ようやくブログが復旧しました。管理人Nさん、本当にありがとう!
月: 2010年6月
引っ越し作業中
2週間以上、更新が途絶えたこのブログ。書けない時期があると、フラストレーションが溜まります。お陰でようやく〆切近い論文にも火がつきました。怪我の功名、ですね。
今は幅より奥行き志向です
久し振りに月曜の朝にブログを書いている。
ここしばらく、〆切やら急ぎの仕事やら出張やらに忙殺されている日々。ま、ブログで書くのを忘れていたけれど、その間に6月の最初の週末から先週の
月曜日にかけて、沖縄に遊びに出かけた。やちむんも沢山買い込み、何だかアウトレットでしか服を買う暇がない日々なので!?、いつもの定番あしびなアウト
レットでも、半袖シャツ2枚にサマージャケット、ジーンズをゲット。ダイエット効果は有り難いが1月に80.8キロあった体重が今朝測ったら71.2キロ
なので、ズボンがユルユル。よって、すごくスリムなジーンズをゲットしたのである。不退転の決意だ。
不思議なもので、9キロのバーベルを身体から外しただけでなく、心も少し軽くなったような気がする。以前より疲れにくくなったし、あと以前より同じ
服を着ても、似合う度合いが増えてきたような。別に服装にそれほど気を遣っているわけではないが、それでもシンプルで清潔感がある方が、自分もシャンとす
るし、気持ちがよい。そして、何と言ってよいかわからないが、そういう気持ちの良さの中から、良い流れや渦のようなものが巡ってくるような気がする。だか
らこそ、バカ高い服は買わない・買えないけど、質の良い服を丁寧に着たい、と思う。
と、ここまで書いて分かれ道。さて、ここからどう書き進めるか、で手が止まる。実は、これはツイッターでも同様の現象なのだが、「内面の事を書く」
「対社会的なことを書く」の二つに分けるなら、多分読者に向けると後者がいいのだろうが、今の自分は前者ばかりがこんこんと沸いてくるのだ。ま、今までも
ブログは割と前者が多かったので今更、と言われそうだが、今日は少しその「分かれ道」についてメタ的な分析をしてみよう、と今、決める。
ツイッターでもブログでも、より多くの読者を引きつけるのは、「内面」であれ「対社会的」であれ、読者という他者にアクセスするポイントが多ければ
多いほど、興味深い。僕はこれまでブログを多く覗くタイプではなかったのだが、ツイッターでは一応130人くらいのフォローをしている。その中で、読み流
すツイートと読んで考えるフックをもらうツイートの違いは何か、が何となく見えてきた。事実や出来事の感想レベルであれば、「あっそ」で終わるのだが、例
えばある事に対して自分の内面をぐーっと掘りさげると、他者の魂とも触れる共通の井戸の底、臨床心理的に言えば集合的無意識ゾーンにアクセスする何か、に
あたる。また、普天間問題や首相交代の出来事に対して、メディアの喧伝とは角度を変えた、エッジの効いた分析をスパッとしてくれるなら、それはそれで読み
手の琴線に触れる。つまり、文章の深みや広さが他者と出逢える奥行きや幅を持っているなら、書き手と読み手が振幅する可能性が高まる。そして、ツイッター
ではRTで再生産されていく。
そうした時に、僕はどのような奥行きや幅のある文章を書けるのだろう、とふと考えると、フリーズしてしまう。僕にはそこまでかけないよな、と。これ
がブログであれ、ツイッターであれ、書くのをためらう最大の理由なのだろうと思う。
さて、もう少し自分に引きつけてこの問題を考えてみる。僕自身は割とここ最近のブログでは、深堀をするための模索をしつつあるようだ。いつも読んで
下さっているM先生はお察しが早く、「この春のブログは長すぎて途中で読むのが疲れちゃったけど、最近は落ち着かれましたね」とこないだ言われた。そう、
この春、香港に旅行に出かけたあたりから様々な気づきと出会いに遭遇し、そこから今に至るまで、気づきの渦にいる。たぶんその入口になるのが、3月に書い
た次のブログだ。
「職場で、フィールド先で、どういう他者と出会えるか。やっとこさ、根と翼の両方を「欲求」出来る主体になったのかもしれない。」
http://www.surume.org/column/blog/archives/2010/03/post_410.html
おかげさまで「予言の自己成就」よろしく、その後の数ヶ月で多くの出会うき人に出会い、劇的な変化の渦の中にいる。考えたり気づいたり、一皮むける
ような体験も一度や二度ではない。先週の金曜日もあるセミナーで、主催者のHさんから大きな気づきを頂いた。これは直接の出会いだけでなく、最近の読書体
験からも多く気づかされ、その片鱗はブログに書き付けている。そういうチャンスに多く遭遇出来ている時期なので、その時の喜びや発見、驚きを書くことが最
近のブログやツイートには多い。
ただ、一度に無理だ、というのは今気づいたのだが、そういう内面の掘り下げが面白くて仕方ない時期には、なかなか対社会的な問題にエッジを効かすと
ころまで到らない。世の中で生起する問題について、あれこれ思うところがあるが、いざ書いたり口にしたりすると、マスコミで流布するような定型的な分析の
範囲内に収まってしまう。それで満足していればいいのだが、何だか心の底で感じている事と、文字にした時の誤差が大きく、多分そういう語り口の文法と語彙
を、対社会的な何かについて、まだ持ちきれていないのだろう、と感じる。それはもどかしくもあるが、まずは内面を語る文法と語彙に専心すべき時期なのか
な、とも、今、書きながら感じている。
というわけで、まだしばらく、井戸の鉱脈に達するまで、書きながら、掘り続けてみようと思う。よって、対社会的な幅の広さは、ここしばらく、このブ
ログに表れないかもしれません。そんな見立てを自分の中で保持したくて、今日もやっぱり内面の吐露になってしまった。さて、直面する仕事に戻るとしよう。
カリスマのどこに着目するか
カリスマ、なる言葉がある。天賦の才能を持ち、あるいは不断の努力を重ね、時には双方の相乗効果もあって、世間の常識では考えられないような出来事
を成し遂げたり、作品を作り上げたり、世の中を変える実践を行っている人びと。それを指して、人はカリスマ、という。確かに福祉や医療の世界でも、旧態依
然とした世界に対して違う価値観、違う視点でアプローチし続け、ある時それが花開いて、多くの人が従うリーダー的存在になる人がいる。例えば「小規模多機
能型」という概念を産み出した富山の惣万さん、「当事者研究」を世に広めた浦河の向谷地さん、「ノーマライゼーション」を世界中に広めたスウェーデンのベ
ンクト・ニィリエさん。志ある人びとが、実践を積み重ねる中で、常識に対抗し、オルタナティブな何かを差し出してきた。そういう系譜がある。
ただ、一方で僕が気になっているのは、あまりに属人的要素に絡めすぎることへの危険性についてだ。「あの人の実践はすごい」は、容易に「あの人だか
ら出来た」に転化する。たしかに「あの人だから」という部分は勿論ある。それを否定するのではない。だが、その属人的要素に着目しすぎることは、下手をす
ると、「○○さんがいなくなればおしまい」「自分には出来ない」という他人事的視点に転化しないか、が気になっているのである。カリスマと称される人がこ
れまで築き上げてきた成果の称揚はよいのだが、そのオリジナリティの強調は、他者がそこから何を学べるのか、という教育や伝達的な側面が抜け落ちる可能性
がある。そこが気になっている。
これはTBSの「情熱大陸」やAERAの「現代の肖像」などの人物ルポにも共通する要素だ。「一角の人物」が、どういう足跡を辿って抜きんでるよう
になったのか、は、確かに読者・視聴者の興味をそそる。また、そのサクセス・ストーリーをメリハリよくまとめることが、ルポや番組を作り上げる上での「見
せ所」になる。でも、その「見せ所」が面白ければ面白いほど、普通の人との隔たりは大きく、「そんなの無理だよな」という諦めへの転化につながることが少
なくない。事実、無意識のうちに読者・視聴者である僕自身もそうしている側面もある。
この違和感は、ずっと前から抱えていたのだが、ではどうすればいいのか、というオルタナティブがなかなか思いつかなかった。だが、今読んでいる本か
ら、そのヒントがもらえそうだ。
以前、アダム・カヘンの『手ごわい問題は、対話で解決する』(ヒューマンバリュー)をブ
ログで紹介したことがある。その本に紹介されていたピーター・センゲなどによる『出現する未来』(講談社)を読んだ。著名な経営学者達による本だ
が、タイトルの書き方が少しオカルト的なので、遠ざけていた。だが、その本を読んで更に興味がわき、その本の著者の一人、オットー・シャーマー氏によ
る”Theory
U”を今ちびちび読んでいる。(英語なので、サクサクとは当然読めない) そして、このU理論を眺めている中で、先ほどの問いに対する何となくの答えが出
てきたのだ。
シャーマー氏は、世の中のものの見方として、「出来上がったもの(thing)」「創造する過程(process)」「創る前の無地のキャンパス
(blanik
canvas)」の3つのどれをみるかによる、と指摘している。そして、経営学における大概の分析は、出来上がった生成物(過去)の分析であったり、出来
上がりつつある過程(現在)の分析である、とする。だが、本当にリーダーシップやマネジメントの真髄に触れようとしたら、もう一歩深めて、現段階でこれか
ら生起しようとしている複雑性の源に目を向ける必要がある、とする。この視点にたって、7つのステップとしてU理論を深めている。(この理論の簡略的紹介
は次のHPに)
実はこの本を読んでいて、「無地のキャンパス」に目を向ける、という視点が、先ほどの議論とつながるような気がしている。これまでのカリスマの紹介
ルポや番組は、あくまでも出来上がった「成果」やそれに至る「過程」に注目し、その人がどのような「無地のキャンパス」で「出現する未来」をどう感じ、読
もうとしているのか、に踏み込みきっていないのではないか、と。最初の問いに引きつければ、現場を変えたカリスマ的な人を、単に属人的要素のみで分析する
のではなく、その人が触れた「無地のキャンパス」に浮かんだ「出現する未来」とは何だったのか、それをどう形にしようとしたのか、という視点で分析するこ
とで、後に続く私たちがその叡智を継承する事が出来るのではないか、と。
制度やシステムは、いつも現実の後追いである。そして、そのキャッチ・アップの過程では、特定の人格によるリーダーシップやカリスマ的行動がいつも
見え隠れしている。だが、それを「○○さんだから出来た」という卑小な属人性に落とし込むことは、物事の本質を捉えていないのではないか。そうではなく
て、その「○○さん」がどのような「出現する未来」を「無地のキャンパス」に感じ取ったのか、そしてそれをどう現実のものに形作っていったか。この過程と
成果こそ、次代の私たちが学び、引き継ぎ、自分のものにすることが出来る要素である。そして、こういう要素も含めて「カリスマ」から学ぶことによって、そ
の「カリスマ」の偉大さや功績を本当の意味で評価した事になるような気がするのだ。
と書いて、何だかまだ上記の文章が生煮えであるのはよくわかっている。ただ、今日はあくまでも備忘録的なメモなので、生煮えをご容赦頂きたい。
追伸:お気づきかどうかわかりませんが、このブログページ、管理人のmamnag氏のおかげで、少し幅が拡がり読みやすくして頂きました。あと、右
上のスルメのロゴを押すと、僕のプロフィールページに飛びます。ついでにツイッターと同期まで! よかったら覗いてみてくださいませ。