学会発表というのは、新たな分野にチャレンジするときの「腕試し」の場でもある。最近、気づけば地域福祉やコミュニティ・ソーシャルワークの領域に関わっているので、ここらで少し考えを整理して、その領域のプロ集団の議論にも耐えうるものか、チャレンジしてみよう。そんな気持ちで、数年ぶりに、札幌で開かれた社会福祉学会で発表をしてみた。
その中で、最大の収穫だったのが、コミュニティ・ソーシャルワークとコミュニティ・ワークの違いについて。学者は定義を厳密にする種族なので、「あなたはその二つをどう使い分けていますか?」と、僕の発表後に訊ねられた。そこから、総括討議の時間にも、この二つの違いを巡る議論が展開。実は、感覚的に使い分けているものの、厳密に両者を比較検討したことのない僕自身にとって、冷や汗もののセッションだった。だが、関西の地域福祉の大御所のとある先生が、簡潔明瞭にスパッと言い切る。
「学者間では定義を巡って議論するのも大切だけれど、現場に対しては、研究者が自分なりに定義づけたらよろしいのです。」
なるへそ!
この分野を何となく独学で囓りながら、気づけば越境していた僕自身は、アメリカやイギリスだけでなく、日本の定義も充分に勉強していないし・・・と、おっかなビックリの部分があった。だが、僕は地域福祉「研究の専門家」になりたいわけではない。地域福祉の「課題を解決するお手伝い」をしたいのだ。であれば、現場の人と一緒に使えるわかりやすい定義を作って、もちろん諸研究も勉強し続けながら適宜改変を繰り返し、考え続けていけばいいのだ。であれば、とりあえず僕なりに、こう位置づけてみよう。
コミュニティ・ソーシャルワーク(community social work)・・・地域に関わる福祉的支援。ある地域において、生活上の困難(福祉的課題)を抱えている人びとに寄り添い、その人びとを直接的に支える仕組み作りに関わりながら、その個別課題を「その地域における解決困難事例」として「変換」し、地域住民と課題を共有しながら、その地域課題を解決・予防していく仕組みをも作り上げていく仕事。
コミュニティ・ワーク(community work)・・・地域全体を支える支援。地域の福祉的課題は、単に福祉のみで完結しない。過疎化・少子高齢化・限界集落や障害者の地域自立生活支援、孤独死の問題は、単に共同体の減退のみならず、商店街や地場産業の斜陽、耕作放棄地の課題、里山の崩壊や獣害、公共事業や補助金依存型の産業構造の限界、外国籍やひきこもりの人びとの居場所のなさ、住環境の荒廃・・・など様々な地域の問題と密接に結びついている。それらと地域福祉課題を関連づけ、住民たちが「自分たちの問題だ」と意識化するのを支援する。その上で、住民たちが、より大きな地図の中で、領域を超え、使えるものは何でも使い、地域の中で、様々な課題を有機的に解決するための方策を考え、実践するのを後押しするのが、地域活動としてのコミュニティ・ワークである。
こう整理しながら、明らかに僕自身の志向性は、コミュニティ・ソーシャルワークを超えて、コミュニティ・ワークに向かいつつある、と感じ始めている。福祉の問題は、福祉「だけで」は解決出来ない。福祉の問題を常に一方に置きながら、複眼的に、地域全体の課題を捉え、両者をつなげながら、解決の糸口を見つける。それを通じて、福祉従事者以外の人にも、広く福祉的課題を「自分事」として捉えてもらう。そのためには、まず福祉関係者が福祉以外の地域課題を「自分事」として目を向ける。その円環的な作用としての、コミュニティ・ワーク。
学会発表の内容に引きつけて言うなら、地域の問題や課題を、カリスマ・リーダーと呼ばれる人が解決する図式は、多くの地域福祉や町おこしの現場で、これまで語られてきた。だが、コミュニティ・ワークに求められているのは、特定の一人のリーダーが住民を引っ張る、という図式ではない。ファシリテーターが、住民たちの持つ潜在的能力や可能性を引き出し、多くの住民自身が既存の/新たな役割を担って、みんなが「自分事」として地域課題解決に向けて協働していく。その協働化や住民活動の組織化を、コミュニティ・ワーカーやタウンマネージャーと呼ばれる人が支援する。そういうenabler/facilitatorの機能を担う人材こそ、地域変革に求められているのではないか。そう感じ始めている。
そして、その実感は、この旅で読み終えた二冊の本と共鳴する。
一冊目は、学会前にちょいと休暇で訪れたフラノマルシェ。富良野の名産品が売っているから、というガイドブック情報くらいしか持ち合わせていなかったのだが、白い恋人も六花亭も置かず、富良野のお土産だけを沢山置いているコーナーの一角に置かれていた、『フラノマルシェの奇跡』(西本伸顕著、学芸出版社)。妻がお土産を選んでいる間にパラパラと眺めていたら、「カリスマではない、プチリーダーの存在」という項目が目に飛び込んできた。おおっ!と読んでみると、こんなことが書かれていた。
「金と力のあるカリスマリーダーが、ヒエラルキーの力で周囲を強引に巻き込み、力づくでことを成していくという、ローカルにありがちな構図は富良野には存在しない。それぞれのテーマごとにリーダーの存在があり、参加メンバーの顔ぶれは似通っていても、リーダーとフォロアーの関係はテーマごとに入れ替わるだけで、今日のリーダーが明日のフォロアーという場合も珍しくない。実にフレキシブルかつフラットな人間関係が富良野のまちづくりの特徴だ。しっかりとしたテーマを持った言い出しっぺが、腹を括ってことにあたれば、仲間連中がフォロアーとなって後押しをする。そんなまちづくりの仕組みが暗黙の了解事となっているのだ。私は、こうした数多くの『プチリーダー』の存在が、富良野のまちを健全なまちとして発展させていく上で大きな原動力になっていると考えている。一人のカリスマよりも多数のプチリーダー。富良野の『まち力』の特徴はこんなところにもあるのではないか。」(p124)
「一人のカリスマよりも多数のプチリーダー」の重
要性。これは地域福祉の領域に置き換えても、全く同じ課題である。同じ住民として、お互いの得意・関心分野を活かしながら、「今日のリーダーが明日のフォロアー」という「フレキシブルかつフラットな人間関係」の中で、役割を交換し、お互いの「言い出しっぺ」をみんなで応援していく。それが、カリスマリーダーや行政の補助金に依存していく関係性を脱し、住民ひとりひとりの役割と誇りを生み出すまちづくり、にも通じている。これは、福祉的課題の解決でも、同じロジックで考えられるのではないか、と思いはじめている。そして、このフラノマルシェの産みの親であり、富良野のまちを官民協働で変えてきたお一人である著者の西本さんは、本の最後にこんなフレーズも書いている。
要性。これは地域福祉の領域に置き換えても、全く同じ課題である。同じ住民として、お互いの得意・関心分野を活かしながら、「今日のリーダーが明日のフォロアー」という「フレキシブルかつフラットな人間関係」の中で、役割を交換し、お互いの「言い出しっぺ」をみんなで応援していく。それが、カリスマリーダーや行政の補助金に依存していく関係性を脱し、住民ひとりひとりの役割と誇りを生み出すまちづくり、にも通じている。これは、福祉的課題の解決でも、同じロジックで考えられるのではないか、と思いはじめている。そして、このフラノマルシェの産みの親であり、富良野のまちを官民協働で変えてきたお一人である著者の西本さんは、本の最後にこんなフレーズも書いている。
「まちづくりに関わる人間に欠かせないのは『当事者意識』と『やり抜く覚悟』だ」
「まちづくりでつい陥りがちな『ないものねだりの、あるもの無視』という態度をあらため、『あるもの探しのあるもの活かし』に向き合うことこそがまちづくり=まち育てのあるべき姿なのだと思う。」(p212)
「当事者意識」とは、僕が「他人事」から「自分事」へ、と表現していることそのものである。また、「ないものねだり」から「あるもの活かし」とは、僕がよく使う表現で言い換えるならば、「出来ない100の言い訳を考える」段階から、「出来る一つの方法論の探求」への移行である。どちらも拙著『枠組み外しの旅』で考え続けてきたテーマそのものである。
そして、「当事者意識」を持った「あるもの活かし」をメインとしたコミュニティ・ワーク論として、もう一冊の本がつながってくる。
「これまで我々が発達させてきた社会は、様々な立場の個人を分断し、問題ごとに解決策を講じ、お金をかけて解消していくという道筋をたどってきた。老人も、子どもも、働きたいのに子どもを預けられない主婦も、みんな弱者として扱われる。でも、単体では弱者に見える人も、実は他の人の役に立つし、その『お役立ち』は互いにクロスする。クロスすればするほど助かる人が増え、それまで『してもらう負い目』ばかり感じてきた人が『張り合い』に目覚め、元気になっていく。気がついてみれば、孤立していたみんながつながっている。そこには、無縁社会の孤独の中、たったひとりの親の死を隠してまで、その年金にしがみつくといった寒々とした悲壮はない。孤立をなくすために何か対策を講じたのではなく、地域にいる、ハンデほある人たちをどうにか活かすことを考え続け、課題を克服した結果、孤立もなくなっているのだ。しかも、かかるお金は課題ごとに講じる『対策費』より格段に少なくてすむ。」(『里山資本主義』藻谷浩介・NHK広島取材班著、角川書店 p221-222)
老人と知的障害者、児童、生活保護受給者、シングルマザーなど、対象が違うと行政の所轄が違い、「様々な立場の個人を分断し、問題ごとに解決策を講じ、お金をかけて解消していくという道筋」をとってきた。だが、つながりがきれた「単体」としては「弱者」であっても、様々な関わりを取り戻す中で、それぞれの「弱者」の持つ潜在的能力や役割、可能性を発掘する事が出来ないか。そして、そういった多くの人びとの「お役立ち」を「クロス」させ、要支援者という立ち位置に「『してもらう負い目』ばかり感じてきた人が『張り合い』に目覚め、元気になっていく」。これこそ、全人的復権、という意味での地域におけるリハビリテーションそのものである。身体機能の回復、安心・安全の確保だけでなく、その地域で役割や誇りを持って自分らしく楽しく生きていくこと、これこそリハビリテートの考え方そのもの、なのだ。(ちなみに福祉の世界で、リハビリの概念を変えた取組は次のHPを参照)
「地域にいる、ハンデほある人たちをどうにか活かすことを考え続け」る。その中で、広島の中山間地の社会福祉法人は、空き家をデイサービスに改築し、そこに通うお年寄り達の育てる野菜を買い取って社会福祉法人で地産地消に励み、対価として地域通貨も払う。また、野菜の集荷などに、地元の障害者を雇用する。「里山資本主義」で紹介されたこの事例もまさに、『あるもの探しのあるもの活かし』そのものである。この活動を進める「過疎を逆手に取る会」とは、「出来る一つの方法論」を徹底的に考えるグループである、とも言える。その中で、誰も目を付けなかった製材屑からペレットを作り、エコストーブやバイオマス発電にまでこぎ着ける。そこから、里山の活用や、コンクリートに変わる集成材の可能性を開発していく。この『里山資本主義』で取り上げられたテーマは、福祉・環境・地場産業・まちづくり・エネルギー政策と領域横断的だが、「その地域の課題を、当事者意識を持った住民達の協働の中で、その地域らしく解決していこうという試み」とまとめることが出来る。これこそ、住民の「地域活動」としての、コミュニティ・ワークそのものなのだ。
「出来る一つの方法論を徹底的に考える」「あるもの探し」としての、コミュニティ・ワーク。この世界は、まだまだ僕が知らない面白さが沢山ありそうだ。そして、その視点で眺めてみたら、灯台もと暗し。山梨の中でも、コミュニティ・ワークの領域での面白そうな実践がいくつか頭に浮かぶ。日常的には地域包括ケアシステムや障害者自立支援協議会の支援というコミュニティ・ソーシャルワークに関わる事が多いが、少し意識して、コミュニティ・ワークという地域活動に目を向け、あちこちに訪ね歩いてみたい。そう感じ始めている。