精神医療における「自愛」と「自己愛」

安冨先生にご恵贈頂いた『生きる技法』が非常にわかりやすくて刺激的だったので、3・4年ゼミ生全員に読んでもらい、数回のゼミで議論をし続けている。その中で、特に学生達にとって議論が深まった論点の一つに、「自愛」と「自己愛」の違いがある。安冨先生は、次のように命題化している。
【命題3】 愛は自愛から発し、執着は自己愛から生じる
【命題3-1】 自愛とは、自らその身を大切にすることである
【命題3-2】 自己愛とは、自己嫌悪を埋め合わせるために偽装することである
【命題3-3】 自己愛はいつも不安と隣り合わせである
【命題3-5】 自己愛を満足させるために、他人の美点に欲情することが、執着である
(安冨歩『生きる技法』青灯社)
これらの命題を僕なりに解釈し直すなら、自分のあるがままの等身大の状態を受け入れ、認める事が「自愛」である。一方で、今の自分をそのまま受け入れることが出来ず、他者との比較の中で自己嫌悪に陥ったり、あるいは「他人の美点に欲情」し、あこがれて執着することが、「自己愛」である。自らの今を認めることなく、他者との比較という相対軸の中でのみ自らを捉えようとするから、「自己愛」は不安状態の継続であり、「自愛」より振幅の幅が大きい。よって、「自己愛」の状態の人は、「自愛」の人と違い、もたれかかったり罵倒したりする相手に依存的である、とも言える。そのことを、安冨先生は次のようにも命題化している。
【命題11-4】 何かに強く憧れているとすれば、それはあなたが自己嫌悪に囚われていることを意味する
【命題12-1】 自己嫌悪は、他人(親や教師など)に押しつけられたものである
【命題10-2】 夢を実現する過程で得られる副産物が、あなたの糧になる
憧れと自己嫌悪は、不安に基づく「自己愛」のポジとネガの関係にある。そのどちらとも、他者との比較しか存在せず、しかも「他人に押しつけられたもの」でもある。実はゼミ生と議論をしていて、一番ゼミ生が困惑していたのは、「憧れ」と「夢」の違いである。「憧れ」は本当に悪いモノなのか。成長するためには、憧れは大切なのではないか、と。だが、この部分も、安冨先生はわかりやすく指摘している。
「魂がいるべき場所とは、言うまでもなく、この私自身です。そこを離れるというのは、つまり、自分が嫌になっている、ということです。自分の外部にある名声だとか都会生活だとかいった、どうでもいいものを『理想』として設定してしまい、それを手に入れていない自分は駄目な奴だと思い込まされている。そうすると、魂がふらふらさまよって、茫然自失してしまいます。それが『憧れる』ということです。」(同上、p150)
夢は、自らの内部から沸き出でるもの。それに対して、憧れは、他人やメディアから押しつけられたもの。こう整理すると、見通しがよくなる。自分の中でワクワクして、こんなことをしてみたい、と気づいたら思ってしまっている夢。一方で、憧れとは、今の自分への自己嫌悪に基づき、「ここじゃないどこかへ」を希求すること。しかし、どこか、はハッキリとは定まっていない。とにかく、自己否定と自己嫌悪の反転として、何でもいいから「理想」を設定し、それへ憧れて茫然自失になっていること、を指す。よって、「憧れ」だけでは、何も始まらない。一方で、夢とは自らの中から湧き出すもの。それに向けて一歩一歩成長する中で、自らの個性化に向けた道が進み始める(そのことは、少し前のブログで触れた)。だから、その夢が実現したかどうか、には関係なく、「夢を実現する過程で得られる副産物が、あなたの糧になる」のである。
さて、この補助線があると、「自愛」と「自己愛」の違いが見えてくる。それを、僕自身は今、イタリア語学習で実感している。
前回のブログでも触れたが、イタリアからの帰国後に始めたイタリア語文法学習が、途切れることなく毎日続いている。大学生の時にドイツ語学習に失敗した記憶があって、「どうせ」「むりだ」と思い込んでいた。だが、それは「英語以外の外国語がペラペラしゃべれる格好いい人になりたい」という憧れと、その反転としての、「俺には語学的才能がない」という自己嫌悪という「自己愛」の枠組みに埋没していたからであった。そのことに気づいた今、「自己愛」では語学は身につかない事も痛感する。なぜなら、憧れも自己嫌悪も、つまり「自己愛」には、ワクワクする学び、や、それを喜んで継続・反復しよう、という動機と実践に欠けているからである。自らが行動や努力を主体的に我が事として引き受ける、という自発性と有責性が、「自己愛」には欠けている。
「自己愛」に基づく他者への憧れと自らへの自己嫌悪、は、「どうせ」「むりだ」「しかたない」という「出来ない100の理由を並べる」動機にはなっても、「出来る一つの方法論を徹底的に模索する」ことにはつながらない。だが、「出来る一つの方法論の模索」とは、「自愛」に基づく夢の実現に向けた、自らのメタモルフォーゼのプロセス(=つまりは個性化)そのものである。
ながーい前置きになったが、今日一番論じたいのは、表題にも書いた精神医療における「自愛」と「自己愛」の話である。だが、別に臨床における「自愛」と「自己愛」の違いを語りたいのではない。今日ここで議論の遡上に上げたいのは、精神医療構造の「自愛」と「自己愛」の問題である。端的な問いで書くと、
・我が国の精神医療は、自己嫌悪と憧れに基づく「自己愛」の枠組みから抜け出ていないのではないか?
・脱精神病院というのは、精神医療の従事者が「自愛」に基づく「個性化」を果たす上で、必要不可欠な過程ではないか?
という二点である。この問いを一つにまとめるなら、「取るべき責任と取ってはいけない責任」をごっちゃにしていませんか?となる。
以前のブログにも書いたが、精神医療が対象として扱うのは「生きる苦悩」が最大化した(しつつある)人々である。幻覚や幻聴、妄想や問題行動という形で先鋭化した何かの背後には、この日本社会の中で、組織や家族の中で、他者との関わり・つながりの中で、あるいは自分自身の存在そのものと向き合う中で、生きる苦悩がきわまり、自分ではコントロールできず、にっちもさっちも行かなくなった、という背景がある。以前は、その「生きる苦悩」の最大化の表現手段としての「問題行動」に対して、「縛る・閉じ込める」という方法論しかなかった。だが、20世紀の中庸以後、そこに「薬」というものが登場し、制圧可能に見えた。
このことを、一般医療と精神医療の比較軸で並べてみるとわかりやすい。精神医療は、一般医療と常に「比較」して、一般医療ほどの「エビデンス・ベースド」になっていない事への自己嫌悪に陥っていた。逆に言えば、一般医療に近づきたい、という「憧れ」があった。それが、生物学的精神医学への過剰な傾倒や、脳科学への絶対帰依とも言えそうな信仰につながっていく。ドーパミンの動きに作用を及ぼせる薬があれば、きっと行動化は収まるはずだ、と。だが、この推論には、この生物学的な発想が主流を極める一般医療への憧れと、そこに近づけていない精神医療への自己嫌悪に基づく、「自己愛」の構造の部分があるのではないか、と。
繰り返しとなるが、精神医療が対象にしているのは、「生きる苦悩」に向き合うことである。この際、重要で当たり前なことを書くが、「生きる苦悩」とは、「この社会の中で生きる苦悩」のことを指す。脳の気質や機能という生物学的な領域で収まることのない、特定の時代、文化、社会、組織、家庭環境・・・に育つ中で極大化した「生きる苦悩」である。それを、生物学的な視点のみで捉えることに、そもそも捉え方の問題性や限界がある。もっと言えば、「生きる苦悩が最大化した人への支援」に、精神科医が出来る事には限界がある。
薬や精神療法で、その「生きる苦悩」が収まる部分も、もちろんある。その意味では、反-精神医療、つまり精神医療を全否定するつもりはない。でも、精神科医が出来る事には限界が有り、投薬や精神療法以外のことも、「生きる苦悩」に寄り添う支援には必要である。つまり、精神科医が出来る事には限りがある、という自らの限界性に気づく事。この自分のあるがままの等身大の状態を受け入れる、という意味での「自愛」が、今の日本の精神医療に欠けている部分ではないだろうか。だからこそ、イタリアやアメリカのような、脱精神病院やACTのような動きを見ても、「あれは日本には無理だ」「どこかに重病者が隠されているに違いない」「ホームレスになるはずだ」と「出来ない理由」ばかりを探しているのではないだろうか。
日本の、特に民間精神病院の経営者医師に問われているのは、自らが取れない責任まで取ろうとして入院患者を囲い込んでいる、という等身大の事実に向き合うことだろう。この、ありのままの自分を認めること(つまり「自愛」)が出来ないと、いつまでも自己嫌悪と憧れの「自己愛」モードから抜け出せない。政治家が悪い、とか厚労省が悪い、とか、地域の反対運動が大変だ、とか、「出来ない100の理由」を並べて、囲い込みの悪循環に嵌まる。だが、それは本来民間病院が「とるべき責任」を超えている。「取ってはいけない責任」を担わされているのである。
精神医療は、「生きる苦悩が最大化した人々」への、寄り添う方法の、一手段として機能はしている。これは統合失調症や躁鬱病だけでなく、発達障害や依存症にもあてはまるだろう。だが、精神医療「のみ」が役立つのではないし、精神医療が全能だと考えることは、「自愛」ではないく、「自己愛」の思想である。
イタリアで見たチームでの実践は、日本で言うところのチーム医療という枠組みも超えていた。ある利用者が、何らかのトラブルを抱えているとする。すると、その利用者に対して、医師は精神医学的な所見を述べるが、それに対してナースやOT、ソーシャルワーカーが、別の視点から別の見立てを述べる。コメディカルは「医師の指示の下」という呪縛には嵌まっていない。生活場面で生じたその人の生きる苦悩の最大化場面に対して、互いの専門性の観点から、どういう寄り添う支援が出来るのか、を議論して、方針を定める。もちろんそこには、本人の意見や考えが第一義的に尊重される、という前提もある。
精神病院だけで責任を取ろうとしない。医者が最終責任を全て引き受けようとしない。でも、無責任ではない。医師も看護師もコメディカルも、お互いの「取るべき責任と取ってはいけない責任」を自覚し、その中で、最大の努力を果たそうと連携する姿であった。これは、全能感への憧れや、その反転としての自己嫌悪といった「自己愛」とは真逆の、等身大の自分自身の出来る事を追求し、出来ない部分は多職種で連携する、という意味での「自愛」の思想に基づくチーム支援であった。
個々の専門家が、本当に自らの技量を磨き、個性化を果たして行くためには、まず自らの限界性を知る必要がある。だが、我が国の、特に精神病院の現状は、その自らの限界性を見ることなく、患者さんを病院の中に溜め込んで、パターナリスティックに囲い込み、医療化することによって、憧れと自己嫌悪に基づく「自己愛」を育み続けてきたのではないか。だからこそ、入院患者が治らないということに自己嫌悪して、ますますその現実を直視せず、患者を溜め込み続けているのではないか。それが、人口比で他国の5倍以上の入院ベッド数を持つに至ったのではないか。そして、今進行しているのは、従来の入院患者が入院してくれないから、と、認知症患者を精神科病床に穴埋めすることによって、自らの自己愛を増殖させよう・生き延びさせようとする努力ではないか。
安冨氏は、自己愛について、こんなことも書いている。
【命題4-1】 自己愛は、他人を犠牲にする
【命題4-2】 他人を愛することは、自己愛の否定による
「生きる苦悩」が最大化する中で、精神医療に救いを求めて来る人々。その人々を「犠牲」にして、憧れと自己嫌悪の手段として収容や囲い込みを行うのは、自己愛型の精神医療である。今、精神医療に求められている質的転換とは、その人々の「生きる苦悩」に寄り添いながら、精神医療に出来る事には限りがあることを、率直に認めること。その上で、元患者や家族、行政や地域の人々も含めた、医療保健福祉の枠を超えた広い支援チームをつくり、その「生きる苦悩」を抱えた人に寄り添いたい、と希求すること。このような、自己愛を否定し、患者の真の個性化や自己実現を希求するという「他人を愛する」姿勢を持つ「自愛」の存在となること。
抽象的に書いたが、日本の精神医療の構造に求められる質的転換とは、この部分が大きく関わっていると感じる。そして、精神医療に携わる人々も、憧れや自己嫌悪ではなく、脱精神病院や地域精神医療の実現といった、夢のある精神医療を実現する過程に、真剣に関わって欲しい。そう、強く感じる。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。