いやはや、昨晩はひどかった。何がひどかった、って、急激な花粉症。ちょうど遅めの夕食時に、鼻詰まり、から始まる。それでは、と鼻への注入薬をいれると、今度は鼻水が止まらない。焼酎を飲んでもじゅるじゅる、刺身を食べてもじゅるじゅる。落ち着いてご飯も食べられない(といいながら、しっかり飲み食いはしていたのだが…)。5年ほど飲み続けている漢方薬が効いてきて、花粉症がだいぶマシになった、と今年は実感していたのだが…。
思い当たる節は二つある。
一つは、単に薬の効力切れ。朝7時に飲んで、12時間以上たったら、効果が消えたから症状が出てきた。これは極めてシンプル。ただ、いつもそれくらいの時間まで持つのに、その日だけ特に症状がキツイ。その背景には…、そうそう、研究室の大掃除を挙行したのだ。おそらく、ほこりまみれになりながら、マスクもせず、書類をどかどか捨てた。それが大きく響いたのだろう。
毎年4月頃は整理整頓の文章を書いているような気がするが、今年は以前書いたGTDのやり方を羅針盤に、まずは自分が把握出来ていない情報の整理と処理に邁進。と書けばかっこうよさそうだが、何のことはない。お蔵入りや死蔵している机の中のキャビネット、サイドデスクの上、その他あちこちに積まれた書類をバシバシ捨てていったのである。中には4年間の採用時の書類なども出てきて、びっくり。とにかく、捨てるorシュレッダー分類をしながら、どんどん整理していく。となりのH先生も同時期に整理しておられたので、12号館2階のゴミ捨て場は、うずたかくゴミが積まれていた…
さて、そういう大掃除をしていると、必ず懐かしい書類と出会う。今回であったのは、僕が教える原点の一つとなった、あるプリント。こんな事が書かれていた。
「先生は精神病について色々おっしゃいますが、実際、それについて医師から学んだのですか? 精神病については、私たちの方がよく知っていると思います。患者さん本人に聞くのも大切ですが、一度きちんと医師から教えてもらえばいかがですか?」
レジュメの片隅には2000年8月、と刻印されている。僕が生まれてはじめて英語や国語といった受験科目以外を教えた、神戸にあるとある看護学校での講義(なんと教育学!でも内実は…)の感想に書かれた内容である。生まれてはじめて自分の専門に関して教えてよいと言われ、福祉と教育をひっつけながら、毎回必死になって講義をしていた。しかも、聴き手は准看護師の皆さん。正看護師になるために、仕事を一時的に辞めて、学生に戻っている。当然彼ら彼女らは、現場のキャリアや経験がある。中には、学費を稼ぐために、精神科病院の夜勤をしながら学んでおられる方もいた。そういう現場で、「病棟内で患者さんの声が抑圧されている」「不必要な隔離拘束は人権侵害だ」と講義をしたのだから、ナースの皆さんの心に火をつけてしまった。だから、こんな意見もあった。
「先生の言っていることはくどいと思います。抑制をするのは、本当に安全のためにするのです。なし崩しってなんですか? 先生は医療について批判ばかりしているように思えます。マイナス面ばかりを観て一点ばかりを熱心に言っていますが、先生が総理大臣にでもなって日本を改革したらどうですか?」
確かに、その時も、今も、私の言っていることは「くどい」、これは残念ながら当たっている。そうであるが故に、その時は僕も彼ら彼女らも、毎週生の感情を出して、こういうやり取りを続けていた。もちろん、直接僕に直接話しかける人もいたが、多くはコメントペーパーにどっさり反論を書いて下さった。私は、勉強不足で反論がうまくできなかったので、上記の抑制に関しては、抑制廃止宣言に取り組んだ有名なナースの方に電話で取材させて頂いたり、毎回反論する為に講師料以上の本を買って「にわか仕込み」をし続けた。
しかし、今になって思うと、この准看護師の方々が、率直に本音を言ってくださっていること自体が、実は貴重な場だったのだ。普通、単位修得がかかっていると、こんな本音は言わない。あるいは言っても無駄だ、と無視する。しかし、この内容が象徴するように、単に僕に対する否定、ではなく、准看護師の置かれた立場や構造を象徴する文言まで、ここには沢山書かれているのだ。
「患者さん本人に聞くのも大切ですが、一度きちんと医師から教えてもらえばいかがですか」という文言には、ヒエラルキー構造を強く感じる。確かにタケバタは医学知識が怪しかったのだろう。准看護師の方に比べたら、精神医学の知識は乏しい。ならば、「精神医学の教科書を学んだらいかがですか」では駄目なのだろうか? なぜここに「きちんと医師から教えてもらえば」という表現が出るのか。この点に、保健師・看護師・助産師法に定義されている「医師の指示の下」という呪縛を感じる。常に医者に聞く、という縛りが、意地悪く言えば「刷り込まれている」、ひいき目に言えば「そうせざるを得ない状況に構造的に追い込まれている」。だから、「患者さん」の声よりも「医師から教えてもらえば」となるのだ。
また、「先生は医療について批判ばかりしているように思えます。マイナス面ばかりを観て一点ばかりを熱心に言っていますが」という表現も、色々解釈が可能だ。このとき、精神科病院における不当な患者の隔離拘束を、大和川病院事件などの新聞記事を元に講義したのだが、実際に看護現場で夜勤の際に縛っているナースから、「批判ばかり」というメッセージをうけた。この「○○ばかり」という表現の持つニュアンスに、その当時は気づかなかったが、今から読み込み直すと、「批判やマイナス面は確かにその通りだけれど、それ“ばかり“強調するのではなく、そうせざるを得ない私たちの本音や立場、置かれた構造的位置もちゃんとわかってよ」というメッセージなのだ。
つまり、この当時の僕の反省としては、単に批判「ばかり」に終始して、その批判される行為(と同様の、あるいはそれに近いこと)に手を染める側の内在的論理をきちんと理解し、その人達がそれを乗り越えるためにどうすれば良いのか、という対案を示せなかった事だろう。
その事に気づけたのは、カリフォルニア調査の合間に、現地で報告書を書くために読んでいたある本の一節からだった。
「医者だからこれを治せばいい、医者だから治さなくてはいけないと、ある種暗黙の期待や了解の下に、医者はそこで頑張らされている。医師だけが役割を背負って、結果的に家族やスタッフの負担を減らすために薬をたくさん出して、とりあえず、目先の困難を沈静化するといことで、周りを何とかなだめなくてはならない、となっているのです。
その現状を、多剤大量という形で批判するのは簡単です。しかし、それは精神科医が自らそうしているわけではなくて、医師に多剤大量という形で責任を押しつけているのは地域支援の責任だ、ソーシャルワーカーの責任だ、と私は勝手に思っています。(略)地域支援が頑張らないから、結局これだけ病院を増やし、病院にこれだけのことを押しつけてきたのです。」(向谷地生良, 2008, 『統合失調症を持つ人への援助論』, 金剛出版.:203-204)
北海道の浦河で精神障害を持つ人の回復拠点「べてるの家」を作り上げて来た名物ソーシャルワーカーのこの認識に、はっと気づかされるものがあった。(ちなみにここは日高昆布などを実に上手に売っている。例えば精神バラバラ病の人がうるから「バラバラ昆布」など。しかも、その昆布のクオリティが高いので、実は我が家も愛用し、昨日も新たに注文した8000円分の昆布が届いた…)
閑話休題。この向谷地氏の視点を借りながら、その後にこんな分析を僕もしてみた。
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医者に対する「暗黙の期待や了解」と「地域支援が頑張らない」状況の中にあって、『地域の監督者』役割と「目先の困難を沈静化する」役割を担わされた(=「責任を押しつけ」られてきた)医者は、病棟の中で多剤大量という薬物療法を用いて「周りを何とかなだめ」る手段に出ていた。向谷地はこの現象を「多剤大量という形で批判する」ことで済まそうとしていない。「医者が悪い」という単純な二項対立的図式で事態を過度の単純化・矮小化することなく、「多剤大量」(=「薬づけ」)という現象に内在する論理(=医者の立場からみた“合理性“”内的必然性“)を明らかにしているのである。
だが、この医者の“合理性“”内的必然性“はその当然の帰結として「施設神経症」状態を誘発させ、当事者の生活の質は結果的に悪化する。そんな厳しい現実に立脚し、そこから現場を実体的に変えるために浦河で取られた戦略が「何もしないでブラブラさせられることや責任感の喪失」や「専門職員のえらそうな態度」、「薬づけ」を変える営みであった。その際、向谷地がA・AとSSTを活動の基本に据えた点は興味深い。それはどちらも支援者と当事者の関係性や当事者の「責任」に注目した概念だからである。
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そう、向谷地氏の実践の基盤に、安易な外からの批判、ではなく、批判される側がその行為をせざるを得ない「内的必然性」(=内在的論理)を掴んだ上で、それを乗り越えるために何が必要か、という対抗軸を紡ぎ上げる営みがあったのだ。そして、医師に過剰な責任が押しつけられている事に着目し、医療の枠組みの中で、患者が責任を取り戻す手段として、アルコール依存症治療の場で実証されているアルコホリック・アノニマス(AA、アルコール依存症のセルフヘルプグループ)や社会適応訓練(SST)という手段を用いたのである。医療の単純な批判でなく、その批判される現実を立脚点として、実際に乗り越える方法論を見出し、それを実践してきたのが、「べてるの家」だったのである。ソーシャルワーカーの向谷地氏の発言や「べてるの家」の当事者研究などの実践が、医療関係者にも広く理解されている背景に、このような単純な批判を超えた何か、があるからだと思う。
9年前の自分と比べて、その当時の自分の限界は、少しは認識出来るようになったようだ。当時だけでなく、今も看護も福祉も、様々な内在的論理で固められ、構造的な問題に絡め取られている。それを外形的批判に終始するのではなく、その論理構造を因数分解し、一つ一つの因子を眺めながら、どこから動かすことが出来るか、をターゲット化し、実際ピンポイントで狙っていく。そういう可能性を模索する講義なり実践なり、あるいは研究なりが、9年後の今、僕には出来ているだろうか…。