産婆役という”かまえ”

昨日、ゼミ生から相談を持ちかけられる。これからの生き方に困惑して、どうしていいのかにっちもさっちもいかない、というご相談である。家から外にも出られず、悶々としていた、という。確かに顔の表情はこわばり、身体の動きも硬い。最近ゼミに顔を出さず、昨日のゼミも、先輩に相談してやっと出てこれた、という。

そういう学生さんを前にすると、講演や講義の時とは違う僕のモードが到来する。それは「対話」モードである。
昨日のゼミ生も実際に語っていたが、僕の前に相談に現れる学生達は、何らかの具体的なアドバイスを求めて現れるわけではない、という場合も少なくない。アドバイスを聞いてすぐに実行できるくらい余裕があれば、何もこんなに困り果てない。まず、自分の中でその困惑の正体が掴みきれず、どこから考えていいのかわからず、濁流の中に飲み込まれたように、とにかく困惑の海の中で疲れ果てている、という状態のこともある。
そういう学生さんと「対話」する際、まず大切なのは、じっくり時間をかけること、である。
木曜日は4限がゼミの時間だが、その後も、だいたい予定を入れないでいる。すると、ゼミを延長することもあるが、昨日のように特定のゼミ生とゆっくり対話する時間も出てくる。そういう時間的な余裕があれば、次にすることは「待つこと」である。
どう言っていいのかわからず、何から話していいのかわからない。そんな彼ら、彼女らが、でも僕を前にして、一生懸命、言葉を発しようとする。それは、未分化な気持ちや想念を具現化する、という意味で、「言分け」であり、身体全体から言葉を絞り出す、という意味で、「身分け」でもある。(言葉によるゲシュタルト化としての「言分け」、生身のアクチュアリティで世界を分節化する「身分け」については、丸山圭三郎の『言葉と無意識』講談社現代新書を参照)
そういう、ゼミ生の中から「世界が立ち上がる」瞬間に、間主観的な存在としてたたずむ僕。相手の「言葉」が「分かれて」くる瞬間を信じて、待つ僕。こう位置づけると、僕の役割は、助言者や指導者、ではなく、ソクラテスのような「産婆役」である。大切なのは、今、世界に向けて「身分け」をし、その中で自らの言葉を「言分け」ようとしている彼・彼女の呼吸に同期させていくことである。その波長をシンクロナイズさせていくなかで、そっとお餅つきの返し手のように、時には言葉を添える。すると、波長が合致してくるので、深い部分で、ゼミ生の中に、声が、届く。そこから、堅い殻の中に閉じ込めていた何かが、少しずつ融解し始める。そして、言葉が、出てくる。
生命が誕生する時と同じように、言葉が誕生する時、それはおずおずと、少しずつ、振り絞るように出てくる。時には、涙が先行する場面も少なくない。でも、そうやって、「身分け」しながら、そのプロセスの中で「言葉」が「分け」られていくなかで、全身を覆っていた緊張感が少しずつ、溶けていく。その中で、とつとつと、少しずつ、言葉が増えていく。
こういう場面に身を置いた時、しばしば、「お忙しい先生に時間を割いていただき、ご迷惑をおかけして、すいません」とお詫びされることがある。でも、僕は、昨日も次のように、返礼していた。
「あなたと共に、こうやって時を過ごす中で、僕はあなたから何らかの『元気』を頂いています。それは、二人の間で分かち合うものが増え、そしてあなたがそのわかちあいの中から、何かを産み出しつつある、その過程を共に出来たからこそ、頂けた気です。また、僕自身が、あなたの役に立っている、ということから得られる気でもあるのです。」
むかし、相談への「かまえ」が出来ていなかった頃、「取るべき責任と取ってはいけない責任」を理解していなかった頃、僕は相談を受けることにクタクタになっていた。だが、ゼミ生に鍛えられる中で、少しずつ、対話の”かまえ”のようなものを身につけ始めた。こちらから投げかけるのではない。相手から出てくる何かを、ただ信じて待つ。その中で、産婆役として、そっと手を添える。しかも、控えめに。
そういう波長を合わせる産婆役に徹していると、新たな言葉という「生命」が立ち上がる瞬間に出会えるのかもしれない。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。