脆弱性の平等

岡野八代さんに『ケアの倫理—フェミニズムの政治思想』(岩波新書)をご恵贈頂く。この本は、ケアの倫理がどのように生まれてきたのか、何を主張しようとしているのか、をギリガンの『もうひとつの声で』やキテイの『愛の労働』、フェデリーチの『キャリバンと魔女』やトロントのCaring Democracyなどの名著をわかりやすく紐解きながら解説している。フェミニズムがこの半世紀の間に何を積み上げてきたか、男性の「正義の倫理」には何が欠落しているのか、を丁寧にロジックで解きほぐし、フェミニズムの歴史的展開も一冊で理解できる。そういう意味で、実に濃厚で学びの深い一冊である。

僕は読んでいて、大部分のページに線を引き、ドックイヤーをつけまくった。なので、どこを抜き出すかものすごく迷うのだが、初見で特に好きだった部分を抜き書きしながら、その感想をちょっとだけまとめてみたい。

「女性は、一時的な不平等の関係性においては、子どもたちを育成する者(として期待されている者)であり、永続的な不平等においては、つねに劣ったもの、すなわち男性に従属する者として育てられ、期待され、また従属者としての役割をじっさいに担う。女性達がその他の被支配者と異なるのは、支配者である男性たちと親密な関係に入ることが期待され、また、母や妻として、子どもや夫に愛着を抱くことが、彼女たち自身にとっての、何者にも代えがたい幸福でもありうる点である。そうして差異=不平等が固定され、それによって成り立っているのが、個人の心理に深い影響を与える家庭という制度化された領域である。永続的不平等は、公的・社会的な制度によって維持され、その不平等が結果として、諸個人の心理を形成する。
社会的支配者(=男性)は、社会的役割の配分—価値があるとされる役割は自分たちに、自分たちにとって必要な、あるいは自分たちに奉仕するための役割は劣った者に—、社会的価値付けや権威づけ、そして人間理解を独占している。」(p125-126)

ルールを決める支配者の男性にとって、実に都合の良い永続的不平等を女性は強いられている。そもそも、「子どもたちを育成する」というのは、依存する子どもを見返りを求めずケアをする、という意味において、一時的な不平等の関係である。だが、そのような愛着行動をもとに、「母や妻として、子どもや夫に愛着を抱くことが、彼女たち自身にとっての、何者にも代えがたい幸福でもありうる」という存在に位置づけることは、女性の「やりがい搾取」である。そうして「差異=不平等が固定され」、しかもその「愛着を抱く」のが生物学的な女らしさだと刷り込まれ、その刷り込みによって、「価値があるとされる役割は自分たちに、自分たちにとって必要な、あるいは自分たちに奉仕するための役割は劣った者に」という支配者の論理を押し付けられてしまう。このルールであれば、女性は最初から負けることが固定されている。

そして、この勝ち負けという思想そのものが男性的な「正義の倫理」であると岡野さんはいう。

「他者とのつながりに気づき、そこに応答責任を見いだすケアの倫理は、客観的な公正の論理によって権利間の衝突を解決する正義の倫理に、むしろ関係性を破壊する、あるいは勝ち負けといった暴力が内在していることに注意を向ける。」(p107)

僕が岡野八代さんの本を初めて読んだのは、これも名著の『フェミニズムの政治学』(みすず書房)を、子どもが生まれた直後の科研研究班の課題図書として読んだ時である。赤ちゃんをスリングに入れながら読み進めて、そのときも本当に己の価値観をえぐられるような読書体験だった。なぜなら、それまでの僕は「勝ち負け」に無自覚だがものすごくこだわってきたことに、気づかされたからだ。業績主義的生き方をして、とにかく論文を沢山書き、出張をこなして社会的評価を得ようと必死になってきた僕は、同業他者に「追いつけ追い越せ」と思い、僕より早く単著を出したり評価されているキラキラ同業者の存在をSNSで見ては「負けた」と思ってきた。これは、己の中に「関係性を破壊する、あるいは勝ち負けといった暴力が内在して」いたのである。しかもそれが、ぼく自身のみの偏狭な性格だけではなくて、「客観的な公正の論理によって権利間の衝突を解決する正義の倫理」という自らが無意識・無自覚に前提としてきたものに、その暴力性が内包していたことに気づかされたしまったのだ。それは、自らの土台が切り崩されるような、恐怖の体験でもあった。だが、少しずつではあるが、どこかで別の道もあるんだ、と肩の力を抜き始めた。

「確固たる個人を前提とする契約関係は、関係性が生じる以前に決められた条件を超えることはない。対照的に、依存関係や相互連関のなかでの関係性は、予測がつかず流動的で、時に矛盾に満ちたものとなり、維持や修復、関係それ自体への注視が必要となるのだ。ある関係性のなかで、さらによりよい関係性を維持するための働きかけそのものが、また新しい関係性を作りあげてもいく、ある意味で終わりなきプロセスともいえる。」(p151)

2017年に子どもが生まれて、僕は初めて、契約関係ではない依存関係の世界にどっぷりはまっていった。それ以前は、自己決定や自己選択や能動性を基盤とした、「仕事人としてちゃんとすること」を重視していたし、それが出来ている自分を内心自慢し・鼓舞していた。でも、娘をケアしていると、そのような契約主体としてのぼく自身は、おぼつかなくなる。娘が風邪を引いた、夜泣きがひどい、ぐずる・・・などを繰り返すと、妻や僕が連動して体調不良になると、家庭生活そのものが本当に「予測がつかず流動的」なものとなる。また、娘が赤ちゃんから生後数ヶ月、未就園期、そしてこども園から小学校と成長するにつれ、娘の出来ることと成長課題が刻々と変わり、それによって「依存関係や相互連関のなかでの関係性」がどんどん変化していく。文字通り、「終わりなきプロセス」のなかで、関係性の変容に巻き込まれていくと、「契約関係」に基づく「正義の倫理」が、いかに狭い世界か、を痛感させられるのだ。

「ケアという営みは労働集約的であり、ケアを提供する者は、それ以外の労働に時間や労力を割く余裕がなくなりがちだ。したがってケア関係にある者たちが、まわりから放っておかれ孤絶したなかでケアが営まれるならば、その関係は容易に暴力的な関係へと転化するだけでなく、財の不足から死にいたる危険に晒される。さらに、正義の倫理と同じくケアの倫理を最低限必要な倫理として認めようとはしない者でありながら、ケアの倫理をもう一つの別の選択的な倫理として存在してもよいと認めている者たちが、権力を行使し、法制度を設計し維持しているような社会においては、ケアの倫理に従いケアの倫理を体現する者たちは、ケアの倫理はあってもなくてもよいと考える者たちの搾取に容易に晒されるのだ。」(p152)

半世紀以上前、アミタイ・エツィオーニというアメリカの社会学者は、看護師や教師、ソーシャルワーカーは「準専門職(semi-profession)」であり、弁護士や医師のような「完全専門職(full-profession)」とは異なる、と規定した。一言で言えば、後者は専門性を高く持つ必要があるが、前者はセンスの良い母親ならできてしまう部分がある、というのである。そして、名指された看護師や教師、ソーシャルワーカーの職能団体は「完全専門職(full-profession)」に憧れ、専門職大学院や認定看護師などを作り、その専門性を高め、医師や弁護士に社会的地位を近づけようとした。確かにそれで一定程度の地位はあがったかもしれない。だが、介護士や保育士などの給与は上がらず、離職者が増えている現状は変わらない。その背後に、「ケアの倫理に従いケアの倫理を体現する者たちは、ケアの倫理はあってもなくてもよいと考える者たちの搾取に容易に晒される」社会構造があるのだ。

更に言えば、裁判所の判例や医師の診断のようなものほど、生成AIの脅威にさらされやすい。パターン化された専門性であれば、AIに取って変わる事ができるのである。でも「ケアという営みは労働集約的であり、ケアを提供する者は、それ以外の労働に時間や労力を割く余裕がなくなりがち」だからこそ!、ケアはAIでは代替できない。それは、その関係性に巻き込まれ、その関係性を共にする、という「労働集約的」で時間をかける必要が、ケアの根源にあるからだ。そのような、人間らしい労働を、「ケアの倫理」を認めない、契約関係に基づく「正義の倫理」の体現者たちが、価値の低い労働と決めつけ、低い対価しか支払わないように社会制度を設計している。これは、冒頭の引用を再度用いるなら、「社会的支配者(=男性)は、社会的役割の配分—価値があるとされる役割は自分たちに、自分たちにとって必要な、あるいは自分たちに奉仕するための役割は劣った者に—、社会的価値付けや権威づけ、そして人間理解を独占している」がゆえに生じている不平等なのである。

では、「正義の倫理」に対置して「ケアの倫理」を考えることで、どのような可能性が生まれてくるのであろうか。

「自身の幸福、生の目的をはっきりともち、その目的を達成するための手段を選べるという意味での合理的で自律的な存在が協働するための社会を構成するといった前提が覆される。むしろ、ひとは誰しも、その生涯のうちでどこかで必ず、他者の労働やその決定に依存するがゆえに、その他者の行動に左右され、傷つけられやすい。そこで、社会の構成原理は、社会でもっとも脆弱な者たち、そして脆弱な者をケアするがゆえに、社会的に不利な立場に置かれがちな依存にかかわる労働者たちの権利を保障するために、つまり依存関係にある者たちが不正や抑圧、暴力を被らないためにこそ構想されなければならない。」(p217)

依存関係にある、というのは、脆弱な状態である。赤ちゃんは本当に脆弱な存在である。そして、子育てをしていると、子どもがいない状態の労働生産性と同じ内容を達成しにくいという意味において、「脆弱な者をケアするがゆえに、社会的に不利な立場に置かれがちな依存にかかわる」子育て中の労働者や、介護や保育などそういう対象者のケア労働をする人々の権利が保障されないと、この社会は成り立たない。にもかかわらず、それは愛の労働とされ、そこらの主婦にでもできる低レベルな仕事だからと、低賃金の周辺労働に追いやられてきたのだ。追いやったのは誰か? 「正義の倫理」でゲームのルールを決めてきた、健常者男性である。そして、僕自身がそのような差別者のひとりだったことに、子育てをし始めてやっと気づき、恐れおののいているのだ。

「自身の幸福、生の目的をはっきりともち、その目的を達成するための手段を選べるという意味での合理的で自律的な存在が協働するための社会を構成するといった前提」こそは、依存関係や脆弱さを他者に押し付けてはじめて出来る「主体性」である。「これが出来ない女・子ども・老人・障害者・・・は能力がない」と決めつけるのは、男性中心主義の傲慢であり、自分が他者に依存関係を押し付け・外部化することによって、自分自身はたまたま一時的に「合理的で自律的な存在」であるだけ、なのに、そんな自分の常識や前提をゲームのルールに紐付けてしまう。それこそが不遜だと、40代になるまで、ぼく自身は気づけていなかったのだ。

では、「合理的で自律的な存在」ではなく「依存関係」を前提におく、とはどういうことだろうか?

「この人間存在の原初にある依存状態は、ケアの受け手と担い手との間の非対称性—体力、判断力、コミュニケーション能力といった能力においても、社会的、経済的地位においても—に特徴づけられ、そのため、依存とそれを取り巻く人間関係は、不平等を特徴とする。つまり、ケアする者は、ケアされる者がいま必要としているもの(ニーズ)は何かを決め、ある意味では有無をいわさず、その生理に介入する。さらにケアする者は、ケアされる者のニーズを読み取る必要があるため、ケアされる者に寄り添い、注視し、その労力だけでなく時間をもケアされる者のために使い、ケアされる者についての知識を経験的に獲得しながら、刻々と変化する心身に時に振り回されることがある。そうした労力や時間に対して、当然のことながら、ケアされている者からそれに相応する見返りがあるわけではない。もちろん、ケアする者が主観的に、ケアされる者の反応から喜びや満足を感じることがあったにせよ、である。」(p242)

「合理的で自律的な存在が協働するための社会を構成するといった前提」においては、機会の平等が大切にされる。日本の学力試験が重要視されるのは、機会の平等が保障されているという前提があるからだ。そして、子ども時代の自分もそれを信じて疑ってこなかった。でも、福祉を研究するようになると、ヤングケアラーや困窮家庭、障害を持つ学生のように、そもそも機会の平等にアクセスできない・しづらい存在が沢山いることがわかりはじめた。たまたま自分は、「合理的で自律的な存在」として競争できるような余裕のある環境で育っただけだ。そう気づくようになった。そして子どもを育てはじめて、自分は親や周囲の環境に安心して依存できる関係性を享受できていたから、機会の平等を空気のように感じていたのだ、とも改めて理解できた。

「ケアする者は、ケアされる者のニーズを読み取る必要があるため、ケアされる者に寄り添い、注視し、その労力だけでなく時間をもケアされる者のために使い、ケアされる者についての知識を経験的に獲得しながら、刻々と変化する心身に時に振り回されることがある。そうした労力や時間に対して、当然のことながら、ケアされている者からそれに相応する見返りがあるわけではない。」

ぼく自身の話をすると、母親をずいぶん振り回してきたのだと思う。中学から急に猛烈進学塾に通い始め、夜中に塾から帰ってきても、起きて待っていたり、夜食を用意していたのは、母親だった。大学受験で夜型生活になったり、うまくいかなくて早朝に起きたときにも、見守りをしてくれたのは母だった。だが、僕はそんな母親に「見返り」らしいことはほとんど出来ていない。でも、依存関係を僕との間に引き受けた母や、自らに課せられた不平等について文句も言わず、子どもをなじらず、子どもに見返りも要求することもなく、育ててくれた。そして、厳しい言い方をすれば、僕や弟の依存関係は、経済的には父だが、それ以外の圧倒的なケアは専業主婦の母が担い、家事育児を一手に担うという意味では父もケアをしていたので、母の負担はどれほど大変だっただろう、と、自分が娘をケアするようになって、つくづく思う。

そして、父は経済的負担を、母はケアの分担を、というのが、男性中心主義が生み出した勝手な幻想であり、僕もあなたも脆弱さを抱えた存在として、ケア的存在であり、ケアの倫理を基盤とした社会の方がよほど生きやすい、と今なら思うのだ。

「理性を重視する伝統的な哲学に対して、脆弱性の定義にみたようにケアの倫理は、身体を具えた具体的な人間存在が前提である。そして、あらゆる身体は脆弱性を抱えているという点において、ひとは平等であり、かつ一人ひとりその心身は別個(distinctive)であるだけでなく、人間関係を含めた異なる環境に左右されやすい(vulnerable)という個別性において、唯一無二の(unique)存在であると、ケアの倫理は考える。」(p246)

「努力すれば報われる=努力しない限り報われない」というのは、努力の「機会の平等」を前提にしている。だが、先に述べたように、本人や家族の経済状況、心身の状況によって、努力の機会の平等は保障されていないのが実際だ。それを前提として社会構想は、あまりにしんどい。でも、あなたも私も「あらゆる身体は脆弱性を抱えているという点において、ひとは平等であ」るというのは、深く頷ける。誰だって弱さや愚かさ、もろさや脆弱性を抱えている。その環境に左右されやすい脆弱性(vulnerability)を基盤にした上で、一人ひとりの唯一無二性(uniqueness)を大切にする社会の方が、より安心が出来る社会である。それは、心からそう思う。

では、そんな社会をどうやって作っていけばよいのか。僕は、自分が気づいた範囲で、出来ることから、身の回りからしていくしかない、と思っている。まず、虚勢をはらず、自らの脆弱性を認め、その声を聞くこと。そして、身近な他者の脆弱性をそのものとして理解しようと努めること。そのような対話的関係性から始めるしかないと思っている。それは機会の平等が前提とする他者比較とは違う。他者の、自分とは違う他者性を理解したいと希求すること。それは、己の唯一無二性と出会い直すこと。それを、家庭や職場や友人関係など、色々なチャンネルではじめてみること。それがケアを基盤とした民主主義(Caring Democracy)を実現する第一歩ではないか、と信じている。

他にももっと引用したいところだらけ、だけれど、長くなったので今日はこの辺で。この本は、また読み返したい名著である。

読み手に大きな痕跡を残す一冊

フィールドワークの本を読むのは好きだ。自分の出会えない人の内在的論理(=他者の合理性)をそのものとして描き、肉薄する本を読みすすめると、文字通り、自分自身のこれまでの既存の価値観が揺さぶられる。

そういう意味で、ここ最近最も揺さぶられたフィールドワークの記録が、これからご紹介する『家を失う人々』(マシュー・デスモンド著、栗木さつき訳、海と月社)である。出版社の概要には「ピューリッツァー賞など13の賞を受賞!貧困問題の解決に鋭く切り込む世界的名著。全米70万部 。欧州、アジア各国でも刊行!」と書かれているが、確かにその迫力が良くわかる。すぐれた訳も相まって、そのストーリーラインにあっという間に引き込まれていくのだ。

「『ただいま留守にしております。ご用がある方は1を押して、メッセージを残してください』。シェリーナは1を押して言った。『アーリーン、こんにちは、シェリーナよ。家賃を払ってもらいたいんだけど、お金、残ってる? この前320ドル立て替えてあげたでしょ。だから今月は家賃を少し多めに払うって約束したわよね。ほら、あのとき—」、そこまで言いかけたが、“姉さんの葬儀に参列する費用を貸したでしょ”とは口にしなかった。『ええと、とにかく、あわせて650ドル払ってね。電話、待ってるから』」(p100-101)

シェリーナはミルウォーキーの貧困地区に沢山の物件を所有して、夫婦で不動産業を営む大家。アーリーンは13才と6才の二人の息子と暮らすシングルマザーである。アーリーンはその後色々あって、シェリーナの物件を「強制退去」させられ、ホームレスのシェルターから様々な物件を探しては断れ、をしていく。シェリーナは、借家人が家賃滞納を繰り返すと、裁判所に強制退去の手続きをして、保安官を導入して借家人を追い出す。

それだけを書くと、アーリーンは完全な被害者で、シェリーナは鬼の守銭奴のように見える。一度の聞き取りだけなら、そういう現実に見える。でも、著者はミルウォーキーで一年フィールドワークをしてきたので、その背後にある描写が半端ない。それは、著者がまさに彼女に「弟子入り」して、その内在的論理を記録し続けてきたからだ。

「私はシェリーナとクエンティンのあとをくっついてまわった。そして二人が物件を買ったり、借家人の審査をしたり、下水管の詰まりを直したり、強制退去通知書を渡したりするのを観察した。そのなかで、アーリーン、ラマ—、それにヒンクストン家の人たちと出会った。さらに、アーリーンを通じてクリスタルと知り合い、クリスタルを通じてバネッタと知り合った。」(483−484)

シェリーナは大家として、生活保護やフードスタンプ受給者向けの不動産業を営んでいる。夫のクエンティンと二人で、物件購入から借家人の審査、物件の修理の手配や借家人とのいざこざ、そして強制退去にかかる裁判所の調停まで、全てこなしている。だからこそ、この貧困地区における住宅事情のからくりを最も知る一人なのだ。そのシェリーナにくっついてまわるだけでなく、そこで、アーリーンを始めとした借家人と仲良くなっていく。ゆえに、大家と借家人のそれぞれの視点で、どのような事実に対して感情的な相違点があるのか、を聞き取りで確かめながら、ストーリー展開をしていく。はっきり言って、下手な小説より胸が押しつぶされるような物語世界が展開されていくのは、この裏取りの濃厚さからである。

アーリーンを年内に強制退去させることが裁判所の調停で決まったクリスマスの日、シェリーナは追い出す相手のアーリーンに頼まれ、彼女を家まで送ってやった。その中で、こんな風に語りかける。

「『この寒さのなか、あなたと子どもたちを路上に放り出したいわけじゃないのよ』。シェリーナは雪でぬかるんだ通りをゆっくりと運転しながら言った。『あたしだったら、そんな真似はされたくないもの・・・家主のなかには人殺しをしたって、涼しい顔をしている連中もいる。でもあたしみたいに、ちゃんと調停人の面前に立つ家主もいる。調停人は自分の考えを述べる。それが裁判所ってものだけど、調停人だって、この制度に欠陥があるのはわかってる。とにかく家主が不利なのよ」(p167)

この語りの後に、注18と記載されていた。その注には、以下のように書かれている。

「ミルウォーキーで私が会った家主や管理人のほぼ全員が同意見だった。かれらは司法制度を厚かましい“プロの借家人”みたいなものだと見なしていた。不動産の所有者が不利になるようにつくられた“不公平な競技場”のようなものだ、と。あるいは、調停人はただ退去命令を発効すべきであるときにも、“さあ、これから交渉しよう”という態度をとりたがる、と。ただし、レニーは唯一の例外で、司法制度は『かつては借家人のためのものだった。いまは、もうそうじゃない』と私に語った。」(p550)

この本が唸らされるのは、裏取りの分厚さと注の読み応えでもある。「家主が不利」と語るシェリーナに対して、他の家主はどう思っているのか、統計的にはどうなのか、を他の家主や管理人の発言や、裁判所の記録やシステム分析から明らかにしていく。そして、この部分では「不公平な競技場」である、という家主の大方の見解を提示する。

だが著者自身は、本の最後に、家主や管理人とは逆の意味で、ミルウォーキーの司法システムが「不公平な競技場」になっていることを指摘する。

「裁判所はこれまで、強制退去に直面している人の大半が法廷に出頭しないという事実に対して、なんの対策も講じてこなかった。強制退去申請の種類が毎日山のように運ばれてくるなかで、法廷で働く人々は、その山をただ処理することだけを目標にしている。同情しようがしまいが関係ない。翌日になると、また山のような書類が待っている。事件はただ消化されるだけだ。憲法で保障されている法の適正な手続きは、たんなる手続きになりさがってしまったのだ。もしも借家人に弁護士がつくようになれば、この事態も一変するだろう。たしかに、この改革を実行するには費用がかかる。弁護士への報酬だけではない。公正な裁判を実現するためには、調停人、裁判官、法廷職員の数も増やす必要がある。強制退去を扱うすべての法廷が、充分な資金を提供されなければならない。だがそうすれば、裁判所はスタンプを押すだけのいわば強制退去組み立てラインではなく、本来の法廷の役割をはたせるようになるはずだ。
(略)
たとえば2005年から2008年にサウスブロンクスで実施されたプログラムでは、1300を越える家庭が法的支援を受けた結果、強制退去の裁判の86%で退去を回避できた。これは45万ドルほどの費用がかかったが、ニューヨーク市のシェルター運営費だけで見積もっても70万ドル以上節約出来た。強制退去は行政の財布にも重い負担となるのだ。」(p462−463)

現行システムでは、裁判所が強制退去を認めた記録は、個人情報なのだけれど、開示されている。すると、大家達は強制退去の経歴がある借家人には家を貸したがらない。犯罪歴と同じような烙印として機能している。しかもアメリカの場合、生活保護やフードスタンプのみで生きている困窮者の、その支給される保護費ギリギリに、家賃が設定されている。これではよほどの倹約をしないと、家賃が払えない。例えばアーリーンも、身内の葬儀で、子どもに着せていく服を買うためにお金が必要で、それを支払えば家賃が払えなかった。幸い、シェリーナは大家の中でも寛大なほうだったので、家賃の支払い猶予を認めた。でも、その猶予額が雪だるま式に貯まっていく中で、少しでも悪循環が続けば、家賃の支払いが滞りがちになる。民間不動産会社のオーナーであるシェリーナは、物件には次の借家人がつくことを知っている。だからこそ、未払いが続けば、すぐに裁判所に行き、強制退去の調停を行う。トレーラーハウスの管理人、レニーが言うように、「司法制度は『かつては借家人のためのものだった。いまは、もうそうじゃない』」。だからこそ、「裁判所はスタンプを押すだけのいわば強制退去組み立てライン」になり下がってしまっているのだ。

皆さんの中には、そもそも裁判所で強制退去に関する意見表明の機会があるのに、「強制退去に直面している人の大半が法廷に出頭しないという事実」に当惑する人もいるかもしれない。あるいは、そういう自堕落な・自暴自棄な人だから、仕方ないのではないか、と。それに対しても著者は、トレーラーハウスで生活保護で暮らしていたロレインを例にあげ、こんな風に述べている。

「ロレインのような人たちは、あまりにも複雑な制約のなかで生きているため、どれほどの善行を積めば、あるいは自制心を発揮すれば、貧困から抜けだせるのか想像できないでいる。過酷な困窮から比較的安定した貧困に這い上がるだけでも大きな壁が立ちはだかっているせいで、どんなに節約したって無理だと希望を失ってしまうのだ。すると、努力さえしなくなる。代わりに、つらい日常生活をささやかな喜びで味付けしようとする。ときにはハイになったり、酒を飲んだり、少しばかりギャンブルをしたり、テレビを手に入れたり・・・。フードスタンプでロブスターを買うことだってあるかもしれない。」(p332)

フードスタンプとは低所得者向けの食料品が買える金券である。税金で拠出された金券でロブスターを買うなんて!というのは、アメリカでも日本でも、事情を知らない第三者が目くじらを立てそうな出来事である。でも、その背景に、「過酷な困窮から比較的安定した貧困に這い上がるだけでも大きな壁が立ちはだかっているせいで、どんなに節約したって無理だと希望を失ってしまうのだ」という内在的論理があるとしたら、どうだろう。この本では、沢山のアルコール依存や薬物依存などの依存症当事者の語りも出てくる。彼ら彼女らは、最初から自堕落であった訳ではない。むしろ、「つらい日常生活をささやかな喜びで味付けしようとする」手段として、様々な依存に走るのであり、フードスタンプでロブスターを買うのである。逆に言えば、「過酷な困窮から比較的安定した貧困に這い上がる」余地があれば、そうはならないのだ。それは、この記述につけてあった注6でも指摘されている。

「貧困から抜け出すチャンスを得られたら、人はそれまでとは異なる行動をとるのだろうか? そうなると思える正当な理由がある。行動経済学者や心理学者の研究によれば、貧困はそれ自体が精神に重い負担をかける。すると、人は知性よりも衝動によって行動を起こしやすくなる。貧困家庭に経済が上向く手段が与えられると、資産をつくり、謝金を返す場合も多い。最近のある研究では、1000ドルを超える勤労所得控除を得た親の約40%が、そのなかからかなりの額を貯蓄したうえ、約85%が借金返済にあてることがわかった。還付金が得られるとわかれば、親は希望を抱き、貧困から抜け出すという目標に向けて貯蓄する。」(p537-538)

割高で質の低い民間住宅で、生活環境が悪化しつつ、強制退去に怯える極貧の人々。そんな過酷な貧困の当事者が、生活保護費やフードスタンプのわずかなお金から、麻薬やロブスターを買うのは、「貧困はそれ自体が精神に重い負担をかける。すると、人は知性よりも衝動によって行動を起こしやすくなる」という悪循環に陥っているからである。これは、アメリカでは日本と違い、生活保護費用のなかで住居費と生活費に区分がないため、保護費ギリギリまで家賃設定が出来てしまう、という背景もある。また、低所得者向けの公営住宅が極端に不足している事情もある。それだけでなく、自己責任大国において、「貧困家庭に経済が上向く手段」を政府や自治体が提供しないからだ。それさえすれば、全く状況が変わるというのに。著者もそのことに怒りを覚えている。

「いまの社会のシステムで利益を得ている人々(無関心な人々も含めて)は、住宅市場のことは市場そのものに調整させればいい、介入する必要などないと言うだろう。だが、それはたんなるおためごかしだ。家主が好きな金額で家賃を請求できる権利を認め、かれらを守っているのは政府だ。富裕層向けの集合住宅建設に助成金を出し、家賃相場を釣りあげ、貧しい人々のただでさえ少ない選択肢をさらに狭めているのも政府だ。借家人が家賃を支払えない場合、一時的または継続的に住む場所を提供しはするものの、家主の要請に応じて武装した保安官代理を派遣して借家人を強制的に退去させているのも政府だし、借金の取立代行業者や家主のために強制退去を記録に残して公表してるのも政府だ。」(p466)

おためごかしを辞書で引くと、「人のためにするように見せかけて、実は自分の利益をはかること」と書かれている。市場の自由を尊重することは、万人のためではなく、アメリカにおいては、貧乏人を搾取する自由になっている。そして、家主やどの代理人の権利保護に比べると、貧乏人の権利はほとんど護られていない。そのような不平等や格差の固定化につながるシステムを、制度的に政府が保証してしまっているのだ。それが、分厚いフィールドワークの記録から、本当に胸苦しくなるほど、読むものに迫ってくるのが本書の魅力でもあり、読み通すのが辛くなる、けど続きが気になる理由でもあるのだ。

長い書評ブログになったが、最後に、救いのある著者のコメントを置いておきたい。

「私がトレーラーパークやスラムで、人々の立ちなおる力、気骨、活気や輝きといったものを目にしてきた。はじけるような笑い声もたくさん耳にした。と同時に、多くの苦悩も目の当たりにした。フィールドワークが終わりを迎えるころ、日記にこう記した。『自分が汚く思える。こうした体験談や苦難の連続を、まるでトロフィーを獲得するかのようにかき集めているのだから』。フィールドワークの間にぬぐえなかった罪悪感は、現地を離れたあと、いっそう重くのしかかった。自分がペテン師で、裏切り者になったような気がしたし、匿名で告発されてもすぐに罪を認めそうな気分になっていた。大学の式典で私の目の前に置かれたワインのボトルやわが子にかかる月々の保育園の支払いを、ミルウォーキーの家賃や保釈金に置き換えずにはいられなかった。こうした仕事は胸のうちに大きな痕跡を残す。読者のみなさんにも、これが自分の人生だったら・・・と想像してもらいたい。」(p497)

ここまで長いブログを書いたのは、まさに一読者のぼくの胸にも、少なからぬ痕跡が残る一冊だったからだ。日本はここまで貧困者に追い打ちをかけない社会である。いまのところは。でも、アメリカの負の部分は、だいたい10〜20年後には日本にも重なっていく。発達障害や児童虐待の急増は、まさにアメリカから周回遅れで、同じようになっている。そして、民営化の圧力は、生活困窮者自立支援法などでも仄聞している。貧困ビジネスは、そもそも民間精神病院のやり方としてずっとあったし、訪問看護や訪問介護でも一部の劣悪な株式会社系の事業者による搾取など、こういう問題はずっとつきまとっている。

だからこそ、この本は福祉や社会問題、フィールドワークに興味のあるなら、一人でも多くの人に読んでもらいたい一冊なのだ。分厚いけど、胸が潰れそうな気分になるけど、でも圧倒的な迫力と痕跡をあなたにもたらすことは間違いない。

臨床知と創造の病

東畑開人さんの『ふつうの相談』(金剛出版)を読む。文体は平易だが、内容は手強い。東畑さんはいつも目の付け所というか、仮説が鋭いのが良いのだが、今回の仮説は心理職やソーシャルワークの相談以前の「ふつうの相談0」こそが「メンタルヘルスケアの資源である」(p76)という仮説である。

「ふつうの相談0とは何か。たとえば、人生の危機を友人に打ち明け、アドバイスをもらう。心身の不調を職場の上司に相談して、仕事量を調整してもらう。成績が伸び悩んでいるとき、塾の教師に喝を入れられる。離婚して打ちのめされているときに、古い友人たちが飲みに誘ってくれる。私たちの生活にはさまざまな苦難が生じ続けるが、それに呼応して周囲からさまざまなヘルプが差し出され、ケアがなされる。専門家が介入する以前に、素人同士で交わされているこれらのケア/治療こそが、ふつうの相談0である。」(p77)

え、それだったら、自分だってやっている・受けているよ! そう、そうなのである。東畑さんは、臨床心理士という相談の専門家でありながら、その専門家が囲い込めない広大な相談の領域を「ふつうの相談」の大草原と名付け、それにはどのような意味や価値があるのか、を問おうとしている。それがこの本の面白い点である。

そして、ユング派とかトラウマインフォームドケアとかソーシャルワークとか、それぞれの理論的枠組みに基づく相談を「学派知」、刑務所やデイケア、学校などそれぞれの現場で何とかする知を「現場知」と名付け、「学派知」と「現場知」を合わせたものを「専門知」としている。その外側に、ふつうの人のふつうの相談としての「世間知」があり、「世間知」と「専門知」が合わさって「臨床知」という総体をなす。

「世間知と学派知と現場知。いずれも賢いのだろうが、ときにバカになる。専門知は世間知らずになりやすく、世間知は傲慢になりやすい。学派知は暴走しやすく、現場知は閉塞しやすい。知とは複雑な現実をシンプリファイする装置なのだから、そこには単純化による暴力が潜んでいる。
だからこそ、心の臨床家にはこれら三つの知をメタに見る視点が求められている。」(p149)

たった数行で、それぞれの構造的課題を喝破する筆致は、お見事。どれも、それぞれの知を反転させた「問題点」である。

専門知は、詳しい構造を知るからこそ、微に入り際にいるため「世間知らず」になりやすい。世間知は、逆にそういう詳細なことを考慮に入れずに直感を大切にするがゆえに、「傲慢」になりやすい。学派知が「暴走しやすい」のは、それはその学派の理論的正しさに固執してしまうがゆえである。現場知が「閉塞しやすい」のは、そのローカルルールに固執してしまい、それ以外のローカルな現場との比較ができないときである。

そして、臨床の知のメタ性を忘れるな、と警鐘を鳴らす。

「かつて中村や河合は『臨床の知』概念を通じて当時支配的であった『科学の知』を批判し、相対化した。『臨床の知』はその後、臨床心理学の中では学派知となり、ドミナントなものになったが、そもそもは批判概念であったことを思い出す必要がある。同じように、『臨床知』とは批判概念であり、それは世間知と学派知と現場知を外から見る。いずれかに没入して原理主義になるのではなく、いずれ『も』重視して、バランスを取るための知。臨床的に物事を考えるとはそういうことだと思うし、そのとき私たちが営んでいるのがふつうの相談Aである。」(p150-151)

この際、彼はAを「あなた」「ありふれた」「あるある」のAだという。要は日常的な営みとしての相談は、こういうバランス感覚を大切にして成り立つものであり、それは原理主義への批判を含んでいる、というのだ。「傲慢」にも「暴走」にも「閉塞」にもならないために、「いずれ『も』重視して、バランスを取るための知」としての「臨床知」がある、という。これはよくわかることである。

大学で学生の「ふつうの相談」を受け続けて、15年以上たつ。あるいは、福祉現場や行政の人から、「どうしたらよいんでしょうか?」とよくわからない「ふつうの相談」が、あれこれ持ち込まれる。福祉社会学や社会福祉学の研究をしてきて、多少なりとも「学派知」は囓っている。また、ゼミなどで話をきき続けると、「現場知」もほどほどには蓄積されてくる。そうはいっても、僕自身はソーシャルワーカーやカウンセラーとして働いたことはないので、素人の直感に頼ると言う意味では「世間知」を駆使してきた。そして、今まで、「学派知」も「現場知」もぱっとせず、「世間知」をごまかし的に使ってきた自分自身への疚しさがあった。でも、「世間知と学派知と現場知を外から見る」「バランス」を重視した「臨床知」だったとすると、もしかしたら、まあまあできているかもしれないな、と思い始めている。ただ、「傲慢」になってはいけないので、「現場知」や「専門知」をしっかりグリップし続けないと危ないのだけれど。

そういう意味で、自分自身の「ふつうの相談A」を見つめ直す上で、この本は良いリフレクションをもたらす一冊だった。

そして、もう一カ所、深く共感した部分を引用しておきたい。

この本の「ネタ本」の一つである中井久夫の『治療文化論』には、心の不調として「普遍症候群」「文化依存症候群」「個人症候群」の三つがあるという。「普遍症候群」はDSMやICDなど統計学的なパターンで分析でき、文化を越えて普遍的な病である。「文化依存症候群」は「狐憑き」や沖縄のユタとカミダーリなどのように、ある文化に依拠した症状である。そして、「個人症候群」はその人の個人の「創造の病」にもなり得る、個人的な症状である。そして、彼の「出版精神病」が超絶面白かった!

「本を書き終わり、それが出版されるまでの数ヶ月、私は誇大妄想と被害妄想を行き来する。本が激賞され、爆発的に売れるのではないかと創造して悦に浸る一方、『つまらない』とこき下ろされたり、予期せぬ不備がみつかって社会的批判を浴びたりするのではないかとおびえる。乱高下による興奮状態は、出版後には抑うつに取って代わられる。いずれの空想も実現せず、本はひっそりと出版され、特に大きな話題になることもないままに、ひっそりと書店の店頭から姿を消していく。この喪失体験は大きくて、しばらくの間、活動は停滞し、気分が塞ぐ。私の場合、この抑うつに耐えるためのコーピングが原稿をコツコツ書くことだ。関心を外的世界から内的世界へと引き戻すのである。この期間が数ヶ月、一年と続くと、原稿が溜まっていき、一冊の本になる。ここまでくると、再び『出版前空想』がやってくる。このサイクルが私の持病である。」(p93)

東畑さんのような売れっ子作家でもそうなのか!とめっちゃびっくりした、だけでなく、私自身の「持病」がこんなにわかりやすく書かれていて、笑ってしまった。そう、私も「出版前空想」と「出版後うつ」からなる「出版精神病」の患者のひとりである。

「私は本を書かざるをえない。私は本を病んでいる。それは個人的な意味に満ちあふれた病なのである。」(p93)

私自身がここまで病に罹患しているかはわからないけれど、このブログも含めて、私が原稿を書き続けているのは、私自身の個人的な意味に満ちあふれているから、である。

若き友人の青木真兵さんは、最近こんな風に書いてくれた。

「竹端さんは「生き直しの鉄人」だと思った。自分の弱い部分と真摯に向き合う過程を、社会理論や研究蓄積、筆力など全てを動員して言語化していく。そしてその言葉にはまだ未言語の領域が残されていることで、僕たちは自分事として読むことができる。バッターボックスに立ち続ける姿はまさに鉄人だと思う。」

子育てをしながら、見えてくる己の愚かさや至らなさ。そういった弱い部分を、見ないようにしてもいいのだけれど、気づいたら書きたくなってしまう。私は本を書かざるをえない。それは、僕自身が「何が見えていないか、何に気づいていなかったか」という自分自身の「盲点」に気づいてしまったら、それをこれまで学んだ言語を駆使し、新しい理論を学び直しながら、とにかく言葉にしたいからだ。そういう「創造の病」にかかっている。そんな僕自身の内面をも、東畑さんは掬い取ってくれたようで、読んでいて、僕自身がなんだか自己治癒されるような本だった。