前の職場の同僚で、今も定期的に対話させてもらう、年若い友人のてっちゃん(小笠原祐司さん)と、今夕も。今日のお題は、ゼミ運営について。ちょうど彼がリクルートワークスの報告書『あのゼミではなぜ学生が育つのか』を紹介していて、僕が面白そうとリプライしたら、ではそれについて話しませんか、と提案を頂き、Zoomダイアローグとなった。
その中で、報告書の項目21「言葉で何度もきちんと伝える」という部分になったとき、「いやぁ、実は僕は相手のことをしっかり聞くのは得意だけど、ついついファシリモードになっていると、自分の意見を相手に伝えることが押しつけがましいと感じて、遠慮しちゃうんだよねぇ」とぼやいた。すると彼は、「それって、僕もそうなんですけど、ファシリテーターという役割規定に縛られていませんか?」と問いかけてくださる。
ず、図星、である。
ある時期から自分は教員というより、ファシリテーターだ、と意識するようになり、授業もゼミもファシリテーション的に運営している。その方が、確かに学生達の声をしっかりと拾うことが出来、自主性を引き出す事も出来ている。だが、ファシリテーターの役割規定は、他者の意見を引き出すことである、というのは、自分のあり方を縛ることにもなる。僕自身が何を考え、どんなことを経験してきたか、という体験談や思いを語ることにも抑制的になるし、確かに僕自身、そういう話はゼミや授業ではほとんどしない。
一方、てっちゃんはそんな自分のファシリとしての役割規定の拘束性に気づき、そこから自由になって、自分の思いを語り始めてみた、と。すると、学生達は、その思いに共感くれることもあるけど、だからといって学生達みんながてっちゃんの話になびくこともなく、うまく彼の話を取捨選択して受け止めてくれている、という経験も聞いた。
それを聞いて、もう一つ思い当たることがあった。
僕は、自分が押しつけがましい、というのを強力に自覚化しすぎていて、だからこそ、押しつけがましさを徹底的になくそうとしていたのかも、しれない。でも、それって、僕が話した事を相手は100%信じたり受け止める世界である。だが現実には、学生達は取捨選択能力を持っているのだから、僕の言うこともスルーしたり、聞き流したりする能力を持っている。すると、学生の能力を信じて、僕も寸止めせずに、伝えてみてもいいのかもしれない、と思い始める。
あと、てっちゃんが教えてくれた素敵な提案として、「ファシリテーターから探求者に」というモードの転換がある。学生達の自主性を高めて促すファシリ、ではなく、自分も学生達と一緒に探求する、探求者のモード。ファシリテーターがサポーター的な、一歩引いた立ち位置とするなら、探求者はwith-ness的な、一緒に考え合う存在。それ、いいね!である。
僕は、自分の中でも探求したいことが沢山あるが、どれも自分一人で探求するものだとこの15年以上思い込んできたし、学生には僕の研究はニッチテーマ過ぎて、誰も僕の興味関心に賛同してくれるはずがない、と決めつけていた。でも、それは、僕がファシリテーターとして学生にある種のデタッチメント的な関わりだったから、そうなった、ともいえる。その意味では、僕と学生の相互作用の結果、でもある。であれば、もう少し僕がlead the self/story of selfを大切にして、自分の研究がどれほどおもろいか、とか、なぜこういう形での授業をしているのか、その背景に僕のどんな経験や試行錯誤があるのか、を学生に伝えてみても、良いのかも知れない。
てっちゃんはそれを、「教員の話を聞いて、学生も追体験できる」と言ってくれたが、なるほど、僕はこれまで追体験の素材はほとんど提供してこなかった。その上で、この中のテーマに興味のある人は、一緒に考えてみませんか、と提案をする事だって出来る。少なくとも、岡山や明石でやっている『「無理しない」地域づくりの学校』プロジェクトや、20年近くコミットしているNPO大阪精神医療人権センターの活動なども、興味があったら一緒に探求してみよう、と誘うことも出来る。新しく始まったプロジェクトだって、その対象だ。それらは、教員が学生に○○しなさいと命令する事とも、ファシリとして学生の自主性に委ねることとも違う、「おもろいことを探求してみませんか?」というお誘いモードである。あるいは、魂の脱植民地化とか、ケア論だとか、僕がおもろいと思うテーマについて興味のある人がいたら、一緒に読書会を開くことだって出来る。
ようは、僕が教員やファシリの役割規定から自由になり、本来の僕のスタンスである、おもろい何かを探求したい、という探求者のモードを純粋に追求したらよいのではないか、というのが、今日のてっちゃんとのダイアローグから得られた、めちゃくちゃ大きい気づきであり、それは僕自身のゼミ運営や、今後の授業のあり方を大きく変えてくれそうな予感がしている。
もちろん、主人公は学生である。でも、教員の僕が一方的に押しつけるのでも、あるいはファシリとして黒子になるのでもなく、対等な探求者として共に考え合うことができたら、もうちょっとおもろい何かが出来るのではないか。40代も後半になって、やっとこのことが腑に落ち始めた。さて、これからどんな展開に、なるのやら。