9 years have passed

 

Since I lived in Gothenberg.
学校英語に載っているフレーズそのものを話している自分がいた。
2003年の10月から、2004年の3月までの5ヶ月間、調査研究でスウェーデン第二の都市、イエテボリに暮らしていた。結婚して丸一年が経った時期で、妻も仕事を休んで付いて来てくれた。そう話すと、「羨ましいですね」とよく言われる。僕も、「隣の芝生」としてなら、いいなぁ、と感じるだろう。だがその実、当の本人達は、生き抜くのに必死だった日々だった。
何とか博士号は半年前に頂いたものの、就職先が全く見つからない。そもそも博論を書き終わった1月から、研究者公募サイトを眺め始めて、4月からの仕事にありつけるはずもない。だが、博論調査に必死で、また新しくできた大学院講座の一期生だったため、博論後の人生設計についてアドバイスをもらえる状況では全くなかった。よって、それまで博論完成に向けて全力投球だった日々から、急に「無職」状態に追い込まれる。僕が大学院に入った年から大学院重点化政策が広まっていった為、院生が急増し、一方で若手向けの常勤ポストは高倍率になる、という需要と供給のアンバランスが始まった、と理解できたのも、自分が無職になってから。詰めが甘い、といえばそれに尽きるのだが、とにかく、仕事がなかった。
そんな折り、調査研究チームに加えて頂いた先生のご好意で、海外調査研究に応募するチャンスが廻ってきた。初めての海外長期滞在を、求職中に行くのもどうか、と思ったが、どうせ仕事がないなら、 と思い切ってその話に乗せてもらうことにした。常勤職を持ったら、なかなか長期に海外に行けない、という常識すら、その当時は持ち合わせて居なかったのだから、どこまでも世間知らずだった。
選んだ先は、スウェーデンのイエテボリ。そこに、知的障害者のセルフアドボカシーグループとして国際的にも有名な、Gurundenという団体がある。お世話になった先生もその団体と懇意にしておられ、僕自身も2年ほど前に見学させて頂いたご縁もあった。そんな関わりから、その団体の支援者アンデシュをご紹介頂き、彼をコンタクトパーソンとして、調査をスタートする事になった。研究所や大学を受け入れ先にするのではない、という事が、結構特異であるということも、当然のようにわかっていなかった。
そんな何もわからないひよっこが、いきなりスウェーデンに住むことになった。もちろん、スウェーデン語は全くわからない。関西弁英語も実に怪しい。でも、とにかく行って何とかするしかない。幸いにして研究者公募サイトはインターネット見れるから、スウェーデンから就職活動すればよい。そんな、向こう見ずな「冒険」が始まった。
それは、僕自身にとっては、文字通りの「冒険」だった。
一応のテーマとして、グルンデンセルフアドボカシーの実態を調べることと、彼ら彼女らの活動を支えるスウェーデンのLSSという法律の運用実態を調べること、という二つの課題は持っていた。だが、それをどう形にするか、行ってみなければわからない。いや、それより遥か以前に、受け入れ先の支援者アンデシュは本業で忙しく、なかなかメールでのコンタクトもうまくいかない。仕方ないから、切羽詰まってどぎまぎしながら生まれて初めての国際電話をかけ、なんとかビザもギリギリ発給されるものの、住む場所も決まらず、そもそもアンデシュが空港に迎えに来てくれるか、も半信半疑なまま、とにかく荷物をまとめて飛び立った。留学経験も無いため、何をどれだけ持参してよいのかもわからず、荷造りは出発当日の朝まで全く進まず、妻に叱られながら、何とか手当たり次第にようなスーツケースに詰め込んで、とにかく飛行機に乗り込んだ。もう出発時点で、先の全く見えない旅の始まりだった。
そんな不安だらけの出国だったので、イエテボリの空港でアンデシュが迎えに来てくれただけで、涙が出るほど嬉しかった。なんとか、無事、着いたことに。もちろん、それは試練の終わりではなく、始まりだった。家探しに時間がかかり、ホテルやユースホステルをスーツケースを抱えて転々としていた。やっと決まった借家でも、電話やネット回線を一から契約するのに時間がかかる。携帯電話もインターネットにしても、海外パケ・ホーダイとかWifiなんてなかったので、新たに向こうで回線をひき、電話機やモデムも買い求める。それらの一つ一つのインフラの整備に時間がかかり、かつ全てスウェーデン語での手続きなので、アンデシュの支援がなければ何も始まらない。でも、彼は支援者業務という本業が忙しい・・・。つまり、日本でなら一人でさっさと出来る生活形成の一つ一つを積み上げるのが遥かに大変で、ついでに!調査も始めなければならないので、毎日たいしたことはしていないはずなのに、くたびれ果てる日々であった。
でも、多くの人に支えられ、何とか調査だけは進展し始める。スウェーデン語障害!を持つ僕のサポートは、アンデシュだけでなく、知的障害を持つグルンデンの会長、ハンスが引き受けてくれた。なんでも学校を途中で行けなくなって、家にずっと閉じこもっていた時期があったそうだ。その時期見ていた昼間のテレビは、アメリカやイギリスの映画、ドラマの輸入番組。しかもスウェーデンでは吹き替えをせず、字幕だったので、見ているうちに英語を覚えてしまったそうだ。彼の話を聞いていると、一体知的障害とは何か、がよくわからなくなってしまうが、そのハンスが、イエテボリの21の自治区のソーシャルワーカーへのインタビュー調査にずっと付き合ってくれた。彼がいなかったら、そもそも 調査現場にさえ辿り着けなかったりろうし、英語が苦手な 調査対象者とのコミュニケーションは絶望的だっただろう。
また、現地在住の日本人通訳のTさんにも、公私ともにお世話になった。ノーマライゼーション原理の育ての 父であるベンクト・ニイリエさんに生前にお会いでき、半日の貴重なインタビューができたのは、Tさんのアレンジと通訳の賜物だ。また、それ以外にも、彼女のネットワークを通じて、沢山の現場のインタビューをさせて頂いた。そしてその際は、家で引きこもりがちだった妻も同行させていただき、我々夫婦にスウェーデン生活での細々とした相談に載っていただいた。時にはご飯をご一緒したり、ご自宅にお招き頂いて、日本語で話せる時間と空間を与えてくださったことが、夫婦にとっては本当にこの上なく貴重で有り難い経験だった。
そんな、毎日生き抜くのに必死な日々だったので、今より遥かに時間はあったはずだが、全く生活に余裕はなかった。スウェーデン語を学ぼうとしなかったのも、ズボラではなく、本当にそこまでの余裕が回らなかったのだ。ましてや、イエテボリ市内だけでなく、スウェーデン国内も、殆ど観光に行けていない。今から考えたらもったいない話だが、その当時は、そんな悠長な事を言える器ではなかった。就職活動もうまくいかず、最寄りの郵便局から大学宛てに履歴書を送り続けるも、大半がなしのつぶて。ようやく二次面接にこぎ着け、自腹で!日本まで帰国するも、不採用。そう言えば、面接後、イエテボリに帰る日、関空への橋を渡る列車の中で、別の大学から携帯電話あてに二次面接の通知が届き、当日飛行機をキャンセルして、追加料金をたんまり払い、ましてや、またもや東京まで面接を受けに出かけ、挙げ句の果てに両方不採用、といむ憂き目にもあった。
さらに言えば、白夜で有名なスウェーデンは、裏を返せば冬はほとんど日差しから遠ざかる日々。我々が着いた10月末の一週間は晴天に恵まれたが、その後は「魔の11月」の到来。急に日照時間ががくんと減り、朝九時にならないと明るくならない。スウェーデン人ですら、自殺者が増えるこの時期。やっとスウェーデンに馴染んだ頃の我々には、気候的変化もきつい試練であった。
そういう様々なマイナスカードに喘ぎながらも、なんとかスウェーデンでの五ヶ月間を、文字通り、生き抜いた。
あれから、もう9年。(やっと本題に戻る。今日も前置きにしては長すぎました。)
白夜を知らない、だけでなく、楽しいスウェーデンでの観光をろくに出来なかった妻に、結婚10年の節目に夏の北欧を楽しんでもらいたい。 ついでに、お世話になった方々にも再会したい。そんな思いで、授業が終わった直後に、イエテボリに二人でむかった。
9年ぶりのイエテボリは、ほとんど変わらぬ街並みのまま、暖かく我々を迎えてくれた。お世話になったTさんのお宅に寄宿させていただき、郊外の美しい公園や、街が一望出来るお城にもお連れ頂いた。どちらも、もちろん初体験。初めて、といえば、いつもそばを通り過ぎるばかりだった美術館にも、初めて出かけた。我々が拠点としたお宅を外から眺めたり、よく通った近所の八百屋や魚屋、酒屋のあたりをウロウロもした。やっと、月並みな旅行者として、イエテボリを楽しむことが出来た。
そしてイエテボリを離れる日の朝、休暇中だったアンデシュが何とか時間を作り、会いに来てくれた。彼からその後のグルンデンの発展ぶりや、ハンスを始めお世話になったメンバー達の近況を伺ったあと、ふと、彼にこう漏らした。
「あの当時は全く余裕がない日々だった。あなたに助けてもらわなかったら、私たち二人は生き抜くことは出来ませんでした」
すると、アンデシュは笑顔でこう応えた。
「何にもない中から、調査をやり遂げ、五ヶ月間、二人で暮らしていた。よく、冒険をやり遂げたと思うよ。」
その語りを聴いて、万感の想いが胸にこみ上げた。そして、その科白と出会うために、9年ぶりにイエテボリを再訪したことに、ようやく気がついた。9 years have passed.  僕たち夫婦にとって、時間はかかったが、以前に比べ、少しは成長したことをも実感できた再訪でもあった。

至福を求めよ

「神話の力」のシリーズ映像をYouTubeからダウンロードして、見続けている。そのなかで、神話学者のジョーゼフ・キャンベルが私たちに、こう問いかけている。
「自らの至福を生きているか」
キャンベルはサンスクリット語を研究するなかで、永遠と完全性、そして至福の三つが重要だと知る。そして、生きている間に実現可能なのは、最後の至福だけであると気づく。そこから、自らも至福を求めて生き続け、また教え子達にもせよそう語り続けた。
「至福を求めてごらん。すると、思いがけないところから手がさしのべられ、自らの至福の世界へと至る扉が開かれるよ」
彼の言葉は、神話研究という人間世界の古層を掘り続けてきた第一人者の確信・核心として、強く胸に突き刺さる。深い共感と共に。
僕自身が至福を生き始めたのは、つい最近になってから。それまで、社会の規範的な「空気」や社会的立場に拘束されていた。いや、それはあたかもシートベルトを締めるように、常識になっていた。車の場合は、物理的な事故に陥るリスクに備えてシートベルトをするのは、理にかなった発想である。規範や空気、立場の「拘束衣」に従うのも、車と同様、リスクヘッジだ、と思いこんでいた。
物理的事故への対応のためのシートベルトは、身を守るものである。では、社会的規範や空気、立場という拘束衣は、身体や精神を護ってくれるだろうか。実はその真逆で、身も心も拘束衣の枠の中に押し込め、縛り付ける、奴隷の道具として機能しているのである。そして、その拘束衣の権威と信頼を護る為、その拘束衣から自由になろうとする人のことを、「わがまま」だとか、「狂ってる」とか、「逸脱者」というラベルを貼って、ごく一部のはぐれ者である、と矮小化する。勧善懲悪的二元論で、拘束衣に従うこと=善、という世界観の維持に必死である。科学や医学も、時としてその根拠付けの手段と成り下がる。
その「もっともらしい」世界観は、でも僕やあなた自身の世界観とイコールではない。両者は必ず矛盾だらけである。そのとき、わかったような声で「人間、好きなことばかりしては生きていけない」と囁く声が聞こえる。その声が、拘束衣を纏ったマジョリティから繰り返し聞こえてくる声だからこそ、私たちは惑わされそうになる。「世の中って所詮、そういうものなのか」と。
だがこれは、神話のエピソードを用いるならば、自らの前に立ちはだかる試練、とも言える。人生の大きな岐路において、一見安逸に思える拘束衣世界に留まるか。あるいは、不安や危険に満ちていそうな、自らの個性化という物語世界を切り開こうとするのか。前者に身をゆだねれば、自らの諦めと引き換えに、予測可能な手堅い世界が待ちかまえているように、思われてきた。だから、特に戦後日本では、自己を拘束衣と同一化して、積極的にその服に身体を慣れさせる中で、会社人間的メンタリティーを作り上げた。その結果、物質的繁栄は見事に獲得できた。
今、日本的な拘束衣システムそのものの岐路に差し掛かっている。自らの至福を求めるという個性化に至る道に蓋をして、必死で働いて、獲得した物質的繁栄。そこでは、プライスレスなものまで商業化しようと企てていた。個性化や至福はマーケットえは絶対に買えない、という事実を忘れさせる偽装工作を、拘束衣世界は巧みに構築した。「夢の国」「憧れのブランド」「貴重な逸品」という差違を表す記号は、拘束衣世界の本質を眩惑させた。だが、それは確かに社会的規範や空気、立場の護持には役立つが、自らの至福を切り開くモノではなかった。
自らの至福を追い求めるにはどうしたらよいか?
その答えは、数千年前から、実は変わっていない。自らの内なる声に耳を傾け、魂の想いに蓋をせず、そのワクワクドキドキを維持し、高め続けるしかない。以前に比べて移動や行動、商品獲得の自由はこの数十年で爆発的に増大したが、それと引き換えに情報化社会の中での拘束衣は、よりソフトに、そして巧妙に、しかも着実に、私たちを締め上げようとする。
拘束衣世界に「世の流れだ」と迎合するのか、「にもかかわらず」魂の声に耳を傾け続けるのか。
至福を求め続ける戦いは、極めて現代的な問いでもあるのだ。もちろん僕は、どちらに進むか、とっくに決まっているけれど。

繭とたこ焼き、そしてゼミ合宿

河口湖でのゼミ合宿から帰ってきた。
甲府は今日も過酷な熱波だが、河口湖では夜はふとんをかぶって眠らないと寒かった。たった1時間弱で、全くの別世界。そりゃあ、河口湖の近所に住んでいる某先生が、「甲府にはいられない」という理由はわかります。まあ、冬の雪かきは大変そうだけれど。
実はゼミ合宿というものは、僕は学生時代、経験したことがない。学部生の頃は、「放し飼い」の社会学専攻だったので、指導教官の先生のご自宅や近所の喫茶店で卒論指導を受けていたし、大学院生の頃は、師匠に弟子入りしていたので、師匠のご自宅や近所の飲み屋でご馳走になっていた。(食べてばかり?) つまり、幸か不幸か、僕自身は1:1の指導というものを、ずっと受け続けてきた。
だが、自分が教員になると、事情が変わる。うちの大学では、教員の少なくない数が、自らもゼミ合宿を学生時代に経験され、そして今では主催しておられる。確かに僕が指導を受け持つ学生の数も、僕が指導を受けた大学と比較すると、格段に多い。よって、1:1のお付き合いは物理的に厳しくなる。でも、個々の学生達との関わりの濃度を落としたくない。すると、ゼミ合宿という機会は、実は結構大切な場になりそうだ。そういう事に、赴任して2、3年するうちに気づき始めた。
そこで、確か5年前くらいから始めたゼミ合宿。回を重ねるごとに、その面白さがわかってくる。今年の合宿では、その醍醐味のようなものが、やっと言語化できるようになってきた。
僕のゼミは、テーマを全くの自由としている。以前はそれでも福祉や社会問題、あるいはボランティアやNPOに関するもの、という限定をつけていたが、昨年あたりから、それも放棄した。というのも、こちらがテーマを限定しようとしても、学生たちがそれで「トキメキ」を感じない限り、卒論はうまく仕上がらないからである。これは一体どういうことか?
僕が卒論指導において大切にすることは、実は狭義の意味での「学術性」の担保ではない。こういうことを書くと同業者から怒られるかもしれないけれど、研究者に今のところなる予定のない学生たちに、狭義の意味での学術的方法論を身につけることを第一義的な目的にする卒論は、彼ら彼女らのトキメキと一致しない。もちろん、コピペをしない、とか、引用のルールを守る、とか、先行研究についてはできれば調べてレビューをする、とか、ある程度のお作法は学んでもらう。でも、それが自己目的化したら、学生たちのテーマとのつながりが薄れてしまい、結局のところ、わくわくできない卒論となってしまうのだ。
では、なにを卒論指導で大切にしているのか。それは、学生の自らの実存と直結する、内的なワクワクやドキドキを感じられるテーマを探求すること、である。それは、僕自身の枠組みや守備範囲の中での卒論指導をすることを放棄し、学生たちのテーマに寄り添った、産婆役としての卒論指導に徹する、ということへの方針転換でもある。結構大胆な方針転換だが、ここ二、三年で、気づいたらそうなっていた。その最大のきっかけを作ってくれたのが、四年生のMくんである。
彼は、昨年から「教育をテーマにしたい」と言っていたものの、なかなかそれで自分の中でトキメかなかったらしく、探索が進まなかった。また、ゼミも来たり来れなかったり、というスナフキン的な感じであった。こういうパターンの学生は毎年のようにいるのだが、こちらが鋳型をはめようとすると、一応僕に敬意を払ってくれて、その鋳型にはまろうと涙ぐましい努力はしてくれるのだが、結局うまくいかない事例が多かった。それでもこれまでは、他の方法論を知らなかったので、やいやい口うるさく「ああしたら」「こうしたら」と指導してきたが、なんだかそれもいらぬお節介のような気がして、「まあ、そのうち芽吹くだろう」と放ったらかしておいた。すると、今年度がスタートしてからのゼミで、急に宣言したのである。
「僕のトキメくテーマは、たこ焼き、です」
と。
た、たこ焼き、ですか?
お話を伺えば、築地銀だこが大好きなのだけれど、どうもネット上では、あれは邪道だとか、本流ではない、という悪口がかかれていて、それが悲しい、と。でも、僕は銀だこが大好きで、そういう悪口を言われるのは悲しい、と。そして、銀だこを食べながら卒論をどうしようか、と考えていて、トキメくテーマなら、このたこ焼きこそ、僕がトキメくテーマである、と気づいた、と。
もちろん、それを聞いたとき、一瞬唖然としましたよ、そりゃ。
でも、よく考えてみたら、彼の実存とたこ焼きが深く関係しているなら、そこから内的探求を始めた方が、ぜったいにうまくいくはず、である。そういえば、僕が大学生だった頃、一学年下の後輩たちが「浪速文化研究会」をやっていて、たこ焼きカルチャーの研究もしていたな。粉もん研究ってあったような・・・。そういう古い記憶がよみがえってきたので、これはご縁、とばかりにOKを出した。
で、今日のゼミ合宿での発表は、ある意味ですごかった。
「たこ焼きと世界平和の関係を調べたい」
す、すごいです。でも、よくよく伺ってみると、人種差別はたわいのないことで、人々を差別している。肌の色の違い自体に問題がある訳ではない。人間が、それを問題化しているのだ、と。同じように、銀だこと大阪のたこ焼きのどちらかが優れているか、も人為的ではないか。たこ焼き自体が悪いのではなく、そこに優劣を付ける人間の考え方に問題があるのではないか。
確かにそういわれてみれば、エスノセントリズムやナショナリズムの問題も、国境や民族間で線を引いて差違を際だたせている人間の方に問題があるわけで、この差違の問題をきちんと考えたら、たこ焼き論争にも応用できるの、かもしれない。そう思えば、このたこ焼き研究は結構深いのかもしれない。合宿の中で、こんな議論が深まっていった。
そして、おもしろいのは、そういう風に殻を破ってトキメキを表明する学生が現れると、その学生に背中を押されて、自らのトキメキや実存と結びつく話をし出す後輩たちが出てくる、ということだ。今回の合宿では、つりと哲学、とか、関ジャニと私、とか、そういう議論が展開されていく。もちろん、つりも関ジャニもたこ焼きも、僕の専門ではない。でも、自分の専門で区切りをつける、というのは、あくまでも僕自身がコントロールしようという、管理や支配型の思考だ。そう、今日のゼミ合宿をしていて気づいたのは、実は僕自身が、管理や支配的なゼミ運営を放棄した、ということなのかもしれない。僕が専門として指導できる範囲の内容に無理して学生たちを押さえ込もうとしたら、どうしてもその鋳型にはまらない学生たちが出てくる。そのとき、僕の考えを押しつけるのではなく、彼ら彼女らのトキメキに正直であってもらう。その結果、僕がぜんぜん専門外のテーマになったとしても、そこから出たとこ勝負で応援するしかない、そう踏ん切りができたのかもしれない。
こうなると、ゼミ合宿の意義は大きくなってくる。
僕がある程度予想や予見可能性が高いテーマであれば、合宿をしなくても、ゼミという限られた時間内でもコントロール可能だ。だが、学生たちの主体性や自主性、トキメキやワクワクを大切にする、ということは、彼ら彼女らの本音や想い、願いにじっくり耳を傾けなければならない。3年生は8人、4年生は4人いて、毎回のゼミで何名かに発表してもらい、全員から質疑応答してもらうスタイルでゼミを進めているのだが、このじっくり聴く、ということは、どうしても限られたゼミ内では限度がある。すると、どこかで一度根を詰めて、時間を気にせず、ゆっくり語り尽くす場面が必要になる。
すると、木曜午後の1時間半〜3時間、僕の研究室で、という限られた枠組み、時間内、のスタイルが、その彼ら彼女らのトキメキやワクワクを表明する上で、限定条件となる。もっと本気で自らも語り、仲間の語りに耳を傾ける、というある程度の時間とゆとりをもった集中的な議論の場がないと、その個々人の実存と向き合うことはできない。よって、ゼミ合宿は、そのような殻を破る場、となるのである。
今年のゼミ合宿も、多くの学生たちが、普段のゼミより何歩も自らの内側に入り込んで、内面に切り込んだ、自らの実存に密接に関連するテーマで発表をしてくれた。その後、議論もずいぶん深まった。土曜の午後の4時間半、そして日曜の午前の3時間半、と合計8時間の、実に濃密な時間。それは、あたかも蛹が繭の中で、孵化する時間のような、24時間寝食を共にする、濃度の濃い、かつゼミ内で閉ざされた時間と空間。だが、そういう共振の場の中で、共有化がはかられ、やがてその中から、一人一人のゼミ生のオリジナリティが生まれてくる。それが、非常に興味深い内容として発展し、他のゼミ生に伝播する。
このような間主観的な相互作用が現れる場として、ゼミ合宿は非常に効果的だな。
5回目にして、ようやくその効能が少しは言語化できたような気がした。