社会の“設定”を問う

昨年、『家族は他人、じゃあどうする? 子育ては親の育ち直し』という子育てエッセイを書いた。その執筆中において、育児エッセイの類いは一切読まなかった。読んでしまったら、原稿が書けなくなるのではないか、と恐れたからだ。

今回、人に勧められて読んだ松田青子さん『自分で名付ける』(集英社)を読んで、改めてそう思った。この著者には、かなわない、と。同じような経験をしていても、描写の鮮やかさ、状況から感情を掬い取るセンス、それをことばの配列にする力。そういったものは、文学的センスがあると、キラリと光るのだ。

「妊娠中にはじめて気づいたのだが、電車の乗り降りの時間も短すぎる。
妊娠後期にさしかかる頃、一般的な帰宅時間の、わりと混んでいる電車に乗っていたら、降りる際に後ろにいた男性に背中をぐいぐいと強い力で押された。
彼は私が妊婦だと気づいていなかったかもしれないが、それは本来、妊婦じゃなくてもやってはいけないことだし、そうしないと無事に降りられないかもしれない人を焦らせる電車の“設定”、ひいてはそうしないと仕事や生活が円滑に回らないとする社会の“設定”がおかしいんじゃないだろうか。余りがない。ギリギリすぎる。」(p141)

これは僕も子育てをして、ベビーカーを押し、小さな娘の手を引いて電車に乗るようになって初めて気づいたことである。そして悲しいけど、以前はぐいぐい押す男性の論理を内面化していたことも。ジョルダンで調べて、最短距離で最速の時間で移動しないと、次の予定なり電車に間に合わない! そればっかり気にしていたら、その「障害物」になる存在は「じゃま」に映るのだ。

でも、人間を「障害物」であり「じゃま」と捉えた発想を内面化していたぼく自身は、前回のブログで書いた『モモ』でいうなら、時間泥棒に心身とも支配されていたのである。「時間節約をしてこそ未来がある!」と。

そして、妊娠や出産、子育てをするようになると、この時間泥棒の論理の外に出ざるを得ない。だからこそ、の気づきが、小説家であり翻訳家でもある松田さんの手にかかると、こんなにも鮮やかに描写されている。これは、研究者の僕にはかなわん!と。

そして深く共感するのが、それは押してくる男性の属人的問題ではなく、「そうしないと仕事や生活が円滑に回らないとする社会の“設定”がおかしいんじゃないだろうか。余りがない。ギリギリすぎる」という「社会の“設定”」の問いにしている点だ。急がなければならない、周りを配慮する余裕がないのは、個人が粗忽なせいだ、というだけでなく(もちろん粗忽も問題なのだが)、この社会では「余りがない。ギリギリすぎる」という“設定”になっていて、それが大問題だ、というのである。

そして、それは子育てを通じて変容せざるをえない女性と、変容を迫られていない男性の非対称性の課題でもある。事実婚のパートナーであるX氏について、松田さんはこんな風に書いている。

「Xがいなければ、非対称性に気づかずにいられるし、大変さも自分の中で完結するから精神的にもっと楽、という事実は、なんとも言えないものがあったが、新しい事実でもなかった。このエッセイ集の担当編集者Kさんの友人は、学生時代、性差別について話すKさんを茶化していたけれど、自身の妊娠中、つらい体を抱えている自分と何一つ変わっていない夫との差をまざまざと実感し、トイレで一人号泣。Kさんの言っていた意味がわかったという連絡があったそうだ。」(p175)

男性の僕は生理も妊娠もできない。だからこそ、生理痛もわからないし、つわりのしんどさもわからない。これは生物学的事実である。だが、そこに、「想像力」とか「共に○○できるか」という補助線が入ると、大分景色が変わってくる。夫の方は、妻が妊娠しても、以前と同じように酒も飲めるし、オールナイトのイベントも行ける。なぜなら、妻が妊娠しても「何一つ変わっていない」からだ。実際、X氏もそうしていたので、松田さんは激怒していた。ぼく自身も妻が妊娠してから出張は少しは減らしたけど、ゼロにはしていなかった。以前の延長の仕事の仕方を変えてはいなかった。

だが、僕たち夫婦は幸か不幸か、親類縁者から遠く離れた山梨で子育てを始めた。そして、二人とも高齢出産。そういう中では、僕しか妻をケアできる人はなかった。だからこそ、「出張はやめてほしい」と言われた。これは、出産を機に、「あなたも変わってほしい」という最後通告だった。この通告に従うのは、僕には身を切るように痛かった。なぜなら、時間泥棒の論理の外に出なければならなかったからだ。妻は、つわりが来て、子どもを産んで、という生物学的な変化を経ているので、「そうせざるをえない」状態だった。でも、僕は生物学的には何も変化していなかった。にも関わらず、結婚生活を続けるうえで、夫婦関係の上で、「そうせざるをえない」状態に追い込まれた。ここまでにならないと、妻のしんどさが理解できなかった。

だからこそ、この本は、子どもを持ちたい・現に子育て中の父親にこそ、是非こそ読んでほしいと思う。前半は、男性中心主義の日本社会が、妊婦や子育て中の母をどう追い詰めるか、それが松田さんにとってどういらつくか、が赤裸々に書かれている。正直、ぼく自身も読んでいて、身につまされ、いててと思い、彼女の怒りの刃が自分に向いているのではないか、と怖くなることもあった。でも、彼女の怒りは、X氏にだけでなく、X氏がそれを当たり前と思っている「社会の“設定”」に向かっているのである。男性と女性の非対称性が極限になる妊娠・出産を経験したものとして、この「社会の“設定”」があまりに非合理に満ちているのではないか、と怒っているのだ。これは、めちゃくちゃ共感する。

でも、彼女は子育てをして、自分の時間を奪われた、と思っていない。お子さんのOさんとの日々について、こんな風にも書いている。

「Oと一緒にいる時に、Oに合わせるのは、Oがこの世に生まれた瞬間からすでに当たり前のことになっていて、その間に自分の時間が消えていっているという事実は、自分で思っていた以上に感じにくかった。
なぜなら、Oという存在が面白かったからだ。
まだできないこと、できるようになったこと、はじめてのこと、が毎日のように更新されていくOといると、あまりにも面白く、それだけで、それも、立派な私の時間だった。」(p169-170)

改めて書き写していて、素敵な表現だと思う。

確かに子どもには手を取られる。我が家でも妻と二人で娘のことを、「めちゃくちゃかわいいけど、めちゃくちゃややこしい存在やな」としばしば言い合っている。でも、それを「自分の時間が奪われている」と感じると、そこに自分中心主義というか、自分の時間を阻害する子ども、という論理が見えてくる。でも、松田さんは、そうではなかった。「Oという存在が面白かったからだ」というのは、その通り。子どもは、本当に面白い存在だと、うちの娘を見ていても思う。

そして、それは「立派な私の時間だった」し、それだけでなく、立派な「私たちのかけがえのない時間」なのだと僕は思う。僕がエッセイを書いたのは、その私たちのかけがえのない時間の面白さを、言葉という形で残しておきたいと思ったからだ。

だからこそ、松田さんのこの素敵な育児エッセイは、自分のエッセイを出す前に読んだら、「こんなの書けないよ!」と落ち込んで自分の原稿が書けなくなっただろう、という意味で、今まで読まなくて良かった。でも今読むと、共感の頷きだらけ、の素敵な本だし、ぜひ女性だけでなく男性も手に取ってほしい。そして松田さんの本を読んだら、もしよかったら、僕の本も手にしてほしい。(最後は宣伝 (^_^))

「時間節約家」からの戦線離脱

ルチャ・リブロの青木ご夫妻と、現代書館の編集者向山さんの4人で、「生きるためのファンタジーの会」を続けている。(その経緯は以前のブログにも書いた)

今回の課題図書は、ファンタジーの代表作とも言えるミヒャエル・エンデの『モモ』(岩波書店)。鉄板中の鉄板で、僕も持っていたし、読んだつもり、になっていた。でも、今回読み直して、以前はちゃんと読めていなかったのではないか、と疑うほど、内容は覚えていなかった。でもいまの僕には深く突き刺さった。

モモは実はダイアローグの名手である。

「小さなモモにできたこと、それはほかでありません。あいての話を聞くことでした。なあんだ、そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって。
でもそれはまちがいです。ほんとうに聞くことのできる人は、めったにいないものです。そしてこのてんでモモは、それこそほかにはれいのないすばらしい才能を持っていたのです。
モモに話を聞いてもらっていると、ばかな人にもきゅうにまともな考えがうかんできます。モモはそういう考えをひきだすようなことを言ったり質問したり、というわけではないのです。ただじっとすわって、注意ぶかく聞いているだけです。その大きな黒い目は、あいてをじっと見つめています。するとあいてには、じぶんのどこにそんなものがひそんでいたかとおどろくような考えが、すっとうかびあがってくるのです。」(p23)

冒頭に出てくるこの部分が、僕は好きだ。そして、深く頷く部分でもある。

「話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって。でもそれはまちがいです。ほんとうに聞くことのできる人は、めったにいないものです。」

話を聞くことは、簡単なことではない。それは聞いているうちに、ついつい聞いているこちら側が、他のことを考えたり、聞いているうちに心に浮かんだことを言いたくてうずうずしたり、としているうちに、「注意ぶかく聞く」ことが疎かになるのだ。ゆっくりと時間をかけて、相手の話を遮らずに、最期まで聞く。しかも、その間、相手に心身を集中する。それは簡単ではない。でも、もしそれが出来ると、相手は自分の話だけでなく、存在そのものも受け止めてもらったと安心する。だからこそ、「あいてには、じぶんのどこにそんなものがひそんでいたかとおどろくような考えが、すっとうかびあがってくる」のだ。

そんな貴重な存在が街の噂になり、「モモのところに行ってごらん」と口々に唱えるようになった。だからこそ、彼女は色々な人から食べ物を提供され、満足した生活を送れていた。時間泥棒の灰色の紳士たちがやってくるまでは。

この灰色の紳士たちは、人々に、生産性や効率性の概念を植え付ける。もっと時間を効率的に使い、短時間でできる限り労働生産性を上げ、無駄なことをするな、という考え方である。そして、モモのところにってじっくり話を聞いてもらう、というのは、金銭的価値を生み出さない、という意味で、無駄なこととカウントされる。

この時間泥棒が植え付けた概念は以下の通りだった。

「時間節約こそ幸福への道!
あるいは
時間節約をしてこそ未来がある!
あるいは
君の生活を豊かにするために—時間を節約しよう
けれども、現実はこれとはまるっきりちがいました。たしかに時間貯蓄家たちは、あの円形劇場あとのちかくに住む人たちより、いい服装はしていました。お金もよけいにかせぎましたし、つかうのもよけいです。けれども、ふきげんな、くたびれた、おこりっぽい顔をして、とげとげしい目つきでした。もちろん、『モモのところに行ってごらん!』ということばを知りません。」(p103)

「時間節約こそ幸福への道」という標語は、ぼく自身の中でも深く内面化していたものである。効率的に働くために、出張中の電車内でもノートPCをカタカタ打ち続け、todoリストを徹底的に潰しながら、原稿をできる限り早く書こうとあくせくしてきた。でも、そうやって時間節約に必死になっていた時は、「ふきげんな、くたびれた、おこりっぽい顔をして、とげとげしい目つき」だったと思う。そして、多分その時代に『モモ』を手に取ったとしても、内容を理解出来なくて、というか、その内容を理解することが己への批判になりそうで恐ろしくて、本質的な理解を拒んでいたのだと思う。もちろん、その当時の僕は「『モモのところに行ってごらん!』ということばを知りません」し、モモのメッセージにも耳を傾けられなかった。

そんな時間泥棒の虜になっていたぼく自身だが、モモが読めるようになったのは、多分二つの契機がある。一つは2017年に受けたダイアローグの集中研修であり、もう一つが同じ年に生まれた娘の存在だ。

2017年にオープンダイアローグの集中研修を受け、対話の認識が文字通り変わった。それまで、相手が話す前に自分が話をしようとしたし、相手が話をしている間も、次の展開をどうすれば良いのか、を必死に考えていた。良い聞き手、ではなかった。インタビュー調査もしていたけど、相手を誘導することもあったかもしれないし、相手により良く評価してもらおうと気の利いたコメントをしていたのかもしれない。とにかく、我が我が、という部分があって、注意深く聞くことが出来ていなかった。

でも、オープンダイアローグの研修で教わったことは、モモが地でいくことである。先入観や専門知識を横において、ただただ相手の話を最期まで遮らずに聞くこと。そして、聞いた内容が合っているか、きちんと相手に確認すること。それに対してコメントや意見をしたくなったら、「いま・ここ」で心に浮かんだことに限定して、相手に確認を取ってから、短めに場に差し出してみること。そうやっていくと、相手の差し出した音と己の音が、一つの音として調和するのではなく、違う音として響き合うポリフォニーが生まれる。すると、そのポリフォニーのあとで、お互いの他者の他者性がよりクリアに理解出来るようになる、というのだ。すると気がつけば、「じぶんのどこにそんなものがひそんでいたかとおどろくような考えが、すっとうかびあがってくるのです」という経験を、ぼく自身も何度もしている。

これは1:1の対話に限らない。ゼミであっても、オンラインの研修打ち合わせであっても、授業の場であっても、「ただじっとすわって、注意ぶかく聞いているだけ」で、物事が動き出し、無理にまとめようとしなくても、自ずからまとまっていく経験を積み重ねてきた。

でも、このじっと聴き続ける、というのは、時間泥棒の敵である。相手が何を話してくれるのか、は予想不可能という意味で、不確実性が高い。一見すると、生産性に乏しかったり、リスクが高まるようにも思える。でも、ここでいう生産性やリスク管理とは、昨日うまくいったやり方の延長線上での今日という意味で、前例踏襲的な生産性・リスク管理である。そこにはまり込むことが「時間泥棒」と言われているのは、ある種の無時間モデルというか、時間的な変化を考慮に入れず、同じことを、同じように繰り返す、という意味で、標準化・規格化された生き方に縮減することだからである。その反復強迫を「世の中こういうもんだ」「どうせいっても仕方ない」と鵜呑みにするからこそ、生産性と効率性は上がり、その分の生きがいのようなものも、時間泥棒に奪われていく。

一方、そういう灰色の世の中に対して、モモは決然とNOを言う。安易に従おうとしないし、人々の生の実存や喜びをじっくり分かち合いたいと願う。そういう、ある種の「前近代性」というか時間の呪いから自由だからこそ、彼女は時間の国のマイスター・ホラと出会い、時間泥棒たちとの命がけの闘いに向かうことが出来たのだ。

10歳くらいの読者には、そのモモの問いかけを、ストレートに受け止める器量があるのだろう。でもこの本を最初に買い求めたのは、奥付から想像すると1996年なので大学生のころ。すっかり僕は能力主義の虜だった。大学院生の頃とか、社会人になって、何度か読もうと思ったが、そういえば挫折していたのだと、改めて思い出した。

そんな僕がモモを読める主体に変化したもう一つの理由が、僕にとっては子育てだ。特に子どもが小さかった頃、子どもの全存在と向き合う日々で、家事育児に必死になっていたら、時間泥棒の入る隙間がない。その当時は「戦線離脱」と思い込んでいたけど、今となっては、「時間節約家」としての戦線離脱だったのかもしれない。そう考えたら、これは名誉な撤退ではないか!と改めて気づくことが出来た。

ただ、あまり書きすぎると、オムラヂの収録で話すことがなくなるので、今日はここまで。『モモ』を巡る対談の収録も楽しみだ。

支配ではなく対話を

信田さよ子さんの本は何冊か読んできたが、彼女の古典的名著は手つかずだった。今回、新版として出された『アダルトチルドレン 自己責任の罠を抜けだし、私の人生を取り戻す』(学芸みらい社)を読んで、多くのことを学んだ。

「“べき”で通し、正しいことを行っている家族がどうして寒々として息苦しいのでしょうか。“べき”とは外側の基準に自分を合わせていくことです。『今』『この』『私の』肯定は、そこにはありません。基準に合致した自分だけが許される。今の家族は条件つきの自分しか許されない場になってしまっています。もうひとつ、“べき”とは、宗教的な意味合いも含んでいます。教義に照らし合わせることで行動の指針を決めているからです。言い換えると、“べき”は裁きの言葉でもあります。勉強すべき、妻は〜すべきという言葉が毎日飛び交うのは、まるで裁判所のようではないでしょうか。これほど息苦しいものはありません。」(p93)

この本の副題に書かれている、「自己責任の罠を抜けだし、私の人生を取り戻す」ためにまず大切なのは、“べき”(=should, must)から逃れることだ、と信田さんは説いている。『今』『この』『私の』無条件な肯定はそこにはない。そうではなくて、親や先生、大人や世間などの「外側の基準」に合致したときだけ許される。そういう条件付きの承認が“べき”なのである。さらに、査定基準としての「裁きの言葉」を内面化することで、それができていない自分をどんどん追い込んでいく。たしかに、学生さんを見ていても、そのような“べき”に追い込まれ、苦しんでいる、でもそこから抜け出せない人は沢山いるようだ。

その際、信田さんは「内なる親」との闘いを勧めている。

「インナーチャイルドよりも『インナーペアレンツ』(内なる親)に注目すること、これは自分で自分をではなく、自分のなかに棲みついた親をどうするか、という作業につながります。親に傷つけられた傷を癒やすのではなく、自分のなかにいる親との関係をどうしていくかという問題だと考えるからです。
日本の場合、ACの苦しみは、親の人生と子どもの人生が未分化で、融合的に『おまえのためだよ』とか『普通でいなさい』とか『人に迷惑をかけちゃいけません』などのように、正しさや常識とともに植えつけられるものが、真綿で首を絞められるようにその人を追い詰めていくことにあります。『親の恩』『親子の絆』とか『私が世話をしないとあなたはダメ』など・・・。
『私がいないとおまえはダメになる』というくらい親にとって甘美な言葉はありません。親の支配の万能さを表しています。」(p115)

大学生を見ていて、「自分のなかにいる親との関係をどうしていくかという問題」を抱えている人が結構いるように思う。私の勤務する大学は「良い子」が多い。そういう良い子の中には、『おまえのためだよ』とか『普通でいなさい』とか『人に迷惑をかけちゃいけません』というフレーズを内面化して、自分の気持ちよりも墨守すべき基準(=“べき”)と頑なに守っている学生達が少なからずいる。それは親や先生、大人による「支配」だと信田さんは喝破する。そして、そういう外的規範が「内なる親」として子どもの中に棲みついた時、「真綿で首を絞められるようにその人を追い詰めていく」のである。

本書のタイトルは、アダルトチルドレン(AC)である。元々はアメリカでアルコール依存症の親を持つ子ども(Adult Children of Alcoholics)の独特の問題として論じられていた。「共依存」や「機能不全家族」という言葉とともに、日本でも爆発的に広まった。

だが、信田さんの慧眼は、このACの根幹に「支配」関係があると見抜き、それは決してアルコール依存症の親を持つ子に限らないと、喝破した点にある。

「私たちはACというコンセプト、ACという言葉で、現代の大多数の、典型的な中流家庭のなかで育ったとてもいい子たち—まわりの目を気にし、周囲の期待を先に先に読んで、おもしろおかしくしてその場をもたせて、明るさを支えている若者たちの、ある苦しさを切り取ることができます。」(p68)

授業やゼミなどで、「とてもいい子たち」の声を聞き続けてきた僕としては、信田さんのいうことがすごくよくわかる。「まわりの目を気にし、周囲の期待を先に先に読んで、おもしろおかしくしてその場をもたせて、明るさを支えている若者たち」は、結構な割合で、生きづらさや苦しさを抱えているのだ。そして、それが「内なる親」や“べき”という外的基準であり、「支配」の問題だと言われると、誠にその通りだと頷く。

「なぜACが肯定言語かというと、まず、ACの基本が『親の支配を認める』ということにあるからです。つまり、ACとは親の支配を読み解く言語なのです。
ACとは私たちの生まれ育った家族における親の影響、親の支配、親の拘束というものを認める言葉なのです。つまりそういう支配を受けて今の私がいるということ、まったく純白のところから私たちが色をつけられたのではなくて、親の支配のもとにあって、影響を受けながら今このように生きていることを認める言葉なのです。自分がこんなに苦しいのは、『私がどうも性格がおかしいのではないか』とか、『私が意志が弱かったのではないか』ということではなくて、そこには親の影響があったのだと認めることで、『あなたには責任はない』と免責する言葉でもあるわけです。」(p210)

親として6年暮らしてきたから、よくわかる。「親の支配」は厳然として存在する。そして、私は子どもを支配しようとしているとき、自分自身もまた親に支配されてきたこを、遡及的に思い出す。そして、接している学生達が生きづらさや苦しさを感じている時に、しばしば耳にするのが、『私がどうも性格がおかしいのではないか』とか、『私が意志が弱かったのではないか』というフレーズなのである。だからこそ、虐待を受けたり自傷他害に巻き込まれていない家庭の子どもであっても、「親の支配」が真綿で首を絞めるように及んでいる子どもたちに対しては、『あなたには責任はない』といわなければならない。そして、ぼく自身は娘を「すべきだ」とか「あなたのため」とか「普通でいなさい」というソフトな呪いの言葉で隔離拘束したくない。心から、そう思う。

そして、信田さんは「共依存」や「機能不全家族」にも、新たな光を指し示す。共依存は、アルコール依存症の夫に依存する妻、という文脈でいわれていて、妻が夫をそそのかす、という文脈で使われていたが、それは夫の暴力を免責し、被害を受ける側にも問題があったとする「被害者有責論」につながる危険な発想だという。その上で、以下のように指摘する。

「むしろ共依存は親子関係に代表される『ケア』することの支配性を指摘する言葉として大きな意味を持っています。母親が世話をするという形で子どもを支配し、教育やしつけという形で子どもを自分の思い通りに方向づけて縛っていく姿については、カウンセリングの場で息子や娘の立場から長年聞かされ続けてきました。(略)こうした親は、『すべて子どものために』といいますが、実は、親が子どもへの支配感を満足させるために子どもが自分の思い通りに成長しているかどうかを確認するためであることが多いのです。自分の今の生き方に対する空虚感や不全感を、子どもや夫の面倒を必要以上に見て、自分のいいように仕立てることにすり替えていく、こうして自分の支配感を満足させることができます。」(p50-51)

母親による子どもの支配。それは、父親の不在や欠損とつながっている。父がワーカホリックだったり、家で存在感がなかったり、暴力を振るったり、という中で、母親は「自分の今の生き方に対する空虚感や不全感」を、父親との対話の中で解決することができない。だからこそ、子どもを支配することで、「教育やしつけという形で子どもを自分の思い通りに方向づけて縛っていく」ことで、代償的に実現しようとする。しかも、自分自身の自己実現なら、自分で満ち足りた感覚を抱くことができるが、自分ではない子どものことゆえに、なかなか空虚感や不全感は埋まらない。80点取れたら100点を求めるし、良い高校に入ったら、次は大学で会社で・・・とその要求はエスカレートする。『すべて子どものために』という錦の御旗の下で行うから、子どもは簡単には反論できず、でも“べき”を押し付けられていくから、生きづらさをどんどんため込んでいく。母の支配感の持続は、子どもも摩滅を代償に得られるのだ。なんと不幸な関係!!

こういう不幸な母子の世代間密着を越えるにはどうしたらよいか。システム家族論では世代間密着を「世代間境界の侵犯」と捕らえる、と規定した上で、信田さんは次のように述べる。

「世代間境界の問題は、夫婦の関係の重要性を訴えているのです。その理由は、本書すべてを使って訴えていることに重なります。親(なかでも母)は夫婦仲良く、支えられ支える関係を子どもに見せていなければならないからです。なぜなら、子どもは母の不幸、母の不全感を背負い、自分が悪いのではないか、自分がそうさせたのではないかと思うからです。
子どもを幸せにするには、母が父から支えられていること、そしてある程度満たされて生きていることが、いちばん根底にある条件なのです。」(p162)

母が子どもに必要以上に執着するのは、母が父から支えられていないからである。このメッセージは、本書で通奏低音をなしている。そして、フラストレーションを抱えて子どもを支配している母親達は、夫婦関係が悪く、夫を罵り、馬鹿にして、諦めている。一方、夫もまともに妻に話しかけていないどころか、仕事を理由にして家に寄りつかなかったり、家にいても自室に閉じこもってゲームをしていたり、暴力を振るったり、家族に無関心だったりする。つまり、妻と夫がまっとうに向き合って対話していないからこそ、妻はそのエネルギーを子どもに向け、世代間境界を侵犯するのである。

だからこそ、母が父から支えられ、父も母から支えられ、という「支えられ支える関係」を取り戻すことが、子どもの安心安全に直結する、という信田さんの指摘は、深く頷く。幸い、僕たち夫婦は、高齢出産ということもあり、「支えられ支える関係」を築かないと子育ては成立しなかった。だが、それはぼく自身が、子育てを始めてやっと「仕事依存症」に気づき、禁断症状を抱えながらも、そこから距離を取ってはじめて、できたことである。それに気づけていないと、家族関係は最悪な悪循環に陥っていたと思うと、本当に冷や汗ものである。

最後に、家族機能が欠損していたり、問題を抱える家族を指して、以前は「機能不全家族」と呼んでいただが、信田さんは25年前に本書の元本を作った時と違って、いまはもう使わない、という。

「どこかに機能十全な(完全に機能する)家族があるというのは誤解であり、そんな幻想を抱かせる言葉は、犯罪的であるとすら今は考えているからです。」(p245)

この指摘にも、心から同意する。「機能十全な(完全に機能する)家族」というのは、理念型というか幻想というか、どちらにせよ、現実には存在しない。僕の原家族(両親と兄弟)だって完全に機能していた家族ではないし、僕と妻と娘の家族にだって、至らない点は沢山ある。どこの家族も、なんらかの歪みや至らなさ、欠損を抱えているのであって、機能不全家族がデフォルトなのだ。「うちは機能十全家族です」と誇るような人がいたら、その人の闇は相当深いと思う。

そういう意味では、機能不全家族がデフォルトな社会において、親による子どもの支配から自由になるためにはどうしたらよいか。それは、親が子どもに過剰な期待を抱くのではなく、支配に自覚的になり、なるべく子どもが親から自立して行動できるように応援することなのだと思う。そして、妻と夫は、子どもにのみ注力する(支配欲を行使する)のではなく、子どもを育てながらも、ユングのいう「個性化」を果たしていくことが大切なのだと思う。そのためには、親が子どもを支配するのではなく、夫婦と子どもの間での対話を重ね、支えられ支える関係性を育みつづけられるか、が改めて鍵だと感じた。ものすごく面倒だけれど、こういう地道な対話の積み重ねこそが、隘路を開く入り口にあると思う。