週末から週明けにかけての、鳥羽、関学、津のツアーを終えて大学に戻る。週末の西宮で、あるいはアマゾンや丸善で注文した本がわんさか届いている通知のついでに、学務課から「リンゴが届きました」というお知らせが。山形のシゲヨシさんが送って下さったのだ。
以前も書いたが、このスルメブログで私のことを色々知って下さり、こないだは山形まで講演に呼んで下さった。現地の皆さんとの議論からも沢山学ばせて頂いたのだが、さらには「リンゴの便り」まで。縁あって、今年から彼はリンゴの木のオーナーだそうだ。初収穫のお裾分け。ありがたいかぎり。早速御礼のお手紙を書こうと思ったら、入っていたお手紙に「私の勝手な都合で、無理無理食べてもらうことになりますので、返事は返礼は一切拒否いたします」と、こちらを気を遣って書いて下さる。なので、このブログで、勝手にこちらも御報告。蜜がつまっていて、メチャクチャ美味しいです! 仕事しながらペロッと一個、食べてしまいました。ごちそうさまでした。
さて、昨日は三重で、今日は大学で、精神障害を持つ当事者の方々の語りに耳を傾ける。どちらも国事業として行っている精神障害者地域移行支援特別対策事業の一環で、ピアサポーターとして活躍しておられる方々である。その話を2日連続聞いているうちに、専門性って何だろう、とずっと考えていた。
精神科病院には、長期入院患者が沢山いる。国の発表では平成23年までに7万2000人の社会的入院患者を地域に戻ってもらうという数値目標を立てたが、諸外国と比較すると、その見積もりは低すぎる、と僕自身は感じている。ただ、この7万2000人という低い数値目標でも、現段階では達成しにくい。その理由として、よく挙げられるのが「精神病院が候補者をなかなか出してこない」「ご本人が退院に対して消極的である」などの理由が挙げられる。
確かに、日本の9割の精神科病院は民間病院であり、患者を出したら、次の患者を入れないと、という経営論理が働くという理由もわかる。また、ご本人が「一生ここに置いて下さい」と仰る、あるいはこれまで病院や地域の側もかなり地域移行の支援をしてきたから、今残っている人は専門職がこれまでどれだけ関わっても無理だった人たちです、という話もよく聞く。
しかし、である。昨日と今日のピアサポーターの方々の話では、どうも上述のような「専門家」の指摘する「限界」こそ、限界があるのではないか、と感じてしまう。例えば、ご本人が「一生ここに置いて下さい」と言うケース。中には、追い出される事に恐怖を感じて、「私たちはここにいる権利がある」と居住権を主張される方もあるそうだ。だが、それを持って、「だから仕方ない」としていないか。なぜ「一生ここに置いて下さい」と居住権まで主張するのか。その背景に何があるのか、と当事者のピアサポーターの方に聞いてみると、ずばり「諦め」だという。精神疾患の初期、家族関係が悪くなり、あるいは両親とも死別し、帰る場所がない、という人がいる。保証人もなければ、長期間の入院で生活力も低下している。そんな人達は、地域に戻って暮らすという夢を持ち続けていては病棟生活が苦しくなるばかりだから、欲求を低次元にして(=つまり地域生活を諦めて)、病棟での生存戦略を生み出されていかれた方が少なくないのではないか。だからこそ、「ここに置いて下さい」とか、以前拙著で触れたが「病気に疲れ果てた。退院したくない」という呟きになる。だが、専門家は、この「病気に疲れ果てた」と「退院したくない」との間にある、様々な諦めや退路を断った惨めな気持ちに本当に寄り添えてきたのだろうか。
そんなとき、同じ病を経験しながらも、地域で暮らしておられる方々の存在は、入院者にとって、特に退院を「諦め」てしまっている人にとって、非常に大きな灯火になっているようだ。例えば、最初お会いした際、「絶対退院したくない」と頑なだった方でも、継続的に関わり続ける中で、ピササポーターに心を開かれ、今では「出来ればアパートに住んでみたい」と仰られるようになった方もいる、という。
ここからは何ら科学的裏付けのない僕の妄言だが、そもそも10年20年という時間をかけて、地域生活や自分自身の夢の実現を諦め続けてきた方に、1ヶ月や2ヶ月の関わりで、気持ちを変えてもらう、という発想こそ、尋常ではないのではないだろうか。PTSDの研究で明らかなように、強い衝撃や被害経験は、それが短時間であっても、その後の人生にネガティブな影響を長期間、多大に渡って引き起こす。精神疾患でしんどい想いをする、という、人生の一大事。かつ、その後病棟で、社会から隔絶されて、精神症状が落ち着いても退院する見込みもない…。このようなトラウマ的な経験を長期間した方々に、「さあ退院ですよ」と言われても、信じられないし、信じたくない、という人もいるのではないだろうか。妄言を続ければ、下手に「退院」を真剣に考えることで、せっかく低次の欲求で我慢することにしてきた「折り合い」(=諦め)のフタを外す、つまりは「パンドラの箱」を開けることにつながり、病気の再発や、以前のしんどさや、でも再びのかすかな希望や、とはいえ長年の入院生活が無駄だったのか…といった様々な想いが爆発的に出てきそうだからシンドイ、だから「一生置いて下さい」ではないのだろうか。この、語られない何か、に専門職はどれだけ耳を傾けてきたのだろうか、と感じる。
だからこそ、当事者という専門性をもったピアサポーターの存在は大きい。期間や病状は違えども、精神病院に入院した経験、退院して暮らす時の不安さ、退院した後の取り戻した感覚、など、対等な立場で、長期入院者が「フタをしていた知りたいこと」を、先にフタを開けて知っている人から聞けるのだ。この経験があるから、もう一度頑張ってみてもいいのかな、という希望に、火がつくのである。火がついた後の支援は、専門職の「餅は餅屋」だ。だが、その火をつける支援は、もしかしたら専門職より、同じ障害を経験した人の方が、うまく出来うる部分もあるのかもしれない。それは、自立生活運動をしてきた身体障害の人は経験してきた事だけれど、ようやく国事業になって、精神障害を持つ人も同じだ、という認識が、制度としても全国的に共有される様になってきたのだ。
そうなってくると、僕も含めた、障害者の支援に関わる人材も、大きく態度変容を迫られる。精神障害は自立生活運動が出来る人とは違う、といった、無根拠な決めつけは通じない。当事者がその専門性を持って、病院や入所施設で諦めざるを得ない、あるいは地域で閉じこもらざるを得ない方に、火を再びともしてもらう支援をする。ならば、専門家は、その火に水をかけるのではなく、更に薪をくべて、火が消えないように、その火をより強固なものにし、地域でその灯された火を絶やさない支援が必要なのだ。なのに未だに「うちの患者さんは○○だから」と決めつけて、水をかけて…古い考えに縛られていていいのか。
リンゴの便り、に入っていたシゲヨシさんのお手紙の中に、「福祉を必要とする方々の心の奥を知ることで、今の日本の福祉レベルでは解決出来ない状況を思い知らされることがあります。それでもなんとか工夫すること、新たな発見をすることが、少しですが福祉レベルを上げることだと思っています」と書かれていた。まさに、その通り。そして、私自身は、触媒、というか、ファシリテーター役として、そういう当事者の声を聴き、専門職の呟きに耳を傾けながら、一方で当事者の専門性や専門家の変容について、整理して伝え続ける役割をすることが「福祉レベルを上げる」ための、ささやかな、自分なりの貢献なのだろうと思う。
山形と三重と山梨、違う現場だけれど、通層低音が同じな方々とセッションが実現したことが、有り難い。リンゴを頬張りながら、豊かな気持ちになる夕べであった。