分厚い本を研究会のために読んだ。ラトゥールの『社会的なものを組み直す』(法政大学出版会)である。訳者の伊藤嘉高さんは、アーリの『グローバルな複雑性』の訳者でもあり、今回の本でも、非常に読みやすい翻訳をしてくださっている。でも、ラトゥールの議論内容自体が難しいので、現時点でも十分に理解したとは言い得ない。とはいえ、研究会で仲間と議論をしながら、少しずつこのアクターネットワーク理論の魅力のようなものを感じ始めている。それを一言で表現するなら、「中間項から媒介子へのパラダイムシフト」とでも言えようか。ラトゥールの説明をひもといてみよう。
「中間項は、私の用語法では、意味や力をそのまま移送する(別のところに運ぶ)ものである。つまり、インプットが決まりさえすれば、そのアウトプットが決まる。」「媒介子は、自ら運ぶとされる意味や要素を変換し、翻訳し、ねじり、手直しする。」「正常に作動するコンピューターは複合的な中間項の格好の例と見なせる一方で、日常の会話は、恐ろしく複雑な媒介子の連鎖になることもあり、そこでは、感情や意見、態度が至るところで枝分かれする。」「学会で開かれる非常に高度なパネルディスカッションが、どこかほかでなされた決定を追認するだけであるならば、まったくもって予測可能で問題をはらまない中間項になる。」(p74-75)
中間項が「単純な要素の複合」、媒介子が「複雑性」と結びついている、という注を読みながら、様々なことが頭に浮かんでくる。
コンピューターは確かに人間には処理できない課題をこなしているが、それはあくまでも「インプットが決まりさえすれば、そのアウトプットが決まる」という意味で、「複合的な中間項」である。その一方、「日常の会話」は、どんなインプットをしても、アウトプットが予期できない「複雑性」を抱えている。逆に言えば、どんなに「高度なパネルディスカッション」であっても、「どこかほかでなされた決定を追認するだけ」ならば、それはコンピューターと変わらない「中間項」であるのだ。一方「高度な議論の内容」ではなくとも、対話に関わるものが、「自ら運ぶとされる意味や要素を変換し、翻訳し、ねじり、手直しする」ならば、その関与者は、コンピューターや中間項ではなく、「媒介子」となる。
なぜ中間項と媒介子の違いに僕が興味を引かれるのか。それは、僕が関わっていた現場で、僕が見ていた現象を、中間項ではなく媒介子と捉えるなら、言語化できそうなものが沢山ありそうだ、という予感を持ち始めているのである。
例えば、書籍にもした岡山の「『無理しない』地域づくりの学校」。今年5期目だが、そこでは僕も想定していなかったような、関わる様々な人々による色々な活動が展開している。これは、インプットとしての学校の結果、こういうアウトプットが現れましたよ、という形で予測することの不可能な展開である。受講生の皆さんは、単なる中間項ではない。一人一人が、アクターとして、媒介子として、自らが学んだり考えたことの「意味や要素を変換し、翻訳し、ねじり、手直しする」プロセスに飛び込んでいる。だから、予想外の面白い動きが生まれ始めている。
これは、従来の研修がしてきた事との対比で考えてみるとわかりやすい。現在主流を占めている研修とは、いくらアクティブラーニングがはやっていたとしても、カリキュラムの標準的内容が明示され、その内容を知っている講師が、それを知らない受講生に教える、という旧来の知識伝達型モデルである。フレイレは、それを「銀行型教育」と喝破していた(そのことはこちらの記事も参照)。銀行型とは、学ぶ側は「空の箱」であり、先生の知識で空の箱を満たす、というたとえである。これはまさしく「意味や力をそのまま移送する(別のところに運ぶ)」という意味での、「中間項」的な学びである。そして、僕はこういう学び方に飽き飽きしていたし、研修講師としても、そういうスタイルを打破するためにはどうしたらよいか、を悩み続けていた。
そんな中で6年前に見に行った尾野寛明さんの「起業しない起業塾」は、「中間項」とは全く別の展開だった。受講生が毎回、マイプランを発表し、他者からのコメントやフィードバックを元に書き直していくプロセスは、受講生自身の実存的な問いをマイプランとして言語化する中で、その「意味や要素を変換し、翻訳し、ねじり、手直しする」過程そのものであった。つまり、上から言われたことをそのまま実践するロボット的な仕事に飽き足りずに、自分で何かやってみたい、と思っている、「中間項」的な働き方を脱出したい人に、「媒介子」として取り組めるような課題をマイプランとして課し、それを実際に小さな実践としてやってみることで、自らの媒介子としての力を蓄えている、そういう変容的主体になるための学びだったのかもしれない。だから、僕にとっては「これこそほんまもんや!」と思え、尾野さんとコラボする事を決め、岡山で僕と同じように「脱・中間項」としてもがいていた西村洋己さんと三人で、「『無理しない』地域づくりの学校」を展開していったのかも、しれない。
そして、実際自分たちが5年間、この学校をする中で垣間見てきたのは、そこに関わる人々が、「脱・中間項」を果たし、「媒介子」としての様々な活動にチャレンジしていく姿であった。
こんな風にラトゥールの用語を使うと、僕が関わってきた現場の結びつきを、より良い言葉で説明できそうな気がしている。さらに言えば、僕自身が社会現象を眺めるときに、「中間項」の因果モデルの複合系と捉えるのか、複雑な「媒介子」の予期せぬ結びつきと捉えるかで、世界の捉え方が大きく違うのだ、とも理解し始めている。
「他のアクターにあれこれさせることは、ある種の忠実な中間項として、ずっと変わらない力を移送することによってなされるのではなく、変換(transformation)を起こすことでなされる。そして、その変換は、後に続く他の一連の媒介子のなかで引き起こされる数々の予期せぬ出来事によって顕在化する。」(p201)
この本では、「社会的なもの」の社会学と、連関の社会学を対置させている。権力や社会関係資本などの概念を使うことで、「社会的なもの」の構造をあぶり出そうとするのが、「社会的なもの」の社会学である。ブルデューがその名手として引き合いに出されて、ラトゥールは執拗に批判している。その批判とは、社会の様々なアクターを、ある権力関係なり社会関係資本を作り出す「中間項」として捉えることに対する批判である。一方、連関の社会学とは、権力関係や社会関係資本などの概念を使わずに、アクターがどのような媒介子として結びついているのか、その結びつきを辿ることを目指している。
これまでは、「社会的なるもの」という上位概念があって、その中でアクター間にどのような移送(transport)があったのか、を説明しようとしてきた。だが、実際の現場では、「ずっと変わらない力を移送すること」は生じていない。教師と生徒、上司と部下のような上下関係であっても、単純な「移送」ではなく、上司や教師の発言をどう部下や生徒が理解するのか、は、「変換(transformation)」である。さらに言えば、命令や伝達であっても、実際の指示はコントロール可能なものではなく、メッセージの受け手という「一連の媒介子のなかで引き起こされる数々の予期せぬ出来事」をもたらす。難しく書いてきたが、一言で言えば、他者は思い通りにならないのである。それは他者は「忠実な中間項」ではなく、自律的な「媒介子」であるからだ。
そうすると、「中間項」に代表されるような「社会的なもの」で「わかったふり」をすることは、複雑な世界を複合的な因果関係に縮減して理解することでもある。他者の他者性を研究しようと思う僕にとっては、複雑な世界を複雑なままで描きたい。そして、それは著者の言う連関の社会学やアクターネットワーク理論で辿ることが可能そうである。
「社会も社会的領域も社会的紐帯もないが、たどることが可能な連関を生み出すであろう媒介子の間での翻訳がある」(p203)
因果関係に縮減して理解しようとせず、複雑な媒介子の連関を、そのものとして辿っていくこと。つまりは、中間項で世界を認識し、記述するやり方をやめて、媒介子を追うことによって世界を認識し、記述するやり方に変えることである。そういう意味で、本書は認識論的なパラダイムシフトを目指している本でもある。
具体的な話に落とし込んでみよう。岡山の「『無理しない』地域づくりの学校」では、僕自身や尾野さん、西村さんなどの媒介子が、どのような他の媒介子との連関を生み出しているのか。そこにどのような翻訳が発生しているのか。この結びつきを捉え直すこと。それこそが、『社会的なものを組み直す』営みかもしれない。そしてその素材は、遠くに新たに取材に行かなくても、僕たちが5年間耕してきて、その結びつきを辿ることが出来る現場でこそ、追いかけることが出来そうな何かである。
まだまだ一読だけでは十分に理解できた訳ではない。でも、アクターネットワーク理論は、「中間項」ではなく「媒介子」として関わってきた様々な僕の現場経験を、より活き活きと言語化するために、多くのヒントを与えてくれそうだ。