依存症の本はこれまで色々読み囓ってきた。でも、赤坂真理さんの『安全に狂う方法 アディクションから掴みとったこと』(医学書院)は、類書にはない読書体験だった。「人を殺すか自殺するしかないと思った」作家が、その根源を辿った時に出会ったのがアディクションという概念だった。そして、実際に依存症経験者と出会い、共にパフォーミングアーツで踊る中で、危険な狂い方「以外の何か」をつかみ取っていく。それを、作家の内的現実と重ね合わせながらノンフィクションで描いていく。そんな「物語」である。
物語を表層的な論理で「解釈」するのは野暮なので、ぼく自身が何をどのようにこの本から感じたのか、受け取ったのかを言葉にしてみたい。
「アディクションとは、『強度のとらわれ』である。あることについて考えることが一日の大半を占めてしまい、必要なことまでを圧迫する。しかもその状態から、努力で離れることができない。」(p45)
この表記を読んで、「強度のとらわれ」であれば、お酒やギャンブル、違法薬物、恋愛といった「よくあるアディクションの対象」以外のこともありうる、と思った。お金、名声、権力、支配欲、学歴、社会的地位、「いい人」・・・こういったものに「強度のとらわれ」を持つ人は、この社会には沢山いる。ただ、依存症の対象として認識されるのは、「強度のとらわれ」により、社会生活が不適合に状態になったり、社会規範から極度に逸脱したと評価されるから、である。一方、「強度のとらわれ」の対象が、社会的に称揚・容認されるものであれば、アディクションとはそもそも呼ばれない。起きてる時間ずっとモニターに齧り付いて株やFX投資をして巨額の富を得るとか、寝ても覚めても組織内の権力闘争に勝つことばかり考えているとか、他者を蹴落としてでも営業成績一位になることに執着しているとか、だって「強度のとらわれ」にもかかわらず・・・。
「アディクションが『自分の全てでないペルソナ(仮の姿)が自分のようになってしまう』主客転倒から起きるとしたら、生きづらさというものの一大原因はそこにあると私は思う。なぜそうなったか。『愛されなかったから』ではないだろうか。愛されたかったから、自分を曲げた。自分を曲げてでも、愛されたかった。愛される一側面に特化するようにがんばった。」(p50)
この本の主人公の1人である、アディクション経験者の倉田めばさんは、青年期まで「勉強ロボ」だった。親の期待に必死に答えるために、優等生をしてきた。でも、それでぶち切れて、薬物に依存するようになった。親が勉強している時しか愛してくれない、という条件付きの愛情に、反抗した。「愛されなかった」ことから、薬物に固着するようになった。
逆に言えば、「愛されなかった」心の空虚さを満たすために、薬物ではなく、お金、名声、権力、支配欲、学歴、社会的地位、「いい人」・・・に固着していたら、彼はアディクトとは呼ばれなかっただろう。でも、社会的に好ましい何かを獲得しても、にも関わらず心が空虚な人は沢山いる。「愛されなかった」ことの代償行為として、外形的評価に固着しても、基盤としての「愛されたい」が満たされたり成就・昇華・成仏されないと、いつまでも強欲的に自分の固着対象を追い求める。それはアルノ・グリューンがかつて喝破した『「正常さ」という病』そのものである。
僕は倉田めばさんに、20年以上前に、一度だけ授業でお話を伺ったことがある。その時の資料に強烈なインパクトを受け、依存症や生きづらさの問題を考える時には、ずっと折に触れ、思い出している。
・母はよく私に言った「薬さえ使わなければいい子なのに」私は思った(いい子の振りをするのが疲れるから薬を使っているのに・・・・・)
・警察や診察室、家族の前では私はいつも言わされた「もう二度と使いません、やめます」その度に私は私を見つめるチャンスを失っていった。
・私にとって薬物とは言葉であった。ダルクのミーティングは本来の言葉を取り戻す作業である。自分の言葉を取り戻したときに、薬物が不必要になってくる。
「拾い集めた言葉たち」
「いい子の振りをするのが疲れるから薬を使っているのに」というのは、その時にはなぜだか理解出来なかったけど、鮮烈なメッセージとして僕は受け止めた。それまで、「ダメ、ゼッタイ!」を鵜呑みして、薬物依存する奴は「ダメな奴」だと僕は思い込んでいた。でも、親や社会から求められた「いい子」という正常さの規範なら、僕だって内面化している。その「いい子」の呪縛性に疲れ果てて、「薬を使っている」。それなら、僕だって「わかりうる」「ありうる」話かも知れない、と。それは僕の社会規範の前提をグラグラ揺らす何かだった(その時にはここまで言語化出来なかったが)。
親に愛されたいけど、「いい子の振りをするのが疲れ」てしまった。でも、「自分を曲げてでも、愛されたかった」。これ自体が葛藤の最大化である。「愛される一側面に特化するようにがんばった」のに、親はそのことを評価せず、社会規範にしがみついて断罪し、「もう二度と使いません、やめます」と言わされた。そのことによって、倉田さんはどんどん壊れていく。「自分の全てでないペルソナ(仮の姿)が自分のようになってしまう」主客転倒が加速していく。すると「私は私を見つめるチャンス」を見失ってしまう。だからこそ、倉田めばさんにとって、「薬物とは言葉であった」のだ。
「親が悪いと言いたいのではない。この親も特定の価値観への固着度合いが病の域に達していて、他のものが見えないだけだ。しかもその固着対象は『普通』であり、悪くは見えないからこそ、このアディクションはむずかしい。その社会の規範として何が優勢であるかにもかかわる問題である。」(p191)
「薬さえ使わなければいい子なのに」と母が言うとき、その母自体も「特定の価値観への固着度合いが病の行きに達していて、他のものが見えないだけ」なのかもしれない。でも、本人はそんなことを全く思ってはいない。なぜならば、「いい子」という「固着対象は『普通』であり、悪くは見えないから」。先に挙げたお金、名声、権力、支配欲、学歴、社会的地位、「いい人」・・・は「社会の規範として」「優勢」であるからこそ、そこに依存=アディクトすることは、問題とされない。「特定の価値観への固着度合いが病の域に達していて、他のものが見えない」状態であっても、薬物依存のめばあさんは糾弾され、「いい子」に固着する親は誰からも批判されない安全圏にいるのだ。
恐るべき非対称性である。
めばさんは本書の中で、こんな風にも語っている。
「アディクションとは最初の傷に対する二次障害である
言葉にできない傷がそこにあると指し示す行為である
苦しさに対するセルフ緩和ケアである
寄りかかるものが何もないときに、寄りかかることができる架空の壁である
一人の自分がもっとも一人になることによって寂しさを忘れる手段である」(p157)
「いい子の振りをするのが疲れるから薬を使っているのに」という時、まずいい子でいなさい、と親が子どもを縛ることによって、つまりは親による子どもの「モノ」化や支配(=特定の価値観への固着度合いが病の域に達すること)によって、めばさんは最初に深く傷つけられた。そして、その「傷に対する二次障害」として薬物への『強度のとらわれ』=「二次障害」に陥る。傷から逃れるための「セルフ緩和ケア」であり「架空の壁」であり、「寂しさを忘れる手段」なのだが、そのことによって、さらに追い詰められる。本当は「傷つけないで」「他者評価をせずに自分を見て、愛して」が根本にあるはずだ。でも、その根本の部分が満たされなかったからこそ、の代替言語=セルフ緩和ケア、としてのアディクションをも、「薬さえ使わなければいい子なのに」と批判される。「いい子を期待されなかったら、自分は薬を使わなかったのに」と言えない子どもは、ますますアディクションにはまり込む。そういう悪循環構造の高速度回転を見て取った。
では、この悪循環の高速度回転から、どうやって抜け出せるのだろうか。
「『問題は、それを作ったときと同じ思考では解決できない。We cannot solve our problems with the same thinking we used when created them.』
これはアインシュタインの言葉である。同じ思考に固着してしまうことそのものがアディクションなら、アディクションを思考や意思で解決することの不可能性はよりはっきりする。同じ思考(行動も元は思考である)に固着して、身動きがとれない、しかも本人の努力やコントロールでそこから離れることができない。それがアディクションなのだから。
AAがアディクションに対し無力であると認め、自分を越えた力、ハイヤーパワーに委ねるのは、自我の限界を認めることかもしれない。それは近代以降の人間にとって脅威かもしれないが、もともとその自我に合わせて自分を制限してきたことが、生きづらさだったのかもしれない。」p232
僕はブログで他者の文章を抜き書きするのが好きだ。それは、テキストを読んでいるときには気づかなかった筆者の論理を、文字通り書き写すことで追体験する、というか、筆者のロジックをじっくり追うことが出来るからである。そして書き写すうちに、元々書き写したいなと思った箇所とは別の部分で、意外な発見があったり、こういうロジックだったのか、とびっくりすることがある。今回で言うなら、最初読み進めたとき、アインシュタインのロジックに基づき、「アディクションを思考や意思で解決することの不可能性」を整理した部分に、深くなるほど!と頷いていた。だからこそ、ハイヤーパワーという言葉が出てくるのですね、と。
でも、今回抜き書きする中で、一番気になったのは、最後の部分である。
「それ(=自分を越えた力、ハイヤーパワーに身を委ねること)は近代以降の人間にとって脅威かもしれないが、もともとその自我に合わせて自分を制限してきたことが、生きづらさだったのかもしれない。」
「自我に合わせて自分を制限してきたことが、生きづらさだったのかもしれない」というのは、書いていてそうだよなぁ、と深く感じた。いま、小二の娘は、学校の宿題で本当に大変そうである。それは、人類学者のジェームス・スコットのアイデアを借りるなら、野生の秩序(vernacular order)で生きてきた娘が、小学校空間において圧倒的な公的秩序(official order)と向き合うことによるしんどさ、なのかもしれない。そして、それは「自我に合わせて自分を制限」するしんどさかもしれない、と補助線を引くと、僕にとっては自分事としてよくわかるのだ。
デカルト以後の西洋近代社会は、「野生の秩序(vernacular order)」という「自然」をコントロールし、手懐け、自家薬籠中のものにすることによって、文明を進化させていった。天気予報やダムによる治水、プランテーション栽培などを通じて、荒ぶる神というか人間を翻弄する自然を人間が支配できる部分が格段に増えていった。そのようなテクノロジーは、やがて人間のマインドそのものも支配するようになる。野生の秩序なんて未開人・子どもの愚かな思考だ、と。ちゃんとした大人なら、公的秩序にしっかり従う「よい子」でいなさい、と。
でも、他ならぬ自分を、頭の中で考えた論理性という自我=「公的秩序(official order)」に縮減すると、そこから漏れ出てしまう部分がある。それをなかったことにするのか、そのものとして大切にするのか。多くの人は「なかったことにする」のを必死になって選び、「社会化」する。でも、それは自分の魂の一部を切り取る・縮減するものであり、痛みを伴う。それが「生きづらさ」と通底するなら、「論理の病」が「生きづらさ」なのかもしれない。中学生の約5人に1人が「不登校」または「不登校傾向」にあるという記事を目にすると、この昭和時代に構築された「頭の中で考えた論理性という自我=公的秩序(official order)」がそもそも限界を超えているのではないか、とすら思う。
だからこそ、「自我の限界」の外に出る必要があるのだ。AAに代表されるセルフヘルプグループでは、言いっぱなし・聞きっぱなしのミーティングの場が大切にされるが、それは論理による説得、あるいは思考や意思への固着を手放す一つの形態なのかもしれない。でも、それ以外のルートもある。それは古来からの儀礼的儀式の中に、踊りや祭礼、歌や声明、パフォーマンスとして、受け継がれていた。そして赤坂真理さん倉田めばさんは、「自我の限界」を越えるパフォーマンスとして踊る中で、ハイヤーパワーにアクセスしていく。それは「大いなる流れ」に身を委ねるような経験だったのだろうな、と読み手の僕は感じる。昔、未来語りのダイアローグを自分でやってみたときに、まさに大きな流れに導かれるように、対話空間が場や人を動かしていったように。
表題にある「安全に狂う方法」とは、自我に支配されない舞台空間において、自我境界を越えてパフォーマンスを「生きる」ことによって、「野生の秩序」を取り入れ、取り戻し、それによって思考や意思への固着を手放すプロセスなのだと、僕は受け取った。
本の紹介というより、この本を読んで僕が受け取った(誤読した!?)ものを言語化してみた。読みやすくて、すごく深い部分が動かされる本なので、良かったら一度読んでみてほしい。