風が通る

引越をして一週間。まだ開かずの箱はあるけれど、だいぶ生活が落ち着いてきた。

場所を変える、というのは、身体作用にも大きな影響をもたらす。今回、身体が引越を求めていたので引っ越した、という部分が非常に大きいので、よくわかる。職場はそのままだし、駅からは前の家の方が近いし、別に引越をする外的必然性はなかった。だが、心も含めた身体全体が、場を変えることを切実に望んでいたのだ。これは、妻も同様である。
今の家に来て、風が通る、ということの重要性を、具象的にも抽象的にも感じている。
事実、以前の家の難点は、風通しの悪さだった。北東角の3階建ての3階、という立地。夏場は恐ろしく日差しが熱く、あつ夜には外は涼しいのに、その冷気が家に入ってこない。理由は、北向きのリビングと、東向きの書斎や寝室とをつなぐ導線が悪く、窓を開けても、風がなかなか勢いよく通過しなかったのだ。
また、抽象的レベルでいうと、収納が少なかったので、部屋にモノが散乱し、気持ち的にも風通しが悪かった。だが、そこで6年住んでいた私たちには、その風通しの悪さ以前に、甲府で、夫婦として、社会的立場や役割として、生き続けるだけ精一杯だった。大げさに見えるが、僕の30代前半は、間違いなく、「一杯一杯」、というか、キャパシティーの限界以上の課題に常にチャレンジし続ける、ポジティブな意味で言えばアグレッシブな、反転させると全く余裕のない日々だった。
それが、30代の折り返しを迎える去年あたりから、役割や立場という対社会的自己だけでなく、喜びや楽しみ、うれしさといった内在的自己を重視し始めた。その際、合気道という身体作用が、心のこわばりや防御機制のプロテクトを取り払うのに役立った部分は決して少なくないと思う。今まで無視していた、センサーを切っていた、身体の様々な部位との対話(最初は「○○という技が全く出来ない」という形での)によって、自分がいかに対社会的、それも目の前にすでに見えている世界という局所的世界に向けての対話しかしていなかったことに、気づき始めた。すると、ヤドカリではないが、自らの住んでいる家の様々な問題点が、局所的世界の裂け目から、少しずつ見えてきたのだ。これは、今の自分の身体にフィットしていない住まいである、と。
おもしろいもので、結婚して8年が過ぎようとしているが、妻とそのあたりの感覚が同じであった。共振している、というか、拡張する身体感覚なのかどうかわからないが、二人して同じ時期に動きたい、と感じ始めた。そして、新たな家で、新たな身体感覚を構築しようとしている。
部屋作りのため、この一週間、いろいろなモノを捨てたり、配置し直したり、新たに買い求めたりしている。以前なら、それは単に収納するとか、しまうとか、そういう現前の目的の為、としか意識していなかった。だが、今回の引越後の軌跡でおもしろいのは、判断基準が、「それは気持ちよいか? 快適か?」という項目が加わった、ということである。逆に言えば、これまではそんな当たり前のプリンシプル自体を無視して生活を構築してきた、というお恥ずかしい現実の暴露でもある。
妻はここ数年、近藤典子の本ライフオーガナイズの本を読み込んでいるので、引越を気に、キッチンまわりをかなり快適に構築してくれた。いわく、後ろを振り向いたらすぐに調味料や道具が取り出せるキッチンが、一番使いやすい、とのこと。確かに引越後、調理中に動く量がかなり減り、実に快適に料理が出来る。同じように、書斎は以前より狭くなったのだが、パソコン机の向かい側に書棚を取り付け、そこに見えやすいように書籍を配置したので、実に本が取り出しやすく、良い刺激が沢山本棚から発せられている。座ったままの目の高さで手に届く本が増えた事が、読んで書く、という営みを、後ろから大きく応援してくれているように感じるのだ。キッチンも書棚も、「気持ちよさ」と「快適さ」が随分向上した。
まだ、それでも1週間しかたっていないので、手をつけていない箇所は沢山ある。でも、それに着手することは、「重荷」ではなく、楽しみにになりはじめている。風通しのよい家にいると、僕の中でよどんでいた気脈が流れ始めるような気がする。いや、僕自身の内在的論理の変容が、心の中に風を通し始め、引越と風の通る家に導いたのかもしれない。または、両者のシンクロニシティ、という方がぴったりくるかもしれない。
いずれにせよ、この夏は、いろいろなものをまとめるタイミングが重なってくる。そのために、スタートし始める準備が整ったようだ。

トポスの変容

と、小難しいタイトルを思いついたが、内容は簡単。引っ越しました。

同じ甲府市内なのだが、着任後6年間住まいを変えなかった。場所的には気に入っていたのだが、色々脱皮の時期だと思って、思い切って引っ越したのだ。
引っ越し先では、出来るだけ「暮らしやすさ」を大切にしようとしている。
以前の家では、本棚の3分の1が、スペースの関係上、半分死にかけていた。今回、とりあえず書斎では、PCと机、本棚しか置かず、それ以外のものは段ボール箱を未開封、あるいは収納スペースに放り込んでいる。机の真後ろに、すべてが見える本棚を置いたので、非常に一覧性に優れている。お恥ずかしながら、「こんな本を持っていたのね」と在庫をすっかり忘れていた本も多い。また、一日でやってしまったので中途半端ではあるが、今の時点での興味関心に基づいて書架を並べ直したので、非常に各棚の発するエネルギーが好ましく、また強い。自ずと各本棚に手に届く割合も高い。これだけでも、早く家に帰りたくなる配置だ。
それだけでない。これは妻の成果なのだが、キッチンもかなり使いやすく変えた。もちろん新居がキッチンとダイニングのセパレートになっている事が大きいのだが、それ以外に引越を気に、大量にモノを捨てた。本だけでなく、中途半端な収納用具や、使わない食材なども(昨日は8年前が賞味期限の蜂蜜も捨てた)。すると、めちゃ料理しやすい。キッチンのコックピットで、ほとんど動かずとも、ひょいひょいと調味料も食材も料理器具も手に取れる。今までどれだけ導線が悪かったのだろう、と再認識させられる。
あと、リビングも、なるべくモノをあれこれ置かないよう、目の上の高さ以上はすっきりするように心がけている。ここは、まだ引っ越して間もないので、志半ばだが、少しずつ、整い始めている。
引っ越す前のマンションは、立地もよく、大家さんもフレンドリーだったが、とにかく収納が極端に少なかった。ゆえに、物持ちの我々夫婦は、自然と部屋が雑然としてきて、争いや怒りに満ちる事になる。道具は、夫婦で暮らすための、あくまでも手段。でもその手段が自己目的化し、ある種、手段に支配されると、「夫婦がくつろぐ」という目的が達成できなくなる。超してきた当初はそれでもモノが少なかったが、この6年間であれやこれやが増えた。ならば、そろそろカタツムリよろしく「宿替え」の時期だね、ということになり、引越シーズンでもなければ、仕事先が変わった訳でもないのに、引っ越したのだ。
新居でも、引っ越して以後も、モノを捨て続けている。
これまでのため込む癖と向き合うのは、楽ではない。それは、自らの性格の、ある種のコアの癖の部分と向き合うことだから。なので、休み休みしないと、爆発しそうになる。でも、少しずつ片付けながら、少しずつモノとの距離の取り方、住まい方について、以前と違う場で、引越の段ボール箱を一つずつ開けながら、その場を構成する要素を大きく変えながら、毎日を位置取り直している。自分たちの場所(=トポス)を構築し直している。
以前なら、出来合いのトポスに身を合わせるだけで精一杯だった。もっといえば、トポスを重視する以前に、生きるだけで精一杯だった。だが、多少なりとも、目の前の日常生活だけでなく、その日常生活を構成する場の重要性に気づく時期を迎えた。すると、トポスを意識的に変容させることによって、今までよどんでいた流れを再活性化させて、新たな出会いや物語が生まれ始めそうな予感がしている。断捨離ではないけれど、場の再活性化の為には、確かにモノと向き合う姿勢の変容は悪くない。そして、捨てるだけでなく、自らの現時点での処理能力で向き合えるだけのモノに絞った上で、モノと向き合い直す、つきあい直す、使い倒すことこそ、活き活きとした暮らしなのではないか、と思い始めている。
新居第一号のブログは、そんな予感を言語化してみた。自己成就すればよいのだけれど。

新たな展開の予感

二週間近くのご無沙汰です。

相も変わらず日帰り東京出張が二日連続で続いたり、など仕事も確かに忙しいが、この二週間で、いろいろな事が変化していて、時間的にも物理的にもブログに時間をとれなかった。備忘録的にその変化を少し記録しておきたい。

1,Evernoteが習慣化する。
前回のブログを書いた24日から、Evernoteを使い始めたのだが、これはかなり習慣化してきた。毎朝、前日の記憶を頼りにEvernoteに日記を書き始めたのだが、まあ、書くことがあるわ、あるわ。ブログやツイッターなどのアウトプットは「他人に見られる」ことを基本としているので、実はこれでもかなり取捨選択して、抑制気味に書いている。別に暴発したいのではなく、他人の目に触れるには値しないけれど、自分では書いておきたいその日の出来事や、他人の印象や発言、等を、書き出したら、結構書くことがあるのである。朝からどん詰まりに忙しい日以外は、朝起きてご飯を食べるまでの隙間時間に、ツイッターを見ながらこちょこちょ書いている。
いや、それだけでなく、研究にも活用している。ちょうど来週の11日が、福祉社会学会での学会発表があって、予稿集は書いておくっているのだが、まだその内容を仕上げていない。どうせだったら、とこれまでにため込んできたアイデアも含めて、EvernoteでB6カードよろしく書きためている。すると、アイデアの思いつきや、忘れかけていた記憶の再生など、色々な効果が出始めた。これまで福祉社会学会では2008年からずっと、地域自立支援協議会というメゾレベルの現場のダイナミックスについて、その本質に迫れないか、とあれこれ考えてきた。ただ、ぼちぼち今回あたりでいったんまとめをして、論文にしなければ、と思っている。そのため、具体的な事象に埋没せず、「問いの次数を上げる」ことが求められる。そして、僕が今、研究上でデッドロックにさしかかっているのは、「木を見て森を見ず」ではないが、個別具体の事にこだわってしまい、問題の本質にまで迫れていなからである。
ちなみに、この「問いの次数を上げる」というのは、内田樹さんがよく言っているフレーズである。彼のHPを引いてみると、大変興味深い例が載っていた。読み返していて「そうそう」と思う直近の例を、今ブログであれこれ書き始めたのだが、内容が表に出来ない部分もあったので、これはEvernoteの日記に移行する。そう、これまで書けない内容については書かれずに死蔵されて来たのだが、それを書いて消化・昇華させることが出来るのも、良いところです。と、脱線しているけれど、とにかく研究のまとめをそろそろせにゃまずいので、俯瞰的にこれまで考えて来たことをまとめるにも、Evernoteは活躍し始めている。
2,引越作業とゴミ捨て大会が進む
あと2週間ほどで、市内の別の場所に引っ越すことにした。今の場所は足かけ6年住んでいる。朝は鳥のさえずりで目覚める、大変良い場所なのだが、心機一転したかったのと、次の家のご縁が見つかったので、思い切って引っ越すことにした。そのため、連休明けくらいに業者に段ボール箱を運び込んでもらい、以来少しずつ、段ボール箱に詰めながら、部屋の整理も同時並行的に行っている。
その中で、読んでいない本でも、今の関心から外れてしまった本は、今回思い切って処分することにした。段ボール箱に引っ越し先にも持って行く本を詰める中で、この本とはご縁がないな、と思う本は処分用に分けていったのだ。数にして200冊は超えただろうか。感じ的に段ボール箱で2-3箱分くらいは避けただろうか。大学でフリマをし、8000円くらいのお買い上げになった。それは被災地の障害者支援団体に振り込む予定だ。それでも、14箱は新居に持って行くのだから、決して少なくはない。
2回分の週末を本詰めにかけた後、昨日あたりから、「開かずの箱」やゴミゴミした周辺領域、にも手をつけ始めた。「とりあえず」詰め込んである雑多な内容を、一度地面にさらけ出して、本当にいるものだけを取り出し、あとは捨てる、という地味で面倒くさい作業だ。本を箱詰めするより肉体は使わないが、実は精神的にクタクタになる。なぜなら、真実は細部に宿るから。
前回の引越は、プータローだった西宮時代から、常勤となった新天地へと移る時期と重なった。かつ、引越の1週間前にアメリカ調査から帰って来て、その間にインフルエンザにもかかり、送迎会を軒並みキャンセルする、という失態も重なった。その上で、1週間で引越準備を完了する、というかなりクレイジーなスケジュール。とにかく箱詰めして、前の日は徹夜して、必死になって片付けて、ふらふらになりながら夕方の高速道を甲府に向けて走っていたのを、ぼんやり覚えている。あの頃は全く人生にゆとりがなくて、引越をするだけで精一杯だったのだ。
その後、甲府に超してから、山梨での生活に慣れるのに2,3年かかった。それは、常勤の仕事に慣れるのに、と言い換えてもいいもしれない。で、慣れた頃から、山梨県や三重県での障害者福祉のアドバイザーをし始めたので、加速度的に仕事が忙しくなる。妻はその頃から、引っ越ししたい、と言っていたのだが、今度は忙しくて余裕がなくなったので、とてもじゃないけれど、と拒否していた。乱雑な部屋をみて、ここからどうやって荷物を整理できるのだろう、と途方に暮れていたのも、一因であった。
それが昨年の心境の変化のあたりから、ぼちぼち動いてもいいのではないか、と思いを改める。そして、昨年の夏には不動産屋も廻ったり、学内で声もかけてみたが、なかなか物件は見つからない。そんなもんかなぁ、と思っていた矢先、今年の年明けに、身近な知り合いから、分譲マンションを人に貸したい、というご縁と出会う。いわく、5月末をめどに実家に戻ろうと思っている、とのこと。3月は仕事も立て込んでおり、引っ越し代も高いので、半年後の引越なら余裕もありそう、ということで、話がとんとん拍子で決まった。
6ヶ月の心理的余裕は、確かに大変良い。少しずつ片付けながら、心理的にも、今までの固着した考えを捨てていくのに、それくらいの時間が必要なようだ。実際、今回は連休明けから、よほどの用事がない限り、土日は引越のためにまるまる時間を確保している。その中で、今まで先延ばしにしてた「開かずの箱」「ゴミだめ」とも、向き合うことが出来ている。自分に余裕があるから、これまで蓋をしていた様々な「ゆがみ」「よどみ」と向き合えるようになってきたのだろう。使わないパソコンソフトやハード、読み返さない記録、聞き返さないカセットテープ、袖を通さない洋服、など、この際一気に処分する。毎週ゴミ袋を一杯にするたび、少しずつ心が軽くなっていく実感がある。そして、パソコンラックや、普段使わない重いスーツケース、不用意に取っておいた紙袋、などもとにかく捨てまくる。すると、変なもんで、部屋がだいぶシンプルになり、良い気が流れるようになってきた、ような気分になる。断捨離ではないけれど、引越を機会に、モノとのつきあい方を、大きく見直そうとしている。
3,蘊蓄ハイキング隊、はじまる
先週の金曜日から突然始まったこの企画。ちょうど、「せっかく山梨に来たのに、山梨の自然とふれあっていなかったなぁ」と思い始めた矢先に、大学の同僚A先生から、ハイキングのお誘いを受けたのだ。曰く、「大菩薩峠の半日ハイキングとその後の温泉」という、なんとすばらしい企画。
前日は雨だったのに、その日は非常に晴天に恵まれ、実に気持ちのいいハイキング日和。同僚が多いハイキングなので、山歩きしながらもピーチクパーチク、蘊蓄や阿呆な話に余念がない。かつ、隊長のS先生が、装備もばっちりで、山歩きのことだけでなく、森羅万象についての蘊蓄の大家。よって、蘊蓄ハイキング隊と決まったのでありました。
大菩薩峠の尾根から見る雲海の景色は実に美しく、隊長の言う「山登りはいっぺん出かけてみると、その魅力にはまるよ」という言葉を、文字通り実感した。この夏はこの隊の企画に乗っかって、僕も山梨の山と、一つずつご縁を頂こう、と思う。
Evernoteも引越も、蘊蓄ハイキング隊も、胎動する何か、を感じ始めるエピソード。どこに進むかはわからないけれど、何だか新たな展開の予感がする三題噺、でした。