先週末、本棚を入れ替えたら、積ん読本に新たな光が差してきた。そして、1年以上書棚で待ってくれていた本を、ようやく手に取る。読み出したら、貪るように読み終えていた。
「かえりみれば教師から級友からいじめに遭ったとき以来、私はそのことに異議を申し立てたり、不快な気持ちを訴えたり、別のところで新たな人間関係を築こうとしたりはせず、ただひたすら勉学の世界に閉じこもっていた。20代のある時期まで、いつも自分にこう言って聞かせた。『人間は裏切っても、勉強は裏切らない』と。考えてみれば、私にとって勉強とは常同行動そのものだった。(略) 私は自分が思い決めた『勉強の形』に固執した。『形がすなわち意味そのもの』であったから、それは自分が生きて存在することの証でなくてはならなかった。こうして『勉強は裏切らない』という非論理的な観念に呪縛された私は、志望校に合格するという目的合理性ではなく、被虐的なまでの刻苦勉励という行為それじたいに意味を措き、快感を見出してやまなかった。つまり、ある種の精神論、形式美に生きていたのである。」(真鍋祐子『自閉症者の魂の軌跡-東アジアの「余白」を生きる』青灯社、p269)
この本の帯に「自閉少女から東大教授へ。その体験の壮絶な記録」と書かれているように、真鍋さんは韓国の民衆運動や韓国人の内在的論理を研究する東大教授である。拙著『枠組み外しの旅』と同じシリーズである「叢書 魂の脱植民地化」の6巻目に出された本である。この叢書はどれもズシンと重い。それはこの本の最後に「刊行のことば」として編者の安冨歩・深尾葉子両先生が述べているように、「客観主義」という「学術ダム」を決壊させるプロセスの記述、つまりは「対象への問いを通じて自らを厳しく問う不断の過程」だからである。実際、この本を通じて、真鍋さんご自身も、自分自身の生きてきたプロセスや日本社会、韓国社会との向き合い方を問い直すことによって、ご自身のありようを「厳しく問う」こともされている。これこそ、「観察される対象者と観察する私」という「客観主義」に揺さぶりをかけ、決壊へと導くプロセスである。
真鍋さんのこの本が圧倒的に魅力的なのは、彼女自身が「当たり前」に感じていた感覚や行為に揺さぶりをかけ、「自閉症」の構造から捉え直し、そこに新たな意味付与をして、内在的論理を整理し直して言語化する、というプロセスにある。例えば自閉症の常同行動とは、身体を前後にゆらしたり、同じフレーズを繰り返したり、回るものをずっと見続けたり、というパターン化された行動のことを指す。そして、その行動は定型発達の人にとっての「意味」を見出しにくいから、「常同行動」という形でラベリングされている。だが、例えば勉強やスポーツのように、「意味」が強くあるものに拘り続け、繰り返すことをさして、「常同行動」とは言わない。大変熱心に取り組む人、とむしろ、プラスに評価される。
だが、『形がすなわち意味そのもの』であった真鍋さんにとって、定型発達の人が極度に拘る「志望校に合格するという目的合理性」を、重視してはいなかった。「志望校合格」という「意味」ではなくて、その為の手段である勉強という「被虐的なまでの刻苦勉励という行為それじたいに意味を措き、快感を見出してやまなかった」というのだ。これを、定型発達の人(=日本社会のマジョリティ)が聞くと、「信じられない」と返ってくるが、よくよく耳を澄ませてみれば、そういう人は、実は一定の割合でいる。
僕のゼミ生でも、いろんなタイプの学生がいる。例えば過度に他者の評価を気にして、その牢獄に陥って、「ありのままの私」は努力不足だから、認める事が出来ない、という学生もいる。他方、他人は他人で、どれだけ褒められても評価されても、その評価という「意味」を求めようとしない学生もいる。ある学生には喉から手が出るほど希求して止まない他者評価を、全くといってよいほど重視しない。前者にとって「仙人」のように映る後者の学生の内在的論理を伺うと、実は他者と自分の感覚や志向のズレを小さい頃から自覚していて、「他人と同じように出来ない事」を悩んでいたりする。そういう学生の中には、真鍋さんと共通の方向性を持つ人がいる。
ゼミ生の中には、その自らの独特さについて、「自閉症」の論理との共通性を見出し、卒論を書いた学生もいる。その学生達の研究や発言から学んだのは、例えばスポーツ、特に個人競技に秀でた学生の中には、練習そのものを、結果的には「常同行動」のようにこなす人もいる、というリアリティだ。例えば大会で優勝する、とか、オリンピックに出る、とか、マジョリティからみたら「羨ましい」と思える成果を出している人であっても、成果=意味、と捉えるならば、『形がすなわち意味そのもの』である人にとっては、それは重要なことではない。大会で勝っても、どことなく他人事として眺めている自分がいて、周りの喜びようや、大会に向けた他者からの圧力やプレッシャーも、何だか違和感をもって受け止めている。それは、本人にとっては、その大会にどんな「意味」(関東大会、日本の王座決定戦、オリンピックの出場権争い・・・)が込められているか、という「目的合理性」に価値があるのではなく、「常同行動」的な「形」の反復こそに、意味や価値を見出しているからである。
そして、勝負そのものに強いのは、実はこういうタイプの人なのかも知れない。他人が期待していると、そのことがプレッシャーになるタイプ、とは、他者の期待や評価を内面化し、それを自分自身の中に取り込んで、その査定に合う・合わない自分を勝手に評価しようとする行動である。それをすれば、緊張し、ガチガチになり、パフォーマンスは下がる。これは、僕自身にとっては合気道の演武会がまさにそうである。「みんなの前で演武する」という「意味」に居着いてしまい、そこから自由になれず、その意味に固執することで合気道の形がグダグダに崩れていく、ということを指す。
だが、このような「意味」から自由になる人にとって、他者の期待や評価の重要性は極めて低い。普段の練習と、師匠やコーチの前での練習と、観客の前でのパフォーマンスにおける差は、遙かに小さい。なぜならば、「人に評価されている」という「意味」に重みを付けるより、常同的な(いつも行っている)パフォーマンスを繰り返す、という儀式的な側面の方が強いからだ。すると、過剰な「意味」の牢獄に囚われてパフォーマンスを下げる人よりも、普段と同じ感覚で(=常同的に)パフォーマンスを本番でできる人の方が、勝負する前から、その能力が発揮しやすい、ということも見えてくる。
とはいえ、こういうタイプの人だって、仙人ではない。むしろ定型発達の人が何気なく出来ていることに苦しさを感じているのだ。真鍋さんはこうも語る。
「このような定型発達者の無意識のスキルは、最近の言葉で『スルー力』と呼ばれるものだ。了解不能な現実を隠蔽する論理構造は、私の場合、例の『更年期障害』から始まっている。ただし、それはこうむった苦痛の意味を自分に納得させ、相手も同じくらい苦しんでいると思い込むことで憂さを晴らし、一時的にでも楽になることが目的であったから、了解不能な他者の行為の意味を『独立した次元』ととらえるのとは根本的に異なるのである。表面上はスルーしているように見えて、その後も長らく『見返してやる』という思いに縛られてきたのは、了解不能な現実を『欠損』とくくって間接的に受容するまでには至らなかったことを意味する。」(p260)
「了解不能な現実を『欠損』とくくって間接的に受容する」、つまり「見ないことにする」「わかったふりをする」という意味での「スルー力」を持ちにくい、という。定型発達の人は、形より意味にこだわるので、逆に言えば、意味さえ付与すれば、スルーできてしまう。「ああいう人だから」「世の中、そういうもんだから」とラベルを付けても、本当のところは、何もかわらない。でも、「とりえあえずそういうこと」という意味付与が出来れば、「了解不能な現実を隠蔽する論理構造」は通ってしまう。まさしく、「スルー」する事が出来る。
でも、意味より形にこだわりがつよいと、「了解不能」であるという「形」こそに、こだわってしまう。他人と話していても、価値観が違うので話が合わない、と悩んでいる学生もいる。でも、定型発達の学生だって、実のところ、価値観が相手と合っているとは限らない。ただ、「スルー力」が高くて、「了解不能な現実を隠蔽する論理構造」を上手に働かせて、「わかったふり」をして、相づちを打っているだけ、かもしれない。だが、そのような意味付与が苦手だったり、そのような意味付与に「意味を見いだせない」人にとっては、了解不能な現実という「形」こそが気になってしまう。それが、日本社会の中での「生きづらさ」とつながってくる部分があるのかもしれない。
そのことを越える為には、冒頭でもちょっとだけ触れた、安冨・深尾先生の「刊行のことば」が手が掛かりになりそうだ。
「何かを知りたいという、人間の本性の作動は、知ろうとする自分自身への問いを必然的に含む。対象への真摯な探求を通じて、自らの真の姿が露呈し、それによって更なる探求が始まる。これが知ることの本質であり、これによって人は成長する。この身体によって表現された運動を我々は『魂』と呼ぶ。(略) 『魂の脱植民地化』とは、この<知>の円環運動の回復にほかならない。それは、対象への問いを通じて自らを厳しく問う不断の過程であり、修養としての学問という、近代によって貶められた、人類社会の普遍的伝統の回復でもある。『魂の脱植民地化』研究は、この運動を通じて、魂の作動を阻害する暴力を解明し、その介助を実現する方途を明らかにしようとする学問である。」
長くなったので触れられないが、真鍋さんは、韓国社会や韓国の社会運動との出会い、そして大学院生時代の「研究」における試行錯誤を通じて、「知ろうとする自分自身への問い」と直面された。そして、そこに蓋をして、「客観主義」の作法を身につけ、その枠組みに当てはめて「わかったふり」をすることなく、「自らの真の姿」の露呈にひるむことなく、「それによって更なる探求」への旅に漕ぎ出された。そのような「<知>の円環運動」が、本書の中に余すことなく記載されている。
副題の「余白」に関して、真鍋さんは「既成の構造」からのの「裂け目」(p319)とも表現している。これは、同調圧力の強い日本社会においても、様々な境界線上に「裂け目」があることを意味している。真鍋さんは韓国研究を通じてその「裂け目」に出会われたが、例えばそれはトップスポーツ選手が何らかの事情で「引退」した時や、就職や転校など、あるいは東日本大震災といったカタストロフィー時など、場や文脈が大きく変わることで、自明的なはずの意味に「余白」が生じる瞬間でも、「裂け目」は生じる。だが、私たちは往々にして、その「裂け目」に対して「見ないふり」をして、ひたすら昨日と同じ今日という「常同的日常」に意味を持たせようとする。だが、反復する形が昨日と今日では大きく異なっているのに、同じだと扱う「常同的日常」自体が、同じ形の反復にこだわってきた人にとっては、「了解不能な現実を隠蔽する論理構造」に映ってしまうのだ。そして、研究とは、そのような「常同的日常」の「裂け目」や「ズレ」を、そのものとして指摘し、そのような「裂け目」という「対象への問いを通じて自らを厳しく問う不断の過程」でもある。それが、結果的に「魂の作動を阻害する暴力を解明し、その介助を実現する方途を明らかにしようとする学問」へと繋がっていく。
非常に多くの事を真鍋さんの著作から学ばせていただいた。