かえってきました

 

日本に帰ってみたら、満開の桜だった。

丸12時間前まで滞在していたミャンマーのヤンゴンの気温は30度近く。その一方日本はというと、飛行機の中で重ね着をしたにもかかわらず、成田空港では大変ひんやりと感じた。そう、乾期まっただ中の東南アジアから春爛漫、いや花冷えの日本に戻ってきたのだ。今回、パソコンは持って行ったものの、結局どこのホテルでもネットにアクセスすることが出来なかった。旅の途中の記録は追々アップするとして、忘れないうちに、旅の断片を振り返っておきたい。

今回は、バンコクで開かれたアジア・太平洋地域の障害者の権利に関するディスカッションに参加するために訪れたのだが、バンコクにいく「ついで」をいくつもくっつけた。既にこのブログでお伝えしたタイ東北部、ノンカイでのNGO視察だけでなく、その後、知り合いが住んでいるラオスのヴィエンチャン、ミャンマーのヤンゴンも訪問した。両国ともタイのお隣の国だが、これまでは一度も足を踏み入れたことのない国々。何かの「ついで」がないと、たぶん訪れることはなかったろう。そう、そんな「ついで」がきっかけとなって訪れた両国だが、大学院時代時代の仲間のNさん、Kさんの見事なコーディネーションのおかげで、どちらの国でも滞在期間中、めいっぱい現地で活躍する日本のNGOの実情を伺うことができ、予想を遙かに超える収穫があった。もともとの魂胆は、1年生を対象とした「ボランティア・NPO論」の一コマ分を使う素材を集められたらいいな、という程度だったのだが、バンコクとの会議も相まって、実にいろいろな「宿題」を持ち帰ることになってしまった。この「宿題」の中には、もちろん研究上の課題も含まれるのであるが、それ以外にも、自分の中での視点を深める上で欠かせない「宿題」も様々に受け取った。

僕はもともと日本国内の障害者支援のフィールドワークが長かったので、NGOといっても、国内をフィールドにする団体とのおつきあいが多かった。なので、海外をフィールドとする様々なNGO団体の関係者にまとまって話を聞く機会は、今回の旅がほぼ初めて、というデビュー戦のようなものであった。だが、両国で何人もの方々にお話を伺えば伺うほど、国内NGOと同じような組織や構造で、問題点や課題点にも相似点がいくつもある、ということがわかってきた。その上で、国を超えてのNGO故の特有の問題点として、「日本国政府」と直接・間接的に関わることが多い、という特殊性や、国益と市民のニーズで折り合いをつけることの難しさ、なども伺うことが出来た。日本の障害者分野のNGOだって、確かに障害者自立支援法にコミットすることもあるが、海外の場合は、大使館(外務省)やJICAと直接やり取りをする機会も多い。こういう国の組織との直接的やり取りが出来るのも、国際的NGOの特徴だろう。

また、自分がこれまで関わっていたタイのフィールドを相対化して見ることも出来た。確かにノンカイの周辺地域は明らかに経済発展から取り除かれているが、一方で、大手の国際的NGOはタイから撤退しつつある。世界各国の貧困地域での支援経験の長いある方の話では、タイのようにある程度経済発展が進んでいる国に残っている貧困問題は、社会の最底辺の、日本で言えば生活保護層の問題であり、それを海外のNGOが直接支援するのには限界がある。しかもタイのように国力や経済力がある国なら、自国で解決する潜在能力もあるはずで、それよりも国内でどうセーフティーネットを構築していくか、の方が大きく問われる。外国からの支援も、現場支援よりはむしろ、セーフティーネット構築のための法制度や社会システム設計の政策的支援の方が大切ではないか・・・そんなお話だった。

これは以前の自分なら、「そんなこと言っても、僕が見たノンカイの現実は違うんだ・・・」と、聞く耳を持たない話だったかもしれない。だが、ラオスやミャンマーという、タイより遙かに国力も経済力も弱い両国で、農村エリアの多くで食べていくのがギリギリの状態で、初等教育や出産、子育てなどに大きなリスクを伴う、そんな現状を、現場の方々から伺った。一方、タイのノンカイで見た現実は、すべての人が「ギリギリの生活」、という訳ではなく、ある程度豊かな中に取り残されている人々がいて、その格差が日本より何十倍、何百倍と進んでいる現実なのだ。確かに、この方がおっしゃったように、最貧層の問題はセイフティーネット構築の問題であり、外国人が関与するのではなく、国内で解決すべき問題、という説明はわからなくもない。それより、一般層が飢餓や貧困のスパイラルに陥っている国や地域に資金も人手も投入した方が、より多くの人を効果的に救えるかもしれない。

確かにマクロかつ相対的視点でみたら、タイの最貧層よりもっと困っている状態の人々がマジョリティの国の支援に特化した方が、その効果は大きいだろう。だが、一方で、実際に自分が現地を訪れ、活動へコミットし、その声を聞いた現場の当事者の状況を、「それはタイ国内のセイフティーネットの問題だから外国人である私はコミットしない」と単純に線を引けるか、といわれたら、それほど僕はドライにはなれない。むしろこれは、論理的ではないかもしれないが、あくまでも「ご縁」の問題のような気がする。私はタイの現場と「ご縁」があった。そして、今回はミャンマーとラオスの現場にも「ご縁」がつなげられた。その「ご縁」を、右から左に聞き流すか、ほっとかれへんと思うかは、それはその場に立たされた人間が、自分の経験や直感に従って判断すべき性質のような気がする。世界中でもっとひどい現実を様々に見てきた人にとっては、タイの問題は「国内問題」と映るだろう。だが、僕は現地のNGO活動が行っている最貧層への支援に大きな意義を感じ、その団体の資金が枯渇していることを聞いて、悲しい気分になった。ならば、前者の人々は、より支援が必要な場に特化したらいいし、僕のように「タイも大切だ」と思ったら、それに従ったらよい。そう、出会ってしまったから、なんか引っかかるから支援する、それで個人なら十分なような気がする。

あと、支援になぜ関わるのか、今回多くの方々に聞いていて、印象的だった答えの一つに、「人間は学び、成長できるから。人間の可能性を信じているから」という発言があった。「人間の可能性」、このシンプルな意見を、私たちは日本にいると、案外忘れてしまっているような気がする。どんな人だって、何らかの支援を受ければ、「学び、成長できる」。これは、海外の貧困層だけでなく、国内の障害者であれ、あるいは僕の関わる学生さんだって一緒だ。支援に携わる喜びが、その人がその支援を通じて「変わること」。この支援に携われるおもしろさって、やっぱりどこでも同じなんだ、そんなシンプルなことを改めてかみしめていた。

さて、そろそろ「あずさ」は、山梨学院のキャンパスを通り過ぎる頃。有意義な10日間の調査だった。明日からは4月。この旅の「学び」をどう学生さんたちに伝えていくか、これが明日以後の僕の課題だろう。

From Myanmar

 

This is Hiroshi TAKEBATA from Yangon, Myanmar.
Until yeseterday, I had very hard time attending at the meeting in Bangkok about the empowerment and advocacy for the disabled in Asia Pacific Region. That was very interesting meeting, however, the schedule was very tight, so I could not wirte any comment on this site, Surume Blog. And today, I fly to Myanmar to see my friends here. The Internet situation in Myanmar is not so good, so I could not write the Japanese mail by Internet.
My report of this trip will be uploaded after the 31th. Please wait until then.
Best Regards,

ノンカイ便り

 

ノンカイの町にやってきている。時刻は午後9時。ゲストハウスにネットが引かれているわけでもなく、ゲストハウス近くのネットカフェからこのブログを打ち込んでいる。まわりは大繁盛。しかもお子様たちで。彼等彼女等は何をしているのか? そう、ネットゲームだ。今はPANGAとかいうオンラインゴルフゲームがかの地でははやっているようで、みなさん一応にバシバシ打っておられる。で、このネットカフェに小1時間滞在すると、50バーツとられる。日本円で150円。日本人にとっては、「安い」と映るだろう。タイの人々にとっても、まあ昨日ご報告した細めんが30バーツくらいなので、そんなものか、と思うかもしれない。

ところが、である。今日、NGOの取材で訪れたノンカイ郊外の村での出来事。ここは、ノンカイ市内から車で小1時間しか離れていない。道路は時折舗装されていなかったりするが、中には立派な家もある。その一方、トタン屋根のあばら家風の家もある。で、その地域の最貧困層の農家の奥さんにお話を聞く機会があった。彼女たちは、薄手の毛糸で子供用のシャツを縫っている。1,2日で1枚、仕上げるそうだ。これ一枚でおいくらですか、とたずねると、答えが30バーツ。そう、細めん一杯分の値段で、かつ、僕の横でゴルフゲームに興じているお子様たちがネットゲームをしている値段より、安いのである。農家のおばさんが二日かけて仕上げるお仕事の価値が、そんなものなのか・・・。あらためてタイ国内の貧困格差の大きさを思い知らされる。

この国の公務員の最低賃金は一日143バーツ。これだって、日本円で429円ほどだから、実に安い額だ。でも、その最低賃金にはるかに届かない労働もある一方で、その額近い額をネットカフェで使っている子供もいる。しかも、たとえばお金持ちの息子娘さんだけか、と思うと、見た感じごく中流家庭の子供たちのようにもみえる。ということは、貧困層と中流層でもこれほどの違いがあるのだ。

また、郊外の村々では、立派な家だ、といっても問題はあるようだ。たとえば、その家が借金漬けで建てられている場合。ひどい人になれば、20%の高利で20万バーツ以上借りて家を建てている。その人々の収入の数年分以上をそれほどの高利で借りていては、返せるはずもない。そこで、一家離散する人もいれば、一念発起して海外へ出稼ぎに行く人もいる。だが、出稼ぎに行くためにはまたまとまった額のお金が必要であり、中にはそれが払えないから、と娘が売春して家族を養うケースも出てくる。貧困で教育をあまり受けていない家庭では、日雇いの建築業くらいしか働き口がなく、継続的収入に結びつかず、その結果、支払いに困ってまたお金を借りて。。。こういった負の悪循環も続いていく。

この悪循環を抜け出すために、セルフヘルプ、エンパワメント、といった障害の世界でも耳なじみのある考え方が、大変な威力を持っている。そういった実情も今回の調査でしみじみわかった一方、でもそういった援助の対象になっている人々の収入が日に30バーツという実情は、やはり心が痛む。

ネットカフェでは「のまのまイエイ」と歌っている。ネットカフェに入ってそろそろ1時間立つが、横のがきんちょはネットカフェから動きそうにもない。明日以後もいろいろな場所で聞き取りを続けていくが、グローバライゼーションが及ぼした格差社会の問題を、タイなどのアジアではあまりにも「わかりやすい」問題としてみてしまう。でも、貧困な農家の人々は、この「わかりやすい」現実も、情報不足で届かないのだ。また、知ったところで、そこから抜け出す術も、外からの援助が入らない限り、なかなか生まれてこないのである。

「まいあひー」の軽薄な歌声の下で、重たい現実を書いているうちにぐったりしてきた。でも、このぐったりは、2度の甲府と32度以上のノンカイの気温格差に起因している部分もたぶんにある。明日はラオスに移動なので、今日はもうここまでにしておこう。

業務連絡

 

今日から31日まで、タイ・ラオス・ミャンマーと出張と取材の旅に出かけてきます。
ネットカフェでスルメウェブを更新できるかどうか、は微妙な情勢。
できれば、猛暑の現地から、いろいろな刺激をお届けしたい、と願っております。
無理なら帰国後にドバッとお届けの予定。乞うご期待!

バンコクの空港より

 

ようやくタイにたどり着く。日本と時差があるので、今は午後5時。外は30度以上の猛暑、ということで、むっとしている。さすがに乾季まっさかりの、夏のタイである。

タイには何度も着ているのだが、今回は丸々3年ぶりのタイである。3年前は、博士論文を書き終わった放心状態で、仕事もなく、なんだか宙ぶらりんな状態でタイに来ていたことを思い出す。その当時も、ネットカフェで日本語のメールは読んだり書いたり出来たが、でも空港内のネットカフェからこうしてスルメブログを更新できるようになったのは、隔世の感がある。この間、このスルメの管理人、magunam氏にはいろいろご迷惑をおかけしました。おかげさまで、なんとかタイからも更新できております。ネット上で心より御礼申し上げるしだいであります。

なぜバンコクについたのにまだ空港にいるのか? それは、これからタイ東北部のラオスとの国境の町、ノンカイまで移動する必要があるからだ。明日からあさっての午前中ははノンカイのNGOの取材、あさっての午後はラオスに移動して、ラオスにいる後輩のところにより、ラオスの国際協力の実情もちらっと取材。で、あさっての夜はバンコクに舞い戻り、夜はなぜかホテルで自立支援法のお勉強会のインチキ講師をして、その翌日からは国際会議に突入。という、なんだかよくわからないスケジュールなので、今日中にノンカイまでたどり着いておかなければならないのだ。本当はバンコクから12時間かけて列車でノンカイまで行ったほうが車窓も楽しく、いろんな売り子から鳥のモモの丸焼きとかいろいろ買い食いできて、しかもノンカイまで1000円かからずに行けるので大変よいのだが、時間のなさは仕方ない。今回はその5倍近く払って、飛行機で最寄の町、ウドンターニまで1時間。その後、バスに1時間揺られたらノンカイにつく予定だ。

で、待ち時間にこのウェブをチェックするより早く、まず一番に立ち寄ったのが、国際線ターミナルから国内線ターミナルに行く途中にあったフードマーケット。そう、あの美味しいタイの細麺(センミー)との再会だ。レバーやセンマイなどモツとパクチーとゆで卵をトッピングした、庶民の味の代表格。この味にはまって、以来タイ好きになった、といっても過言ではない一品。やっぱ、うまい。砂糖と唐辛子をかけていただくのだが、この濃くと、甘辛さがたまんない。この段階で、ダイエットは帰国後までお預け、がほぼ確実視されてしまった・・・。でも、うまかった。

で、おそらく食の話は、写真入でまた報告できるので、忘れないうちに機内で読んだ本のことを振り返っておきたい。

「エンパワメントと平等を中心とする現在の私たちの意識をもって、慈善と温情主義という流行おくれの考えから生じるように思われる過去の事業を否定することは容易である。しかし、私たちは歴史的な展望に心に留める必要がある。暗い画一的な施設やビクトリア時代の博愛施設によって、スープを貧しい人によそる断固とした大勢の独善的な慈善家がいた英国において、現代のボランティア活動の基礎が築かれた。それはいうまでもなく福祉国家の確立である。私たちの現在の態度で今ビクトリア朝の人々を批評することは、米国が1920年代に人を突きに行かせるべきであったと言うことに似ている。」(ピーター・コリッジ著「アジア・アフリカの障害者とエンパワメント」明石書店 p209) 

以前、歴史家の小熊英二氏の発言に引かれてコメントを書いたことがある。小熊氏が「その人たちが置かれていた同時代的な文脈や制約は重視しているつもりです」と語るのと、このコリッジ氏の言うことはほぼ重なってくる。入所施設批判をする際にも、そのときの文脈に合わせて入所施設や精神病院がなぜ増えていったのか、の分析をしない限り、物事は見えてこない。アジア・アフリカのさまざまな障害当事者へのインタビューから成り立つ同書を書いたのは、オックスファームという大手NGOのワーカーだが、彼の歴史の捉え方、ものの見方が実にシャープで、かつ的確であることを物語るエピソードである。

その彼が書く入所施設に関する記述も、実にシャープだ。

「施設は非常に人目にもつきやすく、慈善的行動が地域社会の中での尊敬を集める文化において宗教的によい行いであることは言うまでもなく、個人の寛大さや慈善を表現する明白な方法である。それらは、個人的帝国を設立するのに効果的な方法でもあり得る。」(同上、p134

日本でも、「ほっとかれへん」というやむにやまれぬ義侠心や慈善の心で、私財を投じて入所施設を作られた方も少なくない。その、作った当時の設立者やその意義について、当時の文脈を無視して物語るのはアンフェアだと思う。ただ、コリッジがここに書くように、結果としてその施設が、設立者の「個人的帝国」の拠点になっているとしたら、いったい誰のための入所施設・病院なのか・・・。彼の記述は、日本の入所施設問題を考えるときも、まさにずばりと射抜く表現が多い。こういう「あたり」の記述に出会えると、いくら機内でタイのシンハービアを飲んでいても、目がさえてくる。と、同時に、自分がこういうズバッとした分析が出来る目を持っているか、を己にも問うてしまう・・・。

まあ、ここはバンコク。タイで日本と同じモードになっていても仕方ない。さて、ぼちぼちモニターを見つめているのも疲れてきたので、今日はこれまで。次はノンカイから、もう少し旅日記風にお届けします。

しんかが問われる

 

昨日の夕刻。出張からの帰り、新大阪から新幹線に飛び乗る。
僕の座席はA席。三人がけの一番窓側だ。いつもなら夕刻の新幹線は満員なのに、今日に限って真ん中の席は空いている。京都から乗ってくるのかな、と思いきや、さにあらず。名古屋を過ぎても真ん中は空いている。それでようやく気づいた。
「そうか、今日は土曜日だ!」

大学が春休みというと、「何をしているんですか?」とたまに聞かれる。僕も自分が学生だった頃、疑問だった。大学の休みの時期、教員って何をしているんだろう? ずっと休みだったら、なんて楽な商売なのか・・・。 なってみて、その真相を知る。何をしているかって? 働いているのですよ。でも学生はいないでしょ、って? うん、だからこそ、研究しているのです。

そう、教育力がますます重視される大学(特に私立大学)にあって、授業があり、キャンパスに学生がいる間、教育やそれにまつわる大学の仕事で結構忙殺される。まあ、僕自身、教育もすごく大切だ、と思っているので、出来る限り手を抜かず、学生が来たらなるべく手を止めて、ゆっくりお話ししたい。特にわざわざ研究室まで訪ねてくださる学生さんに、「ごめん、今忙しいからまた来てね」といって、また来てくれるかどうか、はアヤシイ。特にいちげんさん、ならなおのこと。以前、ゼミのことを質問に来た学生さんに先述の発言をしてしまい、結局来てくれなかった苦い経験もある。そう、僕のような「がめつい」人間にとって、先生の部屋をノックする心理的負担は全然ないのだが、特に大学1,2年生の学生さんたちにとって、研究室を訪れる、というだけでも、大きな心理的負担なのだ。そういう事に気づいた後、ゼミ生でしっかりとした関係が出来た学生さん以外には、なるべくいつでも歓迎!の方針を示している。

ということは、授業期間の間は、自ずと学生さんたちのペースを尊重するので、自分のペースを保てなくなる。特に報告書作成やがっちりと原文の本を読み込む、といった集中して時間を投下しないと出来ないたぐいの仕事は、この期間には向かない。でも、「なんちゃって」研究者であっても、一応研究したいことはいっぱいあるし、プロジェクトもいくつか抱えているので、締め切りもあるし、一定の成果物も求められる。するとどうなるか。そう、授業期間が終わった後の、学生にとっては「お休み」の期間に必死になって研究するのである。つまり、研究者にはまとまった休みがなくなっていく・・・。 

まあ、そうはいっても、ちゃんと自分のペースでこつこつ授業期間中も研究を欠かさずやっておられる真面目な先生方も一方でいらっしゃる。でも、根がずさんでキャパシティーも大きくないくせに、たくさんのプロジェクトに色気を出して顔をつっこんでしまっているタケバタ。今年は3年間研究の報告書が二本、別の研究報告書や冊子原稿やらが二本、と計四本の締め切りが、すべてこの三月に重なった。その事態はいちおう昨年の夏からわかっていたのだが、夏休みはバテていて、9月はアメリカ調査に行っていて、10月から1月からは怒濤の授業期間。でもその期間にアメリカ調査のまとめのドラフトを平行してやっていて、2月から3月にかけては、毎日朝から晩までパソコンと睨めっこの日々。ここ二ヶ月、休みはほとんどなく、大学に出かけて研究しているか、あとは出張に出歩いているか、のハードな日々だった。

とはいえ、大学院が終わった後の二年のプータロー期間のつらさ、居場所のなさ、アイデンティティクライシスの期間と比べたら、研究室を頂き、研究に没頭できる時間のなんと贅沢なことか。この期間に心から感謝しながら、研究会やら調査、出張のない日はまるまる「報告書を書く日」として確保して、ずっと書き続けてきた。おかげさまで、ようやく報告書が二本終わり、ついでに研究会で口出しをしてしまったために原案を書くことになった原稿も書き、そして昨日の大阪行きの車内で、別の報告書もほぼ仕上げた。あとのもう一つの原稿は、「四月でもいい」と聞いたので、ちょっとギブアップ。ここしばらくアウトプットしすぎで、心身共にクタクタになっている。なので、火曜から海外でいっぱいインプットするバランス調整のアライメント期間が必要だ。なにせ、曜日感覚も忘れかけているのだから・・・。

今回、根を詰めて原稿を書いていて、だいぶ「書くこと」への抵抗感がなくなって来ている自分を改めて発見。以前は口では言えてもうまく書けない、というもどかしさが大きかったのだが、とにかくズンズン書いて、何度も書き直しているうちに、にょきっと何かが出てくる、というオノマトペの世界を体感。そう、書いていれば出てくるモノは出てくるのです。なので、ようやく書く楽しさが生まれてきた。だが、そうやって仕事に没頭し、出張も講演も調査も引き受けていると、自ずとプライベートの時間がなくなる。この間、夜ご飯が9時を超える日々が続き、とたんに皮下脂肪がついた。これはデブ路線への直行だし、パートナーにも相当迷惑をかけた。なんせほとんど仕事人間化した数ヶ月だったもんね。

インプットとアウトプットのバランスが均衡してこそ、いい仕事が出来る。これはオンとオフのバランスも同じ。しゃにむにオンばっかりなら、オフがずたずたになり、内部崩壊するのは目に見えている。ここしばらくは、パートナーに様々な点で我慢してもらって、その崩壊をかろうじて防げた感じ。ほんと、感謝することしきり、である。4月以後は、このオン・オフのバランスの均衡も上手にとれるよう、いかに効率よく仕事を仕上げて、うまくオフの時間を作るか、が大切になってくる、としみじみ感じている。せっかく自然豊かな山梨に引っ越して、アクセラ号もやってきたのに、後半はほとんどドライブにも行けてないしね。

二年目の春。いちおうの仕事の流れもつかんだ。課題点もみえている。さて、そうバランスをとりながら、求められている課題と、したい課題を両立させていくか。ここらあたりから、僕の真価が問われているような気がする。しんか、といえば、皮下脂肪の進化(深化)を食い止められるかどうか、の瀬戸際にも到着しているのだけれど・・・。 やっぱ、腹筋しかないのかなぁ・・・。

勇気とは何か?

 

春の嵐なのか、甲府は朝から風がビュンビュン吹きすさんでいる。
もとより「空っ風」の土地柄だが、こういう季節の変わり目の嵐は、季節が冬から春に移行することを、まさに「身をもって」知ってくれているような気がする。

今朝の朝日新聞の論壇に、ある精神科医が精神障害者の病院から地域への「移行」に関して、次のようなことを書いていた。

「今後の退院対象者に関しては、これまで以上にきめ細かな、より少人数での居住環境や、手厚い保護環境下での就労形態が求められているということである。言い方を変えれば、そういった条件が整わない場合、個々の患者について入院を継続させる勇気を医療者側は持つべきである。」

国は障害者自立支援法が制定されるにあたり、他の国より明らかに多すぎる精神科病床(34万床:甲府市人口20万の1.7倍)を削減するための「退院促進支援」にようやく取りかかった。この5年間で72000人の退院促進をする、と言う。でもその実、計画案を詳細に読み込むと、なぜか5万人になっている。あとの2万人については何も書いていないが、老人の施設か「死亡」という名の「自然減」と考えているのだろう・・・。

これはこれで恐ろしいことなのだが、この5万人の退院支援に関してこの医師は、「数値目標を優先して病院から出すとすれば、かなりの数の者が路上生活者となるか、『回転ドア現象』を起こして病院に舞い戻ってくるか、悪くすると、刑務所の中に行き着くことになるのではないか」と分析している。確かに、病院の中で何十年と暮らしていて、自動改札も知らず、三食昼寝付きの生活に慣らされてしまった、いわゆる「施設症(institutionalism)」に陥っている人々にとって、急に環境の違うところに放り出されることは、大きな不安がつきまとう。だから、少人数の住居やきめ細かい支援が必要だ、というこの医師の指摘は、よくわかる。

ただ、どうしてその後に、「そういった条件が整わない場合、個々の患者について入院を継続させる勇気を医療者側は持つべきである。」という論理になってしまうのか。これって、冒頭に述べた季節の変化で言うならば、冬の季節に慣れている人が、春に慣れないのなら、ずっと冬の環境に閉じこめておく「勇気」を医療者側が持つべきだ、という滅茶苦茶な論理になってしまう。確かに季節の変わり目は、よく風邪を引いたり関節が痛んだり、体調を悪くしたりする。でも、そういう中でも徐々に新しい季節に慣れていき、順応していくのが人間なのだ。これは季節の移行ではなく、精神病院から地域への住まいの移行も同じ。ずっと精神病院に暮らしていた人にとって、地域での暮らしは最初はとまどいや失敗もあるだろうが、そういう失敗を重ねる中で、徐々に地域での暮らしに溶け込んでいけるのだ。それを「条件整備が整わなければ入院継続させる」ことが医療者の「勇気」となぜ言えるのだろう・・・。

大阪で始まった、長期入院の患者さんの退院促進支援の動きは、今、全国に広まっている。例えば昨日の沖縄タイムスの中で、ある当事者のかたは「長い間病院にいた患者の勇気や頑張りも大切。退院した人から、まだ入院している患者に、自分が感じた思いや経験を伝える場も必要」と語っている。地域で暮らすための住まいや支援の様々なしかけを作っていくと共に、長い間同じ病棟で暮らしていた「仲間」が退院して地域で楽しんでいる姿を見ることによって、地域への「移行」に消極的だった長期入院患者の中に、希望が生まれているのだ。

ちなみに、長期入院患者の消極的姿勢をこの医師は「より自発性の低下や自閉性の強い、あるいは幻覚や妄想などの症状がかなり残存する患者」と定義しているが、この定義の仕方にも大いに疑問が残る。確かに病棟にはこの医師が表現するような雰囲気を持つ方々もおられる。でも、その方々がそういう現状になったことは、本当に病状のみが原因なのか。急性症状が出たときの治療の遅れ、家族関係の悪化、その後の長期入院、その中での絶望や諦め・・・そういったものが折り重なっての、「自発性の低下」であり「自閉性」、という人も多くいるのではないか? 全部が全部、その人の持つ症状や傾向という「個人因子」に起因させてしまっていいのか? それよりも、家族関係や治療環境、支援不足といった「環境因子」の構造的要因が、その方の絶望や諦めといった消極的姿勢を構築している部分があるのではないか?

そういう「環境因子」の改善について、先ほどの退院促進支援事業などで、地道な努力が全国で始まっている。そういう努力こそ勇気を持って医療者側が取り組むべきなのではないか。そういう努力に光を当てず、「条件が整わない場合、個々の患者について入院を継続させる勇気を医療者側は持つべきである」という見解をふるうのが、医師の「勇気」や「優しさ」と言えるのか。これこそパターナリズムの最たるものではないか・・・。

この精神科医は、論の最後をこう締めくくっている。

「統合失調症の患者の多くは、人に知られず、ひっそり生きている人たちとも言える。その彼らを『広場にもちだす』には、より慎重でなければならないのでだと考える」

確かに人によって、いろいろな住まい方、生き方がある。「人に知られず、ひっそり生きる」ことを好む人もいるかもしれない。だが、どこでどういう暮らしをするか、の選択権は、医者ではなく当の本人にあるはずだ。またその方が「退院したくない」と仰っても、それはその背後に長年の支援不足や家族関係の悪化といった「環境因子」の蓄積によるものかもしれない。それらを検討し、本人と共に今後の人生を模索していく「勇気」こそ、医療者は持つべきなのではないだろうか。地域という「広場」で生きるか、病棟で一生を終えるか、という判断を医療者側が本人の意向や背景要因を分析することなく勝手に判断する勇気にこそ、「慎重でなければならない」、僕はそう考える。

諦めない!

 

朝一、ある方のブログをなんとはなしにみていて、明日が確定申告の締め切り日と知り、愕然とする。明日は卒業式で会議も入っているし、どう考えても無理じゃん、と。というわけで、朝から急遽予定を変更し、源泉徴収やら経費となる領収書やらひっかき集めて、エクセル君をパタパタ打って、税務署の特設会場へ。タッチパネルの操作をしてくれる女性の顔に何となく見覚えがあるなぁ・・・と思っていたら、ハタと気づいた。こないだ研究室に訪れた、他のゼミの学生さんじゃないか。ああ、こういう収入なのね、とまるわかりだよなぁ・・・と思いながら、まあしゃあないか、と特別会場を後にする。

そして大学で二仕事終えて帰宅。今宵は9時15分からテレビに釘付けだった。それは、NHKのプロフェッショナル。今日の特集は、以前お世話になった竹岡先生が出ていたのだ。

僕は実は竹岡先生の授業は聞いたことがないのだが、竹岡先生と一緒に仕事をしておられる恩師のT先生を通じて竹岡先生と出会い、また竹岡先生は高校の先輩、ということもあって、数ヶ月だけ、竹岡先生の塾で教えさせて頂いたこともある。そういうご縁もあって親近感を抱いていたのだが、今日、竹岡先生のドキュメントをみていて、あらためて実感した。そう、「なにくそ! 諦めるもんか!」 このマグマのような想いが、竹岡先生や恩師のT先生、そして僕は同じなんだ、と。

番組の中で、竹岡先生は「きっかけをつかめば自ら伸びる」とおっしゃっていた。これは、塾講をしていたタケバタとしてもまさに実感することだ。僕も、K学院やM塾で高校生や予備校生と真剣勝負をしていた頃、心からそう思った。「どうせ俺なんて」と自分を低く評価している人は、どれだけ基礎学力やIQというものが高くっても、伸びることはない。逆に、「なんとかしたい!」「なにくそ!」「諦めたくない!」と強い気持ちを持っている学生なら、その人の基礎学力がどれほど低くても、極端な話、高校3年生で中学英語があやふやでも、1年根性を本気で出せば、相当な努力が出来て、それが実る、ってことを。 そう、僕は塾講をしていた12年間で、諦めずに本気でものごとに取り組めば、人は本当に変わる、ということを身体で覚え込んでいたのだとおもう。

ただ、この数年の間に、偏差値至上主義からは完全に抜けきってしまった。正直言うと、国立の研究中心の大学より、手前味噌になるが山梨学院のような私学の方が、教育という面で本気になっている先生方は多い。それは、母校と比較してもそう思う。だから、闇雲に偏差値のみで大学を計るのは、ちょっと違うんじゃないの、と思う。むしろ、その現場に置いて、社会的に評価されている地位なりステージに甘んじて、それ以上の努力をしないことの方が、大いなる問題だと思っている。去年一年教えてみて、我が大学の学生さんの中には、小さくまとまろう、とか、どうせ自分なんて、と過小評価している学生さんがいるのが少し気になった。そうやって自分の評価を下げているのも、実は自分なんです。「なにくそ!」と思って、諦めずに、自分はこういう風になりたい、と目を輝かしていれば、きっと自分の夢はかなうのだ。

僕自身、ずっと「なにくそ!」と言い続けた10代、20代だった。いろんなことがうまくいかず、諦めかけたり、挫折しかかったりもした。でも、そのたびに、色んな方々に支えられ、助けられ、励まされるなかで、「
なにくそ!」「諦めるもんか」と歯を食いしばってきたのだと思う。確かに楽じゃない。でも、そうやって、人生で一度は大勝負を張って、必死こいてがんばるからこそ、次に向けてのビジョンが、その必死さのなから、徐々にジワジワ出てきたと思う。簡単に「どうせ」とは絶対に言いたくない! これが、僕の数少ないこだわりだ。普段の日常生活には、あんまりこだわりがなさすぎて、非常識とも言われるが、でも、この「諦めたくない」というこだわりだけは絶対に捨てたくない。その人の人生は先天的に決められているのではない。本気になって、ある対象とがっぷり向き合う中で、醸成されていくものなのだ。だから、僕はいつまでも自分と向き合う学生さんには「なにくそ!」「諦めんぞ!」という想いは伝えていきたい。そう感じている。

投稿者 bata : 22:24 | コメント (0) | トラックバック

20060313

姿勢の良いおかげで・・・

昨日、春が来た、なんて書いた翌日、甲府は「寒の戻り」となった。
まあとにかくめちゃんこ寒い。車の寒暖計は、先ほど4度と言っていた。昨日より10度以上寒い。身体は春のモードになりかけていたから、こういう寒さは余計にこたえる。

今日も朝から大学に出かけ、こりこりと報告書に打ち込む。先週に研究会があって、手直し原稿が二本、それに加えて、報告書のまとめの部分で提案をしてしまったばっかりに、「じゃあその部分を書いてよ」と頼まれてしまい、その原稿を結局引き受ける羽目になってしまった。こういうのは「言い出しっぺの責任」というのだろうが、この時期、あと二本ほど原稿の〆切が今月中にあって、しかも来週から海外に出かける直前の「カウントダウン」がされている頃に、今さらの追加は厳しい。とはいえ、大変お世話になっている方から頼まれてしまっては、引くに引けないし、どうせやるならちゃんとやらねば、と、ゴリゴリ昨日も今日も悩んで、とにかくひとまとめが出来る。それをメールで添付して送った後、今度は次の原稿。何だか右から左に、次から次に、パタパタかたかた毎日パソコンと睨めっこの日々なのである。

こうやって一日8時間以上画面と睨めっこの日々が続いていて、つくづくモニターと椅子に感謝している。その昔、修士論文を書いているとき、毎日ブラウン管モニターと睨めっこしていて、ものすごい眼精疲労に肩こりに苦しんでいた。ちなみに僕は普段はあんまり頭も眼も使わないので、視力も良いし、肩こりとは無縁の生活だ。そのタケバタが眼も肩もこり始めた。これは修論に入れ込んでいるからか、と思ったが、何のことはない、テレビのブラウン管を、毎日間近でずっと見続けていたら、そりゃあ眼も肩もやられるわねぇ。というわけで、以来、液晶モニタに変えたら、眼も肩もすこぶる調子が良くなった。

それから、椅子の効果も絶大だ。あるNPOで働いていたとき、そこにあったバランスチェアを使っていたら、姿勢がしゃんとしてすこぶるよかった。椅子が前傾姿勢になっていて、膝を支える部分もあり、背骨全体がすっきり伸びるデザインの椅子。甲府の引っ越した後、僕は広島の会社から通販でホーグ社のバランスチェアを2万円台で購入したのだが、もう既にもとは取っている。ここしばらく研究室で朝から夕方までパソコンに向きっぱなしの日々が多いのだが、姿勢良く座っていると、腰にも負担が少なく、もちろん眼や肩のこりもない。こういうすぐれものがあるから、真っ当に論文と格闘出来るのだ、と思うと、あらためて椅子や液晶モニターの威力に感謝してもしきれない。

そういえば今日、久々にジムに出かけ、エアロバイクで汗をコッテリかきながら、スポーツ系の雑誌を読んでいた。こういう雑誌はジムにでも行かない限り絶対に読まないので、それはそれで面白い。で、その雑誌の今月号の特集は肩と眼の凝り。やはり運動不足と姿勢の悪さが、これらの一番の原因のようだ。運動不足はジムにでもいかないと解消出来ないが、姿勢悪さはバランスチェアで大部緩和されている。そういえば今、家のPCに向かっているのだが、おうちの椅子は、普通の椅子で、気がつけば猫背姿勢。この猫背こそ、諸悪の根源だ、と、その雑誌でも書いてあった。確かに姿勢悪けりゃ、色々な部分に悪影響するだろうなぁ、と思いながら、そないにひどく書かなくても、と思ってしまう自分もいる。

ジムでコッテリ汗をかきまくり、帰りに美味しい鱈を買って、こよいは鍋。寒の戻りには、日本酒と鍋がしみわたる。とはいえ、こういう気分を求めるのも、もうあと何日か。ぼちぼち来週あたりには桜の開花も予想されている。やはり、春はもうすぐそこなのだ。そろそろスノータイヤも替えないと。結局、この冬はほとんど必要なかったよなぁ・・・。ま、履き替えている安心感はあったので、高い「保険料」としておこうか・・・。

移住1周年記念

 

気がつけば甲府も梅の季節を迎えている。

ここしばらく報告書が重なって余裕がない日々が続いているので、気がつかなかったが、数日前からあちこちで、紅梅や白梅が咲き競っている。今日、韮崎に野菜を買いに出かけた折には、畑が紫色の絨毯になっている所や、黄色い花が色づいている場所もあった。もう、春だ。

ほんとなら家の近くにある梅林(不老園)にでも出かけて、くんくん梅の香りをかぎたいところだが、忙しいし、しかも花粉症なのでそうも行かない。もう15年以上前から重度の花粉症の僕は、気がつけば春は憂鬱な季節になってしまっていた。本来、ようやく寒さが薄らいで、芽吹きがあちこちに見られ、気持ちも高揚するはず、なのに、無粋なくちばしのような大型マスクは外出時にはかかせないし、しかも花粉を浴びたら、と思うとなかなか散歩にも行きたくなくなる。何だかある種の「恐怖症」のようになっている。実際、僕は本当に花粉症がひどくって、鼻はダラダラ、目は真っ赤、くしゃみ百連発、というのが以前の常識だった。春先は全くぼーっとしていて、何も手につかなかったのだ。

でも、さすがに仕事をし始めると、「花粉症休暇」なるものは貰える訳もない。そこで、様々な対応策を考えて、現在実施しているのは次の三つ。マスクは欠かさず、不必要な外出はしない。漢方を飲み続けて体質改善(昨年から継続中)。国外に逃げる。このうち、に関しては、逃げた先も花粉症ならシャレにならないので、なるべく対象外の国に逃げなければならない。運良く一昨年は3月20日までスウェーデンで暮らしていたし、昨年は2月末から3月はアメリカ調査だった。だが、帰国途中の機内でインフルエンザにかかって、その一週間後は甲府の引っ越しなので、死にそうだった。そして今年は再来週からタイに逃げる。やはり、花粉から逃げるに限るのだ。

で、去年の今頃を思い出すと、先週末で甲府在住1周年を迎えた。さきほど書いたが、3月1日に日本にインフルエンザと共に帰ってきて、9日が引っ越し日。その間に送迎会を5回くらい開催してくださる予定だったのだが、半分くらいキャンセルせざるをえなかったのだ(その時はすいません)。風邪で寝込んで、治ったらもう引っ越し準備が佳境で、必死に本をパッキングして、甲府に真夜中に到着。翌日荷物を引っ越し屋さんに運んでもらった後、妻も僕も茫然自失、というか虚脱感で、こんこんと眠る毎日だった。しかも、今から考えたら信じられないのだが、全く予定のない日々。毎日愛宕山をぼんやり眺めながら、とにかくうとうとしていた。その一年後、こんなにきりきり舞になるなんて思いもつかず・・・。どうやら少しは甲府に溶け込みだしたようだ。これから二年目、どういう展開になっていきますやら。

画一化の崩壊の後(増補版)

 

*ブログの便利なところは、こうして書き直しが可能なこと。前回のこの文章がかなり舌っ足らずなのが気になっていたので、大幅に書き直しました(2006.3.11

 「平等や公正とは、ほんらい同じであるもの、あるいはあるべきものを同等に扱うという意味であって、ほんらい違うものを同等に扱うのは平等や公正ではなく、画一化である。だから画一化は不(悪)平等や不公正をもたらす。平等化や公正化は積極的に推進すべきであって、平等化や公正化をおしとどめようとするのは、正義の原則に反する。」(間宮陽介「経済戦略会議『最終答申』への疑念」 『同時代論』岩波書店所収、p220)

間宮氏の指摘するように「平等」と「画一化」はトレードオフの関係、つまり「あちらが立てばこちらが立たず」の関係だと思う。平等とは、画一的な考えを押しつけるのではなく、どんな考えをもとうとも同等に扱われる、という考え方である。これを福祉の世界のことばで言うのなら、「ノーマライゼーション」というのも、まさに「平等」「公正」に基づく考え方である。このことばについて、多くの人が(福祉関係者でさえ)誤解するのは、「ノーマライゼーションとは障害のある人をノーマルにすることだ」という画一論的理解。それはその思想が生まれた北欧の理念に照らすと全くの誤解だ。ノーマライゼーションが生まれた北欧では、障害のあるひとでも普通の人と「同等に扱われる」べきである、という平等の考えから、ノーマライゼーションという理念が成熟していったのだ。

でも、最近のマスコミ報道の方向性を見ていると、どうも世論は、というよりマスコミは、「平等」や「公正」よりも、「画一化」の方に重きを置いている、としか思えない。しかも、自分が画一的方向に妥協するのではなく、自分を含めた中心点に向かって他の人々を妥協させる、という方向で。特に事件報道が起こったときの「他人事」的報道と、それに基づく犯人捜し、にはうんざりする。

これは何か事件が起こったときに、「わかりやすい原因・犯人捜し」に終始するマスコミ報道をみていて、つくづく感じさせられる。ある事件の背景には、様々な要因が複雑に絡み合っていることが多いのに、その事件の背景のごく一部を、さも全体的特徴であるかのように警察発表をし、マスコミはそれを鵜呑みにする。「外国人」「精神障害者」「ホームレス」「リストラ」・・・なんでもいい。「○○だから」というネガティブなフレーミングにピッタリ来る原因ならば、多くの人が疑いもなしに、「○○だからしてしまうのも仕方ない」という烙印を押す。

ちょっと立ち止まって考えてみれば、そんなに簡単に理由を一元化出来るはずもない。「○○」とカテゴライズされる人にだって、いい人もいれば悪い人もいる。逆もまた真なり。もしも○○が原因の一部かもしれないが、○○だけが原因、なんてことはあり得ない。つまり、この烙印は、論理的一貫性や整合性に基づいたものではなく、偏見に基づく烙印なのだ。だが、忙しいマスコミは、それ以上の背景分析をする時間も手間も惜しみ、読者もそういうものを求めていないはずだ、と活字を大きくし、テロップをうち、情報量をどんどん少なくしていく。すると、ただでさえ説明する時間が少ない新聞・テレビの解説は、ますます短くなり、その中でより多くの読者に「わかりやすさ」を提供するため、ますます問題の背景は考察されず、原因は「画一的」で単純なものとなる。

そう、「○○だから」という画一的な正解は、「○○だから仕方ない」ということによって、責任を個人の範疇から出ることを防いでいるのだ。あいつは○○だからわるいことをした、でも私はそうじゃないから、私にはその責任はない、と。

しかも、その前提として、「自分は○○ではない」、という他人事的発想が大きく見え隠れしている。あんなに悪いことをする奴は、自分や自分の身内とは関係ない変な奴で、私には関係ない、と。問題を個人因子に起因させ、その人がどういう仕事上や人間関係でのトラブルを抱えていて、何がストレスとなっていて・・・などという環境因子的側面(社会システムの側)に目を向ける背景報道をすることなく、個人の問題に押さえ込む。本当は「○○」の背後に、あなたや私も関わる、この日本社会のひずみのような問題群があるかもしれないのに、そこには触れず、個々人の「○○」という問題に起因させる。一見わかりやすい理屈だが、それにのみ焦点を当てていては、そういった事件はなくなるどころか、どんどん増えていくだけだろう。だって、その「○○」の背後にある「ひずみ」はそのまま放置されているうちに、どんどん増幅していく可能性があるのだから。

じゃあどうすればいいのか? まず今日からでも私たちに出来ること。それは、一見「わかりやすい」と思える報道に、「ほんと?」と疑問符を付けてみることかもしれない。ホントに○○だけが理由? それ以外の要因はないの?と。

なぜそんな面倒くさいことをしなければならないのか。それは、一方で、日本が確実に画一的社会ではなくなりつつあるからだ。格差社会がリアリティを持って来るということは、一億総中流という画一化幻想の崩壊を意味する。僕らより少し上の世代からは、個々人の自由や権利を大切にしたい、どうせなら周りからじゃまされたくない、というライフスタイルに変わりつつある。これは画一的なやり方にノーと言っていることに等しい。つまり、日本社会全体が、画一的均質的な社会から良くも悪くも大きく転換しようとしている今にあって、マスコミ報道は今だ画一的な論理から抜け出せていないのだ。むしろ、画一化社会が崩壊していく現在にあって、その社会変動に不安を感じている世論の動きを敏感に察知して、反動的にますます画一的報道にのめり込んでいっているような気もする。

だが、何度も言うが、「○○」の背後にある「ひずみ」はそのまま放置されているうちに、どんどん増幅している。社会変動を突き動かすのも、ある種、この「ひずみ」のマグマが、放置できないほど溜まって来ているからだ、とさえ僕には思われる。そういう社会変動期にあって、いつまでも画一化幻想の枠組みの中に縛られていると、見るべきモノも見えなくなってしまうような気がする。明治維新以後、日本という国民国家の枠組みで画一的社会を目指してきたのだが、ある種その物語の終焉、というか、そのお話では「持たない」時代になってきた、ともいえるかもしれない。

私たちがもともと持っていた「平等」や「公正」という価値観が、画一的社会で醸成されてきた「ひずみ」によって曇らされているのであれば、今こそその曇りを払って、もう一度、「平等」や「公正」といった価値観を大切にする、そんなバランス感覚が今求められているような気がする。