ケア的な土着思考

友人の青木真兵さんから『武器としての土着思考』(東洋経済新報社)をお送り頂く。「土着とは、自分にとっての『ちょうどよい』を見つけ、身につけること」(p20)と定義づけているように、この本の原稿を書きながら、真兵さん自体が、「自分にとっての『ちょうどよい』を見つけ、身につけ」ようとしていて、すごくよい。しかも今回は版元が経済系出版社ということもあり、資本主義とガッツリ向き合うプロセスを通じて、「自分にとっての『ちょうどよい』を見つけ」ようとしているのが、面白い。

「近代化によって人びとは『しがらみ』から解き放たれ、個人個人が己の責任において人生を選択できるようになりました。ただ、『しがらみ』からは自由になりましたが、その自由は商品の中から選ぶ自由だったということです。僕が目指す『地に足をつける』とは、『自らの生』を商品からも商品以外からも自由に選ぶことができるようになることを意味します。そのためにはまず、商品以外という選択肢が存在することを知る必要があります。これが現代社会における外部への『出口の入り口』です。」(p31)

多くの人がお金持ちになりたがるのは、経済的自由を手に入れるためである。これは、「商品の中から選ぶ自由」である。そして、お金持ちになれるのは人口の1%以下であり、その他の99%はそれに憧れる。これが資本主義の論理である。でも、真兵さんはその枠組みそのものを問うている。「商品の中から選ぶ自由」だけが自由ですか?と。それ以外の選択肢も用意して、「『自らの生』を商品からも商品以外からも自由に選ぶことができるようになること」の方が、現実的ではありませんか?と。そして、「商品以外という選択肢が存在することを知る」ことこそ、『地に足をつける』ことではありませんか?と。資本主義の「外部への『出口の入り口』」を探すこと。それが「「自分にとっての『ちょうどよい』を見つけ、身につけ」る土着思考である、と喝破している。

でも、自由=「商品の中から選ぶ自由」と意識すらしたことが無かった人にとっては、「外部への『出口の入り口』」なんて言われても当惑してしまう。だからこそ、彼は丁寧にその入り口の見つけ方も教えてくれている。

「実体経済、現実、ローカル、アナログが『地に足をつけること』で、金融経済、仮想、グローバル、デジタルが『飛び立つこと』を意味するわけではありません。僕の言う土着することは、その状況に応じて適した手段を選べることを意味します。だから、例えば山村で狩猟採集と炭焼を中心とした自給自足の生活を行い、インターネットや携帯電話に頼らない生活をすることが土着することだとは考えていません。反対に、都市に住みながら商店街の馴染みの個人商店で買い物し、銭湯に行ったりして地域経済の中で生活することは十分に土着することだと思っています。
自分にとっての『ちょうどよい』を見つけ、手放さないこと。そのためには手段を選ばない。これが土着することの肝なのだと思っています。」(p75)

「その状況に応じて適した手段を選べること」とは、その都度、行動原理を変えていくことである。確かに真兵さん自体が、大都会の西宮で生きづらさ・息苦しさを感じて、奈良県の山深い東吉野村に引っ越し、私設図書館「ルチャ・リブロ」を開いている。でも、その一方で、オムラジというポッドキャストを配信し、僕も毎月「生きるためのファンタジーの会」のZoom収録でご一緒している。彼の場の開き方は、リアルであろうとバーチャルであろうと変わってはいない。「自分にとっての『ちょうどよい』を見つけ、手放さない」という原則を大切にし、そのために、アナログもデジタルも、現実も仮想も、縦横無尽に使い倒しているのである。

それから、「都市に住みながら商店街の馴染みの個人商店で買い物し、銭湯に行ったりして地域経済の中で生活することは十分に土着すること」というのにも、深く頷く。

僕の場合、ワインを買うのはこのソムリエさんから、お肉は近所の精肉店で、魚は地元のスーパーで、そして服を買うのはこの人から、お米は岡山の福ちゃんで、柑橘類は尾道のファームでと、関係性の中で決めている部分が割とある。それは一見すると「商品の中から選ぶ自由」のようにも見える。でも、お金は介在するけれども、馴染みの客として買い続けることにより、関係性を構築し続けている部分が結構ある。確かにネットで最安値を探す生活に比べたら、「割高」かもしれない。でも、「しがらみ」ではない心地よい関係性を構築する中で、「自分にとっての『ちょうどよい』を見つけ、手放さない」部分を増やしていく。すると、日々の暮らしがより豊かになっているようにも感じる。

そして、「現代社会における外部への『出口の入り口』」の一つが、「ケア」なのではないか、とも思う。7年前からその「出口の入り口」にうっかり入ってしまったおかげで、「商品の中から選ぶ自由」の外側が、少しずつ見えてきた。娘のケアをしなければならない、というのは、正直に申し上げて、一つの「しがらみ」である。そして、自分の時間を奪われる面倒な「しがらみ」だと思うなら、ベビーシッターなり塾なり習い事なりを金銭的に購入して、その「しがらみ」を外部化するのも、一つのやり方である。その方が、自分の時間が確保できるだろう。

だが、僕自身、娘という「ままならない存在に巻き込まれる」からこそ、見えてきたことが沢山ある。今朝も算数を教えていて、何度教えてもなかなか繰り下がりが上手く出来ず、集中力も続かない娘にイライラしてしまった。当の本人にとっては、いま初めての苦手な算数という経験に圧倒的に戸惑っている。その彼女の視点にたったら、「なんでこんなこと出来ないの?」と父が怒ると、それは彼女の世界への信頼感の崩壊に繋がるのだ。そして、彼女のそばにいて、彼女のペースで学ぶのを親が付き合い続けることは、成長途中の彼女が、自分なりの『ちょうどよい』を見つけるお手伝いでもある。そして、それこそ「娘が育つ父になる」ために僕が求められている変容課題だとも思った。「ちょうどよい」の模索とは、そんなよりよい関係性の模索でもあるかもしれない。

「どうしても僕たちは、『物事を決める』ことに重きを置きがちです。しかし、大事なことは結果ではなく、その過程です。なぜならその過程がちゃんとしていれば、自ずと結果はついてくるからです。なぜ結果ばかり求めてしまうかというと、それはこの世のどこかに『正しい答え』があると思っているからです。」(p118)

算数で同じ間違えをする娘にイラッとくる父は、「結果ばかり求めてしまう」ダメな父である。彼女は、何度も同じ間違いを繰り返しながら、少しずつ原理を学んでいる。そのプロセスを、「なんで同じ間違いをするの?」とか「さっきやったやん!」などと恫喝してしまっては、彼女の学ぶプロセスを死んだものにしてしまう。これでは、学びの面白さに行き着かない。

それに関連して、最近危惧していることも、正直に告白しておきたい。

自分のせいでうまく物事が行かなかったとき、娘はたまに「自分はあほや」と自分の頭を叩くようになった。それは親に叱られ、追い詰められ、悪いのは自分だと内面化して、自罰的になっているからである。ややこしい時にこれくらいは出来て欲しいと親は口で注意する・圧力をかける。だが、当の娘自身にとってはものすごく高いハードルだったり、やりにくかったりする。だから出来ないのだけれど、それは自分のせいである、自分が悪い、と思い込んで、自分を罰している。これは、本当にまずい。

親が「正しい答え」に固執して、それが出来ない娘に圧力をかけてしまっている。でも、娘はその「正しい答え」を今、模索して理解しようとしている。その大切なプロセスを、娘のペースで理解しようとする試行錯誤を奪ってまで圧力をかけている。だからこそ、親に期待されたことが出来ないと感じて、「自分はあほや」と自分の頭を叩くのである。叩いているのは娘であるが、叩かせているのは親の私である。書いていて、ほんとうに悲しいし、間接的に虐待しているのかもしれない、と思うと、ゾッとする。

「寅さんはおいちゃんと喧嘩をしてどんなに激怒しても、二度と家には入れなくなることはありません。また妹のさくらが寅さんを完全に見捨てることはないでしょう。つまり「何度でも失敗が許されている」のです。寅さんが旅先で自分の労働力によって社会とつながり、困っている人を救う「ケア力」を発揮できるのは、そもそも実家でケア的空気を胸いっぱい吸い込んでいるからだとも言えます。」(p144)

娘が「自分はあほや」と自分の頭を叩く「自己表現」を通じて親に伝えようとしている強烈なメッセージとは、娘にとっての実家が「何度でも失敗が許されている」環境ですか、という問いなのだ。親の僕が、「正しい答え」に固執して、彼女が間違えながらも安心して学び続ける場を保障していますか?と。そういう「ケア的空気を胸いっぱい吸い込」めていないからこそ、頭を叩いているのである。それは、親こそ変われ、という強烈な彼女のメッセージなのだ。父がそれを受け取れるか。めっちゃズキズキしながらこの文章を書いている。

「短期的に見れば常識から外れていたり、いい結果を生まないと思われたりしても、その子の存在を認め、信じて待つことが大切です。信じて待つとは、社会的な成功かどうかではなく、本人にとっての成功が見つかるまで大人が失敗のケツをふくということです。」(p134)

幼稚園児までの間は、あれほど信じて待っていたのに、教科学習が始まると、宿題のペースに飲み込まれ、子どもを信じて待てずに急かせる父親への強烈なカウンターパンチのようなフレーズである。「本人にとっての成功が見つかるまで大人が失敗のケツをふく」ことが大切なのに、「小学生なのだから(一度習ったのだから、こないだできたのだから・・・)」と彼女に無理して自分で「失敗のケツをふく」ことをさせている。だからこそ、彼女は苦しくて、「自分はあほや」と自分の頭を叩くのかもしれない。

そう考えた時、娘にとっての「ちょうどいい」を応援する親の僕が、娘の存在を認め、信じて待てるか。最近モヤモヤしている自分事が、真兵さんの本の書評を書いているうちに湧き上がってきたので、こんなヘンテコな文章になってしまった。でも、未だ土着人の娘が「商品を選ぶ自由」に囲い込まれないために、資本主義の「外部への『出口の入り口』」を持ち続けるために、僕にとっては大切な学びが得られる一冊だった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。