帰納的本質について

福祉の政策とは、演繹的なものではなくて、帰納的なもの。

「○○が正しい」という理論や価値が先にあって、それを実践に当てはめると、だいたいがうまくはいかない。逆に、現場のお一人お一人への支援の中で「こうすればうまくいった」という好事例(good practice)に共通する要素を抽出して、それを抽象化して整理して行く中で、現場から機能論的に立ち上がるエッセンス(本質)が見えてくる。ノーマライゼーション、セルフアドボカシー、ピアカウンセリング、自立生活運動・・・これらの理念や価値は、現場の実践の抽象化から生まれた。
昨日の午前中、北海道のサービス管理責任者研修で講演の機会を頂く。その後、以前東京のセミナーでご一緒させて頂いた山崎さんにお誘い頂き、札幌この実会が実践されてきた、入所施設の閉鎖と地域移行の実践現場をご案内頂いた。半日にわたってグループホームや支援センターの現場を歩き、当事者や支援者の方々のお話に耳を傾けるなかで、ずっとその帰納的な何かについて考えていた。
スウェーデンに半年暮らしていたことがある。あれはもう8年も前のことだ。その時、スウェーデンでは入所施設をゼロにした現実をみて、本当にビックリした。強度行動障害、水中毒、重症心身障害・・・だから、という理由で、「施設・病院しかない」と社会的に排除されている人びと。その「○○しかない」ということが、如何に「社会的に」構築された理由であるか、を「○○」以外の実践を実ながら、実感する日々であった。グループホームでのんびりくつろぐ当事者と、それを温かく見守る支援者。行動障害のある方のGHの挑戦、水中毒なんてものはないという精神科ユニットの支援者、重症心身障害者へのパーソナル・アシスタントの実践・・・様々な「別の現実」を見て、日本ではこの現実は無理なのだろうか、とずっと考えていた。5ヶ月の滞在期間を終えて現地を離れる2003年の3月に、滞在報告のまとめの中で、次のように書いていた。少し長いが、引用する。
 「日本の知的障害者への地域生活支援の実状を振り返ってみたときに、ノーマライゼーションという言葉が「歴史的な言葉」になるほどまで浸透したであろうか? 言葉だけは輸入されるが、ベンクト・ニイリエ氏が言葉に込めた思想まで、日本に届き、それが政策にも活かされているのであろうか? これを振り返ってみた時、日本とスウェーデンの二国での大きな違いを感じざるを得ない。
 しかし、だからこそ、単なる外国のシステムや知識の輸入にとどまらず、知的障害を持つご本人達の想いや願いに基づいた、日本独自の本人支援や地域生活支援の体系を構築していかなければならない時期に来ている、と私は考える。今回、筆者が行った5ヶ月の調査の結果を、単なる「海外の知識の紹介と輸入」にとどまらず、日本の今後の本人支援のあり方や地域生活支援ネットワーク構築の上で、理念的基盤の一部として「使える」知識となるよう、出来る限り日本の地域生活支援の実状や課題を思い浮かべながら、そして日本の参考文献も踏まえながら、本報告書をまとめたつもりである。
 この報告書が、日本の知的障害を持つ人々の現状を変える一つの「武器」となり得るなら、筆者としては存外の喜びである。そして、筆者自身も、今回の調査の知見を元に、知的障害者ご本人の声に常に耳を傾けながら、日本独自の本人支援や地域生活支援の体系づくりに、知恵を絞り、汗を流して関わっていきたい、と考えている。」
このときに直感的に感じていた「日本独自の本人支援や地域生活の支援の体系」というものが、この実会では既に昭和50年代から着実に積み上げられてきた、ということを学んだ。法律や制度の後追いではなく、ご本人が求めている支援を追求し続けた結果として、入所施設や施設内訓練施設の閉鎖と、街中でのグループホームの展開。24時間スタッフ配置による支援センターや、マンションの何部屋かを借りたサテライト型のグループホームなど、8年前にスウェーデンで見た現実と結果的に非常によく似た現実を、昨日は垣間見ていた。しかも、特段他の国の実践を真似したのではなく、ご本人が求めることは何か、を誠実に考え続ける中で、帰納論的に出てきた入所施設の閉鎖であり、地域生活支援であり、グループホーム展開だった。そして、その展開の本質が、全く意図していないのに、スウェーデンで見たそれと類似性が高い、というところに、ノーマライゼーションの考え方に通底する、「当たり前(=他の者との平等)の暮らしの保証」という帰納論的結論の普遍性、通文化性が強く見えていた。
上記の報告書を書いていた時は、大学院が終わったが定職がない、宙ぶらりんの状態だった。その時は、とにかくスウェーデンの現実を掴むことに必死で、それをどうしたら日本で置き直して考えることが出来るのだろう、ともがきながら考えていた。自分自身も浪人の身であったので、何がどう展開出来るかわからないままに、しかし志だけは持って、上記のような勢い込んだまとめを書いていた。
それから8年。気がつけば、障がい者制度改革推進会議総合福祉法部会の委員として、「日本独自の本人支援や地域生活の支援の体系」を考え、まとめる仕事に従事している。今年の8月の新法の骨格呈示に向け、日本でも出来うる、地域生活の基盤整備とは何か、について、この3回は集中的に議論するチームに所属している。だが一方で、障害者基本法の改正は、本当に社会モデルへのパラダイムシフトが出来るのか、が大きな争点になっている。総合福祉法部会への厚労省のコメントだって、以前も書いたように、部会の議論とはかなり違うスタンスを取っており、今後どう折り合いをここから付けられるのか、は情勢判断が実に難しい。政策の安定性とコンテキストは揺らぎ、流動性を増している。
そんな中にあって、たった半日の視察ではあったが、札幌での「追体験」は、もう一度スウェーデンで見た原体験を、更に深めるエピソードであった。スウェーデンでは、札幌では、という「出羽の神」じゃなくて、どの地域であっても、どんなに重い障害があっても、認知症やターミナル、シングルマザーであっても、地域で自分らしく暮らせる、そのための支援体制を、どう作っていくのか。これを、現場実践の積み重ねという帰納的推論から出てきたものとして、制度政策の本質の中に落とし込んでいかなければならない。その上で、現場の試行錯誤を応援する柔軟性をどう担保出来るのか、も問われている。財源論や国と地方の役割分担論は、それを実現するための方法論であって、この方法論に束縛された、あるいは方法論の自己目的化に唯々諾々としていては、より良い「日本独自の本人支援や地域生活の支援の体系」は積み上がらない。
そう認識を新たにした(再確認した)、春も間近の札幌であった。

メディアの同心円的閉鎖性

最近、手に取る本の「引き」がいい。

「読むべし」という本よりも、「読みたい」という本能や直感を大切にしている。ただ、その時に闇雲、というよりも、自分と本との距離感というか、今感じているテーマに引きつける、関連づけることを意識している。パラパラめくって関係のありそうなフレーズが飛び込んでくると、その「ご縁」をきっかけに読み進める。そういうシントピカルな読みの中で、今回も頷くことの多かった本のご紹介。
「キュレーション・ジャーナリズムという言葉も生まれてきています。一次情報を取材して書くという行為の価値はインターネット時代に入ってもなくなるわけではありません。しかしそうした一次取材を行うジャーナリストと同じくらいに、すでにある膨大な情報を仕分けして、それらの情報が持つ意味を読者にわかりやすく提示できるジャーナリストの価値も高まってきています。」(佐々木俊尚『キュレーションの時代』ちくま新書、p242)
これは情報の編集と提示、というと、松岡正剛的な発想であり、あるいは実際にそれを地でいくジャーナリストとしては、例えば田中宇氏の存在を思い起こす。中東の情勢をツイッターとヘラトリで追いかけているが、田中氏の読みは、それとは違う側面からのキュレーション(独自の視座の編集と提示)がしっかりしていて、面白い。ジャーナリストではないが、寺島実朗氏は間違いなく一級の政財界キュレーターであるだろう。佐藤優氏は、外務省にとってのロシア情勢のキュレーターだったが、ああいう形でパージされた後、著作活動を通じてキュレーション・ジャーナリストの一角を占めている、とも見ることができる。
そして、IT界のキュレーターとしての名前を何となく知っていた佐々木氏の本の中では、キュレーションに欠かせない視座について、示唆に富む指摘がなされている。
「視座とはすなわち、コンテキストを付与する人々の行為にほかなりません。そして私たちはその<視座=人>にチェックインすることによって、その人のコンテキストという窓から世界を見る。」(同上、p204)
ああ、と思い当たる。ツイッターを始めて丁度1年が立つが、この一年でものの見方が大きく変わった。日本のニュースやマスコミへの信頼度が下がった。確かにツイッターをを鵜呑みにしている危険性があるから、と、海外の新聞(インターナショナル・ヘラルド・トリビューン:ヘラトリ)も読んでいる。我が家は某A新聞も紙でとっている。地デジはないのでアナログテレビもある。だが、ここ最近の日本の大手各局の報道はすごく内向きで、見るに堪えない、と思うようになる。それより、ヘラトリやツイッターで流れてくる中東情勢の方が実に「世界を見る窓」としては有益なのだ。A新聞も、さすがに最近は中東のことについて日本語で分かりやすく書いてくれるようになったが、初期段階は報じる分量も少なく、がっくり来ていた。
なにも昔からそんなに日本の新聞・TVが嫌いだった訳ではない。小学生の頃なんて、全く自慢にもならないが休みの日など12時間テレビにかぶりついていたし、特に報道ステーションやNHK特集などが大好きなニュースっ子だった。久米さんみたいな人に憧れて、将来はジャーナリストになりたい、なんて夢想もしていた。大学院に行くことを決めたのも、指導教官がジャーナリストだったから、その弟子入りができる、という甘い期待を抱いていたのも事実である。それくらい、日本のメディアには憧れと尊敬を抱いていた。
しかし、ここ数年、日本のメディアと自分自身の間に、何だか解消しがたいズレのようなものを感じていた。それを佐々木氏は、自分にとっての有価値とする範囲や境界という意味である「セマンティック・ボーダー」という言葉を使って、こう整理している。
「自己完結的な閉鎖系は、情報の流れを固定させ、そしてまた情報が内部の法則によってコントロールされてしまうことで、硬直していきます。この硬直は、同心円的な戦後のムラ社会には都合がよかったとも言えるでしょう。(略) 一方でソーシャルメディアの不確定な情報流通は、外部から情報が流れ込み、セマンティック・ボーダーがつねに組み替えられて、それによてt内部の法則が次々と変わっていくことで、つねに情報に『ゆらぎ』が生じている。この『ゆらぎ』こそが、私たちの社会を健全に発展させていくための原動力になっていくのは間違いない。ゆらぎのない硬直化した同心円的閉鎖社会から、私たちは『ゆらぎ』をつねに生み出すダイナミックな多心円的オープン社会へと、いまや踏み込みつつあります。」(同上、p260)
そう、中東情勢よりもパンダ来日を大きく取り扱ったり、地震でも現地の被災者の様子は殆どなくて邦人保護の問題だけを主軸にしたり(もちろん邦人の方々の無事の救出を私自身も願っているが)、リビアの「市民戦争」状態についての解説で「日本の経済への影響は限定的」と言ってみたり・・・。このマスコミの口ぶり自体が、非常に「同心円的な戦後のムラ社会」的ありようそのものなのである。今の「小沢VS管VS野党」的な報道にも、その硬直性を感じてしまうのは気のせいだろうか。そういう記事ばかり読んでいる時に、自分の直感とのズレが激しくて、正直新聞を読むのが嫌になりつつある自分が居る。
その時、オルタナティブな情報、メディアと接してみると、なるほどこういう読みや見方もあったなぁ、とハッとさせられる。ヘラトリは、やはり文字数が日本の新聞より多い。1200語が平均で、エジプト革命の背景などを分析する時には、その倍の2500語くらいが割かれる。それくらいあると、ある程度深みのある記事が出てくる。一方、速報性はツイッターで、ガダフィ大佐の演説もライブで英訳して流してくれている。新聞を開く前にツイッターのTLで概略がわかる。だからこそ、新聞に求められるのは、140字の連投では見えてこない、「その背景」なのだが、未だにテレビと同じような同心円的硬直性に見舞われている限り、その閉鎖性から抜け出すことができない。その最たるものが「記者クラブ」制度だ、という批判に対して、真っ当な反論がどれだけできているだろうか。
膨大な情報が、速報的に流れてくる中で、良い目利き、である情報のキュレーターが、今ほど求められている局面はない。ツイッターも、本当に玉石混淆。こちらの目利きがわるいと、とんでも情報を掴まされる。だからこそ、ヘラトリ、だけでなく我が国のテレビも新聞も、その目利き力を発揮させ、もっと情報の「ゆらぎ」と対峙すべく、脱皮してほしいのだ。日本のテレビや新聞ジャーナリズムに憧れた人間として、深くそう思う。そして、恐らく確実にテレビ局にも新聞社にも、個人としてのキュレーション・ジャーナリズムの一翼を担える人材は沢山いるだろう。ただ、それが総体としてのテレビ局、新聞社として硬直化しているとするならば、それは霞ヶ関とのアナロジーを想起させる。官僚も、個人としては志高い人は沢山いるはずだ。だが、総体としての官僚制となると、情報も枠組みも「ゆらぎ」が生じている時ほど、結局省益を守ることが最優先課題となってしまい、内向きになってしまう。これはメディアの内向き報道と同根に感じる。そういう内向きの閉鎖性こそ、官僚離れ、メディア離れを加速させている。そのことの重要性に気づいて、内部から変わる力を、一ファンとしては強く熱望している。

楽しみを掘り起こす

ようやっとお休みの日曜日。昨日は学会のお仕事を終えて、懇親会で空きっ腹にビールがダメだったのか、はたまた気が抜けたからか、少ししか飲んでいないのに、茅ヶ崎駅前でクラクラになっていた。スタバでカプチーノを飲んで体制を立て直し、何とか終電で甲府までたどり着く。ヘビーだった。

昨夕、とにかく寝過ごしてはまずい、と読み始めた森博嗣氏の『自分探しと楽しさについて』(集英社新書)。彼の集英社新書の前作3部作は、非常に面白いだけでなく、僕自身の生き方を見つめなおす上でも非常に参考になった(ブログにもかいていた)。なので、今回も早速一昨日の出張の帰りに松本駅の本屋で手に取る。満を持して昨晩読み始めたのだが、何度も頷きながら読んでいると、文量も少ないこともあって、あっという間に読み終えてしまった。ただ、今回は直接引用するというよりも、印象に残ったところを、自分の言葉で咀嚼してみたい。
他人が(往々にして商業目的で)提供する安易で快適な「楽しみ」のパッケージを消費するだけ、よりも、自分で試行錯誤しながら楽しみを見つけ出し何かを創り出す、そしてそのプロセスを楽しむ方が、よほどワクワク出来るのではないか。
彼のメッセージを僕はこう受け取ったが、そこには深く納得する。僕は工作をしないから、ものづくりそのものの楽しさは分からないけれど、似た体験として、料理を思い浮かべる。最初から「○○をつくる」と決めて、料理本に書かれた通りの具材を全て用意して、調味料をグラム単位で計り、レシピ本を再現する、というのは、僕には全く向いていない。その日の冷蔵庫にある物で、時には奥さんの要望も聞きながら、昨日の食事とアレンジを変え、飲む酒に合わせる形で何かを作り上げる。そのプロセスに没頭すること自体が楽しいし、それが見事美味しく出来上がって、楽しんで食べてもらえたら、尚更楽しい。そこには、他者からの押しつけではなく、自分で選び取り、試行錯誤した楽しさがある。もちろん、レシピ本は参考にする場合もある。その場合でも、徐々に自家薬籠中のものとし、自分の中で血肉化して、記号論的消費ではなく、生きた経験としての料理の可能性が拡がる、ということが、楽しいのかも知れない。
そして、森氏の意見とこれも全く同意見だったのが、他人と比べるのではなく、比べるなら昨日の自分と比べる、という視点。僕も未だに他者の成果を見て、自己卑下することも、もちろんある。でも、そういう時って、眠いかお腹空いているか、疲れているか、あるいはそのどれか(全部)が重なる時である。つまり、まともな思考能力が減退している時に限って、他人と比較するという悪弊がゾンビのように蘇ってくる。しかし、私よりも良くできた奥さんは、僕がそうグチグチ言い始めると、「はよ寝たら?」と一喝。事実、翌朝にはそのぐちぐちした気分がすっかり消えているのだから、全く彼女の言うとおりである。
生きているのは、あなたでも、かれでもなく、僕自身。僕が死んだら、僕を巡る世界はオシマイとなる。しかも、そのオシマイの日付は、自分では全く予想が出来ない。ならば、生きている日々を、昨日よりも今日、今日よりも明日、楽しめたら、これほどハッピーなことはない。毎日すべきことは勿論あるけれど、森氏は「それって本当に断れないの?」と指摘する。断れないと拘っている限り、楽しみを制限しているだけではないか、と僕は受け取った。
やりたいこと、できること、そして求められていること。この三つの調和が大切、という福田和也氏の著作を以前にご紹介したが、結局のところ、できることと求められていることがある程度増えてくる中で、ある時点から「やりたいこと」は意識しないと完遂する時間的、精神的余裕が無くなってくる。世間ではそれを「忙殺」と言う。何という言葉だろう。忙しさに、殺されるとは。とはいえ、以前の僕は、正直に告白すると、「できること」「求められていること」を「やりたいこと」と錯覚して、忙殺=自己実現、と錯覚していた。忙しいことが、スキルがあがる、だけでなく、充実している事と錯覚していたのだ。だが、合気道という純粋な(=仕事と全く関係のない)「楽しさ」と出会ったあと、どうも忙殺されていては、練習時間が取れない、ということがわかってきた。3月に今度は3級の昇級試験があるが、今日を入れてあと4回しか練習時間はとれない。本当は5回のはずだったのだが、優先順位の極めて高い「求められていること」にまで、流石に無碍には出来なかった。
もちろん社会貢献として、他人にお役に立てる事をしたい、と思う僕が一方ではいる。だが、昨年あたりのコペルニクス的転回で気付き始めたのは、自分の「やりたい」「楽しい」を一方で充実させないと、本業も煮詰まってしまい、充実感とは対極の、虚しさが充満してしまう、ということだ。ワークライフバランス、なんて言葉を使わなくても、自分の魂にとって良い事とは、今のところ、仕事が凝集性の高い物になっていけばいくほど、対極にある「楽しさ」も試行錯誤しながら、うまい塩梅のバランスをとることだ、と気付き始めたのである。
あと、さすが工学博士だな、と思った森氏のフレーズで興味深かったこと。「自分が楽しい・やりがいがあると思う事は、どういう時に、どんなことをしているか、を抽象的に考えていくと、他の事をする際の楽しさにも応用出来る」といったようなフレーズもあった(今日は敢えて原典を見ずに書いているので、気になる方は新書を買ってください)。
そう、楽しみややりがいの「エッセンス(=本質)」を掴み出すことは、自分の癖の本質を知る事でもあり、自分がそれを他分野にどう応用出来るか、の展開可能性も模索できるチャンスでもある。つまらない人間関係や悪口的批評に毒されているより、こういう楽しい事をちゃんと自分の頭で考えたい、ともつくづく感じた。
なになに?
 「合気道だけでは楽しみが足らんなぁ」
 「もうちょっと楽しめるんとちゃう?」
こんな悪魔のささやきが、心の何処かから聞こえてきた。さて、何を楽しもうかしらん。明日からまた仕事モードに戻るので、今日はそれをのんびり考えてワクワクしよう。

断片化と関連づけ

ここ20日間ほど休みがないので、結構全身ぐったりしている。一昨日は東京、昨日は甲府、今日は長野、明日は茅ヶ崎。そしてようやく明後日がお休みで、大切な合気道のお稽古。毎日場所を変えていると、何だかエントロピーが増大して、頭の中がぐしゃぐしゃになりつつある。昨晩は早く寝て、今朝は5時に目が覚めてしまったので、バラバラになりかけた頭の中を少しだけ整理しておきたい。

情報の断片化やフラグメント。
パソコンは、昔はしばしばフラグメント化された中身を「最適化」する作業をしないと、作業が鈍くなった。最近のものであっても、たまにそういうPCの中身のお掃除をしないと、反応速度がのろくなる。あの最適化作業を眺めていて面白いのは、バラバラに散らばった、青や黄色や赤で象徴化されたデータが、徐々にまとまり毎に整理されていく様相だ。
最適化が必要なのは、現実社会においても同様ではないか、と思う。
特に今のように、情報が錯綜し、溢れすぎる情報が奔流していると、そう感じる。朝からツイッターで昨晩からのタイムラインをボンヤリ眺めているだけで、あっという間に時間が過ぎてしまう。Gメールに、大学とニフティからの転送されてきたメールも、一晩でごっそり溜まっている。ウェブもチェックしたいし、最近はキンドルでインターナショナル・ヘラルド・トリビューン(ヘラトリ)を読み出したら面白くてつい見てしまう。読みたい本もわんさか溜まっている。気がつけば、インプット過多、というか、溢れすぎているような気がする。その中で、多分ぐちゃぐちゃに脳の中で情報の断片化が起きているような気がする。ちなみに言えば、上述のように、2月は出張がめちゃくちゃおおいので、スケジュールの断片化、も激しい。
そういう時だからこそ、意識して情報と思考の「関連づけ」と「まとめ上げ」が大切なような気がしている。
最近、アクチュアルな関心を持つ内容については、外見的・表層的なタグとしては無限定に読み進めている。エジプトの革命、渋沢栄一の伝記、河合隼雄に昭和天皇の論考・・・一見したところ、あまりに無限定で雑学王的な読み方だ。でも、自分の中では、ここしばらくコミットしている仕事の背後にあるコンテキスト理解のために、大切な断片である、と感じている。
例えば昨日は地域包括支援センターの職員研修だった。山梨ではありがたい事に、東京や大阪で教員をしていては、普通は頂けないご縁を頂ける。障害者福祉の専門である僕が、高齢者分野で講師をさせてもらえることは、まずない。専門家が一杯いるからだ。更に、年長のエライ先生が多くいると、若輩の僕にチャンスなど回ってこない。でも、山梨では不思議とご縁を頂き、障害者分野にもみっちり4年ほど関わり、高齢者も主任ケアマネ研修から3年ほど関わり、芋づる式に昨日は包括の研修、来週は居宅ケアマネの研修に立ち会わせて頂く。そして高齢者分野の支援者の方々と関わって、問題は障害と非常に重なっている、と実感する。
その研修の中で、高齢障害問わず、今求められているのは、メゾレベルの課題である。個別支援というミクロと、制度改革や市町村レベルの福祉計画というマクロ、この二つの解離が激しい。どうやって、その地域における解決困難事例を、町の課題として計画や施策に反映するか。このメゾレベルでのギアチェンジに苦しんでいるのが、地域包括支援センターと地域自立支援協議会の共通課題であったりする。そして、そういうメゾレベルの課題については、その地域のコンテキストを読み込んだ上で、地域の物語の編み直しを、官官、官民、民民の壁を越えて共同編集し、物語の再構築をする必要があるため、マクドナルド的な全国一律の対応などはなからできっこない。で、そういう内容は「コミュニティーソーシャルワーク」とか、「地域福祉」というジャンルで呼ばれているようだが、個別地域の物語(ミクロ)を越えて、あるいは難しい理論の羅列(マクロ)でもなく、ミクロレベルでの困惑に寄り添うテキストもあまり見られない。そこで、こちらにお鉢が回ってくるのである。気がつけば、博論以来、ずっとメゾレベルの研究と実践をしているような気もする。
そして、メゾレベルの問題に取り組んでいて、かつ福祉領域であまり役立つ「先行研究」やノウハウがないと、ついつい目は他領域に向かってしまう。「学習する組織」や「非営利組織のマネジメント」などの組織論を囓っていったのも、現場で求められている事に応えるための、付け焼き刃的アプローチが最初だった。
だが、無理をしても周辺領域の本を読み漁っているうちに、どうやら福祉だけで閉じてしまうことの問題性も見えてきた。メゾレベルでの問題解決を志向している、という自分の視座さえ固まれば、表面的なジャンルが何であれ、その本とのご縁を感じる事が出来れば、内容から学べる物は少なくないのではないか、と。
例えばエジプトの革命が、今、凄く気になる。国内の新聞はようやく最近解説を始めたが、2週間前は、本当に報道が断片的だった。今までドメスティックな関心しか持てなかったが、今回はなぜか凄く気になって、ツイッターでエジプト人の英語ツイートでアルジャジーラーの内容をフォローし(そのアカウント自体もツイッターで知った)、そして忙しくてお蔵入りしていたキンドルを引っ張り出して、先述のヘラトリを読み始めた。我が家は未だに地デジ化してないアナログで、しかも数ヶ月後に引っ越す予定なので、衛星放送の対応も新居でいいや、と思いしていない。なのでBSも見れないので、意識しないと情報が本当に入ってこない。しかし、逆に言えば情報を意識して取り出すと、そこには自分の関心領域との関連性が、最近少し見えてきた。
それは、「政策の窓」に関するものだ。
キングタンは「政策の窓」モデルの中で、「問題の流れ」「政策の流れ」「政治の流れ」の三つの流れがある、という。そして、その流れがそれぞれ平行線を辿っている時は、どんなにエネルギーを傾けても、機が熟さず、物事は変わらない。しかし、問題の極大化に政策が気づき、それと政治家のアクションが同期したティッピングポイントを迎えた時、急に物事が反転し、大きな政策転換が起こるチャンスを迎える、という。エジプトの革命を、その前夜から眺めていると、3つの流れの押し合いへし合いが、大洪水のように奔流し、結果としてのムバラ
ク大統領の演説と、その直後の大きな抵抗、そして数時間後の政権崩壊へと進んでいった。そして、チュニジアからエジプト、そしてバーレーンなどに伝わりつつある流れの背景について、ヘラトリで興味深い記事も読んだ。ガンジーの流れを組むアメリカの政治学者、Gene Sharpの非暴力革命の考えは、セルビア経由でアラブの若者にも引き継がれた。それとネットによる国民へのメッセージ伝達の相乗効果が繋がった結果、というのだ。さらには、オバマ大統領のムバラク追放の容認の背景には、アルカイダへの対抗勢力を、今の若者達の民主化運動の中に見出している、とも。
事の正否はわからない。だが、コンテキストの転換点、ティッピングポイントを巡る物語、として眺めると、非常に他人事には思えない。
今、我が国の政治は、本当に混沌としている。そして、霞ヶ関の官主導も、非常に混沌としている。この前の、内閣府障害者制度改革推進会議、総合福祉法部会。私たち部会委員が出した中間まとめに関して、厚労省の「コメント」は、ほぼ全否定だった。きつく言うと、「出来ない言い訳のオンパレード」だった。国の審議会で、国自身がその委員の内容に全否定する、というのは、恐らく殆ど見られない光景だ。そのヒステリックにも見える厚労省のコメントと現状肯定の論調をみていても、それだけ、今、内務省以来続いている霞ヶ関の伝統も揺らいでいる、と感じている。
インド、セルビア、エジプト・・・、ではないが、「窓」が揺れている、開きつつあるのは、他国だけでなく、アクチュアルな日本の今の問題でもある、と感じている。そして、それは先ほどのメゾレベルの話にも繋がる。
地域包括支援センターと地域自立支援協議会に共通するのは、そのような中央の政策の歪みや限界が、現場の中で極大化しつつある、という現状だ。困難事例の高まり、地域力の低下、社会資源の少なさ・・・等の課題に、以前なら厚労省は輝かしい解決モデル案を示し、それを主管課長会議で示された都道府県が「伝達研修」をして、という上意下達型の中央集権的モデルで収斂できていた。だが、今は、国は膨大な資料を出してはいるけど、元を辿るとどこかの成功モデルを国モデル化しただけに過ぎない。つまり、中央集権的な政策主導に、かなりのかげりが見え始めている。一言で言うと、国の情報を待っていても、あんまり期待出来ない。
その中で、現場の疲弊感、待ったなしの現状を変えるためには、メゾレベルで何とかするプレイングマネージャー力が求められているのである。それは、コンテキストが開いた時に、瞬時に判断して、局面を切り開く力、とも言えるだろう。そして、それは幕末から明治の当初の混乱期を乗り越えた、渋沢栄一の内在的論理を読んでいても、非常に参考になるのだ。
話は右往左往した。
でも、そういうコンテキストを抱きながら、目の前の日々の仕事に取り組んでいると、複眼的・立体的に物事が見えてきて、忙しいけど、くたびれるけど、面白い。まだ、完全には関連づけ出来ていないが、自分の中では、ノーマライゼーション生成の議論も、あるいは1968年的な状況の変容局面も、その意味では「関係あり」とみている。だが、忙しくてなかなか文献を読み進める時間もなくて、それを確かめきれない。
しかし、渋沢栄一伝を書いている鹿島茂氏の言葉を借りれば、渋沢栄一が強みとして持っていた「帰納的能力」とは、ある種のメゾレベルの力なのかもしれない。現場の事象から、、その背後にあるシステムを見抜く能力。今日は児童・障害者・高齢者の施設での苦情を受け付ける担当者の研修がある(本当にあれこれしてますね)。でも、その現場で出てくるリアリティと、昨日の地域包括支援センターで出てきたリアリティ、それに国の改革の話など、システム的な課題として、共通している。問題は、一件断片的に見えるもの、氷山の下に隠れているものを、その断片を拾いながら、どうやってメゾレベルの共通性として整理し、現前化して見えるようにしていくか、ということである。それが出来た時には、政策提言としても、あるいは論文や著述としても、一つの説得力をもって、響く。あるいはそれが「政策の窓」が開いた瞬間であれば、コンテキストの変容にも役立つかもしれない。
そのタイミングはいつ来るかわからない。だが、そのタイミングに向けて、バタバタしながらも、「まとめ上げ」と「関連づけ」だけは、怠らないでいたい、そう思う。

記号から記憶へ

ものごとは、奥深く掘り下げないと、本質に突き当たらない。出来事の記述の背後にある、何らかの核に至るためには、出来事の記述は表層的であり、余計だ。だが、その表面の記述をしていないと、一体何のことなのか、が、読み手だけでなく、書き手の僕自身にもわからなくなることがある。

昨日のブログに続き、今日も連投する。その最大の理由は、「昨日書かれなかったこと」が気になるからだ。昨日のブログは、表層的記述編。なので、今日はその表層を取っ払って、中身だけをざっくりと書いてみたい。
記憶。昨日、エリ・ヴィーゼルのインタビュー記事を紹介したが、その中で触れられた「記憶」というキーワードが、ずっと引っかかっている。
大斎原という記憶。そこに何もないが、何かがかつてあった、という記憶。その記憶の古層は、確かにその場に鳥居や看板、あるいは移しなおしたご神体などをつうじて、あるいは様々な文献の記述や写真を通じて、表面化している。だが、それらの表層の背後に、何かが、今も、ある。一昨日、雪景色の大斎原の鳥居の風景の記憶を心の中から取りだした時、やはり、何かがここにあった、し、今もある、という実感も共に、立ち上がる。
記憶。
土地を歩くとき、以前は記憶とは無関係に、単にA地点からB地点の移動、という意識でしか歩いていなかった。鉄道少年だったヒロシ君は、時刻表を片手に、金沢、鹿児島、松江などという記号に憧憬を持った。それは「雷鳥」「なは」「あさしお」という特急列車の呼称という記号に憧れたのと一緒だ。実際に当該列車に乗ってその目的地にたどり着いた時も、現地で何かをする、というより、トンボ帰りの旅が多かった。それは、むしろ記号を実際に確かめる旅であったのかもしれない。
大人になって、旅ガラスになっても、基本的にはその記号的旅の延長線上にあった。ただ、余暇ではなく仕事での旅だったので、記号的消費だけでなく、現地での用務、というのも重なる。しかし、現地での用務が済むと、多少は美味しい何かを食べたり、あるいは人と会う等の例外はあっても、基本的にトンボ帰り。もちろん家庭平和の為、というのは大きいけれど、それよりも、記号論的旅の属性が身体に染みついていたから、だと思う。
だが、昨年あたりからだろうか、記号論的旅がモノクロ世界だとすると、急にその旅に様々な色合いが出てきた。鮮やかさと深みが増す旅となってきたのだ。そして、それは記憶と結びついている。初めての土地にもかかわらず。
それは、その土地の記憶、その場所を巡る記憶とアクセスし始めたからだ、と思う。
以前なら、海外旅行であっても、ガイドブックを持参するだけであった。あのガイドブックというものも、よく考えてみれば、記号論的消費の最たるもの。どこに何が売っている、あそこのこれは美味しい、そこのこれは絶対に見逃せない・・・その土地の食べ物、売り物、見せ場を平面的・等価的に陳列して、記号の一つとして、多少の順位付けをしながらも、整理して羅列する。それは、時刻表のダイアグラムと変わらない、記号論的な陳列。「モデルルート」なんて、時刻表的な時系列表示との近似が伺えるものもある。
たしかに、そういう記号は、消費をするのには、便利だ。だが、記号の消費は、その消費をするだけで満足度が高いだけに、記号の消費「にしか」目を向けさせなくなる。記号という形で有徴化、現前化しているものの背後に、様々なコンテキスト、というか地があるのに、他人に形づけられた徴のみを確認して帰るだけならば、時刻表マニアの記号論的旅行の領域から出ない。そして、高度消費社会において、この記号論的枠組みから外れるのは、ますます難しくなってきている。ネットの情報はスマートフォンでも取れてしまうので、現地でも、臭いよりも雰囲気よりもウェブという仮想記号空間に浸ってしまうのだ。
だが、その固着した枠組みを外れる方法もある。
Don’t think, FEEL!
これはブルース・リーの明言だ(そうだ)。僕は映画とのご縁があまりないので、彼がどういうコンテキストで言ったのか、しらない。ツイッターで流れてきた言葉だ。しかし、どういう来歴であれ、その言葉という記号に感じ入った上で、自分の中で咀嚼して、自分の中で血肉化した上で再文脈化すれば、それは記号ではなく、記憶になる。そう、何であれ、自分の中で再文脈化することが、記号が記憶へと変成される上で大切なのだ(と書いていて気づく)。
思えば、大斎原との出会いも、その来歴などについての記号論的解釈を読み、現地を実際に訪れただけでは、あくまでも記号論的消費に留まる。やはりそこには、そこで何かを考えるのではなく、まず感じ、その上で、自分の中で再文脈化する。自分のこれまでの物語と、どのような関連づけがああるのか、新しい一ページは、これまでのページとどう接続するのか、それらを未分化な中から立ち上がるように、熟成させていくからこそ、出会いという発光に感応し、心の中の印画紙に染みつき、何らかの文様として立ち現れるのである。
そう、出会いという発光は一瞬でも、それに感応できるかどうか。また感応した何かを、現像液→停止液→定着液につける一連の作業を通じて、自分のこれまでのコンテキストに関連づけした上で、記憶の一角にしっかりと位置づけられるか、にもかかっている。そうしないと、それまでの土地や場所の記憶ともふれ合えないし、自分の中での記憶としての再文脈化もなされないのである。そういう意味では、他者や見知らぬ土地の記憶を、自分の記憶としてとどめる為の再文脈化作業を、感じながら、耳を傾けながら、目を見開きながら、出来るかどうか、が、記号から記憶への昇華において、非常に大切になってくるのだと思う。

物語、記憶、捉え直し

雪景色の大斎原(おおゆのはら)には、誰もいなかった。何もない空間に、雪が降り続けていた。だが、昨日見た八咫烏(やたがらす)が金色に光る大鳥居を心の中に想起させると、そこにはかつて何かがあったし、今も何かがあるのではないか、という実感が、今でもじんわりと沸いてくる。昨日は、そんな希有な経験ができた。

さて、事の発端は、3年前に遡る。もともと、三重県の障害者福祉に関する特別アドバイザーの仕事を頼まれたのが、ご縁を頂くきっかけ。当初は、人材育成を目的とした研修のお手伝いを頼まれていた。だが、1年、2年と続けていくうちに、当たり前の事だが、人材育成と地域作りは地続きで連続性があることに気付き始める。その中で、松阪や伊賀、伊勢、鳥羽など県内のいくつかの市にもお呼び頂き、やりとりを続けてきた。特に鳥羽市では尊敬する北野誠一さんと一緒に自立支援協議会の立ち上げ支援に参画し、大変面白い展開を肌身で感じることができた。
そういう流れの中で、先週末、熊野にお呼び頂く。紀南・紀北地域という、三重県南部は、最も社会資源が少なく、県庁所在地である津から行くのも遠く、情報も人口も人材も少なく・・・と様々な好ましくない条件が重なっている。その中で、どう地域作りをしていったらよいか、のきっかけ作りになるような講演会を午前に開いた上で、午後はコアなメンバーでの戦略会議的なグループワークに関わって頂きたい、というご依頼を受けた。
私は別に街作りのプロではない。が、ミクロレベルの個別支援だけでなく、支援組織の変革(メゾ)や地域自立支援協議会を通じた地域作り(マクロ)に関われる人材育成、という事に携わっているうちに、何となく地域毎の特性を踏まえた、その地域らしい展開のあり方とは何か、についてのアドバイスを求められるようになってきた。そんな力も経験もないのだが、求められたら応答責任を感じてしまったお節介タケバタは、山梨でも三重でも、無い知恵を振り絞って考えているうちに、メゾからマクロにかけての地域支援とミクロレベルの個別支援との解離に気づいた。その解決は、地域毎に当然その方法が違うのだが、少なくともどういう歪みがあるのか、あるいはどこから焦点化していけば解決の糸口が見つかるのか、を一緒に探る事くらいは出来そうだ。そんな気持ちで、共に問題を探す探偵業、というか、その地域課題(=ゆがみの部分)を指摘する整体士のような、ともかくそんな臨床家的な仕事に関わるようになった。
今回も紀南・紀北で求められたのは、そのような臨床家役割。どこまで出来るか分からないけど、と思いながら、津の研修ではなかなかお会い出来ない方々に、こちらから出かけてお話しさせて頂くチャンスはそうないので、喜んで出かけた。甲府から7時間強、の汽車旅はなかなかハードだったが、沢山の学びがあった。
今回、行きの列車の中では、この地域についての両極端の本を二冊、抱えていた。
『神々の眠る「熊野」を歩く』(植島啓司著、集英社)
『紀州-木の国・根の国物語』(中上健次著、角川文庫)
前者が熊野の聖や光に焦点化したとすると、後者は熊野の賤や影をルポした作品。だが、熊野の聖性の中には、自然の驚異も含めた影の部分が折り重なり、差別を主題化した紀州の影の物語にも、その土地を生きる人々の力強さという光が差し込んでいる。交互に読み進めながら、少しずつ紀南・紀北にも馴染んでいくのには良い「予習」だった。
そして、一昨日の一日研修を通じて聞こえてきたのは、ある意味、両側面の双方が鈍化した中での地域課題としての析出、という形であろうか。荒くれ者の漁師町や博打打ち的な馬喰・木材商、それらに支えられた遊郭、等の光と影、という中上健次が主題化した世界は、彼のルポが書かれた1977年にはまだ根強く前景化していたが、今はすっかり後景化している。ある種のグローバル化、ではないが、熊野らしい地域課題ではなく、全国の地方に共通する課題、高齢化率も上昇し、不景気で町全体に元気がない、という課題が前景化している。良くも悪くも地域を支えた・縛った「らしさ」が鈍磨しつつある。その一方で、山も海もある豊かな自然と温暖な気候に支えられた人間関係の豊かさは、残っている。時間感覚のゆっくりさ、もスローな生き方、なんて言う以前から、当たり前の前提としてある。確かにその中から排除されてしまう人がいる、という問題もあるが、でも人の優しさ、地元に対する愛着度、などは紀南・紀北の人々にとって、大きな自信の源になっていることも、よく分かった。
そんな紀北や紀南の実情を変えるために、僕が一昨日のたった1日の研修で出来た事は、きっかけ作り、にしかすぎない。ただ、本人中心や社会モデル、という支援の原則と、その地域・組織・人固有の物語を活かした支援体制作り、という普遍性とローカリティの融合が大切だ、ということは、ご理解頂けたようだ。国の方針や教科書的知識は、特に「困難事例」を前にすると付け焼き刃的にしかならない。その際、ご本人に寄り添う、という意味のローカリティと、本人中心という支援の原則に照らした、探偵業的な解決の糸口探しが求められる。これは、何も個別ケースだけでなく、「その地域における解決困難な事例」を考える地域自立支援協議会や、地域包括支援センターの仕事にも直結している。そういうメゾ・マクロ支援においても、国の動向や教科書的知識に流される事無く、本人中心という原則と、その地域のこれまで・今・これからというローカリティの文脈をどう読み解くのか、そして地域の物語をどう書き換えていくのか、が求められている。そんな事を、いつもよりは少しゆっくりと、お話ししたつもりだ。(それでも紀州時間では早口だったのだろうが…)
で、そんな仕事をこってり終えて、昨日は県の方がわざわざ休みを取って下さり、熊野から本宮、新宮と半日のことりっぷに連れて行って下さった。圧倒的な印象に残ったのが、冒頭に挙げた熊野の本宮跡である大斎原と、新宮の南方熊楠記念館。
大斎原の何もなさ、は、行きの列車の中で読んでいた、ノーベル賞受賞者のエリ・ヴィーゼルのインタビュー記事を想起させた。
ナチスの強制収容所経験を持つ彼は、エジプト革命がツイッターやフェイスブックを通じて伝播した事を聞かれ、情報が膨大になることによって、人々の関心が散逸し、少し前の出来事もすぐに忘れ去ってしまうことに警句を述べる。「目撃者として気にし続けることは、大きな状況への関わりである。(Bearing witness is a huge commitment) 」という言葉に代表されるように、日々過ぎ去りゆくこと、雑事にかまけていくうちに「過去」とされる記憶にどれほど寄り添い、関わり続けるか、が大切であると感じる。例えば熊野の記憶。聖なる土地と言われた時代があり、その後明治から大正、昭和にかけて、文明開化の過度な影響を受けて廃仏毀釈や近代産業を重視しすぎた結果、木材を切り倒し、自然が荒廃し、神社も寺も廃れ、大斎原も流されてしまった。その後、昭和の60年の間に、紀伊の国の光も影も含めた地域特性も、鈍磨してしまった。
でも、その事に単に悲嘆するのではなく、その地域の固有の物語に耳を傾け続け、そこから普遍的な支援原理と接続させる中で、その地域らしい住みやすさの追求という新たな物語をどう捉え直せるか。これは、目をそらさずに目撃者として関わり続ける中でしか、生まれてこない。地域生活支援という営みは、特に過疎が進む地域においては、単に目撃者であるだけでなく、福祉以外の商工や観光などの領域も視野に入れ、関わり続ける事が求められているのかもしれない。その中で、町の歴史という記憶に、新たな光を差し入れる役割を持っているのかもしれない。二泊三日で、そんな事を考えていた。

テンションの高さとストレス

最近、どうも体調がよくない。体重が10キロ減ってから、肉襦袢コート!を脱いだ事もあって、カイロとパッチがないと寒い。あるいは、割とお腹がちくちくとする風邪未満、状態が頻発し、葛根湯を飲んで事なきを得ている事も少なくない。結構キツイ日程だが、身体はそれに悲鳴を上げているようにも見える。

だが、一方で、そう感じるのが普通なのであって、今まで「無痛」だったのではないか、とも考える。必要以上に食べ過ぎても、飲み過ぎても、あるいは何処かに痛みを感じても、それを「しんどさ」「寒さ」「辛さ」と感じないように、感覚的センサーが摩耗していた、あるいは無自覚的に鈍麻させていた、とも考えられる。「○○すべきだ」「○○なんて出来ない」という事を言い訳にして、体重減は諦めていた。それは、単にダイエットを諦めていただけでなく、五感のセンサーのメッセージ自体も聞こうとせず、消費社会的イデオロギーの因襲にすっぽり覆われていたのかもしれない。「美味しものを一杯食べたい」「24時間戦えますか」「休みもエンジョイしなくっちゃ」といった消費を喚起させるイデオロギーを内面化して「自分のしたい事」として刷り込まれ、それを所与のものとしたとき、「そうじゃないんだけどなぁ」という五臓六腑のメッセージに蓋をして、突っ走っていた、それが「無痛」状態を引き起こしていたのかもしれない。
そう思うきっかけの一つに、今朝のNHKニュースの花粉症対策の報道がある。北海道大学の教授が、杉の木の無いある町と共同で、杉花粉対策のツアーをやっている、とのこと。大自然の中で、リラックスしながら自然を体感してストレスを減らし、食事療法もして、アレルギーと闘いやすい身体作りをしている、という作りだった。その詳細は正直あまり記憶に残っていない。だが、アレルギー体質の改善方法として、早寝起き・3食をしっかりと食べる・ストレスを減らす、という3つが出てきた時、ふと繋がった。早寝早起きとバランスの良い食事はきちんと実践出来ている。やっぱり残るは「ストレス」だなぁ、と。そう、それは実はある医師にも言われていたのだ。
僕自身、仕事の面ではあまりストレスを感じない方であった。肩こりも最近まで無自覚だったし、胃が痛んだ事なんて、20代にある大ちょんぼをやらかした時くらいであった。ストレスから自由な生活を送っている、と勝手に思いこんでいた。ところが、こないだ主治医である漢方医に、花粉症の薬をもらいにいった時の事。西宮に住んでいる時から9年くらい通っていて、低炭水化物ダイエットを教えてくれた恩人でもある。その先生に、一年間着け続けている体重の変化(=痩せたグラフ)を自慢しにいったついでに、「さて次の課題である花粉症の根本治療は・・・」と水を向けてみると、全く意外な一言を仰った。
「タケバタさんって、緊張が強いタイプでしょ」
「えっ・・・・」
青天の霹靂、自分自身は、150人とか200人の前でも平気で講演しているし、そんな緊張するタイプとは思っていない。何でですか?と伺うと、更に驚く。
「だって、テンション高く、ということは、文字通り緊張が高いんでしょ。そうやって緊張を高めて物事に臨むことって、ストレスフルなのかもしれませんよ」
目からウロコ。
確かに講演などでエンジンをかけるとき、エンジンの回転数をローギアでグイグイ引っ張るかのように高めて、速度を高めてから全速力で突っ走る、というパターンが多い。そういえば一昨日の講演も、「1時間半マシンガントークのように話し続けておられましたね」と司会の方に言われたし、そう言われることは少なくない。僕自身、それが自分なりのスタイルだ、と勝手に思いこんでいた。だが、実はそのスタイル自体が自分自身に緊張をもたらし、つまりはストレスの原因であり、かつそれに無自覚(=無痛)であるとするならば・・・。
そう考えると、診察室であっけにとられて、グラグラと目の前の常識が崩れ去るような、そんな時間を味わった。そして、主治医に今回処方された漢方薬が、気を静める効果を持つ薬。実際それが効果をどう現すかわからないが、飲む際にはいつも意識する。確かに自分自身、緊張しいかもなぁ、と。それを、まくし立てて喋る事で、誤魔化しているのかもなぁ、と。
まくし立てること。
これは、先制攻撃的に、ガツンと自分がパンチを食らわせる事で、相手を威圧する手法。タレント弁護士出身でワンフレーズポリティックスがお得意の某府知事なんかも、この手法。もしかしたら彼自身も、テンションの高い、つまりは緊張しいなのかもしれない。そう言えば独善的で強引な発言が目立つなぁ・・・。
でもまあ、そんな他人の批判はよろしい。僕自身の実存にとって、この「緊張しい」という問題は、自分のストレスの自覚、「痛み」の自覚のためにも、大きなパラダイムシフトをもたらす効果がある。多分以前からそのことを知っていただろうに、10キロ痩せた変容をとげた今だからこそ、その話題を「言っても良い時」であろうと判断され、ご教示頂いた主治医も、なかなか鋭いなぁ、と感じる。そう、人は説得ではなく納得しなければ変わらない。自分自身が、納得のレセプター(=感受性、心の器)を拡げないと、その本意をきっちり受けとめられない言葉がある。二元論的発想や、ガンバリズム的消費社会イデオロギーにどっぷり染まっていた9年前には、そんな指摘は、絶対に受け容れられなかっただろう。だが、今だからこそ、体重の変容を通じて五感や五臓六腑のセンサーに耳を傾けられるようになったからこそ、次の、本質的課題が、目の前に提示されているのだ。
自分の、緊張(テンション)が高い、という現実を、自覚した上で、どう折り合いを付けて生きていくか。
多分勝手な想像だが、抗ヒスタミン薬の服用という対処療法では解決出来ない根本的な花粉症治療とは、生き方を見つめなおす事、だとも思う。
だからといって、講演や対外的な仕事を断る、という短絡的な問題ではない。今日もこれから松本で研修を頼まれている。また、どうも自分はそういう支援現場の職員エンパワメントという臨床的な仕事は嫌いではないだけでなく、そこそこ出来る力も持っていて、かつ世間にも求められているようである。ただ、講演の際、もう少し肩の力を抜いて、リラックスして、伝える、というのも大切なような気がする
講演を始めたのも丁度博士号を取り終わったあとの8年ほど前からだったが、とにかく実力不足を実感していたので、力を入れて、メッセージを込める、ということを、重視していた。今でも「情熱的な講演」とも言われる。でも、それって裏を返したら暑苦しいだけ、とも言える。また講演以外でも、研究会や学会発表の場でもその傾向があるようで、知り合いの研究者の中には「元気だけが取り柄だね」と揶揄する人もいるし、「うるさい」としかめ面する人もいる。今までそれは故無き誹謗中傷だと思いこんできたが、案外それは、僕自身のある一面の真実を照らし出している、とも思えてきた。そう、うるさい、のである。そう言えば、先週の某研修の感想にも、一人だけそう書いていた人もいたっけ(笑)
自分の弱点は、自分の個性や本質の表れである。直したくなければ、別に直さなくてもいい。でも、それを無痛と思わず、何らかの「痛み」を感じるのであれば、虚勢を張らず、そのことと正直に向き合っても良い。最近、そう思い始めている。それが、身体の五臓六腑や五感のセンサーの感度の上昇、体調や体温の微妙な変化への気づきとも同期していると思う。
ならば、2月3月は講演が多いが、その一つ一つの講演も、内容を伝えるだけでなく、伝え方(=形式)で、どう緊張を下げ、かつその中に魂を込める、という技芸が磨けるか、も考えないとと思う。本当の臨床家は、メッセージを届ける、だけでなく、相手に受け取りやすい内容と形式で届けている。自分自身にとって、その部分は、生き方の模索であり、かつ花粉症の治療でもある。近視眼的現世利益と、中長期的実存の問題は、「テンションの高さ」というところで、離れがたく結びついている。これとどう向き合うか。明日で年男を迎える自分の、これからの課題でもある。

支援という探偵業

つい、先日の話。

ある学生のレポートを見ていたら、明確なコピペの疑いが強かった。彼ら彼女らの息づかいとは違う文章が書かれていると直感で感じたら、とりあえず最も違ってそうなフレーズやセンテンスをグーグルでひいてみる。すると、今回の場合は一発で出てきた。「もし高校野球の女子マネージャーがドラッガーの『マネジメント』を読んだら」(「もしドラ」)の読書感想文だったのだが、とある小論文添削会社のHPに載せられた感想文の例を、大部分パクっていた。上下を入れ替えたり、部分的に言葉を直したりしているけど、カットアンドペーストそのものである。証拠を印刷した上で、学生に聞いてみた。
彼は、すぐにコピペであることを認め、こう言った。
「クラブで忙しくて、大会も続いたから・・・」
クラブやサークルで忙しい事は、理由にはならない。現に、うちはトップアスリートの学生も多いが、海外遠征などで忙しくても、課題をきちんとこなす学生を何人も知っている。今年元アスリートだったゼミ生の卒論は、めちゃくちゃレベルが高い内容を書いてくる。文武両道の学生は、うちの大学には沢山にて、それが大学の幅の広さ、層の厚さの基盤をなしている。なので、同じアスリートの仲間に対しても、「クラブで忙しい」なんて泣き言は、「ふざけるな」と言われるぞ、と言うと、彼も頷いた上で、次にこういう言い訳をした。
「でも、どう書いていいのかわからないから」
「もしドラ」を本当に読んだのか?と聞くと、「読んだ」と答える。一応僕も読んでいるので、あらすじを言ってもらうと、確かに最後まで読んだようだ。「ほんならなぜちゃんと自分の言葉で書かないの?」と聞くと、「どう書いていいのかわからなかったから」という本音が出てくる。「例えば君のクラブに引きつけて考えた時、参考になること、同じようなことはなかった?」と聞くと、「それなら一杯ある。例えば・・・」としゃべり始めた。「それを書いたら、立派な感想文だよ」というと、先ほどまでしんどそうな顔をしていたのが、急に笑顔になって、「それなら今週末、書けます」ということに。じゃあ月曜日までにメールで送ってね、と伝えて、話が終わった。
僕は、このエピソードに、支援の本質の一端が現れているような気が、昨日からしている。それは、昨日の相談支援の現任者研修で、このエピソードを話しながら、こんなふうに繋げてみたのだ。
コピペというのは、明らかに「ダメ」な行為である。れは、間違いがない。しかし、学生が「ダメ」である行為に踏み込んだ時に、「ダメだ」と頭ごなしに言っていても、生産的ではない。
もしこの学生のように「ダメだ」ということを内心分かっていた学生でも、それなりの理由があって「ダメ」な行為をした方が利益がある、と思ってやっていたのだから、それを「ダメ」と言っても、相手は損得勘定の利益計算をして、「怒られておけばいい」「言い訳をすればよい」という表層的な理解で終わる。また、もし相手がなぜ「ダメ」なのか理解していなかったら、単に「先生に怒られた」というイメージしか残らない。「意味も分からず怒られた」と思った場合には、逆ギレしたり、あるいはパニックになるかもしれない。
どちらの場合であっても、「ダメだ」と伝えるだけでは、全く「ダメ」であることには変わりない。
では、どうすればよいのか。
「ダメ」である行為をした相手とは、その行為をしてしまったし、これからも繰り返す可能性がある、という意味で、何らかの支援を必要としている人とする。そして、こちらは「それがダメである事」を知っていて、その「ダメ」を注意して、直したい、繰り返して欲しくない、という支援をする側である、としてみる。
叱責型解決法は、両者が「ダメ」であることを知っていて、また相手を叱責し、突き放して自分で考えさせれば自ずと「ダメ」な理由と解決方法がわかる、という考え方である。ある種、我が子を谷に突き落とすような、「かわいい子には旅をさせろ」的な、経験から自分で学べ、という姿勢である。ある程度、相互扶助的ネットワークや親戚・近所づきあいが強かった時代においては、突き放しても、近所のおじさんや、親戚のオバサンなどの別のロールモデルから、かくまって貰ったり、叱咤激励してもらう中で、何となく理解し、乗り越え、成熟する、というモデルも「あり」だったのだろう。あるいは、センスの良い子なら、そういうものがなくても、自分で考えて、獲得していく人もいるかもしれない。
だが、ここで論点として取り上げたいのは、そういうセンスが特段良くない場合、あるいは怒られても繰り返す可能性がある場合である。叱責が効果的に本人の態度が変わるきっかけとはならないケースだ。
その場合、叱る、という行為で何とかなる、と思っている、支援するこちら側が、何らかの態度変容が求められている、とは言えないだろうか。
「あいつは叱っても全く言う事を聞かない」という時、それは自分が「叱る」以外の支援アプローチを持っていない、ということを図らずも口にしている、とは言えないだろうか。そして、それは、プロの支援者(福祉であれ、教育であれ)としては、失格ではないだろうか。
最近、支援とは、ある種の探偵業に近い、と思っている。
探偵とは、自分の眼鏡を相手に押しつける人ではない。今、検察が信頼を低下させているのは、最初から結論を決めて、それに発言を無理矢理誘導する、という、探偵としてあるまじきやり方をしているから、である。その辺りの詳しいいきさつは、「国策捜査」という言葉を流行らせた佐藤優氏の著作を読めば、その論理構築の無理矢理さ加減の記述は、枚挙に暇がない。
だが、本当の探偵なら、全くその逆で、状況の中から、メッセージの痕跡を拾い集め、それをつなぎ合わせる中で、真の理由を少しずつ推理し、試し、解決へと導いていく。ただ事件と支援の根本的差異は、殺人事件なら、「真の犯人」は、特定可能かどうかは探偵の腕次第だが、必ずいる。しかし、支援の場合、「真の理由」なるものは、ある種本人と社会の相互作用の中で、変容する。動機も行動も、本人と環境の相互作用で変化する。そういう流動性があることが、殺人事件と支援では、異なるが、とにもかくにも「自分の眼鏡」を押しつけても、何も解決には導かないことには変わりない。
先のコピペ学生の場合、たまたま僕が叱責型の限界を感じていて、また時間もあったので、コピペする背景には何があるか、を相手と共に探ることが出来た。だから、短時間で表面的理由(クラブが忙しい)の背後にある真の理由(どう書いていいのかわからない)という所に結びつき、それを変える為の支援(クラブの内容と似ている所に引きつけて書いてご覧)と言えば、じゃあ週末に書けますという解決策を導くことが出来た。
これを、例えば「問題行動」「反社会的行動」をする人の支援、に当てはめてみると、僕などより遙かに大変長いプロセスがあるが、ある種の共通性はあるのではないか、と思う。本人がその行為が悪い、ということが理解できていないかもしれない。あるいは「ダメだ」という言語的コミュニケーションを「叱責的解決」と理解できず、パニックになったり、暴れ出すかもしれない。言語的コミュニケーション自体が苦手な場合もあるかもしれない。でも、支援する側としては、探偵になって、何がその背景にあるのか、どういう場面でそういうことが起こるか、繰り返されるとしたら何が鍵となっているか、を探しながら、少しずつ本質に迫っていき、本人が「ダメな行為」をする事で表現したかった事を理解し、それをしないでも済む為の方策を探りだそうとする。これは、力量ある支援者なら、当たり前のようにやっている支援の王道でもある。
だが、これには時間と手間が相当にかかる。一言で言えば、面倒くさい。それに比べると、叱責モデルは、こちらの規範に相手を従わせるだけで済むし、探偵の手間と暇も必要ないし、何よりラクだ。だから、人は支援する側-される側の権力性にものせられて、気づいたら叱責解決モデルを採用する。
こう書いていて、気づいた。「しばる・とじこめる・くすり漬けにする」、という安易な暴力装置に頼る解決方法も、実は叱責モデルの延長線上にあるのではないか、と。精神科病院や入所施設で、認知症高齢者や知的障害者、精神障害者が「問題行動」を起こした際に、言っても聞かないから、としばしば取られる「解決策」。これは口での叱責が聞かない場合の、「処置」としての「叱責」ではないか、と。そう言えば、懲罰的に一ヶ月とか保護室や静養室(共に外からは鍵がかかるが中からは開けられない個室)に閉じこめている例は、未だに見聞きする。これも、支援する側の思考停止・思考の省略に陥っている帰結ではないか、と。
そして、かく言う教師の僕自身だって、言葉での呪縛や行動の固定化(とじこめる)、あるいは一定のやり方しかないという洗脳(ある種のくすり漬け)で、安易に問題を解決しようとしていないか。自分の歪みを相手に押しつけようとしていないか。相手を導く、と思いこみながら、やっていることは無自覚で破壊的な権力行使を行っている場合はないか。そんな問いが突き刺さっている。
むろん、ここに書いた事の半分も、当の場では話せなかったけれど、自分自身の課題として、喉に突き刺さっている。まずは、この問題について、もう少し探偵業を続ける必要がありそうだ。