可動範囲の広がりと「自由」

 

ゼミを終え、和幸のトンカツ弁当を買ってからワイドビューふじかわに乗りこもう、と甲府駅で途中下車。時間が少々あったので、ついでに立ち寄った駅ビルの書店で、気になる新書を手に取る。それが、大当たり。

「支配だと気づくことで、その傘の下にいる自分を初めて客観的に捉えることができる。それが見えれば、自分にとっての自由をもっと積極的に考えることができ、自分の可能性は大きく拡がるだろう。」(森博嗣『自由をつくる 自在に生きる』集英社新書、p42-43)

彼の小説は7,8冊は読んだ記憶がある。論理のドライブがかかったミステリィ、という新ジャンルを切り開いた、元M大学工学部の助教授であった筆者の、ものごとの捉え方、について書かれたエッセイ。読みやすいが、侮るなかれ。論理と経験の凝縮された思考の上になりたった筆者の切り口には、文字通り「腑に落ちる」「目が見開かれる」。なんとなく自分もその断片を感じていた、けれども、全体のピースを組み合わせたパズルの仕上がりは未知の世界だった。その仕上がった「大きな地図」を見せて頂いたような気がする。

「自由を勝ち取ることは、今の自分の状況がどんな問題を抱えているのかを分析することからはじまる。自分の位置、そして方向を認識すれば、自ずと軌道修正の方法は見えてくるものだ。」(同上、p112)

そう、「大きな地図」の中で、自分がどのようなポジショニングでいるのか、という「位置」と「方向」の「認識」があれば、「自ずと軌道修正の方法は見えてくる」し、それが、「自由を勝ち取る」ということに近づく羅針盤につながるのだ。

「『決めつける』『思いこむ』というのは、情報の整理であり、思考や記憶の容量を節約する意味から言えば合理的な手段かもしれない。しかし逆にいえば、頭脳の処理能力が低いから、そういった単純化が必要となるのである。」(同上、p136)

はい、私もその通りです、と素直に頷く。

そう、人見知りする、この場はこういうものだ、この人はこういうタイプだ、と決めつけると、「思考の節約」が可能になる。現に、僕自身は、そういう意味での「合理的な手段」に多く訴えてきた。だが、これはいみじくも森さんが指摘するように「頭脳の処理能力が低い」がゆえの「単純化」なのだ。つまりは、自分の阿呆さ加減の露呈、そのものなのである。

20代で、早く大人になりたい、認められたい、とあくせくしていた時期は、時間に余裕があっても自分(の頭脳の処理能力)に余裕がなくて、「決めつけ」と「思いこみ」による「思考の節約」に勤しんでいた。30代もそろそろ折り返しを迎える今、暇だったあの頃から比べると「めちゃ」がつくほど忙しいが、幾分か「頭脳の処理能力」も上がったようで、「決めつけ」と「思いこみ」に「支配」されていた自分、に気づく場面が多い。ここ最近、とみに感じる。

合気道を始める時には、「今から始めて大丈夫なのか」と、単純にびびっていたが、あれから半年、すっかりはまり、週二回の稽古を楽しみにしている自分がいる。そうして、身体の使われていなかった部分や感覚を開く、ことによって、自らの可動範囲にフィジカルな広がりがもたらされただけでなく、心の可動範囲、というか、思いこみや囚われに毒された偏見的な認知マップの可動範囲も、少しずつ、拡がりつつあるような気がする。確かに森さんの言うように、「自分にとっての自由をもっと積極的に考えることができ」るようになりつつある自分を発見する。

おかげさまで何とか6級の昇級も果たした。5級の練習では、いよいよ木刀の素振りも始まる。自分の可動範囲や可能性をどう広げられるか。早く木刀が届くのが楽しみだ。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。