昨年、『家族は他人、じゃあどうする? 子育ては親の育ち直し』という子育てエッセイを書いた。その執筆中において、育児エッセイの類いは一切読まなかった。読んでしまったら、原稿が書けなくなるのではないか、と恐れたからだ。
今回、人に勧められて読んだ松田青子さんの『自分で名付ける』(集英社)を読んで、改めてそう思った。この著者には、かなわない、と。同じような経験をしていても、描写の鮮やかさ、状況から感情を掬い取るセンス、それをことばの配列にする力。そういったものは、文学的センスがあると、キラリと光るのだ。
「妊娠中にはじめて気づいたのだが、電車の乗り降りの時間も短すぎる。
妊娠後期にさしかかる頃、一般的な帰宅時間の、わりと混んでいる電車に乗っていたら、降りる際に後ろにいた男性に背中をぐいぐいと強い力で押された。
彼は私が妊婦だと気づいていなかったかもしれないが、それは本来、妊婦じゃなくてもやってはいけないことだし、そうしないと無事に降りられないかもしれない人を焦らせる電車の“設定”、ひいてはそうしないと仕事や生活が円滑に回らないとする社会の“設定”がおかしいんじゃないだろうか。余りがない。ギリギリすぎる。」(p141)
これは僕も子育てをして、ベビーカーを押し、小さな娘の手を引いて電車に乗るようになって初めて気づいたことである。そして悲しいけど、以前はぐいぐい押す男性の論理を内面化していたことも。ジョルダンで調べて、最短距離で最速の時間で移動しないと、次の予定なり電車に間に合わない! そればっかり気にしていたら、その「障害物」になる存在は「じゃま」に映るのだ。
でも、人間を「障害物」であり「じゃま」と捉えた発想を内面化していたぼく自身は、前回のブログで書いた『モモ』でいうなら、時間泥棒に心身とも支配されていたのである。「時間節約をしてこそ未来がある!」と。
そして、妊娠や出産、子育てをするようになると、この時間泥棒の論理の外に出ざるを得ない。だからこそ、の気づきが、小説家であり翻訳家でもある松田さんの手にかかると、こんなにも鮮やかに描写されている。これは、研究者の僕にはかなわん!と。
そして深く共感するのが、それは押してくる男性の属人的問題ではなく、「そうしないと仕事や生活が円滑に回らないとする社会の“設定”がおかしいんじゃないだろうか。余りがない。ギリギリすぎる」という「社会の“設定”」の問いにしている点だ。急がなければならない、周りを配慮する余裕がないのは、個人が粗忽なせいだ、というだけでなく(もちろん粗忽も問題なのだが)、この社会では「余りがない。ギリギリすぎる」という“設定”になっていて、それが大問題だ、というのである。
そして、それは子育てを通じて変容せざるをえない女性と、変容を迫られていない男性の非対称性の課題でもある。事実婚のパートナーであるX氏について、松田さんはこんな風に書いている。
「Xがいなければ、非対称性に気づかずにいられるし、大変さも自分の中で完結するから精神的にもっと楽、という事実は、なんとも言えないものがあったが、新しい事実でもなかった。このエッセイ集の担当編集者Kさんの友人は、学生時代、性差別について話すKさんを茶化していたけれど、自身の妊娠中、つらい体を抱えている自分と何一つ変わっていない夫との差をまざまざと実感し、トイレで一人号泣。Kさんの言っていた意味がわかったという連絡があったそうだ。」(p175)
男性の僕は生理も妊娠もできない。だからこそ、生理痛もわからないし、つわりのしんどさもわからない。これは生物学的事実である。だが、そこに、「想像力」とか「共に○○できるか」という補助線が入ると、大分景色が変わってくる。夫の方は、妻が妊娠しても、以前と同じように酒も飲めるし、オールナイトのイベントも行ける。なぜなら、妻が妊娠しても「何一つ変わっていない」からだ。実際、X氏もそうしていたので、松田さんは激怒していた。ぼく自身も妻が妊娠してから出張は少しは減らしたけど、ゼロにはしていなかった。以前の延長の仕事の仕方を変えてはいなかった。
だが、僕たち夫婦は幸か不幸か、親類縁者から遠く離れた山梨で子育てを始めた。そして、二人とも高齢出産。そういう中では、僕しか妻をケアできる人はなかった。だからこそ、「出張はやめてほしい」と言われた。これは、出産を機に、「あなたも変わってほしい」という最後通告だった。この通告に従うのは、僕には身を切るように痛かった。なぜなら、時間泥棒の論理の外に出なければならなかったからだ。妻は、つわりが来て、子どもを産んで、という生物学的な変化を経ているので、「そうせざるをえない」状態だった。でも、僕は生物学的には何も変化していなかった。にも関わらず、結婚生活を続けるうえで、夫婦関係の上で、「そうせざるをえない」状態に追い込まれた。ここまでにならないと、妻のしんどさが理解できなかった。
だからこそ、この本は、子どもを持ちたい・現に子育て中の父親にこそ、是非こそ読んでほしいと思う。前半は、男性中心主義の日本社会が、妊婦や子育て中の母をどう追い詰めるか、それが松田さんにとってどういらつくか、が赤裸々に書かれている。正直、ぼく自身も読んでいて、身につまされ、いててと思い、彼女の怒りの刃が自分に向いているのではないか、と怖くなることもあった。でも、彼女の怒りは、X氏にだけでなく、X氏がそれを当たり前と思っている「社会の“設定”」に向かっているのである。男性と女性の非対称性が極限になる妊娠・出産を経験したものとして、この「社会の“設定”」があまりに非合理に満ちているのではないか、と怒っているのだ。これは、めちゃくちゃ共感する。
でも、彼女は子育てをして、自分の時間を奪われた、と思っていない。お子さんのOさんとの日々について、こんな風にも書いている。
「Oと一緒にいる時に、Oに合わせるのは、Oがこの世に生まれた瞬間からすでに当たり前のことになっていて、その間に自分の時間が消えていっているという事実は、自分で思っていた以上に感じにくかった。
なぜなら、Oという存在が面白かったからだ。
まだできないこと、できるようになったこと、はじめてのこと、が毎日のように更新されていくOといると、あまりにも面白く、それだけで、それも、立派な私の時間だった。」(p169-170)
改めて書き写していて、素敵な表現だと思う。
確かに子どもには手を取られる。我が家でも妻と二人で娘のことを、「めちゃくちゃかわいいけど、めちゃくちゃややこしい存在やな」としばしば言い合っている。でも、それを「自分の時間が奪われている」と感じると、そこに自分中心主義というか、自分の時間を阻害する子ども、という論理が見えてくる。でも、松田さんは、そうではなかった。「Oという存在が面白かったからだ」というのは、その通り。子どもは、本当に面白い存在だと、うちの娘を見ていても思う。
そして、それは「立派な私の時間だった」し、それだけでなく、立派な「私たちのかけがえのない時間」なのだと僕は思う。僕がエッセイを書いたのは、その私たちのかけがえのない時間の面白さを、言葉という形で残しておきたいと思ったからだ。
だからこそ、松田さんのこの素敵な育児エッセイは、自分のエッセイを出す前に読んだら、「こんなの書けないよ!」と落ち込んで自分の原稿が書けなくなっただろう、という意味で、今まで読まなくて良かった。でも今読むと、共感の頷きだらけ、の素敵な本だし、ぜひ女性だけでなく男性も手に取ってほしい。そして松田さんの本を読んだら、もしよかったら、僕の本も手にしてほしい。(最後は宣伝 (^_^))