最上の贈り物

「親がそのこのために与えることのできる最上の贈り物は、安心感と自己肯定感である。この二つを授けられた子どもは、多少の逆境に出会おうと、方法を模索しながら、わが道を切り開いていく。苦しい状況におかれても、自分を追い詰めすぎず、希望を保ち、一歩一歩進んでいける。少々生き方が不器用だろうと、世渡りが下手だろうと、自分を信じ、自分が進んでいる道を肯定することができれば、やがてその人は、自分にふさわしい生き方にたどりつく。不器用で飾り気のない純粋さゆえに、その価値はいったん認められれば、揺らぐことはない。」(岡田尊司著、『アスペルガー症候群』、幻冬舎新書、p167-168)

最近周囲から「マイペースですね」と言われる事が多い。また、発達障害の専門家から、タケバタもその傾向がある、と言われたことがある。どんなもんだろう、と思って、改めて基本書をざっと読む。確かに、小さい頃は癇癪を起こしてランドセルを投げていたこともあるし、杓子定規な大人への反発は、今だって強い。小さい頃から、子どもの会話より、親や親戚の話の輪に入ろうとする、言語的にませたガキだった。その一方、注意されても一度では覚えず、何度も何度も注意してもらわないと直らない傾向は、今でも残ってる。お箸の使い方は直らなかったけど、食卓の椅子は、やっと元に戻せるようになった。ある事に集中し始めると、他のことがおろそかになるのは、原稿を書いているときにはしばしばある。妻には、「言わなくても分かる、わけではないので、ちゃんと口に出して伝えてほしい」と、何度も言っている。

これらを指して、「アスペルガー症候群」の傾向がある、のなら、確かにそのカテゴリーに属するのかも、しれない。だが、おかげさまで、それを40代になるまで気づかずに来たし、そのことが苦労の源泉だと感じたこともない。知った今でも、「あぁ、そうねぇ」くらいにしか、思わない。それもこれも、ありがたいことに、「安心感と自己肯定感」という「最上の贈り物」を親から授かったからだ、ということが知れたのが、この本を読んでの最大の成果だった。

小さい頃は、むしろ特別な存在を憧れる子どもだった。自分自身や自分の家族が「ごくふつう」であることへの不満を持って、母親とこんな問いを投げかけた。

「おかあさん、どうして僕やうちの家族はふつうなの?」

それに対する母親の応答は、今思い出してみても、立派である。

「ひろし、ふつうであることって、そんなに簡単にはでけへんことなんやで」

10歳くらいの当時のひろし少年には、「そんな簡単にはでけへん」の意味が、さっぱり分からず、「ふーん」程度の感想しか、抱かなかった。でも、心のどこかで、その母の言葉は残っていた。そして、その価値に気づいたのは、30も越えてからである。「自己肯定感」や「安心感」を子どもに授けることが出来るのは、ありきたりでも、「ふつう」のことでもない。実に、有り難い、ことである、と。そして、それが僕の根底的な自信や存在根拠の揺るぎなさにつながったのだ、と。

我が家はサラリーマン家庭で、週末に王将やマクドナルドに連れていってもらえるのが実に楽しみだった、というリアリティを持つ、平凡な家庭だ。貧乏ではなかったが、裕福でもなかった。しかし、その家庭環境に不満を持つことはなかった。ただ、小学校の高学年あたりから、学校でいじめられる集団に属していたこともあり、根源的な「つまらなさ」を抱えていた。桂川の河川敷をチャリでぶらぶら走っては、「つまんないなぁ」と嘆いていた記憶が蘇る。中学では、政治や経済についてまともに議論してくれる塾長のいる進学塾が自分の居場所となり、進学校の高校に入るも、勉強に興味がわかず、男子校の写真部室で同年代の仲間達とつるむ喜びを覚え、それは予備校時代まで続く。

そんな僕が、ほんまもんの「学ぶ喜び」を見いだしたのは、大学生になってから。暗記や試験勉強のための学び、以外の、「なぜ」「どうして」という問いを深める学問に出会ってから。社会学や哲学、臨床心理学や社会思想史など、ごった煮的に学べる人間科学部という場所は、僕のような人間にとってはうってつけの、問いを深める場であった。大学という空間で初めて、「生き方が不器用だろうと、世渡りが下手だろうと」、そんな他者評価よりも、オモロイ何かを探索する喜びに没頭できはじめた。それが、大学院生で精神医療と出会い、今は大学で地域福祉や福祉政策を教える側になる、原動力にある。

そして、教育や研究という、人と対話しながら、真理を探究する仕事、に出会えたことによって、やっと「自分にふさわしい生き方にたどりつく」ことが出来たのだと思う。だが、そこに辿り着くまでに途中で道を曲げなかったのは、「安心感と自己肯定感」という「最大の贈り物」をもらっていたからだ、と改めて思う。世間の流れに器用に乗ることは出来なかったけれど、自分の中で「おのずから」わき起こる流れのようなものに「みずから」飛び込んでいったからこそ、僕自身の中での自我と自己が、うまく融合しつつあるのかもしれない。

僕が、異常と正常のカテゴリーがすごく気になるのも、あるいは「困難事例」や「問題行動」という形でのラベリングが嫌いなのも、下手をすれば、僕自身が排除の対象になっていたかもしれないし、これからなり得る可能性がある、ということを、肌身で感じているからだと思う。そういう意味では、高校時代に北杜夫のエッセーを読んで精神科医になりたいと夢見るも物理化学が嫌いで断念し、予備校時代に河合隼雄を読んでカウンセラーになりたいと憧れるものの、臨床心理の教官に「きみは向いてない」と言われて挫折した僕も、今、福祉社会学と社会福祉学の「隙間産業」的に精神医療を眺めているのが、ちょうど見つけた「ニッチ」であり、「多少の逆境に出会おうと、方法を模索しながら、わが道を切り開いていく」プロセスだったのと思う。

そういう意味で、改めて託された「最上の贈り物」に思いを馳せるきっかけとなる読書であった。

僕は僕

2017年の初めての投稿。で、ブログシステムも大きく変わった。

このブログの管理人をしてくれている高校の後輩、N氏のお陰で、古いシステムから新しいシステムへのお引っ越しと再構築。700本近い記事を抱え、その中で過去の記事を参照したりしていて、僕の中ではこのブログこそが「外部記憶装置」となっているので、引っ越しでデータが失われたら、文字通り「記憶が失われる」恐怖だった。なので、無事に移行作業が終わって、ほっとしている。20年以上の付き合いが続いているイケメン中年N氏には感謝の言葉がない。

そして今回は、膨大な過去記事が自動で移行されなかったので、「やまなしピアカフェ」のみなさんに、データのチェックと移行の作業をお手伝い頂いた。ずいぶん丁寧な仕事をして下ったお陰で、過去の引用や参照もほぼそのまま移行することが出来た。この「やまなしピアカフェ」は、「ひきこもりを含む社会参加したい人が力を発揮できる環境を、その人と一緒に、考え、探し、つくっていく住民互助グループ」であり、こういう在宅勤務出来る仕事も引き受けておられる。丁寧に仕事をされるので、そういう依頼があれば、ぜひ。

で、過去のブログ記事をランダムにチェックしているうちに見つけたのが、この「私は誰?(増補版)」という記事。2009年5月というから、8年前の記事である。その時は、現場の実践者でありながら、アカデミックスキルを持った上で、中途半端な研究者よりも遙かに深い洞察を続けておられるとみたさんlessorさんのお二方のブログを通じて、自分の立ち位置を問い直していた。そして、最後にこんな弱気な発言を書いている。

「僕自身は、誰なんだ? 「現場のプレイヤーとして研究を深めることに徹する研究者」と対比しても、多少なりとも役立てる何かがあるのか。本当に研究者などと名乗っていいのか。鋭いお二人の分析から、崖っぷちでしがみついている自分自身が見えてくる。」

ああ、8年前はもがいていたのだなぁ、としみじみ思う。

当時は34歳。大学教員になって5年目。やっと研究者という立ち位置に慣れて来たものの、必死になって勉強している途上で、アウトプットも少なく、何をどのように考えてよいのか、書いてよいのか、がわかっていなかった。現場に通い続けながら、色んな人の話を聴きながら、それをどう言語化して良いのかわからなかった。「研究者として」という部分に力が入りすぎていて、それが空回りしていたのかもしれない。思えばブログで700本近い記事をずっと書き続けてきたのは、僕自身がどのように考えてよいか、言語化してよいのかわからなかったので、その練習台として、必死に言葉を探し、思考訓練を重ねてきた、とも言える。博論を書いたのに一冊も単著が出せず、自分自身がどこに向かうのかもわからず、苦しかった時代だと振り返って思う。

では、いまはどうなのか。当時の問いに対する現時点での答は、月並みだけれど「僕は僕」。力んだところで、背伸びしたところで、自分の向いていない「憧れ」には、近づけそうにないし、「自己嫌悪」するだけだ。であれば、自分の持つ特性を活かして、ありのままの自分の強みを活かしながら、仕事をするしかない。そう思い始めている。

そう思えた転機は、やはり『枠組み外しの旅』の執筆だった。

この本を書く中で、自分の立場主義者的要素や前例踏襲主義、常識や業界の専門用語・常識などというものを、徹底的に問い直す作業をしていった。自分自身が囚われているものを疑い、学び直すプロセス。それは、最近よく言われている表現を使えば、unlearnであり、学びほぐし、である。よく言われる守破離の世界観になぞらえるなら、大学院生時代から10年掛けて身につけてきたアカデミックスキルという型を「守」るのに必死だったのが、30代前半まで。先のブログを書いている頃は、ちょうど型は身についたけれど、ではそこからどう自分らしく改善が出来るか、がわからず、試行錯誤していた。型の「破」り方に惑っていた時代だった。

そして、2011年7月から、突如連作をブログに書き始める。これは、311の後に自分の実存が揺さぶられる経験をする中で、文字通り、大げさではなく実存を賭けて、この連作を書き進めた。自分の精神がぶっ壊れてしまいそうな辛さの中で、とにかく書くことで局面を打開するしかない、と思っていた。本当に大切なことを、嘘偽りなく書きたい。その思いだけで、ずっと書き続けるうちに、半年後には論文になり、1年後には単著が出来上がってしまった。そして単著を出してみたら、それまでの社会的役割を気にする自分が「破」れて、別の何かが現れ始めた。

単著を出してからの4年半は、その自分なりに芽生えた何かを追い求めていた日々だったような気がする。講演やアドバイザーとして訪問する現場でも、「もっともらしいことを言おう」なんて力むことはなくなった。自分に何ができるかわからない。でも、その現場に行き、そこで話されることに耳を傾け、その語られた状況や文脈に即して考えて、何となく頭に浮かんだことを伝える。その対話に集中するだけだった。それでも、いくつかの現場では、何度も声を掛けてもらえるのだから、そういうスタンスが、多少なりとも役立つ局面があったのだと思う。

先のlessorさんは、こんな風に書いている。

「研究者が中途半端に現場に入り、現場で既に自明視されているようなことをさも自分が発見した「新しい事実」であるかのように示して自己満足するぐらいならば、「現場のものの見方」に擦り寄ろうとするのではなく、徹底的に「研究者としてのものの見方」を押し通すことで見えてくるものに期待をかけたほうがずっと有意義だと思う。」

僕は、「徹底的に「研究者としてのものの見方」を押し通すこと」はしていない。さりとて、「現場で既に自明視されているようなことをさも自分が発見した「新しい事実」であるかのように示して自己満足する」ほど愚かでもない。「「現場のものの見方」に擦り寄」る、というより、「現場のものの見方」をまずは理解しようと努め、その内在的論理に対して、外部者として問いを投げ掛けることによって、「現場で既に自明氏されていること」という暗黙の前提に対して、「それって、変えられないことですか?」「他のやり方は、あり得ませんか?」と、風穴をつくり、別の可能性を考える。そんな仕事をしてきたのだと思う。「研究者としてのものの見方」を押し通す」のではないけれど、現場とは違う第三者が、現場の人びとと対話をする中で、一緒に考え合う、というプロセス。そう、昔からずーっとし続けてきた、産婆術的姿勢である。といか、僕はこれしかできない。

そう思って、外部記憶装置であるこのブログを検索すると、ぴったりの表現が出てきた。

「そういう、ゼミ生の中から「世界が立ち上がる」瞬間に、間主観的な存在としてたたずむ僕。相手の「言葉」が「分かれて」くる瞬間を信じて、待つ僕。こう位置づけると、僕の役割は、助言者や指導者、ではなく、ソクラテスのような「産婆役」である。」(産婆役という”かまえ”

この記事を書いた4年前は、産婆術はゼミですることだ、と思い込んでいたが、結局、僕は現場のアドバイザーであれ、講演であれ、人材育成の場であれ、どこでも「産婆術」している。文章を書くのだって、現場から学んだこと、引用したい書籍、などと「対話」しながら、そこに問いをはさみ、僕なりに問いを深め、共に論を展開して行く、という意味では、産婆術的書き方しか、できない。そう、産婆術を生きているだけ、である。

そういう意味では、8年前の「僕自身は、誰なんだ?」という痛切な問いに、今ならはっきりと答えられる。「僕は僕」でしか、ありえない。僕自身を生きる中で、現場やゼミ生、理論との産婆術を続ける中で、僕なりの対話の中から、何かを産み出していくだけだ、と。これが、30代までの暗中模索を「離」れる第一歩になれたら、よいのだが。

新年早々、長々と書きましたが、今年もよろしくお願いいたします。