思考や意思への固着を手放せるか

依存症の本はこれまで色々読み囓ってきた。でも、赤坂真理さんの『安全に狂う方法 アディクションから掴みとったこと』(医学書院)は、類書にはない読書体験だった。「人を殺すか自殺するしかないと思った」作家が、その根源を辿った時に出会ったのがアディクションという概念だった。そして、実際に依存症経験者と出会い、共にパフォーミングアーツで踊る中で、危険な狂い方「以外の何か」をつかみ取っていく。それを、作家の内的現実と重ね合わせながらノンフィクションで描いていく。そんな「物語」である。

物語を表層的な論理で「解釈」するのは野暮なので、ぼく自身が何をどのようにこの本から感じたのか、受け取ったのかを言葉にしてみたい。

「アディクションとは、『強度のとらわれ』である。あることについて考えることが一日の大半を占めてしまい、必要なことまでを圧迫する。しかもその状態から、努力で離れることができない。」(p45)

この表記を読んで、「強度のとらわれ」であれば、お酒やギャンブル、違法薬物、恋愛といった「よくあるアディクションの対象」以外のこともありうる、と思った。お金、名声、権力、支配欲、学歴、社会的地位、「いい人」・・・こういったものに「強度のとらわれ」を持つ人は、この社会には沢山いる。ただ、依存症の対象として認識されるのは、「強度のとらわれ」により、社会生活が不適合に状態になったり、社会規範から極度に逸脱したと評価されるから、である。一方、「強度のとらわれ」の対象が、社会的に称揚・容認されるものであれば、アディクションとはそもそも呼ばれない。起きてる時間ずっとモニターに齧り付いて株やFX投資をして巨額の富を得るとか、寝ても覚めても組織内の権力闘争に勝つことばかり考えているとか、他者を蹴落としてでも営業成績一位になることに執着しているとか、だって「強度のとらわれ」にもかかわらず・・・。

「アディクションが『自分の全てでないペルソナ(仮の姿)が自分のようになってしまう』主客転倒から起きるとしたら、生きづらさというものの一大原因はそこにあると私は思う。なぜそうなったか。『愛されなかったから』ではないだろうか。愛されたかったから、自分を曲げた。自分を曲げてでも、愛されたかった。愛される一側面に特化するようにがんばった。」(p50)

この本の主人公の1人である、アディクション経験者の倉田めばさんは、青年期まで「勉強ロボ」だった。親の期待に必死に答えるために、優等生をしてきた。でも、それでぶち切れて、薬物に依存するようになった。親が勉強している時しか愛してくれない、という条件付きの愛情に、反抗した。「愛されなかった」ことから、薬物に固着するようになった。

逆に言えば、「愛されなかった」心の空虚さを満たすために、薬物ではなく、お金、名声、権力、支配欲、学歴、社会的地位、「いい人」・・・に固着していたら、彼はアディクトとは呼ばれなかっただろう。でも、社会的に好ましい何かを獲得しても、にも関わらず心が空虚な人は沢山いる。「愛されなかった」ことの代償行為として、外形的評価に固着しても、基盤としての「愛されたい」が満たされたり成就・昇華・成仏されないと、いつまでも強欲的に自分の固着対象を追い求める。それはアルノ・グリューンがかつて喝破した『「正常さ」という病』そのものである。

僕は倉田めばさんに、20年以上前に、一度だけ授業でお話を伺ったことがある。その時の資料に強烈なインパクトを受け、依存症や生きづらさの問題を考える時には、ずっと折に触れ、思い出している。

・母はよく私に言った「薬さえ使わなければいい子なのに」私は思った(いい子の振りをするのが疲れるから薬を使っているのに・・・・・)
・警察や診察室、家族の前では私はいつも言わされた「もう二度と使いません、やめます」その度に私は私を見つめるチャンスを失っていった。
・私にとって薬物とは言葉であった。ダルクのミーティングは本来の言葉を取り戻す作業である。自分の言葉を取り戻したときに、薬物が不必要になってくる。
「拾い集めた言葉たち」

「いい子の振りをするのが疲れるから薬を使っているのに」というのは、その時にはなぜだか理解出来なかったけど、鮮烈なメッセージとして僕は受け止めた。それまで、「ダメ、ゼッタイ!」を鵜呑みして、薬物依存する奴は「ダメな奴」だと僕は思い込んでいた。でも、親や社会から求められた「いい子」という正常さの規範なら、僕だって内面化している。その「いい子」の呪縛性に疲れ果てて、「薬を使っている」。それなら、僕だって「わかりうる」「ありうる」話かも知れない、と。それは僕の社会規範の前提をグラグラ揺らす何かだった(その時にはここまで言語化出来なかったが)。

親に愛されたいけど、「いい子の振りをするのが疲れ」てしまった。でも、「自分を曲げてでも、愛されたかった」。これ自体が葛藤の最大化である。「愛される一側面に特化するようにがんばった」のに、親はそのことを評価せず、社会規範にしがみついて断罪し、「もう二度と使いません、やめます」と言わされた。そのことによって、倉田さんはどんどん壊れていく。「自分の全てでないペルソナ(仮の姿)が自分のようになってしまう」主客転倒が加速していく。すると「私は私を見つめるチャンス」を見失ってしまう。だからこそ、倉田めばさんにとって、「薬物とは言葉であった」のだ。

「親が悪いと言いたいのではない。この親も特定の価値観への固着度合いが病の域に達していて、他のものが見えないだけだ。しかもその固着対象は『普通』であり、悪くは見えないからこそ、このアディクションはむずかしい。その社会の規範として何が優勢であるかにもかかわる問題である。」(p191)

「薬さえ使わなければいい子なのに」と母が言うとき、その母自体も「特定の価値観への固着度合いが病の行きに達していて、他のものが見えないだけ」なのかもしれない。でも、本人はそんなことを全く思ってはいない。なぜならば、「いい子」という「固着対象は『普通』であり、悪くは見えないから」。先に挙げたお金、名声、権力、支配欲、学歴、社会的地位、「いい人」・・・は「社会の規範として」「優勢」であるからこそ、そこに依存=アディクトすることは、問題とされない。「特定の価値観への固着度合いが病の域に達していて、他のものが見えない」状態であっても、薬物依存のめばあさんは糾弾され、「いい子」に固着する親は誰からも批判されない安全圏にいるのだ。

恐るべき非対称性である。

めばさんは本書の中で、こんな風にも語っている。

「アディクションとは最初の傷に対する二次障害である
言葉にできない傷がそこにあると指し示す行為である
苦しさに対するセルフ緩和ケアである
寄りかかるものが何もないときに、寄りかかることができる架空の壁である
一人の自分がもっとも一人になることによって寂しさを忘れる手段である」(p157)

「いい子の振りをするのが疲れるから薬を使っているのに」という時、まずいい子でいなさい、と親が子どもを縛ることによって、つまりは親による子どもの「モノ」化や支配(=特定の価値観への固着度合いが病の域に達すること)によって、めばさんは最初に深く傷つけられた。そして、その「傷に対する二次障害」として薬物への『強度のとらわれ』=「二次障害」に陥る。傷から逃れるための「セルフ緩和ケア」であり「架空の壁」であり、「寂しさを忘れる手段」なのだが、そのことによって、さらに追い詰められる。本当は「傷つけないで」「他者評価をせずに自分を見て、愛して」が根本にあるはずだ。でも、その根本の部分が満たされなかったからこそ、の代替言語=セルフ緩和ケア、としてのアディクションをも、「薬さえ使わなければいい子なのに」と批判される。「いい子を期待されなかったら、自分は薬を使わなかったのに」と言えない子どもは、ますますアディクションにはまり込む。そういう悪循環構造の高速度回転を見て取った。

では、この悪循環の高速度回転から、どうやって抜け出せるのだろうか。

「『問題は、それを作ったときと同じ思考では解決できない。We cannot solve our problems with the same thinking we used when created them.』
これはアインシュタインの言葉である。同じ思考に固着してしまうことそのものがアディクションなら、アディクションを思考や意思で解決することの不可能性はよりはっきりする。同じ思考(行動も元は思考である)に固着して、身動きがとれない、しかも本人の努力やコントロールでそこから離れることができない。それがアディクションなのだから。
AAがアディクションに対し無力であると認め、自分を越えた力、ハイヤーパワーに委ねるのは、自我の限界を認めることかもしれない。それは近代以降の人間にとって脅威かもしれないが、もともとその自我に合わせて自分を制限してきたことが、生きづらさだったのかもしれない。」p232

僕はブログで他者の文章を抜き書きするのが好きだ。それは、テキストを読んでいるときには気づかなかった筆者の論理を、文字通り書き写すことで追体験する、というか、筆者のロジックをじっくり追うことが出来るからである。そして書き写すうちに、元々書き写したいなと思った箇所とは別の部分で、意外な発見があったり、こういうロジックだったのか、とびっくりすることがある。今回で言うなら、最初読み進めたとき、アインシュタインのロジックに基づき、「アディクションを思考や意思で解決することの不可能性」を整理した部分に、深くなるほど!と頷いていた。だからこそ、ハイヤーパワーという言葉が出てくるのですね、と。

でも、今回抜き書きする中で、一番気になったのは、最後の部分である。

「それ(=自分を越えた力、ハイヤーパワーに身を委ねること)は近代以降の人間にとって脅威かもしれないが、もともとその自我に合わせて自分を制限してきたことが、生きづらさだったのかもしれない。」

「自我に合わせて自分を制限してきたことが、生きづらさだったのかもしれない」というのは、書いていてそうだよなぁ、と深く感じた。いま、小二の娘は、学校の宿題で本当に大変そうである。それは、人類学者のジェームス・スコットのアイデアを借りるなら、野生の秩序(vernacular order)で生きてきた娘が、小学校空間において圧倒的な公的秩序(official order)と向き合うことによるしんどさ、なのかもしれない。そして、それは「自我に合わせて自分を制限」するしんどさかもしれない、と補助線を引くと、僕にとっては自分事としてよくわかるのだ。

デカルト以後の西洋近代社会は、「野生の秩序(vernacular order)」という「自然」をコントロールし、手懐け、自家薬籠中のものにすることによって、文明を進化させていった。天気予報やダムによる治水、プランテーション栽培などを通じて、荒ぶる神というか人間を翻弄する自然を人間が支配できる部分が格段に増えていった。そのようなテクノロジーは、やがて人間のマインドそのものも支配するようになる。野生の秩序なんて未開人・子どもの愚かな思考だ、と。ちゃんとした大人なら、公的秩序にしっかり従う「よい子」でいなさい、と。

でも、他ならぬ自分を、頭の中で考えた論理性という自我=「公的秩序(official order)」に縮減すると、そこから漏れ出てしまう部分がある。それをなかったことにするのか、そのものとして大切にするのか。多くの人は「なかったことにする」のを必死になって選び、「社会化」する。でも、それは自分の魂の一部を切り取る・縮減するものであり、痛みを伴う。それが「生きづらさ」と通底するなら、「論理の病」が「生きづらさ」なのかもしれない。中学生の約5人に1人が「不登校」または「不登校傾向」にあるという記事を目にすると、この昭和時代に構築された「頭の中で考えた論理性という自我=公的秩序(official order)」がそもそも限界を超えているのではないか、とすら思う。

だからこそ、「自我の限界」の外に出る必要があるのだ。AAに代表されるセルフヘルプグループでは、言いっぱなし・聞きっぱなしのミーティングの場が大切にされるが、それは論理による説得、あるいは思考や意思への固着を手放す一つの形態なのかもしれない。でも、それ以外のルートもある。それは古来からの儀礼的儀式の中に、踊りや祭礼、歌や声明、パフォーマンスとして、受け継がれていた。そして赤坂真理さん倉田めばさんは、「自我の限界」を越えるパフォーマンスとして踊る中で、ハイヤーパワーにアクセスしていく。それは「大いなる流れ」に身を委ねるような経験だったのだろうな、と読み手の僕は感じる。昔、未来語りのダイアローグを自分でやってみたときに、まさに大きな流れに導かれるように、対話空間が場や人を動かしていったように。

表題にある「安全に狂う方法」とは、自我に支配されない舞台空間において、自我境界を越えてパフォーマンスを「生きる」ことによって、「野生の秩序」を取り入れ、取り戻し、それによって思考や意思への固着を手放すプロセスなのだと、僕は受け取った。

本の紹介というより、この本を読んで僕が受け取った(誤読した!?)ものを言語化してみた。読みやすくて、すごく深い部分が動かされる本なので、良かったら一度読んでみてほしい。

「ダメなあいつ」は絶対ダメ!

勅使河原真衣さんの『働くということ—「能力主義」を超えて』(集英社新書)を読む。前著『「能力」の生きづらさをほぐす』は子どもたちへのバトンという形態を取りながら、ご自身の実存的苦悩も最終章に織り込んだ作品だったが(そのことはブログにも書いた)、今回はコンサルタントとして向き合ってきた組織開発の話をガッツリ書いておられる。その中で、ほぉと思ったことがあった。

「『使いやすい』『部内の雰囲気』『いい人』『ややこしい奴ら』・・・など、すべてそうなのです。誰から見た、何の話なのでしょう。職場においてこれらの『評価』を下す組織の構造を、対話や観察の時間をいただき、つぶさに調べていきます。ある組織の現状のダイナミクス(力学)を明示した上で、これから組織が達成したい・すべきことに合わせて、変えるべき点はどこか? 改革するためには現状の組織力学のうちどの点をいじるとよさそうか? を示し、ディスカッションを深めていくのです。
話者が解釈や意図を持って使っている表現を、問いを通じて手繰り寄せ、話者が見ている世界観を理解した上で、解釈の溝を埋めていく・・・」(p99-100)

この表現を読みながら、これって僕がしていることとも近いな、と感じていた。

ぼく自身、たまに色々な人や組織から相談案件が持ち込まれる。その際、相談する側も、なぜどのように僕に相談していいのかわかからない、という、非定型な相談ばかりが、僕のところに持ち込まれる。相手もよくわかっていないのだから、僕も解決策なんて知るよしもない。だからこそ、僕に出来ることは、勅使河原さんが言語化してくださっているように、「話者が解釈や意図を持って使っている表現を、問いを通じて手繰り寄せ、話者が見ている世界観を理解」することだけ、なのだ。ただそれをしているうちに、おぼろげながら、「ある組織の現状のダイナミクス(力学)」が見えてくる。すると、「これから組織が達成したい・すべきことに合わせて、変えるべき点はどこか? 改革するためには現状の組織力学のうちどの点をいじるとよさそうか?」という問いも自ずと生まれてくる。

例えば社協職員が動かない、という主訴で来談された市役所職員の方に、よくよく話を聞いていくと、市と社協の上下関係の構造的矛盾に話が転化したこともある。あるいは、部下が思うように働かないという所長の話を聞いているうちに、その機関で「すべきこと」と、職員達が「したいこと」にズレが生じていることが見えてくることもある。「何を問題だと当人が『語っている』のか?」(p98)に耳を傾けながら、ご本人の世界観と解釈している組織のダイナミズムのズレのようなものを探しだし、そこからどう介入していくのかを探ろうとしている。

それを無意識・無自覚にやっていたので、彼女によって言語化されると、「ああ、そういうことだったのか」と深く納得する。

そしてこの本の肝だと僕が感じるのは、以下の部分だ。

「次第に、その所長は『優秀』な奴を『選ぶ』、できる奴だけ育てる、というような感覚から、自分のモードを『選ぶ』ことで、どんなメンバーも活躍させることができることを体得しました。」(p171)
「ダメなあいつをどうしようか?という問いは、俺がどう采配するか?に変える事で初めて問題解決へのスタートラインに立てる、と」(p181)

「あいつはダメだ」とジャッジする際、無意識で無自覚な前提として、「おれはイケている・大丈夫だ」という価値前提がある。平たく言えば、You are worng!と言う当の主体はI am right.を当然の価値前提にしているのだ。そして、「自分は正しい、お前は間違いだ!」と言われた方は、非常に不快な気分になるし、その人の発言は、例え上司や査定者であっても、聞きたくない。だからこそ、うまくかみあわない。

これは僕の慣れ親しんだ領域で言えば、支援者と対象者、先生と生徒、多機関連携なんかでもしばしば聞かれる現象である。支援者や先生が、対象者や生徒の「問題行動」を指摘する際、対象者個人が「問題がある」と無意識に認識している。でも、家族療法で言われているように、人と問題は分けて考える必要があるし、人から問題を離す(問題の外在化をする)必要がある。その人そのものが問題なのではない。そうではなくて、その人が問題とされる言動をしているのは、どのような背景や構造があるのか、を探っていく必要があるのだ。「ダメなあいつをどうしようか?」という視点では、いつまでもダメなままなのだ。

その際、支援する・選ぶ・教える側(する側)が、「自分のモードを『選ぶ』」ことが本質的に大切だ、と勅使河原さんは指摘する。「ダメなあいつをどうしようか?」という問いを抱えている間は、相手の問題点ばかりが目につく。だが、当の相手は、自分が攻撃されていると思うと、防御に回り、うまくいかない。その際、「ダメなあいつ」とダメとあいつを同一視することをやめ、あいつがダメな状況にいるのはなぜか、どのようなプロセスでダメな状況に陥っているうのか、その状況を変えるために、「俺がどう采配するか?」と問いを変えることによって、状況は動き出すという。

相手が「ダメな状況」に陥っているのを私がわかっている(=俯瞰的に見れている)のに、その「ダメな状況」を「ダメな奴だ」と批判しているだけでは、支援する・選ぶ・教える側(する側)としての「仕事をしていない」ことになる。そうではなくて、「ダメな状況」からどうすれば脱することが出来るのか、その人がより良いパフォーマンスをするために、どのように環境設定を変えればよいのか、と問いを変え、そのために、する側がもっている裁量権や采配を活用して、文脈を変える支援が出来るか、が、他ならぬ「する側」にこそ、問われているのである。

そして、そういう視点は、教育でも必要不可欠だ、と勅使河原さんは述べる。

「どの子もその子の合理性のもと、ある種の生存戦略を持って、生活しているわけですから、そうした本人からのアウトプットを何はともあれ一旦引き出すことこそ、いの一番で行うべきことではないでしょうか。相手の口を塞がないこと—これが、以外に思う方もいるでしょうが、社会構成員を要請すると謳う者(=教育)が担うべき基本所作であると思うのです。」(p214)
「『行儀が悪い子』『言うことを聞かない子』など、個人に評価を下すのは容易ですが、その人の在り方は、環境に大きく左右されています。環境に対するある種の合理性が必ずあると言い換えることもできる。『コラ!』の前に、『左手さぁ、どうかした?』と一言尋ねることができたらどんなにいいことか。それも鬼の形相で、はなく。『働くということ』の大大大大大前提について、そんなことも思います。」(p215)

支援する・選ぶ・教える側(する側)が、「やってはいけない・許されない」と認識している何かを、支援される・選ばれる・教えられる側(される側)がしている。その時に、問答無用に注意・叱責することを、する側はしがちである。でも、それは一番してはいけないことだ、と勅使河原さんは言う。なぜなら、それは「相手の口を塞」ぐことになるから。そして相手の口を塞ぐことは、する側とされる側が非対称性になり、する側がされる側を一方的に支配する権力関係になるから、である。

「やってはいけないこと(許されないこと)」を叱らないのは、甘やかしているのではないか?

真面目な「する側」の人は、そう感じるかも知れない。勅使河原さんも、甘やかしていい、などとは言ってはいない。そうではなくて、「問題行動」であったとしても、「その子の合理性のもと、ある種の生存戦略を持って、生活しているわけですから、そうした本人からのアウトプットを何はともあれ一旦引き出すこと」が大切なのだ。『行儀が悪い子』『言うことを聞かない子』と「する側」が査定や批判をする前に、本人の言動の背景にある「環境に対するある種の合理性」を理解する為にも、「『コラ!』の前に、『左手さぁ、どうかした?』と一言尋ねること」が根本的に必要なのだ。

そして、これはインクルーシブ教育を進めた大空小学校の初代校長の木村泰子先生の箴言とも一致する。

「お母さんが子育てで困ったら、次の三つの言葉を子どもに尋ねてみて。
『大丈夫?』
『何に困っている?』
『私にできること、ある?』」

「する側」が「される側」の「困った現象」に出会った時に、「相手の口を塞がない」ために、必要な三段階が書かれている。まずは、叱責する前に「大丈夫?」と本人のことを気にしていることを伝える。その上で、「何に困っている?」と本人がどのような理由でそのような現象をしているのかの理由や合理性を伺う。そして情報を集めた上で、「私にできること、ある?」と「する側」が具体的に協力できそうなポイントを探るのである。それこそが、「「ダメなあいつをどうしようか?という問いは、俺がどう采配するか?に変える事で初めて問題解決へのスタートラインに立てる」という勅使河原さんの指摘の本質的な意味でもある。

この本は、能力主義に根本的な問いを挟んでいるが、「働く」現場で、それ以外の価値をどう見いだしたら良いのか。

「『競争』が必要な構造があったから、人は足を引っ張り合ってしまう。他方でここには、そんなことをするインセンティブすらないわけです。やるべきことは、周りを蹴落として上に行くことではなくて、『自分はこういう思いで、こういうタスクを抱えている。ここまではやれているけど、あとこの部分についてインプットが欲しい』とかって、プロアクティブ(前のめり)に求め合うこと。個人の『有能さ』を追い求めると、周りに『助けてー』とか、『知恵を貸してー」と言うのって気が引けますが、この組織体制のもとでは全然苦しいことじゃない。ひとたび自分の中の仕事観が変わって、選ぶべきは自己のモードなんだな、って腹落ちして初めて、仕事が楽しくなりました。」(p193-194)

会社内や学校内という狭いコミュニティの中で競争が必然とされると、足の引っ張り合いやいじめなどが起こりやすい。それは、個人の問題ではなく、個々人を能力に急き立てるインセンティブを持ち込んだ組織構造の問題なのである。だからこそ、組織自体が、そのような構造化から距離を取ることができるか、が問われている。「個人の『有能さ』を追い求める」と「周りを蹴落として上に行くこと」が横行し、組織内での連携や協働はうまくいかない。であれば、「周りに『助けてー』とか、『知恵を貸してー」と言うのって気が引けますが、この組織体制のもとでは全然苦しいことじゃない」という組織風土をどう作れるか。「プロアクティブ(前のめり)に求め合うこと」こそ重要だ、と組織が所属する個人にどのように要請できるか。それが、問われているように思う。

そういう形で組織変容をしていくなかで、「ひとたび自分の中の仕事観が変わって、選ぶべきは自己のモードなんだな、って腹落ちして初めて、仕事が楽しくなりました」と個人の変容が実現されるのだ。つまり、「ダメなあいつをどうしようか?」という蹴落としモードの問いを「する側」は封印して、「俺がどう采配するか?」と「選ぶべきは自己のモードなんだな」と「する側」が気づき、組織風土を変えて行く。これが、「される側」のパフォーマンスの最大化にとって、結果的には鍵になるのだ。

他人を変える前に、己自身の足元を見つめ直し、まず自分が変わる。

「他人と過去は変えられない。変えられるのは自分の未来だけ」

この言葉を具体的に組織開発の言語で整理して下さった名著だった。

難民・移民問題と精神病院の共通点

子どもが産まれて以後、出張を減らしたこともあり、家から参加出来るZoom読書会を色んなオモロイ人としている。すると、たまに僕が全く知らないジャンルの著者の本が提示される。おっかなびっくり読んでみると、めちゃくちゃ面白くてびっくりすることがある。今回ご紹介する北川眞也さんの『アンチ・ジオポリティクス—資本と国家に抗う移動の地理学』(青土社)もそうだった。批判的地理学の世界も知らないし、対象となっている難民やロジスティクスの問題も囓ったことがない。でも、読み始めたら、僕の知っている世界と通底していた。

「収容所は、過去でも現在でも、権力の地図学的合理性と政治的理性の矛盾が生じるとき、つまり『国家が空間的に人びとをどう資格づけたらよいかわからないが、その移動性を統治し、かれらの適切な『場所』を定める必要があるときはいつでも現れ出る暴力的な政治的テクノロジーとして扱われるべきだろう』」(p242)

これはヨーロッパのユダヤ人や難民の収容所を念頭に置いて書かれた文章である。でも、日本の精神病院や入所施設にも、そっくりそのまま当てはまる。障害が「重度」とされ、支援を受けなければ「標準的な暮らし」がしにくいと国家にラベルを貼られた人たち。それは「国家が空間的に人びとをどう資格づけたらよいかわからないが、その移動性を統治し、かれらの適切な『場所』を定める必要があるとき」として国家に問われる問題である。そういう人びとも「国民」として遇する必要があることは、「政治的理性」としては理解している。でも、「標準的な暮らし」にはなじまないから、排除したいという矛盾が生じたとき、「山奥の、人里離れた場所に入所施設や精神病院を建てたら良い」という「地図学的合理性」が働く。実際、虐待問題を起こした神出病院は、神戸市の外れに位置づけられていて、周囲に障害者施設なども建っている。障害者虐殺事件が起こった津久井やまゆり園も相模湖近くの山の中だった。離島や山奥にあるハンセン病施設も全く同じ論である。そういう形で、排除したい人びとを国家は「暴力的な政治的テクノロジー」として「目につかない場所」に追いやり、分断統治するのである。

そのような収容所においては、虐待ではなく「歓待」が行われても、その構造的な問題は変わらない、という。難民を人道的に保護していたレジーナ・パチスの例を引いて、こんな風に北川さんは整理する。

「レジーナ・パチスへ歓待し、無償で食事や医療などのサービスを提供する人びと、いや何よりロゼルト神父が、『客人』に対して主権者のごとく君臨することになると言える。レジーナ・パチスが仮に『五つ星のホテル』だっとしても、内部では『主権者』としての神父の道徳、さらには気分を含めた決定が圧倒的な力を有することには変わりはない。レジーナ・パチスの『客人』にとっては、神父に気に入られるのか、嫌われるのかといった私的なことが人生の重大問題となり、かれらは『歓待』空間のなかで感情労働に従事することを強いられる。『私はロゼルト神父に不快な思いをさせたくない』というのが、拘禁された移民たちがもっとも頻繁に語るフレーズだった。」(p204-205)

残念ながらこの描写には馴染みがある。精神病院や入所施設、あるいは最近ではグループホームでも、虐待が相次いでいる。そういう施設においては、善意に基づく支援者が、いつの間にか「主権者」となる。そして、「歓待」は簡単に「支配」にすり替わる。そして、絶対的権力を持った支配者は腐敗していく。その後ロゼルト神父は、このレジーナから逃亡を試みた「客人」への虐待容疑で逮捕された。これは『権利擁護が支援を変える』とか『「当たり前」をひっくり返す』で議論してきた、福祉の構造的宿痾の問題と同じである。善意の支援者が圧倒的権力虐待をするようになる、という部分も含めて、権力勾配が激しい環境において、第三者の監視が入らない密室では、このようなことが普遍的に起こり続けるのである。

この慣れ親しんだ世界に通底する収容所問題について分析した第一部、第二部もめちゃくちゃ面白かったのだが、第三部「ロジスティクスとインフラによる戦争」は、全く知らない領域で、そういう風に捉えることが出来るのか、という学びが満載であった。

これを象徴するのが、「ジャストインタイムで、その地点まで(just in time, to the point)』(p252)というフレーズである。「Amazon当日お届け便」なんて、まさにその局地であり、僕もついつい使ってしまうフレーズは、まさにロジスティクスとインフラ整備の成果である。ただ、それによって、沢山のものが破壊され、我々が奴隷的消費者になっている。その極北の世界が、世界最大の虐殺が行われているガザ地区である。

「目的は、ガザ住民の抵抗や叛乱、独立の意思を粉砕するために、『ガザの人口全体を物理的生存の最低限度に近いところに置いたままにする』ことなのだ。実際、2008年から、イスラエル国防省は、ガザのパレスチナ人を餓死させたり、栄養失調を強いたりせず、最低限の生の水準に置くには、どれくらいのカロリーが必要となるのか計算していた。『人道的最小値』として、一日平均2279カロリーとされ、それがガザへの入場を許可されるトラックの数—週五日、106台のトラック、うち77台は食料—に翻訳されるというわけである。だが実際には、このレッドラインを下回る物資の輸送しか許可されてこなかったという。」(p291)

「餓死させたり、栄養失調を強いたりせず、最低限の生の水準」というのは、以前のブログで書いた、「犠牲化不可能であるにもかかわらず殺害可能である生」としてのホモ・サケルそのものである。そして、精神病院は、一つの収容所だが、ガザ地区は封鎖された一つの地域である。そのエリアすべての計算可能なものとして把握し、『人道的最小値』をトラックの台数に「翻訳」して、それだけを「ジャストインタイムで、その地点まで(just in time, to the point)』として送り届ける。そういうロジスティクスやインフラを、イスラエルはガザ地区に仕込んできた。今の虐殺はハマスへの報復云々ではなく、以前から周到に練られてきた構図がある、と北川さんは指摘しているのである。

そのようなロジスティクスとインフラ管理による支配は、日本における技能実習制度においても用いられている。

「技能実習制度という労働レジームが、暴力的なカプセル化を構造的に生み出しており、それがさらなる暴力的な管理を構造的に生み出しているのは確かである。パスポートや銀行通帳の没収をはじめ、携帯電話の使用禁止、寮に数多く詰め込まれる実習生、不衛生で汚い寮、WiFiのない環境、致死的な長時間労働、低賃金、賃金未払い、いじめ、性暴力、殴打、恐喝、負傷、死亡。実習生から何かしら異議申し立てがあれば、管理団体は強制帰国で解決を図ろうとする。多額の借金を抱えて来ている実習生にとって、強制帰国は極めて恐ろしいものだという。雇用主側からの性暴力の場合では、出身国の家父長制的規範のため、被害者が容易には表沙汰にできないこともある。この意味でも、労働移植はカプセル化した隔離的空間をつくりだしている。」(p393)

技能実習生のこのような「カプセル化した隔離的空間」を読んでいても、残念ながら精神病院で見た現実と通底している。神出病院で起きた虐待事件に関しての第三者委員会報告書を読んでいても、真冬でも暖房がつかない病棟という劣悪な環境や、そこでの患者の虐待構造、また患者の退院可能性のなさなどが克明に報告されている。私が昔フィールドワークで出会った精神障害の当事者は、病院内での性暴力があったが、「妄想ではないか?」取り合ってもらえなかった、と話していた。こういう「暴力的なカプセル化」は「一級市民」として承認されない人びとには、残念ながら、ずっと行われてきたやり方であった、と本書を読んで改め感じた。

もう一点、紹介しておきたい部分がある。

「『犠牲者』『犠牲者女性』について、受け入れ社会の特定のイメージやステレオタイプを強いることであり、拒否すれば、強制送還されうるという主権的な関係である。裏を返せば、女性達はこの『犠牲者』像に合わせ、みなが同情するような振る舞いを続けるように迫られる。(略)こうした女性をはじめとする難民たちは、西洋的な難民像、いわばキリスト教的図像学に由来するとされる人間の『苦難』、『貧窮』、『トラウマ』、『深刻さ』を抱えているように振る舞わなければならないのだという。」(p232-233)

このフレーズから、ヴォルフェンスベルガーによる「ノーマライゼーションの改竄」を思い出していた。(これは『「当たり前」をひっくり返す』の6章で取り上げている)

アメリカ人で知的障害者のことを研究していた学者であるヴォルフェンスベルガーは、1960年代、先進地のスウェーデンに訪問して、ノーマライゼーションの育ての父、ニィリエと出会った。その際、ダンスパーティーで出会った女の子について、こんなエピソードを残している。

「ヴォルフは部屋の隅に立って、皆のダンスを見ていた。ちょうど、誰かのお誕生日祝いの会が開かれていたからだ。しばらくして、彼は考え考え私に尋ねた。『あの女の子だけど、ダンスをしませんかって誘ってきたから、一緒に踊ったんだ。あの子は・・・なの?』 この女の子は少し英語ができたので、ヴォルフには、この子が少し英語のできる普通のスウェーデン人の女の子なのか、それとも知的障害がある女の子で、英語を習った子なのかわからなかったのだ。そこで私は彼に、あの女の子は確かに知的障害のある子だと保証した。ヴォルフには、この女の子が知的障害者でなく普通の女の子として“合格者”と見えたのだった。この女の子は社会的に価値ある役割を得ていたということだったのだ。」(ベンクト・ニィリエ『再考・ノ-マライゼ-ションの原理: その広がりと現代的意義』現代書館、p92)

スウェーデン人のニィリエは、知的障害のある人にも、その社会の通常の(ノーマルな)生活様式を提供する必要がある、という意味で、ノーマライゼーションの原理を提唱した。一方、アメリカ人のヴォルフェンスベルガーにとっては、知的障害のある人が「この女の子が知的障害者でなく普通の女の子として“合格者”と見えた」ことこそ価値がある、と捉えた。それは、「この女の子は社会的に価値ある役割を得ていた」という評価である。それは、社会的な権力を持つ側が、合格か不合格かを選別できる、という視点である。

これはまさに北川さんの指摘する、「受け入れ社会の特定のイメージやステレオタイプを強いることであり、拒否すれば、強制送還されうるという主権的な関係」そのものである。難民として受け入れられるためには、「西洋的な難民像、いわばキリスト教的図像学に由来するとされる人間の『苦難』、『貧窮』、『トラウマ』、『深刻さ』を抱えているように振る舞わなければならない」。それは、「この女の子が知的障害者でなく普通の女の子として“合格者”と見えた」というのと、構造的類同性を持つ。つまり、権力を保持する側が、マイノリティに対して、支援を受けるからには許容される振る舞いをすべきだ、と、内面まで支配しようとしていること、そのものなのである。

その上で、それらの抑圧者に対する抵抗運動として、オペライズモ(サボりやストライキ)やスクウォッティング(空き家占拠)などのアクションが提起されている。これが、精神障害者支援の領域でどんな風に言えるのか、まではまだ自分の頭で整理できていない。でも、様々な抑圧と抵抗に共通するフレームワークを考える上で、本書の洞察はめちゃくちゃ学びが大きかった。

追記:精神医療の領域でオペライズモやスクウォッティングに近い事って何だろう、とボンヤリ考えていたら、オペライズモの源流イタリアで、同時代で精神病院をぶっ潰したフランコ・バザーリアの以下の発言を思い出していた。

「あらゆる医学的知識の内容は病人を管理し抑圧するためにある、ということを認めなければなりません。病人は主体として治療を受けるのではなく、病人が生産の歯車のなかに戻 れるように、治療は行われます。私たちが精神病の問題に向き合うためには、精神医学の知識、精神分析、薬物療法、 電気ショック、インスリン療法、脳外科といった、医師たちが利用してきたすべての方法と手段を議論の対象にしなくてはなりません。」(フランコ・バザーリア『バザーリア講演録 自由こそ治療だ!』岩波書店、p133)

精神障害者の就労支援で最大の矛盾。それは、精神障害者が病気になるのは、生産性至上主義の社会で、歯車の一つとして必死になってズタボロまで働いて、その帰結として精神疾患になった当事者が、「社会復帰」の目標を、フルタイム労働者にする、という矛盾である。自分が病気になった原因である「生産の歯車」に戻りたいという「強迫観念」。ここからどう自由になれるか、が、ほんまもんの治療やリカバリーとして問われている。

そのとき、映画「人生ここにあり」に描かれたイタリアの社会的協同組合とか、あるいは不登校やひきこもり経験のある当事者が、対等な関係性を仕事の場で求めた結果作り上げた労働者協同組合440hzとか、そういう協働労働的な何か、が、「生産の歯車」に戻らないための抵抗のありようとして考えられるのではないか、と付記しておく。

ケア的な土着思考

友人の青木真兵さんから『武器としての土着思考』(東洋経済新報社)をお送り頂く。「土着とは、自分にとっての『ちょうどよい』を見つけ、身につけること」(p20)と定義づけているように、この本の原稿を書きながら、真兵さん自体が、「自分にとっての『ちょうどよい』を見つけ、身につけ」ようとしていて、すごくよい。しかも今回は版元が経済系出版社ということもあり、資本主義とガッツリ向き合うプロセスを通じて、「自分にとっての『ちょうどよい』を見つけ」ようとしているのが、面白い。

「近代化によって人びとは『しがらみ』から解き放たれ、個人個人が己の責任において人生を選択できるようになりました。ただ、『しがらみ』からは自由になりましたが、その自由は商品の中から選ぶ自由だったということです。僕が目指す『地に足をつける』とは、『自らの生』を商品からも商品以外からも自由に選ぶことができるようになることを意味します。そのためにはまず、商品以外という選択肢が存在することを知る必要があります。これが現代社会における外部への『出口の入り口』です。」(p31)

多くの人がお金持ちになりたがるのは、経済的自由を手に入れるためである。これは、「商品の中から選ぶ自由」である。そして、お金持ちになれるのは人口の1%以下であり、その他の99%はそれに憧れる。これが資本主義の論理である。でも、真兵さんはその枠組みそのものを問うている。「商品の中から選ぶ自由」だけが自由ですか?と。それ以外の選択肢も用意して、「『自らの生』を商品からも商品以外からも自由に選ぶことができるようになること」の方が、現実的ではありませんか?と。そして、「商品以外という選択肢が存在することを知る」ことこそ、『地に足をつける』ことではありませんか?と。資本主義の「外部への『出口の入り口』」を探すこと。それが「「自分にとっての『ちょうどよい』を見つけ、身につけ」る土着思考である、と喝破している。

でも、自由=「商品の中から選ぶ自由」と意識すらしたことが無かった人にとっては、「外部への『出口の入り口』」なんて言われても当惑してしまう。だからこそ、彼は丁寧にその入り口の見つけ方も教えてくれている。

「実体経済、現実、ローカル、アナログが『地に足をつけること』で、金融経済、仮想、グローバル、デジタルが『飛び立つこと』を意味するわけではありません。僕の言う土着することは、その状況に応じて適した手段を選べることを意味します。だから、例えば山村で狩猟採集と炭焼を中心とした自給自足の生活を行い、インターネットや携帯電話に頼らない生活をすることが土着することだとは考えていません。反対に、都市に住みながら商店街の馴染みの個人商店で買い物し、銭湯に行ったりして地域経済の中で生活することは十分に土着することだと思っています。
自分にとっての『ちょうどよい』を見つけ、手放さないこと。そのためには手段を選ばない。これが土着することの肝なのだと思っています。」(p75)

「その状況に応じて適した手段を選べること」とは、その都度、行動原理を変えていくことである。確かに真兵さん自体が、大都会の西宮で生きづらさ・息苦しさを感じて、奈良県の山深い東吉野村に引っ越し、私設図書館「ルチャ・リブロ」を開いている。でも、その一方で、オムラジというポッドキャストを配信し、僕も毎月「生きるためのファンタジーの会」のZoom収録でご一緒している。彼の場の開き方は、リアルであろうとバーチャルであろうと変わってはいない。「自分にとっての『ちょうどよい』を見つけ、手放さない」という原則を大切にし、そのために、アナログもデジタルも、現実も仮想も、縦横無尽に使い倒しているのである。

それから、「都市に住みながら商店街の馴染みの個人商店で買い物し、銭湯に行ったりして地域経済の中で生活することは十分に土着すること」というのにも、深く頷く。

僕の場合、ワインを買うのはこのソムリエさんから、お肉は近所の精肉店で、魚は地元のスーパーで、そして服を買うのはこの人から、お米は岡山の福ちゃんで、柑橘類は尾道のファームでと、関係性の中で決めている部分が割とある。それは一見すると「商品の中から選ぶ自由」のようにも見える。でも、お金は介在するけれども、馴染みの客として買い続けることにより、関係性を構築し続けている部分が結構ある。確かにネットで最安値を探す生活に比べたら、「割高」かもしれない。でも、「しがらみ」ではない心地よい関係性を構築する中で、「自分にとっての『ちょうどよい』を見つけ、手放さない」部分を増やしていく。すると、日々の暮らしがより豊かになっているようにも感じる。

そして、「現代社会における外部への『出口の入り口』」の一つが、「ケア」なのではないか、とも思う。7年前からその「出口の入り口」にうっかり入ってしまったおかげで、「商品の中から選ぶ自由」の外側が、少しずつ見えてきた。娘のケアをしなければならない、というのは、正直に申し上げて、一つの「しがらみ」である。そして、自分の時間を奪われる面倒な「しがらみ」だと思うなら、ベビーシッターなり塾なり習い事なりを金銭的に購入して、その「しがらみ」を外部化するのも、一つのやり方である。その方が、自分の時間が確保できるだろう。

だが、僕自身、娘という「ままならない存在に巻き込まれる」からこそ、見えてきたことが沢山ある。今朝も算数を教えていて、何度教えてもなかなか繰り下がりが上手く出来ず、集中力も続かない娘にイライラしてしまった。当の本人にとっては、いま初めての苦手な算数という経験に圧倒的に戸惑っている。その彼女の視点にたったら、「なんでこんなこと出来ないの?」と父が怒ると、それは彼女の世界への信頼感の崩壊に繋がるのだ。そして、彼女のそばにいて、彼女のペースで学ぶのを親が付き合い続けることは、成長途中の彼女が、自分なりの『ちょうどよい』を見つけるお手伝いでもある。そして、それこそ「娘が育つ父になる」ために僕が求められている変容課題だとも思った。「ちょうどよい」の模索とは、そんなよりよい関係性の模索でもあるかもしれない。

「どうしても僕たちは、『物事を決める』ことに重きを置きがちです。しかし、大事なことは結果ではなく、その過程です。なぜならその過程がちゃんとしていれば、自ずと結果はついてくるからです。なぜ結果ばかり求めてしまうかというと、それはこの世のどこかに『正しい答え』があると思っているからです。」(p118)

算数で同じ間違えをする娘にイラッとくる父は、「結果ばかり求めてしまう」ダメな父である。彼女は、何度も同じ間違いを繰り返しながら、少しずつ原理を学んでいる。そのプロセスを、「なんで同じ間違いをするの?」とか「さっきやったやん!」などと恫喝してしまっては、彼女の学ぶプロセスを死んだものにしてしまう。これでは、学びの面白さに行き着かない。

それに関連して、最近危惧していることも、正直に告白しておきたい。

自分のせいでうまく物事が行かなかったとき、娘はたまに「自分はあほや」と自分の頭を叩くようになった。それは親に叱られ、追い詰められ、悪いのは自分だと内面化して、自罰的になっているからである。ややこしい時にこれくらいは出来て欲しいと親は口で注意する・圧力をかける。だが、当の娘自身にとってはものすごく高いハードルだったり、やりにくかったりする。だから出来ないのだけれど、それは自分のせいである、自分が悪い、と思い込んで、自分を罰している。これは、本当にまずい。

親が「正しい答え」に固執して、それが出来ない娘に圧力をかけてしまっている。でも、娘はその「正しい答え」を今、模索して理解しようとしている。その大切なプロセスを、娘のペースで理解しようとする試行錯誤を奪ってまで圧力をかけている。だからこそ、親に期待されたことが出来ないと感じて、「自分はあほや」と自分の頭を叩くのである。叩いているのは娘であるが、叩かせているのは親の私である。書いていて、ほんとうに悲しいし、間接的に虐待しているのかもしれない、と思うと、ゾッとする。

「寅さんはおいちゃんと喧嘩をしてどんなに激怒しても、二度と家には入れなくなることはありません。また妹のさくらが寅さんを完全に見捨てることはないでしょう。つまり「何度でも失敗が許されている」のです。寅さんが旅先で自分の労働力によって社会とつながり、困っている人を救う「ケア力」を発揮できるのは、そもそも実家でケア的空気を胸いっぱい吸い込んでいるからだとも言えます。」(p144)

娘が「自分はあほや」と自分の頭を叩く「自己表現」を通じて親に伝えようとしている強烈なメッセージとは、娘にとっての実家が「何度でも失敗が許されている」環境ですか、という問いなのだ。親の僕が、「正しい答え」に固執して、彼女が間違えながらも安心して学び続ける場を保障していますか?と。そういう「ケア的空気を胸いっぱい吸い込」めていないからこそ、頭を叩いているのである。それは、親こそ変われ、という強烈な彼女のメッセージなのだ。父がそれを受け取れるか。めっちゃズキズキしながらこの文章を書いている。

「短期的に見れば常識から外れていたり、いい結果を生まないと思われたりしても、その子の存在を認め、信じて待つことが大切です。信じて待つとは、社会的な成功かどうかではなく、本人にとっての成功が見つかるまで大人が失敗のケツをふくということです。」(p134)

幼稚園児までの間は、あれほど信じて待っていたのに、教科学習が始まると、宿題のペースに飲み込まれ、子どもを信じて待てずに急かせる父親への強烈なカウンターパンチのようなフレーズである。「本人にとっての成功が見つかるまで大人が失敗のケツをふく」ことが大切なのに、「小学生なのだから(一度習ったのだから、こないだできたのだから・・・)」と彼女に無理して自分で「失敗のケツをふく」ことをさせている。だからこそ、彼女は苦しくて、「自分はあほや」と自分の頭を叩くのかもしれない。

そう考えた時、娘にとっての「ちょうどいい」を応援する親の僕が、娘の存在を認め、信じて待てるか。最近モヤモヤしている自分事が、真兵さんの本の書評を書いているうちに湧き上がってきたので、こんなヘンテコな文章になってしまった。でも、未だ土着人の娘が「商品を選ぶ自由」に囲い込まれないために、資本主義の「外部への『出口の入り口』」を持ち続けるために、僕にとっては大切な学びが得られる一冊だった。