「神話の力」のシリーズ映像をYouTubeからダウンロードして、見続けている。そのなかで、神話学者のジョーゼフ・キャンベルが私たちに、こう問いかけている。
「自らの至福を生きているか」
キャンベルはサンスクリット語を研究するなかで、永遠と完全性、そして至福の三つが重要だと知る。そして、生きている間に実現可能なのは、最後の至福だけであると気づく。そこから、自らも至福を求めて生き続け、また教え子達にもせよそう語り続けた。
「至福を求めてごらん。すると、思いがけないところから手がさしのべられ、自らの至福の世界へと至る扉が開かれるよ」
彼の言葉は、神話研究という人間世界の古層を掘り続けてきた第一人者の確信・核心として、強く胸に突き刺さる。深い共感と共に。
僕自身が至福を生き始めたのは、つい最近になってから。それまで、社会の規範的な「空気」や社会的立場に拘束されていた。いや、それはあたかもシートベルトを締めるように、常識になっていた。車の場合は、物理的な事故に陥るリスクに備えてシートベルトをするのは、理にかなった発想である。規範や空気、立場の「拘束衣」に従うのも、車と同様、リスクヘッジだ、と思いこんでいた。
物理的事故への対応のためのシートベルトは、身を守るものである。では、社会的規範や空気、立場という拘束衣は、身体や精神を護ってくれるだろうか。実はその真逆で、身も心も拘束衣の枠の中に押し込め、縛り付ける、奴隷の道具として機能しているのである。そして、その拘束衣の権威と信頼を護る為、その拘束衣から自由になろうとする人のことを、「わがまま」だとか、「狂ってる」とか、「逸脱者」というラベルを貼って、ごく一部のはぐれ者である、と矮小化する。勧善懲悪的二元論で、拘束衣に従うこと=善、という世界観の維持に必死である。科学や医学も、時としてその根拠付けの手段と成り下がる。
その「もっともらしい」世界観は、でも僕やあなた自身の世界観とイコールではない。両者は必ず矛盾だらけである。そのとき、わかったような声で「人間、好きなことばかりしては生きていけない」と囁く声が聞こえる。その声が、拘束衣を纏ったマジョリティから繰り返し聞こえてくる声だからこそ、私たちは惑わされそうになる。「世の中って所詮、そういうものなのか」と。
だがこれは、神話のエピソードを用いるならば、自らの前に立ちはだかる試練、とも言える。人生の大きな岐路において、一見安逸に思える拘束衣世界に留まるか。あるいは、不安や危険に満ちていそうな、自らの個性化という物語世界を切り開こうとするのか。前者に身をゆだねれば、自らの諦めと引き換えに、予測可能な手堅い世界が待ちかまえているように、思われてきた。だから、特に戦後日本では、自己を拘束衣と同一化して、積極的にその服に身体を慣れさせる中で、会社人間的メンタリティーを作り上げた。その結果、物質的繁栄は見事に獲得できた。
今、日本的な拘束衣システムそのものの岐路に差し掛かっている。自らの至福を求めるという個性化に至る道に蓋をして、必死で働いて、獲得した物質的繁栄。そこでは、プライスレスなものまで商業化しようと企てていた。個性化や至福はマーケットえは絶対に買えない、という事実を忘れさせる偽装工作を、拘束衣世界は巧みに構築した。「夢の国」「憧れのブランド」「貴重な逸品」という差違を表す記号は、拘束衣世界の本質を眩惑させた。だが、それは確かに社会的規範や空気、立場の護持には役立つが、自らの至福を切り開くモノではなかった。
自らの至福を追い求めるにはどうしたらよいか?
その答えは、数千年前から、実は変わっていない。自らの内なる声に耳を傾け、魂の想いに蓋をせず、そのワクワクドキドキを維持し、高め続けるしかない。以前に比べて移動や行動、商品獲得の自由はこの数十年で爆発的に増大したが、それと引き換えに情報化社会の中での拘束衣は、よりソフトに、そして巧妙に、しかも着実に、私たちを締め上げようとする。
拘束衣世界に「世の流れだ」と迎合するのか、「にもかかわらず」魂の声に耳を傾け続けるのか。
至福を求め続ける戦いは、極めて現代的な問いでもあるのだ。もちろん僕は、どちらに進むか、とっくに決まっているけれど。