私たちは日常的な問題につきあたり、現実的な課題にとりくむとき、ついそのことを忘れてしまいがちです。
人間の存在がそれ自体に秘めた、生きているという最高度の『目的』よりも、ある個人が具有する能力や特性などの『手段』の方をより重視してしまう傾向があるのではないか。さまざまな現実的な問題にぶつかったとき、私たちにとって最大の、そして最重要の仕事が『生きること』そのものにあるという原点に立ち返りたいと思います」(前掲、p190-191)

手段と目的の転倒の認識、これは権丈氏が掴んでいた宇宙観と通じるものであり、哲学の巫女を自称する池田晶子氏がしばしば述べた「相対的な自分を超えた、誰にでも正しい本当の言葉」として、心の内奥にズバッと迫ってくる。そして、この宇宙観について、福島さんと生井さんの協働作業の中から、こんな言葉が紡ぎ出される。

「『盲ろう者の状態』が宇宙空間のようなものだとすれば、この私の生きている状態は、自分の存在の意味を考えさせられる状態なんです。たとえば、夜空を見上げた時、有史以前からおそらく無数の人間が自然に対する畏怖の念とともに、自らの生の意味を漠然とでも考えてきたと思います。『盲ろう』の状態は、もちろん本物の宇宙空間とは違いますが、それを想像させる面がある。いわば、『認識のプラネタリウム』を経験するとでもいうのでしょうか」(同上、p192)

池田晶子氏が、哲学的思索を通じて得た『認識のプラネタリウム』という内面宇宙に、福島氏は18歳で盲ろうになり、期せずして放り込まれてしまった。だが真っ当に考え続ける中で、『完結した価値』に気づいた。その『完結した価値』つまりは「宇宙」に気づいたからこそ、そこから反射され、福島智という身体を通じて伝わってくる言葉は、個人某の主義主張を超えた、普遍的なロゴスとしてストンと心の中に入ってくる。

神格化や絶対化するつもりは毛頭ないが、権丈氏にしても、福島氏にしても、論理的に考え抜いた末に、個人の思惑を超えたロゴスとして伝えてくださると、私たちは深く頷き、心揺さぶられる。そんな事を感じた週末であった。

縦穴を掘る

 

丸二日、のんびり出来た。こういう時間を忘れていた。

当たり前の土日が、いつの間にか当たり前ではなくなっていた。仕事の整理も出来、好きな本をルンルン読み進め、JAの直売所で春真っ盛りの野菜を買い込み、夜は酒盛り。調子にのって酒を飲み過ぎた一点が響いて、今日は少し気持ち悪い。唯一の汚点だ。ビールをコップに一杯、ワインはボトル半分、が分岐点で、ここは超えてはいけない一線だ、としみじみわかる。20代でもないのだし、こういう次の日に残すのは、それこそもったいない。

で、週末読書では多くの発見があった。

一つは沢木耕太郎の「旅する力」(新潮社)。月並みな言い方だが、彼の「深夜特急」を読んで海外に憧れた者の一人として、あのシリーズを書いていた沢木氏の回顧録的なエッセーが面白くない訳がない。同時に、あるライターが、自分らしいスタイルを獲得するための試行錯誤の記録、としても、読み応えがある。ここしばらく、自分が身につけつつあるスタイルを自覚化しつつある僕にとって、スタイルを巡った思考に引きつけられてしまう部分が強いのだ。

で、スタイルと言えば、一気に読んでしまった池田晶子氏の「魂とは」(トランスビュー)にも惹きつけられた。実はこの本は昔、法蔵館から出た「魂を考える」の大幅増補版である。著者は2年前に亡くなっているのだが、遺稿をもとに、この春3冊も本が出る、というのは、著作全てを愛読している人間にとって、嬉しい限り。しかも、この前書いたように、以前読んだはずなのに、ほとんどそのテイストは覚えていないだけでなく、今回、前回と全く違う読みをしていることがわかる。「え、そんなことを書いていたんだ」という部分を、いかに前の自分は読み飛ばしていたことか。よく言えばこの10年間でのリテラシーが少し上がった、ということだし、正直に言えば、自分のアホさ加減が丸わかり、である。

この大幅増補版で、今回新たに増補された部分に、今の問題意識と大変重なる所をみつけた。

「横軸でものを語るっていうのは、事実ではなく、価値を語っているんだと思います。たとえば、ある主義をかざす人は自分の主義を正義だという。ほかの主義をかざす人は、ほかの正義を主張する。だけれども、『正義』というこの言葉の意味自体を考えようとは決してしない。彼らが語っているのは、事実ではなく、どこまでも自分の価値観なんです。」(前掲、p218)

片腹痛くなりつつ、まさにその通り、と頷く。少なくとも今はそうではないと思いたいが、ちょっと前までは、僕自身も「横軸でものを語る」ことしか出来なかったからだ。で、その横軸と対称的に、「事実」や「言葉の意味自体を考える」ことを指して、彼女は「縦」に考える、という。別のところで、その縦軸での見方をこんな風に述べている。

「古典が古典たり得るのは、それらが自分を主張することなく真実を述べているからである。だからこそ後世の他人が読んでも、『自分を読んでいる』という感じになる得るのである。真実よりも先に自分を主張するものは偽物だから、遅かれ早かれ、歴史から姿を消す。やはり、どの時代の人も、他人のエゴよりも自分の真実に触れたいと思うものだからである。」(前掲、p226)

確かに、池田晶子氏の本にはまっていても、それは池田晶子氏の考え方、というよりも、「哲学の巫女」を自称する彼女を通じ、『自分を読んでいる』から、面白いのだ。しかも、この文章も初出は10年前の文書だが、決して古びていないし、「古典」として残っている。大学院生の時、世間を賑わせたある思想が嫌いで、その分野の専門家の先生に「そういう風潮ってオカシイと思う」と息巻いた際、その先生は「放っておけばいい」と喝破しておられた事を思い出す。なるほど、その先生は「真実よりも先に自分を主張するものは偽物だから、遅かれ早かれ、歴史から姿を消す」という真理の眼で喝破しておられたのだ、と今頃になって気づく。

そして、文章を書く仕事を少しずつさせて頂くようになった自分自身に、今、この刃が突き刺さっている。僕の書く文章は、「他人のエゴよりも自分の真実に触れ」られるような、真実への探求という深みがあるだろうか。「真実よりも先に自分を主張する」「偽物」になっていないだろうか。あるいは、「真実」の探求という縦軸の井戸を掘るのにつかれて、安直な横軸(=主張)を「真実」らしく「偽装」してはいないか。

「偽装食品」は食の安全を脅かす。同じように「偽装言論」は言論への信頼を脅かす。事実、言論に力がないのは、今に始まったことではない。だが、他人はどうであれ、自分自身は「偽装」する安直さに逃げたくない。それが、沢木氏が獲得したスタイルに通じる何か、だと思う。

こう書いていると、頭の中もスッキリすると共に、ようやく酒も抜けてきた。さて、今週も頑張ろうっと。

バトンをつなぐ

 

春になると、様々な方が配属変えや転勤、退職など移動していく。

私の周りでも、これまで一緒のチームを組んできた方が移動になったり、退職されたり、色々な変化が起こっている。率直に言えば、気心知れてきた方々と離れるのは、心情的に、寂しい。

だが、仕事として、システムとして運用を続けていくためには、そういう「寂しさ」とは別次元で、きちんと持続可能な形で引き継げるか、が最大の焦点になる。「その人がいなくなればオシマイ」の仕組みであれば、それは個人事業であり、システムではないからだ。これは大学院生の時から、私がずっとテーマにしていることでもある。

精神科のソーシャルワーカーに「半ば弟子入り」する中で、一人職の現場で、職人芸的に、地域作りを一人でコツコツ積み上げて来られた「名人」に多く出会うことがあった。彼ら、彼女らは、多くの仲間を作り、地域の社会資源を作りながらも、独特のスタンスで、独自の地域展開を続けてきた。多くの利用者から本当に慕われていて、その「職人」は時間外など気にせずに、その世界を作り上げるのに没頭している。ただ、その方の事を語る利用者が、ある時こんな風に呟いたのが、すごく気になった。

○○さんにすごくお世話になっているし…○○さんがいなくなったら、この地域はもうオシマイやな」

これは、○○さんへの敬意や好意に基づいた感情的な発言である。もちろん、○○さんがいなくても、実際その地域が「オシマイ」になることはない。ただ、経験的にみて、その地域のキーパーソンが退職したり、移動することで、その地域のネットワークや活動がグッと落ちる、という事は充分ありうる。この「地域」を「組織」「経営者」「上司」に言い換えたら、あまたのビジネス本でいつも言われている話と通じる。甲斐の武田信玄公は「人は石垣、人は城」と仰ったが、確かに「人」が、その地域なり、組織なり、ネットワークなりをつなぐ要、である。

いくらシステムを作り上げても、そこに魂が籠もらなければ、形骸化する。どこの世界でも、形骸化されたシステムの弊害に悩まされる人は沢山いる。その際、やっぱり「人」でしょ、という言葉はよく聞くフレーズだ。ただ、この際の「人」が、属人的なもの、だけなのか、というと違うような気がする。固有の「○○さん」がいなくなれば、本当に「オシマイ」なのか。それは、「○○さん」がどのような仕組みを作り上げてきたのか、にもよるのだ。

確かに一人職の現場で無から有を作り上げるには、突き抜けた個性が必要だ。ある種の尋常的ではないエネルギーがあるからこそ、何もなかったところに、ゼロから何かが構築されていく。ベンチャー企業に象徴されるように、創設期は、まさにカリスマがいるからこそ、一個人が始めたことが、コンセンサスを得て、一定の形なり企業体になっていくのだ。

ただ、ここで大切なのは、ある程度の形が出来てくると、人に属さない、継承されるべき「型」が必要になってくる。一人で全部を統治できないから、委任することも必要だ。ベンチャー企業で仲間だけでやっていた事でも、組織体にすると、新たに人を雇い、上司部下の関係を整備し、俸給体系も作り上げる。それらは皆、何らかの「型」である。で、この「型」を作る際、作り手の「魂」が埋め込まれた「型」として継承されるか、単に形骸化した「型」として受け止められるか、で、その仕組みが大きくかわる。それが、ベンチャー企業や老舗や大手として残れるかどうか、の鍵だし、福祉組織だって続くかどうか、の瀬戸際にこの問題がある。端的に言えば、作り上げたミッションが死なずに生き続けるかどうか、である。

以前、研究者として第三者的に眺めていた時、その魂の継承が大切だ、というのはわかっても、では具体的にどうすれば、ということまで想いも至らなかった。だが、気がつけば、第三者ではなく、わりあい当事者的な立場で、その継承場面に立ち会うことが増えてきた。その際、ある方が非常に興味深いことを言っていた。

「全部を型にしてしまってはマニュアルになる。そうではなくて、引き継いだ人が自分で考え、作り出せるような、遊びのある緩やかな継承が大切ではないか」

この「引き継いだ人が自分で考え、作り出せる」環境作り。このフレーズは、すごく私自身も気に入っている。そう、私自身が、まったく自分で改良する余地のないものを渡されたら、絶対につまらないからである。誰だって、自分がその業務の「オーナー」を引き継いだなら、自分の考えや色を入れたい。それが、前任者の色に染まっていて、常に前の色と今の色を対比されたらたまらない。そんな「手あかまみれ」のものは、さわりづらい。とはいえ、無から有を作り上げたものであればあるほど、固有の色は削ぎようもなく付いてしまっている。

以前の私なら、その色を守ることが、そのオリジナリティを守ることだ、と思いこんでいた。だが、それは違うとようやく気づく。色は、時々によって変化する。人が代わり、構成要素が変わり、時代が変わる中で、変化するのが当たり前、なのだ。変えてはいけないのは、その色ではなく、色を作り上げたプロセスに内在した、「どうやって何らかの色や形を作り上げようか」という試行錯誤の視点、そのものなのではないか。つまり、そのシステムなり業務なりを「自分事」として受け止め、前任者から託されたバトンを、「自分事」として持ち直して、自分なりの試行錯誤、を始めることではないか。

そういえば、僕自身が託されたバトンについては、いつもそうやって「自分なりの試行錯誤」を通じて見るからこそ、いつのまにか「自分のバトン」になって、次の人に引き渡していたような気がする。

このバトンリレー、自分が渡される側から渡す側になる場面が増えるほど、いかに上手に渡せるか、が今後の課題になってくるのだろう。

同じ本を

 

二度買う阿呆は何度かやったことがある。しかしこの度、遂に3度買う愚行を犯してしまった

こないだのブログでも触れた木村敏氏の語りおこし「臨床哲学の知」(洋泉社)を読んで以来、別の氏の作品の理解がグッと上がってきた。とりあえず手元にすぐに見つかった「時間と自己」(中公新書)を読んでみるが、以前途中で挫折したこの新書も、今回はすんなり入ってくる。やはり彼のキー概念であるアクチュアリティとリアリティが自分の中にかなり浸透しているので、論理展開が「読める」のだ。

そういえば、ある人が、氏の「心の病理を考える」(岩波新書)を評価していた事を思い出し、「持っていたハズなのに」と書架を探す。でも見つからない。新刊は絶版になったが、幸いアマゾンでは廉価で古本が買える。で、届いた矢先、学生さんと研究室で話している際、ふと二冊目が見つかる。中を見たら、中にあれこれ書き込んでいる。あ、やっちゃった。

この「以前買っていたのにちゃんと探さずに二冊目を買ってしまう愚行」は、特にバタバタしている時期に買った書物で起こりやすい。在庫整理もままならず、書架にとにかく投げ入れていれば、気になる本が未購入と誤認され、同じ本を買う愚行に繋がる。ここ1,2年でそんな「ペア」が4,5回続いた。

それだけでも哀しいのだが、今回は何と一昨日のゼミ中、学生に本を紹介するつもりで何気なく書架をみていて、出てきたのだ、3冊目の「心の病理を考える」。しかも中をみたら、これはこれで書き込みがある。汚い筆跡はどう考えても僕自身だ。ということは一度読んだことを忘れ、二度目にまた同じ本を購入して読み、さらに今回三度目の購入。しかも興味深いのは、一冊目に線を引いた箇所と、二冊目のそれとが違うのである。超好意的に言えばよく学んでいる、でも普通に言えば、学びがきちんと実になっていない、とでもいえようか。

閑話休題。
しかし、木村敏氏の「あいだ」論が、今回ほどグッと胸に迫ってくることは、今までなかった。それは、全く別の本を読んでいて、木村氏と通底する議論を発見したからである。

「社会的世界のなかに存在するものは、関係です。行為者同士の相互行為でも間主観的な結びつきでもなく、マルクスがいったように『個人の意識や意志からは独立して』存在する客観的諸関係なのです」(ブルデュー「リフレクシヴ・ソシオロジーの目的」 ブルデュー&ヴァカン『リフレクティブ・ソシオロジーへの招待』藤原書店、p131)

「行為者同士の相互行為でも間主観的な結びつきでもな」い、「客観的諸関係」、について、ヴァイツゼッカーの議論を引きながら木村敏氏はこんな風に捉えている。(ちょうど二回の読書で線を引いておいた箇所に見つかった)

「主体が有機体の、とくに人間のような自己意識的行為者の-この場合にはこれを『主観』と訳し換えることもできるだろう-内部に備わったものでなく、有機体と環境のあいだで、あるいは両者の境界面で絶えず生成消滅を繰り替えしているというヴァイツゼッカーの見かたは、私たちにとってこの上なく重要である。有機体は、だからもちろん人間も、環境に適応して生きていく必要がある。そしてこの適応とは、有機体が絶えず変化する環境との相即関係を通じて、環境との接点でみずからの主体/主観を維持し続けているということなのである。主体とか主観とかいわれるものは、個々の個体が独自に内面化している固有の世界の中心点なのではない。個体が個体として存続するために当の個体の主体はつねに個体の「外部」で、個体を取り巻く『非自己』的な環境との『あいだ』に成立していなくてはならない、これがヴァイツゼッカーの考えなのである。」(木村敏「心の病理を考える」岩波新書、p59)

この木村敏氏の有名な「あいだ」論の核心部分で、特に「主体とか主観とかいわれるものは、個々の個体が独自に内面化している固有の世界の中心点なのではない」という点が、ブルデューの意見と非常に近い。ブルデューは先に引いた箇所の直前に、こうも述べているからだ。

「ハビトゥスについて語るということは、個人的なもの、個性的なもの、そして主観的なものさえもが、社会的、集合的だと主張することなのです。ハビトゥスは社会化された主観性です。」(ブルデュー、前掲、p167)

木村氏の言う「個体の『外部』で、個体を取り巻く『非自己』的な環境との『あいだ』に成立していなくてはならない」、つまりは「社会化された主観性」のことを、ブルデューは「ハビトゥス」と呼んだ。そして、この「あいだ」に成立している何かを統合失調症や躁鬱病者の症状の中から顕在化させた木村敏氏に対して、ブルデューは社会学的にハビトゥスを析出しようと試みてきた。

「ハビトゥスの最初の動きをあやつるのは難しいのです。けれども反省的分析によって、状況がわれわれにおよぼす力の一部分は、われわれ自身がその状況に与えたものなのだ、ということがわかります。つまりその状況に対する見方を変えたり、状況に対するわれわれの反応を変えたりできるようになります。反省的分析によってある程度まで、位置と性向のあいだにある直接の共犯関係を通じて働く決定作用のいくつかを支配できるようになります。」(ブルデュー、同上、pp179-180)

「環境との相即関係」はすでに始まってしまっている。その「最初の動きをあやつるのは難しい」。だが、精神病理学の得意とする精神分析に似た「反省的分析によって、状況がわれわれにおよぼす力の一部分は、われわれ自身がその状況に与えたものなのだ、ということがわか」る。

以前に触れたが、わかる、つまり「理解する」ということが、何らかの日常世界の再構成だとすれば、再構成が出来るようになるということは、その構成要素をいじり、その「あいだ」の関係性に意識的な変容を加えることが可能になる、ということである。木村氏の言葉を使うのなら、「個体を取り巻く『非自己』的な環境との『あいだ』」に着目することによって、『非自己』的な環境の変容が始まり、ひいては自己も含めた「決定作用のいくつかを支配できるようにな」るのである。

自分がテーマとする分野のいくつかで、このような「あいだ」や「ハビトゥス」がどのように作用しているのであろうか。両巨匠には並ぶべくもないけれど、自分の分野にもその切り口と視点を応用してみたい、と感じるきっかけとなった。そういう「もうけもん」があった木村氏の名著なのだから、3冊くらい買っても罰は当たらない、かしらん

一人サマータイム

 

4月に入り、朝が早くなった。

寝室のカーテンは遮光タイプだが、扉を開けておくとリビングのカーテン越しに、薄明かりがみえてくる。しかも、最近は10時半とか11時に寝る生活なので、自然と5時過ぎには目が覚める。というわけで、今年も4月から一人サマータイムを導入してみる。朝の時間は頭もスッキリしているので、誰にも邪魔されずに、あれこれ出来るのがよい。

で、朝のドタバタの時間まで後20分なので、とりあえずここ数日で目に付いた記事を引用しておく。

「3時間くらいたって気持ちが落ち着いてきて、最初の1ページなかったもんとして読んでみたんです。そっちの方がいい。この1ページ、何を書いているんやろと思ったら名文を書こうとしているんですね。つまり、声の悪いやつらが高らかに歌ってる。自分は気持ちいいけど、聞いている方はたまったもんやない。『こういう文章を全部とったらいいんだ』と思って、電話しましたよ。そしたら『3時間でわかるとは偉い』と言われた。全部で20枚分くらいありました。自分が気持ちよく書いている文章をとっていったのが、『螢川』なんです。」(宮本輝「自分が酔った文章削って芥川賞」朝日新聞4月6日夕刊)

芥川賞作家が、自身の受賞作の創作過程である同人誌の主宰者から、「これなしで、次のページのここから書き出せるようになったら、君は天才になれる」と言われた。そのエピソードと見出しに深く頷く。そう、「自分が酔った文章」って「自分は気持ちいいけど、聞いている方はたまったもんやない」場合が少なくないんだよね、と。特に、一つのストーリーを作り上げる際、ふと浮かんだ「気持ちいい」フレーズが、文章全体に弾みをつけてくれるので、ついついそのフレーズから書き始めたりする。だが、後から見たら、ナルシスティックな喜びに満ちあふれた部分であり、鼻につく。推敲の際に、。『こういう文章を全部とったらいいんだ』という事態になる。

このまさに同じ展開を、こないだ、とある原稿で体験したので、よくわかるのだ。少し野心的な福祉の教科書のお仕事。4つの項目を1ページ1000字で1~2ページで書いてね、というオーダーだった。しかし、ルンルンと書いていくと、すぐに10ページくらいはいく。編者の友人に「こんなもんでどう?」と聞いてみると、「やっぱ8ページよね」とすげないお返事。書いた当初はその文言に酔っているから、「削れないよ」と思っていたが、側注も使えるので、どんどん削って8ページに収めると、当初より遙かにシャープでよい。そして、削った部分が、まさに宮本氏の言うように「名文」ではないけれど、「自分が酔った文章」なのである。

こう書いていて思い出す。そういえば、これってワインバーグ氏が言っていた「一割削減法」と一緒じゃないか、と。早速自分が引用したブログを引いて確認。ザッと書いて、1割削るとちょうどよい中身に引き締まってくる、という言う文章読本。で、宮本氏が言うのも、僕が実践したのも、その削られる1,2割には、「自分が酔った文章」が対象になる。確かに最初書いた時は、書き手のイントロダクションとして良い導入役となる。しかし、それはあくまでペースメーカーであり、完成した暁には、その部分をサクッと切り落として読者に提示しないと、返ってわかりにくくなる。それでも気になる場合にはどうしたらいいか。宮本氏は、この恩人の同人誌主宰者にこうも言われた、という。

「『長いこと便所にいると、においがわからなくなってしまうのと同じで、いっぺん出た方がいい。『螢川』は少し置いておこう。気づいたことをすべて生かして別の小説を書きなさい。すぐ書ける人間でないと、プロにはなれない』と言われた。それで『泥の河』を書いたんです。『泥の河』を書いて得たもので、『螢川』を手直しした。」

そう、サクッと切ってしまうにはもったいない、と感じた何か。でもその作品に押し込めるには無理があったら、無理に閉じこめずに、切り離して、「気づいたことをすべて生かして別の」作品の素材としたらいい。こういうケチなてんこ盛りを僕も以前はしていた。そうではなくて、気づいたのなら、ある作品を書いている間でも、「別の」何かに着手したらいいのだ。そうすると、時間をおけるから、戻って来た時、元の作品の「におい」がわかる。で、また書き直したら、よりよくなる。

論文にも充分通底する「創作スタイル」について、良いことを教えてもらった。

神話化を超える「わかる」

 

お気づきであろうか。
ブログ管理人N氏のご協力のおかげもあり、このブログの文字はかなり大きくしてもらいました。今まで僕自身は文字を「最大」にして読んでいたのですが、普通の画面では(エクスプローラーの「文字サイズ中」であれば、実に読みにくい小ささ、だった。論考の稚拙さという読みにくさ、だけでなく、文字がそもそも小さくて、取っつきにくかったのだ。

ようやく形式面では整った。あとは、いつも書くように「内実」だけ。

で、今日は久方ぶりに本当のオフ、で、一日家に引きこもり。何もしなくて良い日、がこんなに開放的とは、忘れていた。野菜を買いに行くのもパートナーにお任せし、ジムも平日に回して、とにかく昼寝と読書。極楽である。で、そういう極楽読書をしていると、こないだの議論の続きに出会う。

「ブルデューの眼からすれば、社会学の任務とは社会的世界を脱自然化し脱運命化することであり、すなわち権力の行使を包み隠し、支配の永久化を包み隠している神話を破壊することである。しかしながら、そうした神話破壊は他者に罰を与えたり、他者の内に罪の感情を生じさせることを目的とするのではない。まったく反対に社会学の使命は、行為を規定している制約要因の世界を再構成することによって、行為がなぜなされたか、その『必然性を示す』ことであり、それらの行為を正当化することなく、恣意性から引き話すことである。」(ロイック・J・D・ヴァカン「社会的実践の理論に向けて」ブルデュー&ヴァカン『リフレクティブ・ソシオロジーへの招待』藤原書店、pp80-81)

こないだ紹介した竹内洋氏の社会学案内で一番興味を持った一冊。丸善で早速注文し、今日の極楽読書のお供にした。いやはや、面白い。「社会的世界を脱自然化し脱運命化すること」とは、僕の語彙で言えば、「しゃあない」を超えること、だと思う。福祉の現場で、あるいは学生と接していてもよく聞く「しぁあない」(「仕方ない」の関西弁)。ぼくはこの「しゃあない」とか「どうせ」という文言が、努力をしていない言い訳に使われる場合、生理的な嫌悪感と反感を抱く。そして、それは政策の放置、社会を良くしようという営みの放置、に思えるからである。(今、「しゃあない」とスルメコラムの検索窓にひっかけるだけでも、16ものコラムにこの「しゃあない」論考を書いている。例えば一年前も。我ながら執拗だ

そう、何が嫌いって、「どうせ」「しゃあない」にこびりついている「自然化」「運命化」、つまりは「神話化」路線が嫌いだったのだ。その嫌悪の理由が、神話作用によって、「権力の行使を包み隠し、支配の永久化を包み隠している」という事態に対する嫌悪だった、ということが、この文章を読んでいてようやくわかった。不勉強故の遅さ、である

そして、この後のヴァカンの整理もわかりやすい。

「行為を規定している制約要因の世界を再構成することによって、行為がなぜなされたか、その『必然性を示す』こと」

このフレーズの中に、最近ぼんやり考えていた事との接点が多数含まれている。まず、「再構成」と言えば、以前引いた橋本治氏もこんな事を書いていた。

「「『わかる』とは、自分の外側にあるものを、自分の基準に合わせて、もう一度自分オリジナルな再構成をすることである。」(橋本治「わからないという方法」集英社新書、p105

この再構成の作業の中で、「行為がなぜなされたか」ということが初めて再構成をする人間の内部で「わかる」ことが出来、だからこそ、その『必然性を示す』ことも出来うるのだ。そして、「行為を規定している制約要因」の「必然性」を解き明かすこと、このことも、以前引いた佐藤優氏が使う「内在的論理」という言葉で、最近ずっと考えている。彼はこんな風に言っている。

「ヘーゲルは、特定の出来事を分析する場合、まず当事者にとっての意味を明らかにする。対象の内在的論理をつかむことと言い換えてもよい。その上で、今度は、対象を突き放した上で、学術的素養があり、分析の訓練を積んだわれわれ(有識者)にとっての意味を明らかにする。更に有識者の学術的分析が当事者にどう見えるかを明らかにするといった手順で議論を進めていく。当事者と有識者の間で視座が往復するのだ。この方法が国際情勢を分析する上でも役に立つ。」(佐藤優『地球を斬る』角川学芸出版 p266-7)

そう、「対象の内在的論理」という名の「必然性」を「わか」った上で、「今度は、対象を突き放した上で」「われわれ(有識者)にとっての意味を明らにする」。その中から、「それらの行為を正当化することなく、恣意性から引き話すこと」が可能になる。そこから、対象の内在的論理を掴んだ上で、「どうせ」「しゃあない」を超えるための対案の可能性が生まれてくるのだ。そのためにも、まずは徹底的にその対象を「わかる」必要がある。そして、ようやく最近このような「わか」りかたを、僕自身も身につけ始めたのかもしれない。ふと、1年前に書いたある原稿を思い出す。少し長くなるが、引用する。

「確かにニイリエの1969年の原理は、施設環境を全否定するものではなく、施設環境を改善するための整理となっている。バンクミケルセンの3つの条件にしても然り、である。この点に関しては、『北欧のノーマライゼーションの初期概念は施設中心的なものである』と整理することは、間違いであるとはいえない。
 だが、それは明らかに二人の言説(=つまりは「図」)のみに焦点化したものである。これまでに整理してきたように、ゴッフマンやバートンの「補助線」を用いた際に見えてくるのは、北欧の二人は明確に、全制的施設の構造的問題を、批判の対象にしているのだ。そして、『常人としての自己を維持させる』、つまりは無力化されないための条件とは何かを明確な形にするために、ノーマライゼーションの理念を形成していくのである。そして、その条件を突き詰めていく中で、施設から地域へ、という北欧の実践が自ずから生み出されてくる。二人の理念創設時の「地」の理解からは、このような整理が導き出される。
 私たちは、単なる言葉(=図)だけではなく、その言葉が出てきた歴史的・社会的文脈(=地)を見なければならない。当然の事ながら、『ノーマライゼーション=善』という浅薄な理解も、自分の思いこみの言葉への投影、という点では図のみの理解そのものである。施設か地域か、善か悪か、という言説(=図)のみではなく、その理念や考えがどのような文脈(=地)から生まれ、変容していくのか、をじっくり眺めない二項対立的言説は、本当の意味でのラディカル(=根元的)とは言えない。」(ノーマライゼーションを『伝える』ということ」『季刊福祉労働』119号、2008年)

そう、「図」の背景にある「地」をじっくり眺め、解き明かすこと。その中から「社会的世界を脱自然化し脱運命化すること」が始まるのかもしれない。

少しずつ、自分の視座のようなものが、物事に対処する立ち位置が、定まって来た、と言えればよいのだが

批判と内在的論理

 

いやはや、昨晩はひどかった。何がひどかった、って、急激な花粉症。ちょうど遅めの夕食時に、鼻詰まり、から始まる。それでは、と鼻への注入薬をいれると、今度は鼻水が止まらない。焼酎を飲んでもじゅるじゅる、刺身を食べてもじゅるじゅる。落ち着いてご飯も食べられない(といいながら、しっかり飲み食いはしていたのだが)。5年ほど飲み続けている漢方薬が効いてきて、花粉症がだいぶマシになった、と今年は実感していたのだが

思い当たる節は二つある。

一つは、単に薬の効力切れ。朝7時に飲んで、12時間以上たったら、効果が消えたから症状が出てきた。これは極めてシンプル。ただ、いつもそれくらいの時間まで持つのに、その日だけ特に症状がキツイ。その背景には、そうそう、研究室の大掃除を挙行したのだ。おそらく、ほこりまみれになりながら、マスクもせず、書類をどかどか捨てた。それが大きく響いたのだろう。

毎年4月頃は整理整頓の文章を書いているような気がするが、今年は以前書いたGTDのやり方を羅針盤に、まずは自分が把握出来ていない情報の整理と処理に邁進。と書けばかっこうよさそうだが、何のことはない。お蔵入りや死蔵している机の中のキャビネット、サイドデスクの上、その他あちこちに積まれた書類をバシバシ捨てていったのである。中には4年間の採用時の書類なども出てきて、びっくり。とにかく、捨てるorシュレッダー分類をしながら、どんどん整理していく。となりのH先生も同時期に整理しておられたので、12号館2階のゴミ捨て場は、うずたかくゴミが積まれていた

さて、そういう大掃除をしていると、必ず懐かしい書類と出会う。今回であったのは、僕が教える原点の一つとなった、あるプリント。こんな事が書かれていた。

「先生は精神病について色々おっしゃいますが、実際、それについて医師から学んだのですか? 精神病については、私たちの方がよく知っていると思います。患者さん本人に聞くのも大切ですが、一度きちんと医師から教えてもらえばいかがですか?」

レジュメの片隅には2000年8月、と刻印されている。僕が生まれてはじめて英語や国語といった受験科目以外を教えた、神戸にあるとある看護学校での講義(なんと教育学!でも内実は)の感想に書かれた内容である。生まれてはじめて自分の専門に関して教えてよいと言われ、福祉と教育をひっつけながら、毎回必死になって講義をしていた。しかも、聴き手は准看護師の皆さん。正看護師になるために、仕事を一時的に辞めて、学生に戻っている。当然彼ら彼女らは、現場のキャリアや経験がある。中には、学費を稼ぐために、精神科病院の夜勤をしながら学んでおられる方もいた。そういう現場で、「病棟内で患者さんの声が抑圧されている」「不必要な隔離拘束は人権侵害だ」と講義をしたのだから、ナースの皆さんの心に火をつけてしまった。だから、こんな意見もあった。

「先生の言っていることはくどいと思います。抑制をするのは、本当に安全のためにするのです。なし崩しってなんですか? 先生は医療について批判ばかりしているように思えます。マイナス面ばかりを観て一点ばかりを熱心に言っていますが、先生が総理大臣にでもなって日本を改革したらどうですか?」

確かに、その時も、今も、私の言っていることは「くどい」、これは残念ながら当たっている。そうであるが故に、その時は僕も彼ら彼女らも、毎週生の感情を出して、こういうやり取りを続けていた。もちろん、直接僕に直接話しかける人もいたが、多くはコメントペーパーにどっさり反論を書いて下さった。私は、勉強不足で反論がうまくできなかったので、上記の抑制に関しては、抑制廃止宣言に取り組んだ有名なナースの方に電話で取材させて頂いたり、毎回反論する為に講師料以上の本を買って「にわか仕込み」をし続けた。

しかし、今になって思うと、この准看護師の方々が、率直に本音を言ってくださっていること自体が、実は貴重な場だったのだ。普通、単位修得がかかっていると、こんな本音は言わない。あるいは言っても無駄だ、と無視する。しかし、この内容が象徴するように、単に僕に対する否定、ではなく、准看護師の置かれた立場や構造を象徴する文言まで、ここには沢山書かれているのだ。

「患者さん本人に聞くのも大切ですが、一度きちんと医師から教えてもらえばいかがですか」という文言には、ヒエラルキー構造を強く感じる。確かにタケバタは医学知識が怪しかったのだろう。准看護師の方に比べたら、精神医学の知識は乏しい。ならば、「精神医学の教科書を学んだらいかがですか」では駄目なのだろうか? なぜここに「きちんと医師から教えてもらえば」という表現が出るのか。この点に、保健師・看護師・助産師法に定義されている「医師の指示の下」という呪縛を感じる。常に医者に聞く、という縛りが、意地悪く言えば「刷り込まれている」、ひいき目に言えば「そうせざるを得ない状況に構造的に追い込まれている」。だから、「患者さん」の声よりも「医師から教えてもらえば」となるのだ。

また、「先生は医療について批判ばかりしているように思えます。マイナス面ばかりを観て一点ばかりを熱心に言っていますが」という表現も、色々解釈が可能だ。このとき、精神科病院における不当な患者の隔離拘束を、大和川病院事件などの新聞記事を元に講義したのだが、実際に看護現場で夜勤の際に縛っているナースから、「批判ばかり」というメッセージをうけた。この「○○ばかり」という表現の持つニュアンスに、その当時は気づかなかったが、今から読み込み直すと、「批判やマイナス面は確かにその通りだけれど、そればかり強調するのではなく、そうせざるを得ない私たちの本音や立場、置かれた構造的位置もちゃんとわかってよ」というメッセージなのだ。

つまり、この当時の僕の反省としては、単に批判「ばかり」に終始して、その批判される行為(と同様の、あるいはそれに近いこと)に手を染める側の内在的論理をきちんと理解し、その人達がそれを乗り越えるためにどうすれば良いのか、という対案を示せなかった事だろう。

その事に気づけたのは、カリフォルニア調査の合間に、現地で報告書を書くために読んでいたある本の一節からだった。

「医者だからこれを治せばいい、医者だから治さなくてはいけないと、ある種暗黙の期待や了解の下に、医者はそこで頑張らされている。医師だけが役割を背負って、結果的に家族やスタッフの負担を減らすために薬をたくさん出して、とりあえず、目先の困難を沈静化するといことで、周りを何とかなだめなくてはならない、となっているのです。
 その現状を、多剤大量という形で批判するのは簡単です。しかし、それは精神科医が自らそうしているわけではなくて、医師に多剤大量という形で責任を押しつけているのは地域支援の責任だ、ソーシャルワーカーの責任だ、と私は勝手に思っています。(略)地域支援が頑張らないから、結局これだけ病院を増やし、病院にこれだけのことを押しつけてきたのです。」(向谷地生良, 2008, 『統合失調症を持つ人への援助論』, 金剛出版.:203-204

北海道の浦河で精神障害を持つ人の回復拠点「べてるの家」を作り上げて来た名物ソーシャルワーカーのこの認識に、はっと気づかされるものがあった。(ちなみにここは日高昆布などを実に上手に売っている。例えば精神バラバラ病の人がうるから「バラバラ昆布」など。しかも、その昆布のクオリティが高いので、実は我が家も愛用し、昨日も新たに注文した8000円分の昆布が届いた

閑話休題。この向谷地氏の視点を借りながら、その後にこんな分析を僕もしてみた。

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 医者に対する「暗黙の期待や了解」と「地域支援が頑張らない」状況の中にあって、『地域の監督者』役割と「目先の困難を沈静化する」役割を担わされた(=「責任を押しつけ」られてきた)医者は、病棟の中で多剤大量という薬物療法を用いて「周りを何とかなだめ」る手段に出ていた。向谷地はこの現象を「多剤大量という形で批判する」ことで済まそうとしていない。「医者が悪い」という単純な二項対立的図式で事態を過度の単純化・矮小化することなく、「多剤大量」(=「薬づけ」)という現象に内在する論理(=医者の立場からみた合理性“”内的必然性)を明らかにしているのである。
 だが、この医者の合理性“”内的必然性はその当然の帰結として「施設神経症」状態を誘発させ、当事者の生活の質は結果的に悪化する。そんな厳しい現実に立脚し、そこから現場を実体的に変えるために浦河で取られた戦略が「何もしないでブラブラさせられることや責任感の喪失」や「専門職員のえらそうな態度」、「薬づけ」を変える営みであった。その際、向谷地がA・AとSSTを活動の基本に据えた点は興味深い。それはどちらも支援者と当事者の関係性や当事者の「責任」に注目した概念だからである。
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そう、向谷地氏の実践の基盤に、安易な外からの批判、ではなく、批判される側がその行為をせざるを得ない「内的必然性」(=内在的論理)を掴んだ上で、それを乗り越えるために何が必要か、という対抗軸を紡ぎ上げる営みがあったのだ。そして、医師に過剰な責任が押しつけられている事に着目し、医療の枠組みの中で、患者が責任を取り戻す手段として、アルコール依存症治療の場で実証されているアルコホリック・アノニマス(AA、アルコール依存症のセルフヘルプグループ)や社会適応訓練(SST)という手段を用いたのである。医療の単純な批判でなく、その批判される現実を立脚点として、実際に乗り越える方法論を見出し、それを実践してきたのが、「べてるの家」だったのである。ソーシャルワーカーの向谷地氏の発言や「べてるの家」の当事者研究などの実践が、医療関係者にも広く理解されている背景に、このような単純な批判を超えた何か、があるからだと思う。

9年前の自分と比べて、その当時の自分の限界は、少しは認識出来るようになったようだ。当時だけでなく、今も看護も福祉も、様々な内在的論理で固められ、構造的な問題に絡め取られている。それを外形的批判に終始するのではなく、その論理構造を因数分解し、一つ一つの因子を眺めながら、どこから動かすことが出来るか、をターゲット化し、実際ピンポイントで狙っていく。そういう可能性を模索する講義なり実践なり、あるいは研究なりが、9年後の今、僕には出来ているだろうか

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新年度のスタート、昨日までに沢山の資料を捨てたり、心機一転モードになっております。
で、このスルメについても、更新していないし風化しつつある、本体の方はとりあえず無期限で停止しました。管理人の旧友N氏の御協力のもとで、ブログに一本化します。なので、http://www.surume.org/のブログページ以外のデータは、一旦削除致しました。ブックマークをして頂いている方は、このhttp://www.surume.org/column/blog/をご登録下さいませ。

しばらくこのブログのみの更新です。ただ、もう少し昨年度よりは時間を作って、こまめに考えの「よしなしごと」の断片を書き込んでいこうと思います。今後ともごひいきに。