「学力工場」と偏差値序列

気になっていた『学力工場の社会学』(クリスティ・クルツ著、明石書店)を読み終えた。イギリスの貧困地域における公設民営の中学校(ドリームフィールズ校:仮称)において、厳格な規律遵守と学力工場に向けたガリ勉的な仕組みを導入したところ、学力テストでうなぎ登りになり、それが移民地域で白人中流階級の子どもたちも受験に殺到するようになった。そんな学校でのフィールドワークやインタビュー調査に基づき、ブレア政権以後、「教育」に力を入れるようになったイギリスでの新自由主義的改革が、どのような能力主義的な序列化に繋がったか、を解き明かしていくモノグラフ。サンデルの『実力も運のうち』を取り上げたブログでも書いたけど、ここのところ、能力主義は僕にとって一大テーマなので、食い入るように読み進め、読み続けるうちに自分の過去を思い出して心苦しくなりながら、読んでいた。

この学校の校長は、多文化が共存する下町の中等教育の現場で秩序を維持する戦略として、次のように述べている。

「6人とか7人の生徒のグループが集まっていることを認めていません。万一、生徒の大きなグループが集まっているのを見たら、その生徒たちがバカなことや暴力を起こさないよう、〔グループを〕解散させなくてはなりません。」(p91)

そして、規律を破った場合は、肺活量の大きい教員によって「大声での叱責」が行われたり、学校での居残りをさせられるのであった。また、放課後も学校周辺で街路を回り、制服の正しい着用や買い食いなどをしていないか、も厳しくチェックしていた。そこには「数量化できる学習成果を確実に絶えず生み出せるようにするための監視・強圧・分断・監査」(p116)が働いていた。そして、この「監視・強圧・分断・監査」は学生だけでなく、教員にも向けられていた。校長や経営層は、会社のように各個人のクラスの成績を査定するし、教員達が連帯しないように、職員室も置かず教科ごとの控え室しかなく、教員の労働組合もなかった。それは全て、ダウンタウンにおいて「掃き溜めの学校(sink school)」(p170)に陥らないための、学校全体を通じての「総力戦」的なやり方であった。

「アンビバレントな感情が、ドリームフィーズル校のプロジェクトの中心に位置付いている。すなわち、幸福と楽しさを約束する将来の幻想が、高いレベルの統制や規律、治安主義化に対する今現在の忍耐と結びついている。ドリームフィーズル校は数多くのテクニックを融合して、感受性の強い若者たちを、市場への参加を通して価値を獲得することに自ら投じる、自己構築型の個人へと成形しているのである。このトレーニングは、ますます日常化し、不安定でしばしば搾取されるポジションに進んで適応しようとし、それと同時に、自分の伝記を執筆する個人として自己を理解する主体の生産を奨励する。この個人化は、人種化され階級化された不平等が、学校教育の軍隊化にどのように関連し、またそれを強化しているのかを積極的に認識することを非常に困難にしている。」(p225)

僕はこの本に書かれている「テクニック」を知っている。というか、僕の中学や高校時代を通じて、このテクニックがぼく自身にも行使され、それを内面化・身体化してきた過去がある。

以前のブログに書いたように、僕が生まれ育った京都のダウンタウンの公立中学校は、ある種の問題のるつぼであり、「掃き溜めの学校(sink school)」に類似した部分もあった。不良がボンタンを着ているとかシンナーの話が出たり、原付バイクの盗み方、なんていう話も聞いたことがある。そんな学校における秩序維持のためには、大声で叱責する教員が何人かいた。激高して机を蹴り倒す教員もいた。そして、今回この本を読みながら思いだして真っ青になっていたのだが、その教員の恫喝の論理をぼく自身も内面化している部分がある。大教室で学生たちがガヤガヤしている時に、「やかましい」と恫喝的に声を上げたことが、大学教員になってから、何度もあったのだ。あれって、よく考えたら、中学の時にうけた「治安主義化」の「テクニック」の再生産だったのだ、と、この本を読みながら気づく。

「感受性の強い若者たちを、市場への参加を通して価値を獲得することに自ら投じる、自己構築型の個人へと成形している」というのも、ぼく自身の中高時代に当てはまる。「良い高校、良い大学に入り、良い会社や良い職業につくことが未来を切り開く唯一の道だ」と信じて猛烈進学塾で夜中まで勉強していたし、頑張り続け、自らの偏差値を上げないと、人生は上手くいかないと思い込んでいた。それは、偏差値の序列という「市場への参加を通して価値を獲得することに自ら投じる、自己構築型の個人へと成形してい」くプロセスそのものだった。

その後、進学校の高校に入った後、勉強は本当につまらなくなってしまい、どんどん成績が急降下していった。それを今振りかえってみるならば、「幸福と楽しさを約束する将来の幻想が、高いレベルの統制や規律、治安主義化に対する今現在の忍耐と結びついている」という事へ心身の反発や疲労、だったようにも、思う。中学校までは勉強が楽しかったのだが、高校で写真部に入って仲間と議論する(「隠れ作業」のp232)楽しさに気づくと共に、「高いレベルの統制や規律」での「勉強しなければならない」という「忍耐」が受け入れられにくくなったのだ。

「教師と生徒は、来たるべき未来に奉仕するために、現在の労働に耐えるべきだとされている。しかし、現在の残虐性はいつ終わるのだろうか? より寛大な『後の時間』はいつ始まるのか?」(p328)

中学や高校の頃は、大学に入れば、「今現在の忍耐」=「現在の残虐性」は「終わる」と思っていた。だが、何を何を。「後の時代」はそう簡単には始まらない。

「ドリームフィールズ校の一部の生徒は労働市場で成功できるだろうが、数多くの副作用がこのアプローチにはある。権威に対する無批判な従属、想像力の欠如、および狭隘な意味での主体性の感覚を養う従順さの修練は、それなりの危険性を孕んでいる。批判的思考や批評は、ベルトコンベアの進行と学力テスト結果の生産を妨げるだけの、乱雑で、時間を食う、破壊的な活動とされている。」(p329)

この「副作用」は、僕にもその後20年近く強い影響力をもたらしてきて、現時点でもそこから自由になりきれていないし、また、大学で出会う学生たちにも影響力を与え続けていると思う。それが、先に書いた「偏差値信仰」である。

「市場への参加を通して価値を獲得することに自ら投じる、自己構築型の個人」であった僕は、偏差値の高い大学に入ることを絶対的な価値だと思い込んでいた。だからこそ、その当時、「京大に日本一学生を送り込んでいる進学校」に入っていたのにも関わらず、センター試験で現役も浪人も良い点が取れず、京都大学を受験すら出来なかった段階で、自分自身を「落ちこぼれ」だとセルフ・スティグマを張っていた。入学した当時の阪大では、「周りはバカばかり」と思い込む、一番最低な人間だった。

また20代の間、ずっと大学受験の予備校や家庭教師をし続けてきたのだが、偏差値を30代からどう50代、60代にあげるか、という事に熱血になって指導して、それなりの成果を上げてきた。教師の教え方が下手だから学力が上手く向上しない高校2年生や高校3年生に、「今からでも頑張れば出来る!」と元気づけ、実際に彼等彼女らの成績を上げる支援をしてきたのだが、「来たるべき未来に奉仕するために、現在の労働に耐えるべきだ」という論理を、大学生の頃から高校生に教師として教える役割を担い続けてきたのだ。そのなかで、偏差値至上主義の論理を捨てられるはずもない。

だが、その呪縛を相対化出来るようになったのは、30才の時に就職した山梨学院大学で過ごした13年間だった。「Fランク大学でも行ける公務員」とか、週刊誌にひどい書かれようをしていたが、実際には魅力的でオモロイ学生が多く、勉強の面白さや学びのコツを理解していないだけで、実際にそれを理解すると、進んで面白がって学びを深める学生たちと出会い続けてきた。前任校の学生たちは、良い意味で「権威に対する無批判な従属、想像力の欠如、および狭隘な意味での主体性の感覚を養う従順さ」を鍛えていなかった学生さんが多かったので、ともに批判的思考を学びあいながら、深い議論をし続けることが出来た。僕は山梨学院大学で教員をさせてもらったからこそ、「稼げる大学」などもっともらしく喧伝する大学教育改革の胡散臭さを、肌身を持って理解できるようになった。

そして、今の職場の県立大学に移ると、確かに受験勉強をコツコツ積み重ねてきた、「よい子」が多いことに気づいた。だが、その修練は、「権威に対する無批判な従属、想像力の欠如、および狭隘な意味での主体性の感覚を養う従順さの修練」と結びついているようにも感じる。前任校と現任校では、基本的に同じようなスタンスで講義をし続けているのだが、「批判的思考や批評は、ベルトコンベアの進行と学力テスト結果の生産を妨げるだけの、乱雑で、時間を食う、破壊的な活動」だと認識している学生の数は、今の大学の方が遙かに多いので、僕の授業は最初、ものすごく感情的に反発を受ける。それは、今まで「従順さの修練」に必死になり、それが教員やテストで評価されてきたのに、「あなたはこの社会問題についてどう考えるの?」という問いは、僕は「模範解答」を一切言わないこともあって、全く通用しないのだ。つまり、批判的思考や批評をするクセを付けず、それを封印してきた学生たちが、その視点を獲得するのは簡単ではない、ということである。

そして、それは20代までのぼく自身の姿でもあったのだ。

「ドリームフィールズ校がより優れた質を備えるためには、この変容のプロセスの外部に、問題のある『他者』が存在しなければならない。生徒たちは、ドリームフィールズ校に通うことを誇りに思うかもしれないが、これは、学校の内と外の双方に根強くあるヒエラルキーというより広い問題に対処するものではない。病理はこのゼロサム・ゲームのどこか他の場所へと移動する。そして、ドリームフィールズ校が偉大になるためには、危険視された空間が継続的に存在しなければならない。」(p320)

能力主義やメリトクラシーの最大の問題点が、ここに詰まっている。誰かより秀でている、と比較優位で認めるためには、「問題のある『他者』が存在しなければならない」のである。偏差値が上がった、と喜んでいるが、それは他の誰かが下がることによって成し遂げられるものなのである。そうして、偏差値という一元的な評価尺度で序列化することによって、「危険視された空間が継続的に存在しなければならない」し、「病理」を他者に押しつけておしまい、になってしまう。僕はそのことに、20代まで全く無自覚であり、30代からの大学教員になって、やっと少しずつ、学生から学ばせてもらった。

そう言う意味では、この本は現代イギリスの人種や階級格差と学力格差の問題を主題化した本なのだけれど、日本の教育にも通底するし、日本の「学力工場」的な問題は、イギリスよりずっと以前から根深く起こり続けている問題かも知れない、と感じている。なので、この本は能力主義や日本の教育を問い直す上でも、お勧めです。

最後に、個人的なメモワールを二つ。実は、能力主義に関する古典的名著であるマイケル・ヤングの『メリトクラシー』は、僕が通っていた当時の学部の選択必修の教科書であって、僕はその名前を知っていたけど、その当時は教育学が面倒だと思い込んでいて、読んで来なかった(なんと視野狭窄な学生!)。でも、今回の本も、サンデルの本も、このメリトクラシーの議論が下敷きになっているし、有り難いことに最近再版されたので、そのうち四半世紀放置した宿題として、読んでみようと思っている。

それから、訳者のお一人、濱本信彦さんは、20年程前、学部の「学生控え室」という名前の溜まり場でお目にかかったことのある、後輩である。あの当時は、のんびりとした・朴訥な性格の好青年というイメージだけが記憶に残っているのだが、20年後にこんながっちりとした学術書を、しかも読みやすくてわかりやすく翻訳してくださる立派な研究者になられているとは、思いも寄らなかった。そんな彼が、訳者解説でこんな風に書いている。

「我々の『学力向上』の取り組みの行き着く先を『学力工場』にしたくなければ、『よい教育とはなにか』という問題について、教育に関わる多様な主体が対話に参加し、学校という制度とその民主的価値に関する言説を豊かにしていくことが重要であると言うことが、本書を読み改めて感じられる点である。」(p387)

この濱本さんのまとめについては心から同意するし、濱本さんや、大学院の仲間であり以前ブログでご紹介した「ケアする学校」の著者の柏木さんと、じっくり学校に関する対話をして学ばせてもらいたいなぁ、と思った読後感だった。

ケアとしての人間

こないだ、現象学者の村田久行さんの著作を読んで「魂の傷つき」=スピリチュアルペインについて考察した。その後、精神科医の熊倉陽介さんの連載を読んで、トラウマが魂を傷つけ、「問題行動」をもたらすにもかかわらず、医師の意識の志向性の方向性が「治療」「病態」にのみむいて、生きる苦悩に向き合わないことにより、不適切な支援が生み出されていることを書いた。

そして、村田久行さんの別の著作を読んでみて、読み始めたら引き込まれて、一気に読んでしまった。そして、こんなフレーズに出会った。

「ハイデガーは、その著書『存在と時間』で人間存在を「気遣い(Care)」として規定している。
『現存在の存在は気遣いとして露呈する。』
人間存在を『現存在』としてとらえるハイデガーの『存在と時間』での膨大で強力な存在論的探求の議論についてはここでは扱わない。われわれはただ、人間存在の存在が『ケア(Care)』として現れるというハイデガーの指摘に注目したいのである。
“care”という語には、『気にかかること』『心配』『不安』という意味(気がかり)と『気にかけること』『注意』『配慮』『世話』『保護』という意味(気遣い)がある。ケア(care)は『気遣い』であると同時に『気がかり』でもある。」(村田久行『改訂増補 ケアの思想と対人援助』川島書店、p61)

「気がかり」と「気遣い」から構成される「ケア(care)」として、「人間存在の存在」が現れる。言われてみたらその通り、だけど、その言葉の意味深さを今、ようやく理解出来るのは、子育てをしているからかもしれない。子どもと共にいて思うのは、常に「気がかり」と「気遣い」の連続である、ということだ。親のぼくは「子どもとうまく関われているだろうか」という「気がかり」が常にあり、そのなかで、子どもの具体的な要望や危なっかしい行動に「気遣い」をし続けている。生まれたばかりの頃は「気がかり」も「気遣い」も最大限必要で、親二人はパンクしそうになっていたが、4才くらいになると、その量は以前に比べて少しずつ減ってきたようにも思う。

村田さんは、こう続ける。

「そもそも人間存在が、気がかり、憂慮であり、ケア(Care)なのだというのはどういうことなのだろうか。それは人が有限な存在としての本来的な自己存在のあり方を避けて、『空談と好奇心と曖昧性によって導かれて』この世界に親しみ、没入し、頽落しているとき、その非本来的なあり方に露呈する人間存在の根本的な現れなのである。元気で健康で活動的なとき、人は自己の人間存在を日常性に没入させ、その有限な存在であるという本来性を忘却してしまっている。そのようなとき人は、よほど鋭い感受性を持たないかぎり、その胸に憂慮の影を覚えることはない。しかしひとたび、老い・病い・死に直面し、輝く日常性から逸脱した状態に陥ったとき、それを避け、それに直面することを拒む人間の非本来的な存在様式は、その胸をかえって不安と憂慮に満たすのである。」(p63)

有限=命に限りのある存在としての人間は、「気がかり」や「憂慮」に支配されやすい。だが、それでは身が持たない。だからこそ、普段は「空談」(=おしゃべり)や自分の外側に目を向ける「好奇心」、そして命に限りがあるという自覚を先送りにする「曖昧性」を持つことで、「この世界に親しみ、没入し、頽落」していくことができる。それが、日常性への没入である。でも、「生・老・病・死」に直面した際には、おしゃべりや好奇心、先送りなんて言っていられないような「輝く日常性から逸脱した状態に陥」いるし、その時に心をもたげるのは「不安と憂慮」なのである。これも、子どもが生まれた頃は、本当にそうだった。そもそもGCUで経過観察をしていた頃から始まり、家に帰ってきても一日中泣いていたし、他者の命を支えながら仕事との両立なんて果たして出来るのか、など「不安と憂慮」だらけだった。

「AがBに≪援助≫を前もって想定し与えるのではなく、AとBが出会い、共に患者・クライエントの気懸かり(care)や不安を共有するからこそ、そこにそのA、Bに固有の≪援助≫が創出されるのである。そしてそのような出会いと人間的交流の結果、援助者と被援助者の関係が形成され、しかもその受け持つ役割も、かならずしも固定的・一方向的なものにならないのである。こうして他者を援助することにより、自らもケアされるのだという人間存在の真実にしたがい、援助者も被援助者も共に互いに人間的な援助を享受することを経験するのである。」(p89)

僕は娘に対して「援助者」として現れたのではない。娘が生まれてきてくれたことで僕は娘と出会い、娘や彼女をケアする妻のことが「気懸かり」で「気遣い」が必要不可欠だったからこそ、「出会いと人間的交流」のなかで、ある種の「援助関係」を作り始めた。でも、子育ての経験で感じているのは、己の無力さや卑小さ、至らなさであり、自分の不安や憂慮が最大化するときに、他者に気遣われることのありがたさだった。そういう意味では、ぼく自身も「援助者も被援助者も共に互いに人間的な援助を享受することを経験」してきたのだと思う。

そして、前回や前々回のエントリーに引きつけてみる。トラウマ的体験によって生きる苦悩が最大化した人の「魂の傷つき」とどう向き合うのか。それは、「AとBが出会い、共に患者・クライエントの気懸かり(care)や不安を共有するからこそ、そこにそのA、Bに固有の≪援助≫が創出される」というプロセスを立ち上げる事が出来るか、という問いにもつながる。

この「出会い、共に」に関して、村田さんは次のように書いている。

「われわれ近代人に特有の他者認識の困難をケア概念によってのりこえる。認識を主観と客観に分割し、すべての他者を対象化して共感と理解を分断する近代の認識様式をのりこえるには、ケア(Care)である自己と他者の存在を深く認めなければならない。像を映し出す鏡のように、空虚な大瓶のように、対人援助に臨むものは受動性と有限性を自覚していなければならない。この『共存在』は対人援助の技法であるとともに、技法以前の援助者の基本的態度として、次のことを含んでいる。
・患者・クライエントを見放さない。
・患者・クライエントの苦しみとケア(気懸かり)を受容し共有する。
・他者との関係において、関係存在としての自己の発見を心がける。
・ともに有限なる者として互いの存在を尊び、可能な援助を探求する。」(p82)

娘から僕が4年かけて学びつつあるのは、「気懸かり」と「気遣い」にもとづく「ケア」の領域で求められるのは、新自由主義的合理性とは真逆の思考回路である、ということである。他人(娘)のことはさておいて、業績をバンバン出す、とか、メールを素早く返信するとか、依頼された仕事に笑顔で答え続ける、とか、そんなことはとても出来ない。むしろ、「いまメールの返事をしなくちゃいけないんだけどなぁ」と思いつつも、娘が「おしっこ行きたい」「おなかすいた」「しんどい」「眠たい」「遊んで」と関わりを求めてきた時に、僕の意識の志向性の方向性を、仕事モードから娘にちゃんと切り替えられるか、が問われている。それは、能力主義的価値前提を脇に置き、「像を映し出す鏡のように、空虚な大瓶のように、対人援助に臨むものは受動性と有限性を自覚していなければならない」のである。

ここで大切なのは、「他者との関係において、関係存在としての自己の発見を心がける」という点だと思う。新自由主義的価値前提や能力主義に陥っていると、自己責任の罠に陥り、「頑張らないのは自分が悪い」という自責的回路に陥る。だからこそ、強迫的に頑張らねばと我慢をして、歯を食いしばる一方、頑張れていない他者や自分に邪魔する(と思えてしまう)存在を邪険に扱う。だが、「気懸かり」と「気遣い」にもとづく「ケア」をしていて感じるのは、「娘との関係において、関係存在としてのぼく自身の自己が発見されていく」ということである。

娘に一方的に時間や生産性や効率性を奪われているのではない!!!

そうではなくて、娘との関わりの中で、生産性や効率性に引きずられてしまい、ぼく自身が忘れ去っていた「関わりの喜び」のようなものを、娘は思い出させてくれるのである。論文を何本書いても、単著が三冊出ても、「もっと頑張らなければ」「まだまだだ」「他の活躍している人に比べて・・・」と、不安や憂慮はずっと自分を支配し、それが己のガンバリズムをドライブする、という、ある種の依存症状態に陥っていた。でも、娘や妻との関係存在としての自己を(再)発見することによって、自分自身の「魂の傷つき」から快復しつつあることに、改めて気づかされる。それは、家族の中での「苦しみとケア(気懸かり)を受容し共有する」プロセスを深めていったからこそ、やっと僕が気づき始めたことなのかも、しれない。

そう、ぼくはやっと自分自身が「ケアとしての人間」であることを、直視しようとし始めているのかも、しれない。

その視点に立つと、改めて今の医療や福祉や教育の現場のありようが、気になるのだ。援助や教育をする側の人間が、「ケアとしての人間」という自覚があるのか。まず、自分自身の「気懸かり」や「気遣い」と丁寧に向き合えているか。仕事に忙殺されて、自分自身が「ケア出来ていない」状態ではないか。そして、向き合う相手を「見放さない」「苦しみとケア(気懸かり)を受容し共有する」ということを、「意識の志向性の方向性」の重要なポイントに出来ているのか。そして、相手「との関係において、関係存在としての自己の発見を心がける」ことを仕事の重要なミッションだと思えているか。

こう書くと、「いやいや、わたしはプロとして対象者を援助するのが仕事なので、そこに私情を挟むというか、わたしの苦しみとかを巻き込んだら、仕事にならないのでは?」という問いも聞こえてきそうだ。でも、それこそ「認識を主観と客観に分割し、すべての他者を対象化して共感と理解を分断する近代の認識様式」の限界そのものなのである。あなたの苦しみはあなたの主観的なものであって、わたしの客観的な見立てとは切り分けられた(関係のない・薄い)ものである、という主客二分論的な視点の中で、身体的な治療の一部は可能かも知れない。社会的な支援もある程度は可能かも知れない。精神的な問題にも部分的には対処出来るかも知れない。でも、それでは対応出来ない「魂の傷つき」(スピリチュアル・ペイン)があって、それは援助現場で「困難事例」という形で析出してはいないか。あるいは、「魂の傷つき」を抱えていても、援助者に言ったところでなんともならない、と諦めたり抱え込んだり、絶望的になっている人はいないか。

その時に、「ともに有限なる者として互いの存在を尊び、可能な援助を探求する」という原点が、死活的に重要になると思う。あなたにも「不安や憂い」があるように、わたしだって不安や憂いがあるし、もしかしたら「魂の傷つき」も抱えているかもしれない、有限な存在である。でも、いま・ここ、という場において、あなたとわたしは出会い、共にあなたの気懸かり(care)や不安を共有することができた。そこから、何が出来るかわからないけど、共に考えていきましょう。それこそが、対象を区別する主客二元論的な(about-nessの)発想を乗り越えた、「共存在」(=with-ness)としての支援なのかも知れない。

脱施設化や地域生活支援、権利擁護などの諸課題を語るときに、これまでの僕はシステムの構造的欠陥(政府の無策、支援組織の虐待的対応など)をずっと批判的に言及してきた。だが、その批判だけでは、何も変わらない。その時に、当事者だけでなく、家族も支援者も支援機関も、それぞれが「魂の傷つき」を抱えて、内ゲバ的に自らの正統性を巡るヘゲモニー争いをしてきたのではないか、という仮説を抱く。そして、そのような「内ゲバ」を越えて、「ともに有限なる者として互いの存在を尊び、可能な援助を探求する」という原点に立ち返って、援助関係を再構築して、対話的なチームを作ることが出来れば、結果的に脱施設化も進むのではないか、とも思い始めている。

「魂の傷つき」と向き合う「ケアとしての人間」論は、対人援助の基本でもある。だが、それはミクロな1:1の関係に閉じない。いや、援助する組織、援助を必要とする社会、それらを支える法制度の意識の志向性の方向性が、「魂の傷つき」と向き合う「ケアとしての人間」にむいているかどうか、が問われているような気もしている。

トラウマと権威勾配

精神科医の熊倉陽介さんが雑誌『精神看護』に連載されていた「連載 トラウマインフォームドな精神保健医療福祉のパラダイムシフト」を読み終える。ホームレス支援に取り組み、ハウジングファーストの思想や実践を日本に広めようとする、俊英の若手である。文章もめちゃくちゃ面白くて、示唆深かった。

彼はダイアローグの前提として「権威勾配」を自覚化せよ、と指摘する。それは医師と患者さんの間にある、非対等な関係のことを指す。

「強制入院という文脈がある中で共同意思決定を医師が語っていることなんかが時々あると思うんですけど。それってそもそも対等な関係性を語る前提が成り立っていないと思うんですよね。歴然と公権力の代理人として強制入院させて自由を奪っているわけなんで。存在している権威勾配を、あたかもないかのように対話が持ち出されることには、注意しないといけないですよね」(連載5「話し合おう」)

すごく、頷く。そして、これを精神科医が語ることの重要性を感じる。僕は6年ほどまえ、東大で開かれたオープンダイアローグのセミナーで、「オープンダイアローグは、精神科病院をベースにしたシステムでは出来ないだろう」と発言し、業界の人から総スカンを食らった記憶がある(そのことはブログにも書いた)。だが、この時書いた以下の視点は、全く撤回する必要は無いと思っている。

「病棟であろうがなかろうが、対等な人間関係を指向し専門家主導から当事者主体へと生まれ変わるための専門職の覚悟と、不確実な「対話」に柔軟に対応するために十分な人手を確保しトレーニングを積むことが出来る組織改革とが、日本の現場でオープンダイアローグを実践する上で問われている」(竹端寛「日本の現場でオープンダイアローグを実施するための条件」)

熊倉さんの原稿を読んでいて頷いたのは、「歴然と公権力の代理人として強制入院させて自由を奪っている」ということをはっきり宣言した上で、「そもそも対等な関係性を語る前提が成り立っていない」のだから、「存在している権威勾配を、あたかもないかのように対話が持ち出されることには、注意しないといけない」と書いている点である。自らがどのような権力構造・権力関係の中に位置付いているのか、取り込まれているのか、に自覚的になり、そこにどのような「権威勾配」があるのか、を読み解いた上で、できる限り対話を成立させるために、「対話しない権利」も利用者が持つべきだ、と指摘している。これは、言われてみればその通り、の指摘である。

その上で、権威勾配が最もハラスメント的に立ち現れる場面の一つとして、生活保護の申請場面でのトラウマの発生を、以下のように読み解く。

「単純なことばとことばが組み合わさって、より複雑なことばを作る。言葉って進化していくんですね。言葉は単にコミュニケーションのためだけではなくて、思考するために進化しています。複雑なことばを操ることで、思考することを可能にしていきますよね。それと同時に、ことばを操る能力が、権力と結びついてもいます。試験をしてことばをうまく操れる人が選別されて、公権力の代理人として官僚制を担っていくわけですので。端的に言えば、文章を管理する公務員には権力があるということです。生活保護の申請場面でトラウマが起こりやすいのは、申請する人とその対応をする公務員との間に権威勾配があるからという要素があります。診断書を書く医師ももちろんそうだし、強制入院の判断をする精神保健指定医は特にそうですね。ことばや文章を操る能力と権力が、密接に結びつているんです。ことばが権力と結びついて、格差を維持したり拡大させる装置となり得ることに、自覚的でいる必要があるんですね」(連載5「話し合おう」)

めちゃくちゃ、鋭い!

支援が必要な状態にある人が、行政窓口や診察室を訪れる。この時、本人の混乱や困惑、不安や苦しみはマックスな状態である。だが、行政の窓口担当者や医師は、聞いた内容をカルテやケース記録などの書類に落としこむ必要がある。昨日のブログで書いた「意識の志向性の方向性」に引きつけるなら、「アセスメントしてカテゴリーに分別したり適否を判断する」ことに意識の志向性の方向性が向いていると、その認定基準やDSMなどの「より複雑なことば」の体系の中で、相手の話の当てはまりそうなところを掴もうとする。それは、コミュニケーションのため、というより、アセスメントの思考を展開するための言語運用である。一方、目の前の困惑している人は、何をどう話せば良いのかわからないくらい切羽詰まった状態だ、という切迫感に意識の志向性の方向性が向いている。すると、両者の意識の志向性の方向性は完全にズレる。かつ、冷静なルーティンワークとして記入し慣れている公務員なり医師に、明確に権威勾配がかかっている。それが、「ことばが権力と結びついて、格差を維持したり拡大させる装置となり得ること」なのである。これでは、確かに対話は成立しない。

では、どうすればよいのか。熊倉さんは、「とりあえず自分の小さな話から始めてゆっくり降りていって、そろそろと、見たくないものを見ていく」戦略を、治療実践でも、あるいはこの連載でも、展開している。(ずっと「締め切りトラウマ」を連載の毎回の前半に書き続けて、若干くどいと思ったのだが、そういう背景があったのですね(^_^))

「初診では、トラウマティックなエピソードがグルグルと繰り返されつつも、本丸的な話題には一切触れない人もいれば、語ると夜中に具合が悪くなることを自分でわかっていいて、努めて客観的に淡々とライフストーリーを語る人もいます。まずは身体疾患の治療方針から考えつつ、足の爪を切ることなど、なるべく物理的なことから診察を始めるようにしています。解離させて存在を無視してきた身体の末端を、少しずつ取り戻していくべく、足の爪を何度かに分けて切り、足浴をして温め、水虫の軟膏を塗りながら、きれいな爪が生えてくるのを待ちます。靴を履いて、地に足をつけて『立つ』こと、そして、『歩く』ことの回復することが、どこかに出かけて行って好きなことをしたり、誰かと出会うことの権利を保障することになります。
身体のケアから始めて、背景に鳴り響いていたシャーク・ミュージックが少し遠のいて小さくなったように感じられたら、言語的にトラウマ記憶を扱う準備ができたかもしれません。」(連載4「足の爪を切ろう」)

ホームレス支援の現場で出会う、足がどろどろで、靴もあるかないかの状態で、爪も伸び放題だったり巻き爪だったりして、皮膚もガサガサ、水虫が出来ている・・・。そういう状態の人を、「不潔で清潔概念に乏しい人」とみるか、「解離させて存在を無視してきた身体の末端」の保持者とみるか、で意識の志向性の方向性は全く異なる。前者であれば、だらしない・ややこしい・「問題行動」のある・面倒くさい・・・そういう存在だと、個人の性格の問題に矮小化してしまう。でも、その足に、「解離させて存在を無視してきた身体の末端」とラベルを貼り替えることによって、本人は辛いことやしんどいこと、トラウマ的体験を、解離や無視によってやり過ごしてきたのだな、と捉え直す事が出来る。すると、ご本人には様々なトラウマ的体験が重なってきたのかもしれない、という予測を立てる事が出来る。

事実、熊倉さんが勤めることぶき町簡易宿泊所(ドヤ)街にある診療所では、多くの人が「母親と末っ子の自分だけで父親に毎日殴られていた」「ガラス戸に投げつけられて血だらけだった」「熱いストーブの上に裸足で立たされた」「酔った母親にレイプされた」などのトラウマ体験を語る、という。そして、このような、だらしない・ややこしい・「問題行動」のある・面倒くさい・・・と片付けられてきた人々の背景にあるトラウマの物語をじっくり聴くためにも、しかも診察室という権威勾配が強く働いている場面で、医師としてその語りを聞こうとするからこそ、彼は対話する前に、爪を切るのである。そして、身体の不調を整え、身体の解離を再統合するように治癒や心身の余裕を取り戻すキュアのプロセスを経た上で、トラウマの物語をこの人になら語ってもいいな、という信頼関係を構築していくのであろう。

「トラウマインフォームドな支援組織や文化をつくるためには、トラウマの影響を受けている人と共に居ることができる場を作る事から始める必要があります。対人支援の場を、誰一人排除しないように構築し、持ちこたえることでしか、真にトラウマインフォームドな支援を行うことは出来ません。逆説的に言えば、自分たちの支援は誰を排除することで成り立っているか、と、常に問う必要があります。」(その3「ただ『居る』ことを保障しよう」)

この連載を読んでいて感じたのは、トラウマインフォームドとは、トラウマがあるという前提で物事を見ていく・捉え直す視点かもしれない、ということである。だらしない・ややこしい・「問題行動」のある・面倒くさい・・・と片付けられてきた人々は、「トラウマがあるという前提」で捉え直すと、様々な解離や退避行動を取らざるを得なかったことが、見えてくる。それを、ルールに従わない・他人に迷惑をかける・場を乱す・・・人、と排除していては、何の解決にもならない。「自分たちの支援は誰を排除することで成り立っているか」という問いは、それほど強い問いとして、僕自身に突き刺さる。

実は、僕の前任校時代のゼミ運営においても、「結果的な排除」はあった、とこの原稿を読みながら、思い返す。

前任校のゼミでは、魂の脱植民地化を主題として、自分自身の生きる苦悩や挫折、抑圧をオートエスノグラフィー的に問い直す内容の卒論を書くゼミ生が増えてきた。その中で、カレッジアスリートとしての挫折体験や、「空気を読む良い子」の苦悩を言語化してくれるゼミ生など、彼女ら彼らの卒論から沢山のことを学ばせて頂いた。だが、ある時期から毎年一人は、途中でドロップアウトする、というか、「ゼミから遁走する」学生が出始めたのだ。全くゼミや僕の前から存在を消す学生、ゼミには来るけど卒論草稿を「白紙」で出す学生、何を聞かれても殆ど何も答えられずに緘黙状態の学生・・・など、色々な形での「遁走」があった。

当時の僕は正直そのような学生に対して、「問題学生」というラベルを貼っていなかったか、といえば嘘になる。でも、熊倉さんの連載を読んで、やっと思い至ったのだ。彼らにトラウマがあるという前提で向き合う事が出来たら、少なくともトラウマの知識がその当時からあったなら、もう少し違う接し方、アプローチが出来たのではないか、と。僕の前から遁走する「困難事例」なのではない。他のゼミ生が自らの魂の植民地化と向き合う時に、自分にはそれが強烈にしんどくて、でもそのしんどさを言語化することも出来ずに、僕から遁走や解離することでしか、彼らは対処できなかったのではないか、と。

すると、大学のゼミでもそうなのだから、トラウマを前提とした、トラウマインフォームドなアプローチは、結構あちこちで普遍的に必要とされていることなのだ、と改めて感じる。つまり、「ややこし人」「他人に迷惑をかける人」とラベルを貼られている人と出会うときに、トラウマの可能性も視野にいれながら、でもそれを最初から前景化させることなく、本人が落ち着く・信頼関係を持てるような関わりをどうできるか、が支援や教育の現場では求められているような、気もする。

ハウジングファーストの思想の原点に「non judgement」があるとも連載ではくり返し書かれていたが、「ややこし人」「他人に迷惑をかける人」というjudgementを手放して出会い続ける事が出来るか。それは、僕自身に問われた課題でもある。

「魂の傷つき」と向き合うために

こないだのオンライン研修で、鹿児島大学の的場康徳先生とご一緒させて頂いた。なぜ消化器外科の先生と相談支援の研修でご一緒するのだろう???と疑問に思っていたのだが、先生の話を聞いて、深く納得。緩和ケアという、身体疾患の治療ではどうしようもない場面において、どのように患者の生きる苦悩と向き合うのか、というお話だった。それは、「病気から生きる苦悩へのパラダイムシフト」という論考を書いたこともあるので、めちゃくちゃよくわかる。そして、的場先生が依拠しておられる、現象学者の村田久行先生の本に目を通して、目からうろこ、体験をたくさんしている。今日はそのことを、言語化してみたい。

「援助とは苦しみを和らげ、軽くし、なくすることである。なぜ医療者の意識の志向性はせん妄患者の≪苦しみ≫にではなく、≪身体≫≪治療≫≪病態≫に向けられるのであろうか> その理由は、≪身体≫≪治療≫≪病態≫であれば見た目で捉えやすく、対処できるが、せん妄患者の≪苦しみ≫は捉えにくいからである。」(『シリーズ 現象学看護1 せん妄』村田久行・長久栄子編、日本評論社、p17)

これは、せん妄に限った話ではない。せん妄という言葉を抜いて、医師と治療場面で向き合う全ての患者でも、同じ事が言える。医師は治療(cure)をするのが仕事である。すると医師の意識の志向性は、≪身体≫≪治療≫≪病態≫に向けられる。そうすべきであるとトレーニングを受けてきている。だから、「患者の≪苦しみ≫は捉えにくい」。これは僕自身もわずかな患者経験をしていて感じることである。確かに治療をしてほしくて、医者の前に行く。でも、身体や病態として表出されているつらさの背後にある、ぼく自身の生きる苦悩にも目を向けてほしい。でも、これまで出会った医者の中で、僕の<苦しみ>もじっくり聞いてくれたのは、山梨時代にお世話になった漢方医の中田先生だけだった。

なぜそうなのか。現象学者は「意識の志向性の方向性」について語る。

「意識は同時に2つの物・事を意識できない。あるものに意識が向けられ、それが意識に顕在化すると、それ以外のものは背景に沈み、非顕在化する。この意識の対象の顕在化と被顕在化の相互移行は『ルビンの杯』の顔と杯、〔図と地〕の関係にもたとえられる。」(p35)

なるほど、そりゃそうだ。一つの見立てをする、ということは、そっちに意識が向けられ、他の視点は「背景に沈み、非顕在化する」のである。身体症状や病態に意識の志向性が向き、その治療方針をどう組み立てるか、を必死になって考えているときに、患者の苦しみの話は、診察室で聞いていても「非顕在化」して頭に入ってこない。患者は、身体疾患だけでなく、それを患うことによる生きる苦悩をも語ってるのに、そのうちの≪身体≫≪治療≫≪病態≫しか聞かれないと、「わかってもらえていない」と、医師に対して不信感を持つ。一方、先述の中田先生は、治療にじっくり時間をとって、患者の苦しみの話を聞こうと意識の志向性を向けていた。その苦しみが、≪身体≫≪治療≫≪病態≫にどう作用しているか、に意識を向けようとしていたのだと思う。それだけで、患者の医師への信頼度は随分異なる。

そして、患者の苦しみに目を向けるときに大切なのは、スピリチュアルペインだと、引用した同書では書かれている。

「スピリチュアルペインは、『自己の存在と意味の消滅から感じる苦痛』と定義され、それはたとえば、生の無意味、無価値、無目的、孤独、疎外、虚無と言った苦しみのことをいう。これはかならずしも終末期がん患者に限るものではない」(p31)

この定義を読んで、改めて「そうだったのか」と深く頷く。今まで字面しか知らなかったので、スピリチュアルペインとは、死ぬ間際の際に、人生の喪失に直面して、宗教的な助けを求める、そういう苦しさのことであって、いま・ここ、の自分には関係のないことだと思い込んでいた。でも、「生の無意味、無価値、無目的、孤独、疎外、虚無と言った苦しみ」と言われると、「終末期がん患者に限るものではない」。いじめ等のハラスメント、ひきこもり、親しい人との不和・別れ、失業や生活苦、「ゴミ屋敷」状態・・・など、様々なトラウマ的体験にもとづく絶望的状態って、それによって「生の無意味、無価値、無目的、孤独、疎外、虚無と言った苦しみ」に襲われ、その「対処行動」としての「薬物依存」だったり「自殺衝動」だったりするのである。それは、「精神症状」と言われるものにも、広く通底するような気もする。

ただ、以前の僕は、精神的苦痛とスピリチュアルペインの違いがよくわからなかった。苦痛には、身体的苦痛、社会的苦痛、精神的苦痛とスピリチュアルな苦痛の四つがある、と言われている。ただ、最後の苦痛を「霊的苦痛」と訳してしまうと、全く意味がわからなくなってしまう。身体的苦痛は病気そのものの痛みや、治療に伴う痛みであり、社会的な苦痛とは家族関係の悪化や仕事の喪失、貧困などの社会状態の悪化による痛みをいう。そして、精神的な苦痛とは「恐れ、怒り、不安、孤独感、抑うつ、せん妄」などをいう。これと、「生の無意味、無価値、無目的、孤独、疎外、虚無と言った苦しみ」を比較すると、精神的な苦痛は、スピリチュアルな痛みが表面化し、他の人にも把握しやすくなり、治療の対象になりやすくなったもの、とも言えるかも知れない。そして、スピリチュアルな痛みは、身体的・社会的・精神的苦痛の背後にある、その人の生きる苦悩の最大化したもの、と捉えると、これまでの僕の把握はがらりと変わってきた。

身体の痛み、社会的な痛み、心の痛み・・・それらが重なるなかで、魂が傷ついているのである! それが魂の(スピリチュアルな)痛みなのである。ならば、これまでぼくもずっと考え続けてきた、魂の植民地化は、まさに魂の痛みをもたらす構造的暴力であり、魂の脱植民地化とは、そのスピリチュアルペインからどう脱することが出来るか、の思考回路を開くプロセスなのかもしれない。

そして、村田先生はスピリチュアルペインには三つの側面(三次元)がある、という。時間制、関係性、自律性の三側面である。それをこんな風に整理しておられる。(p37-38)

①時間性のスピリチュアルペイン—将来の喪失から生じる生の無意味
②関係性のスピリチュアルペイン—他者との関係の喪失から生じる空虚や孤独
③自律性のスピリチュアルペイン—不能と依存から生じる生の無価値、無意味

①は「もう先がない」「終わりだ」と感じる、将来の喪失への絶望感だが、これは末期がん状態だけではない。失業や失恋、大学受験の失敗など、それまで専心していたもの・入れ込んでいたものを失った時、そうなる可能性は充分にある。②については、「言いようのない孤独」や「さびしさ」という表現が同書ではなされていたが、僕も20歳前後の時、この「言いようのない孤独」と「寂しさ」にさいなまれていた。③の「何の役にも立たない」「もう自分では何も出来ない」というのは、子育てをはじめた時、仕事とほんとど両立不能状態になった時に、そうやって自分を責め続けていた。

つまり、時間性・関係性・自律性の三次元での「魂の傷つき」は、僕にだってたくさんの記憶がある。「生の無意味、無価値、無目的、孤独、疎外、虚無と言った苦しみ」は、僕にとって他人事ではない。ただ、有り難いことに、何とかそれを乗り越える、というか、周りにサポートされながら、傷つきから快復することが出来たから、いま・ここ、の自分があるのだ、と改めて感じる。

では、この「魂の傷つき」からの快復に、他者がどう関われるのだろうか? 同書では以下のように説く。

「スピリチュアルケアとは、スピリチュアルペインをケアすることである。このことを現象学看護は『自己の存在と意味の消失から生じる苦痛(スピリチュアルペイン)』を『関係性にもとづき、関係の力で和らげ、軽くし、なくすること<ケア>』と理解している。(略) スピリチュアルケアの独自性は、<傾聴>と<共にいる>という<基盤となるケア>を土台にして患者のスピリチュアルペインをケアするものでなければならない。」(p47-48)
「患者は困難に遭遇し、現在の対処方法が無効なとき、自分自身の不完全さや無力を自覚する。しかし、その無力の自覚が患者を内的自己の探求に向かわせ、日常の自己から内的自己への超越が試みられる。患者はこれまでの生き方や価値観を見直し、病気や死に翻弄されない自己を探求するのである。日常の自己が他者・超越者・自然との関係のなかで新たな自己を見いだすとき、この価値観の再構築がスピリチュアルな覚醒であり、成長である。その結果、患者は新たな統合をなしとげ、病気に意味と目的を見いだして、新たな強さ、安心、愛、希望を獲得する」(p48)

この記述を読みながら、僕はアルコホリックアノニマス(AA)や当事者研究、ピアカウンセリングなど、障害当事者が主体となった、治療とは違う、オルタナティブな関わり方(ケア)のことを強く思い起こしていた。CILはピアカウンセリングを次のように定義している。

「ピアカウンセリングは1970年代初め、アメリカで始まった自立生活運動の中でスタートしました。自立生活運動は、障害を持つ当事者自身が自己決定権や自己選択権を育てあい、支えあって、隔離されることなく、平等に社会参加していくことを目指しています。ピア・カウンセリングとは、自立生活運動における仲間(ピア)への基本姿勢のようなものです。」(ピアカウンセリングとは

障害者は健常者に比べて劣る存在だと認識され、差別され、教育や社会参加の機会から疎外されていた時代に、「ありのままのあなたでいい」と障害当事者が捉え直すことを、一人ですることは簡単ではない。多くの仲間と話し合い、関係性を豊かにするなかで、障害にまつわる世間的価値観に「翻弄されない自己を探求するのである」。それは、こないだ読み終えたジュディス・ヒューマンの感動的な伝記からも、ヒシヒシと感じる。

人が「困難に遭遇し、現在の対処方法が無効なとき、自分自身の不完全さや無力を自覚する。しかし、その無力の自覚が患者を内的自己の探求に向かわせ、日常の自己から内的自己への超越が試みられる」。これを一人でやるのは、気が狂いそうになる。現に、東日本大震災の直後、ぼく自身も「自分自身の不完全さや無力」に強く襲われ、本当に気が狂う一歩手前までいった。

その時、僕が救われたのは、先述の中田医師であり、魂の脱植民地化概念との出会いであった。当時は、不妊治療が八方塞がりで先の見えなさも重なっていたので、漢方治療にすがってみようか、と出かけたのだが、ゆっくり話を聞いてくれる中田医師の前で、話し出したら溢れるようにしんどさや苦しさといった、「魂の傷つき」が出てきた。その後も1年くらい、毎回受診するたびに、そういうしんどさを話し続けたのだと思う。そのなかで、暴飲暴食や仕事のし過ぎ、といった「これまでの生き方や価値観を見直し」はじめたのだった。

それから、魂の脱植民地化概念との出会いも衝撃だった。これは311の一年前、今日との学会で深尾葉子先生と出会ったことに遡る。当時、こんなことを書き連ねていた。

「自分が納得して、その通りだよな、と思いこんでいて、かつ「自分らしさ」と思いこんでいる、自分の中での支配的な言説なり視点なりの少なからぬ部分が、ストックフレーズや手垢にまみれた思想の焼き直し・刷り込みに過ぎないのではないか、ということである。しかも、それを主体的に選び取った、と思いこんでいるけど、どこかで「選び取らざるを得ない」場面に構造的に追い込まれていませんか、とも、この「植民地化」から読み取れる。」(食毒から、魂の脱植民地化へ

ぼく自身が必死になって構築してきた「これまでの生き方や価値観」そのものの中に、「魂の植民地化」があったのではないか。それが、自らの魂を蝕み、苦しめているのではないか。そう気づき始めた1年後に311が発生し、文字通り自分自身が瀬戸際に追い詰められたところから、書いて考えて表現する作業をはじめ、それが初の単著『枠組み外しの旅』につながった。あの本を書くプロセスは、ぼく自身にとって、「日常の自己が他者・超越者・自然との関係のなかで新たな自己を見いだすとき、この価値観の再構築がスピリチュアルな覚醒であり、成長である」という軌跡そのものであった。

だからこそ、表題に戻るなら「魂の傷つきと向き合う」ことが、コロナ危機においても、ものすごく大切なのだと感じている。

このコロナ危機において、僕も含め多くの人が、「困難に遭遇し、現在の対処方法が無効なとき、自分自身の不完全さや無力を自覚する」のである。その際、「魂は傷ついている」のである。だが、これまでの治療やCureの場面においては、身体的・社会的・精神的な痛みや傷つきしか、着目されてこなかった。だが、明らかに今も多くの人が「魂の傷つき」に苦しんでいるのである。意識の志向性を、身体や社会、精神的な傷つきだけに留めず、その背後にある、生きる苦悩が最大化した姿としての「魂の傷つき」にも向けることができるのか。この視点の切り替えは、一人一人の人生にとっても、大きな価値転換になりうるのではないか、と思っている。

「日常の自己が他者・超越者・自然との関係のなかで新たな自己を見いだすとき、この価値観の再構築がスピリチュアルな覚醒であり、成長である」

これを、一人一人の「いま・ここ」にどう置き換え、自分自身の「魂の傷つき」と向き合う契機にするのか。これは、実に探求しがいのある課題だと感じている。

不幸な二項対立に陥らないために

今更ながら、児玉真美さんの『殺す親 殺させられる親』(生活書院)を読み終える。読ませる本なのだけれど、ウッと胸に迫るものがある。

「医療職に『正しい医学的知識を与えてやれば親は正しい選択をするはずだ』という思い込みがあるように、障害者運動は『自立生活の実例があると知らせてやれば、親はその正しい道を目指すはずだ』という思い込みがあるように思えてならない。その思い込みが裏切られると『頑なだ』『無知だ』と医療職が親を上から目線で決めつけてきたように、障害者運動もまた『正しさ』による判定のまなざしで『できない』親を断罪し、それによって親の側の事情を語ろうとする声を封じてきたのではなかったか。『できない』背景にある親の知見や思いは、誰にとっても簡単には語ることができない複雑なものばかりだ。まずは否定も批判もせずに聞いてみようとする姿勢と出会うことがなければ、それらの『なぜ』はこれからも語られないままだろう。」(p305)

児玉さんは、重症心身障害という、知的障害と身体障害を重複して、自ら意志表示がしにくい状態である娘の海さんの母である。障害のある子どもの親となることで、子どものケアのために大学の英語教員の職を辞めざるをなくなり、以後は子どもの療育をサポートしながら、海外における尊厳死や意志決定支援を巡る恣意性や医学モデルの歪みに関する議論を追いかけ、それを『アシュリー事件』のような形で著作にしたり、障害学を学んだ生命倫理学者の著作を翻訳をされるなど、文筆家としても活躍しておられる。そのプロセスの中で、障害の社会モデルや障害者運動にも出会い、親という立ち位置の持つ支配の可能性にも、自覚的に感じておられた。

そんな児玉さんにとって、相模原での障害者殺傷事件の後、入所施設のあり方を糾弾する障害者団体の主張の仕方に、「もうものを言えなくなった」という。彼女の娘の海さんも療育園という入所施設に入っていて、そこでの医療職のアプローチに対して、社会モデル的な観点から色々伝え続け、時には施設職員からモンスター的に思われても、海さんに最適な支援を目指してこられた児玉さんにとって、上記の言い様は、障害者運動が否定してきた、障害の医学モデルの独善性と共通していた、という指摘である。

これは、すごく辛い構図である。

障害者団体は、治療という名の下で障害者を管理・支配し、当事者の声を聴こうとしなかった医学モデルに強烈な異議申し立てをした。そのプロセスの中で、医師の言うことに従順に従い、「本人のために」と子どもを入所施設に入れた親の行いを批判した。だが、そのプロセスにおいて、親は医者だけでなく、障害者団体からも批判され、糾弾されている、と、児玉さんは異議申し立てしている。「『できない』背景にある親の知見や思いは、誰にとっても簡単には語ることができない複雑なものばかりだ。まずは否定も批判もせずに聞いてみようとする姿勢と出会うことがなければ、それらの『なぜ』はこれからも語られないままだろう」と。

それを、別のページでは、端的に次のように語る。

「障害を社会モデルで捉えるように、親の様々な思いや行動もまた、社会モデルで捉えてもらうことはできないでしょうか。『親は一番の敵だ』で親をなじって終わるのではなく、『親が一番の敵にならざるを得ない社会』に共に目を向けてもらうことはできないでしょうか。」(p264)

僕はこれを魂からの叫びであり、悲痛な懇請だと受け取った。

現象的には、子どもを入所施設や精神病院に入れるのは、親や家族である。すると、不本意にそこに入れられた側にとっては、『親(や家族)は一番の敵だ』となりかねない。でも、それは不幸な二項対立であり、内ゲバ的な展開であり、問題を個人間の、家庭内の問題に縮減して考える、という点では、障害の医学モデル・個人モデル的な視点ではないか、と児玉さんは言う。親や家族は喜んで子どもを入所施設や精神病院に入れている訳ではない。『親が一番の敵にならざるを得ない社会』があるからこそ、そうせざるを得ないのである。

その「『できない』背景にある親の知見や思いは、誰にとっても簡単には語ることができない複雑なもの」だと理解した上で、「まずは否定も批判もせずに聞いてみようとする姿勢」がなければ、その背景は語られず、真の問題は解決しないのではないか、と児玉さんは訴えかける。

この問いかけは、入所施設や精神病院批判を一貫してし続けてきた、僕の喉元にも突き刺さる。

以前から論文にも書いているが、日本の障害者政策は「家族丸抱え」が基調で、それが限界を超えた場合は、「入所施設や精神病院に丸投げ」であった。家族が丸抱えすることもなく、入所施設・病院に全てを押しつけるのではなく、地域の中で、親元から離れて、安心して暮らせるような居住支援や生活支援、医療的支援などを整えてこなかった。しかも、医療保護入院に代表されるように、その入所の可否の決定も、親に丸投げされていた。つまり、ケアが必要な障害者の支援に関して、行政責任が最小化される一方、家族責任が最大化されたまま、家族か施設か、の二者択一だった。そして、それは沢山の親や家族を介護やケアでギリギリの状態に追い込んでいった。

この構造的な悪循環を踏まえることなく、『親(や家族)は一番の敵だ』というのは、こういう言い方をするならば、敵を間違えている。本来は、親に丸抱えさせる、施設に丸投げする、行政の不作為こそ、問わなければならないのだ。それがない中だからこそ、前回のブログで書いたように、医者が社会の秩序維持を抱え込まざるを得なくなり、そういう歪んだ状態が固着してしまうのである。

その固着した構造の歪みの中で、相模原事件の入所施設では構造的な虐待が起き続け、その素地の延長線上で、相模原事件という恐ろしい大虐殺があったのだ。ことは一人の死刑囚の問題だけではなく、入所施設の組織構造的な歪みであり、そういう歪んだ施設をそのまま温存させてきた行政の不作為が重なるのである。その本丸について糾弾することなく、『親(や家族)は一番の敵だ』というのは、本質を外すだけでなく、行政からしたら、当事者団体と家族会が内ゲバ的に対立してくれたら、自らの責任が免責される、オイシイ展開なのである。これは、あかん!

さらに、児玉海さんは医療的ケアが必要な重症心身障害者であり、医療と福祉、リハビリという多方面からのケアを充実させる、という点において、日本のグループホームでは福祉的支援に偏り、不十分であると児玉さんは指摘する。だからこそ、入所施設の拠点的役割を家族としてヒシヒシ感じて、その入所施設の医学モデル的価値前提と常に闘いつつも、そのケアの重層さの重要性も感じておられるという。そんな児玉さんと初対面の相手が、名刺交換をしながら、「すぐに施設に入れてしまうからいけないのです」(p281)と教条的に児玉さんに伝えた場面を読みながら、残念ながら脱施設・脱精神病院と唱える人々の中にも、医学モデル的価値前提を持つ専門職と同じような、『正しい医学的知識を与えてやれば親は正しい選択をするはずだ』という不遜な思い込みと同種のものがあったのではないか、と思う。そして、自分自身はどうなのだろう、と自問する。

なぜ児玉さんのお子さんは、入所施設に住んでいるのか。そこに預けるまでのプロセスで、海さんと母の真美さんにはどんな葛藤や苦しみがあったのか。そういった様々な、「『できない』背景にある親の知見や思いは、誰にとっても簡単には語ることができない複雑なものばかり」なのである。それは本書全体を通じても、痛切に伝わってくる。そのような複雑に絡まり合った内容を「まずは否定も批判もせずに聞いてみようとする姿勢と出会うことがなければ、それらの『なぜ』はこれからも語られないままだろう」という児玉さんの指摘は、重い。

ケアラーである家族や親に、あまりに丸抱えをさせてきた歴史がある。そのケアラーの声は、入所施設や精神病院に入れさせられた当事者の声と共に、なかったことにされている。どちらの声も聴かれていない。両者は、時として二項対立的な、というか、利益相反的な立ち位置に捉えられる。でも、児玉さんが言うように、「『親は一番の敵だ』で親をなじって終わるのではなく、『親が一番の敵にならざるを得ない社会』に共に目を向けてもらう」ことがないかぎり、この二項対立的・利益相反的な不幸な関係性は解消されないのである。

障害の社会モデルが大切だと思うなら、この二項対立的・利益相反的な不幸な関係性が、なぜ維持されているのか、それは誰にとってどのような利益になり、誰が消極的にであれ加担しているのか、を分析する必要がある。そして、児玉さんも本書の中で指摘しているが、それは社会保障費を削減したい国の思惑であり、家族なんだから最後まで責任を取れと突き放す世間の視線である。これらのものにNOと言い返すとき、『親は一番の敵だ』と言わされている社会構造そのものを、捉え直す必要があると、改めて感じている。

隔離収容とコロナ危機

7月31日に放映されたETV特集「ドキュメント 精神科病院×新型コロナ」を遅まきながら見る。日本の精神医療の構造的問題が1時間にぎゅっと詰まっていて、その悪循環がコロナ危機で高速度回転している様子が手に取るようにわかり、見ていて辛かった。

一番辛かったのが、民間精神病院の団体の長である山崎學氏の発言

「精神科医療っていうのは、僕はよく話をするんですけど、医療を提供しているだけじゃなくて、社会の秩序を担保しているんですよ。町で暴れている人とか、そういう人を全部ちゃんと引き受けているので、医療と社会秩序を両方精神医療に任せておいて、この(診療報酬)点数なんですか?って言っているわけ。一般医療は医療するだけじゃないですか。保安までも全部やっているわけでしょう、精神科医療って。(入院を)断ってたらどこもとらないし、一番困るのは警察だと思うよ。警察と保健所が困るだけだよね。」

彼は以前から「精神科医に拳銃を」と団体の機関誌に載せるような筋金入りの確信犯なので、正直想定外の発言ではなかった、残念ながら。だが、テレビカメラの前でもそういうことを堂々と言ってのけるのは、俺たちが「社会の秩序」なるものを担保しているのだ、という強烈な自負心があるからだ、と見ていて改めて感じた。その上で、「医療と社会秩序を両方精神医療に任せ」ていることが問題だ、と言うのではなく、「この(診療報酬)点数なんですか?」=つまり一般医療と違って保安も全部やっているのだから、もっとカネをよこせ、と堂々と述べているのは、本当に銭ゲバというか、あきれ果てた。それは、半世紀以上前に日本医師会の当時の会長である武見太郎が「精神科医は牧畜業者だ」と揶揄していたが、結局の所、警察と保健所の代わりに患者を隔離拘束して「社会の秩序を担保」するのが精神病院なのだから、カネをもっとよこせ、という帰結で、医療とは全くかけ離れた牧畜業者の論理が21世紀も続いていることを、まざまざと見せつけられた気分である。

そして、危機こそその人なり組織の本質が垣間見れる、というが、それは山崎発言だけではなかった。

この番組は、コロナ危機における精神科治療の受け入れ病院になっている東京都立松沢病院に密着取材していたのだが、都内の民間病院からのクラスター患者が転院してくて、そこには隔離収容の様々な縮図がてんこ盛りになっていた。褥瘡がひどいレベルであるお年寄りの話は、介護保険が始まる前ならいざ知らず、今はふつうの老人施設でもなるべく褥瘡を減らす努力をしている。あるいは、コロナで転院してきたけど、精神症状はほぼ喪失している、30年以上の入院患者。家族が帰っていてほしくない、というので、転院前の病院の病室しか居場所がない、ともいう。そういえば、この番組は原発事故で病院閉鎖した福島の精神病院に長期入院し、のちに退院した時男さんのドキュメンタリーを撮った青山さんが制作チームにおられたが、原発がコロナ危機に変わっただけで、構造は非常に共通していると感じる。つまり、普段は外からうかがい知ることが出来ず、外部の目が入ることない、がゆえに、「牧畜業者」に長い間飼い慣らされ、病状が消失しても、そこからでれない人がたくさんいて、コロナ危機や原発災害で、外に出ざるを得なくなって、そういう状況が初めて「発見」される、という構図である。

さらに、そこに保健所や行政も、結果的に加担している構図も見えてくる。

クラスタが発生したY病院では、大部屋に陽性患者を集め、急遽大工道具で鍵を設置し、外から南京錠をかけていた。ナースコールもなく、居室内の囲いのないポータブルトイレで用を足すことが求められ、水などを求めて患者が絶叫していたという。しかも、保健所が指導に来る日だけ、南京錠は外されたが、その居室の前は通り過ぎたので、閉じ込められた人の声は聴かれないまま、放置されていた。そして、保健所が帰った後、再び南京錠で閉じ込められたという。これは明確に精神保健福祉法違反であり、厚労省の担当者も一般論として指導を徹底する、と述べてるものの、保健所や東京都は具体的な回答を拒否し、病院も取材に応じなかった、という。

そして、残念ながら、このような杜撰な行政指導も、いまに始まったことではない。医療監視や実地指導の当日だけ、隔離拘束がとかれたり、施錠された部屋が開放されたり、ということは、コロナ以前からも、よろしくない病院あるある、であったのだ(この実地指導の問題は20年近く前の院生時代に論文に書いたが、本質的には変わっていない・・・)。そして、これは精神医療業界の「常識」で、であるがゆえに、このY病院に実際に訪問して、南京錠施錠を発見した松沢病院スタッフ達の会議の後で、一部の医師が「コロナを治療した後、その病院にそのまま帰すだけでいいのか?」と当時の院長であった斎藤医師に詰め寄った所、「そういう病院が潰れてしまったら、今の社会は受け入れないので、もっとひどい病院に行くだけだ」と苦渋の表情を浮かべていた。

この斎藤院長の煮え切らない発言にモヤモヤしたのだが、これはこの院長や松沢病院の責任ではない。結局のところ、医療だけでなく社会の秩序維持までも精神病院にお任せしてしまい、少ない予算でお願いするから中身については特に問わない、という形で戦後ずっと民間病院に強制入院をほぼ丸投げしてきた(9割の病床が民間病院)、日本の精神医療の宿痾が、コロナ危機に極大化しているのである。

そのことは、4年ほど前に記事(誰のため、何のための「改正」? 精神保健福祉法改正の構造的問題)を書いたのだが、その際に書いた論点は、残念ながらこの番組でも活用できてしまう。僕はこの記事の中で、「精神医療の目的は犯罪予防ではない」と書き、精神科医に治安の責任を負わせるべきではない、と書いたが、現状では先の山崎発言にあるように、犯罪予防や治安の責任を精神科医や精神病院に追わせているのである。だから、他科で見られる重大な人権侵害も、精神科病院ならずっと見過ごされてきたのだ。これは、神出病院など最近の虐待事件でも、繰り返し現れ続けていることでもある。

斎藤院長は番組の中で、こんなフレーズも述べていた。
「見たくないんだよ、自分が怖いものは」「ひずみは必ず脆弱な人に現れる」

精神病院に患者を閉じ込めて、そこで何が行われているのか、直視しない。これは、家族関係などの極端な悪化の中で生きる苦悩が最大化した人を、家族だけでなく支援者もうまく見る事が出来ないから、精神病院にお任せしてしまう、という現状である。「町で暴れている人」も、意味なく暴れているのではなく、暴れざるを得ないほど、生きる苦悩が最大化したのだが、そのときに、町の中でそれを鎮める術を日本ではうまく構築してこなかったから、そうなっているのである。一方、オープンダイアローグだとか、トリエステ方式だとか、世界の様々な地域では、急性期の人も、家族が丸抱えするのでも、病院に丸投げするのでもなく、地域の中で、医療者と家族と本人が共に、急性症状を鎮め、よりよい関係性を再構築するための支援をやりながら、隔離拘束を最小化している地域もある。

つまり「医療と社会秩序を両方精神医療に任せておいて、この(診療報酬)点数なんですか?」という「問い」に対するまっとうな答えとは、「社会秩序は警察に戻した上で、まともな医療をちゃんとやってください」ということに、尽きるのだ。それが出来ないなら、病院経営から退散してほしいのだが、厚労省はそういう病院の持続可能性には妙に配慮してしまう(僕は以前、それをワープロ業者への補助金と批判した)。

そこで、コロナ危機で改めて浮かび上がった、脆弱の人に直撃したひずみとしての現状をどうするべきなのか? 隔離収容での集団管理型一括処遇が、クラスタ感染をもたらした大きな要因であることは、まず間違いない。そして、その陽性患者に適切に対応出来ない古い病棟体質が、二次被害ももたらした。そういう意味で、結局の所、やっぱり社会的入院の患者さん達を、国の責任で退院させていく、強力な戦略が必要不可欠だ、という帰結に尽きる。そして、それをどうやったらいいのか、は10年前に関わった国の障がい者制度改革推進会議総合福祉部会で既に整理している(そのことはブログに以前書いた)。

こういうことを放置していたからこそ、今回の精神科病棟におけるクラスタ感染だとするならば、これは自然災害なのか? 人災の部分はないのか? 改めてこの番組を見ながら、モヤモヤが強まるばかりである。